「ことばに習熟している人が好き。」と彼女はいう。
ことば。コトバ。言葉。詞・・・。
そのシンプルかつ複雑な体系は、人を魅了し時には幻滅させる。
“彼女”とは、私が愛読しているサイトの管理人さん。いつも読ませて頂いているけれど、彼女が書く論理的かつ愛のある文章はホント素敵だ。あぁ、私もあんな風に書けたらなぁとしみじみ思いまする。。。
私も“ことば”に習熟している人が好きだし、何より“ことば”を大切にする人が好きだ。自分のことばに責任を持てる人が好きだ。要するに、自分に誠実な人が好きなのだ。
例を挙げよう。よく、女子には「誠実な人」と「浮気しない人」を同じ文脈で用い、「そういう人が好き。」で締めくくる人が多い。が、私が言ってる“誠実”はそういうのじゃないのであーる。この場合の女子達が言っているのは“誠実”ではなく“忠実”のことであるよ。
このとき、女子達の言う“誠実”には「僕は浮気はしませぬ。」と相手が言うであろう隠れた前提がある。が、ちょっと考えてみるとわかると思うが、相手が「僕は浮気しまする。」と言う可能性も十分あり得る。
一番マトモだと思われるのは「僕は浮気するかしないか解からん。」という確率でありましょう。(→男子の立場から見ると「浮気しないよーに。」といわれる確率が一番高いように思われる。80%以上の確率かもなぁ、あぁ、大変。)
まぁ、要するに、私がいう“誠実”とは、相手がどの“ことば”を発しようが、その自分のことばに誠実に行動する、ということであーるよ。
この例で言えば、浮気しないかするかはどうでもよい。相手が自分自身に誠実であってくれればよろしい。その方が私もまた“誠実”でいられるでありましょう。
正直、“ことば”の力に無自覚な人は苦手だ。そういう人と話すと「身勝手だなぁ。」と思わずにいられない。相手が私だったからよかったものの、「そうなんだよ。」と言われると「あぁ、そうなんだ。」と考えてしまうような素直な人が相手だったなら、そういう人の“ことば”は暴力以外の何者でもないのに。
人には“ことば”を発する自由がある。その“ことば”を向けるのに適する相手を、“ことば”にしてよい程度の確からしさを判断できる力を、自分の“ことば”と相手の“ことば”を分け尊重する優しさを、身につけている人が好きだ。
彼女のように、「ことばに習熟している人が好き。」と、今日から私も言おうと思う。