前の指導教官からメールが届いたのは数日前。「私の知らないところで悩んだり酒浸りになったりしたんだろうなぁ〜。」などと過去の先生の苦悩の日々を思い出しました候。現在は復活しアメリカで教壇に立っているそうで、教え子第1号の私としては何よりでありまする。
っうか、過去の先生の苦悩時代=過去の自分の苦悩時代、であったりするワケで、久しぶりに修士に入ってからの日々を時系列でフィードバックしてしました候。コタツに肩まですっぽり入りながら、ヌクヌクっとした状態で。
(→以下、コタツの中で考えたコト。)
今思えば、1年目はとてつもなくやる気があったなぁ。(→遠い目・・・。)モチベーション高すぎて周りがついてこれなかったってコトが今ではわかるけどあの頃はホント視野が狭かったよなぁ。(→再び遠い目&ため息。)
2年目は先生の各種トラブルのおかげで精神的に揉まれたっけなぁ。今では笑えるし、あの時はマジメに考えすぎてたコトもわかるけど、振り返れば私ってある意味、不幸な院生だったような気がするぞ、オイ。確かに自由にやってこれたけど、先生のメールにもあったように“指導”らしい“指導”ってしてもらってないような記憶が・・・。(→しばし唖然・・・。)
いきなりですが、大学院というところは不思議なところでありまする。ここでは、ある分野について“指導する”とか“指導される”という表現が使われまする。けれども、実際のところは学び方を習う、つまり、知のインプットとアウトプットの方法を習う、詰まるところ、正しい“独学”の仕方を習う、っう場であるような気がしてなりませぬ。
少なくとも私の場合はそうだったなぁ。(→再び遠い目・・・。)
統括すると、院に入って良かったコトはたくさんあるけれど、一番はたぶん、自分の思考を他者にわかる形式でアウトプットする力を伸ばせたコトだろうと思いまする。少しは思考の回路が矯正されたっうコトでかもしれませぬ。それに関連して、自分がやっているコトに他の分野がどこでどうどのくらい関わっているのか、という自分なりのリンケージを見つけることができるようになった、ってコトかなぁと思いまする。
って、このまま先生にメールしまする。
□■□■□■□■□その他のほざき。■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
・
『エコノミストは信用できるか』(東谷暁著)(→読売の書評)を偶然目にする。読もうと思う。っうか、個人的にはエコノミストの予測能力って大分信じていませぬ。「これはニューエコノミーであーる!」と3年前に仰っていたエラい先生がおりましたが、今は何してるんだろうなぁ。。。
・TVで「私は〜と思う。よってこれは問題である。」という論理展開をしているエコノミストってよく見るけど、それって「経済学・経済政策」なる概念と個人的な「経済論」を混同しておられる気がしてなりませぬ。いつもあぁはなりたくないなぁと思います候。
・今ステキなことばを発見したのでメモ。
「意思決定と考えることは他人に任せてはいけない」ホントそうだっちゃ。他人任せな人を見かけると悲しくなる理由ってコレだったんだなぁとわかった。