友達のフェルちゃん(スペインとフィリピンのハーフ・26歳)と話すのは楽しい。彼女とのお喋りは私の“趣味”のひとつ、と言ってもいいかもしれない。
で、今書いたばかりの文をそのまま、コトバにして伝えてみたら、
「私たち、似ているものね。」と彼女は言って、ケラケラ笑った。
確かに。“私たち”は似ている。
育った環境も、職業も、使っている化粧品さえも違う。
けれど、不思議と話が合うのだ。
一体、何が“私たち”という領域を決めるんだろう?
“彼女”と“私”という異なる個人を“私たち”という主語へと変換させる要素って、一体どんなモノなのだろう?国籍や母国語ではないことは確か。
そんなコトをバイト中も断片的に考えていて、自宅に着いてすぐに
『知の編集工学』松岡正剛(著)と
『グローバリゼーションとは何か』伊豫谷登士翁 (著)を再読した。
この2冊のどちらかに、今日の疑問の答えに近い表現があったような気がしたのだ。
結果的にいえば、この2冊を統合したモノが答えだったのだけれど、あいにく私の知力では上手く統合できませぬ・・・。なので引用で勘弁。
イメージしやすいのは<10代の若者は、よその国の若者と同じ音楽を聴き、同じファッションを身につけ、同じアイドルに熱狂します。若者たちは、親の世代よりもはるかに他の国の若者たちに親近感を持っています。>とか、
<マンハッタンのイーストサイドに住むエリートたちは、ほんの数ブロック先の人達と接することはほとんどありません。しかし、彼・彼女らは、リオやロンドンの高級住宅街の人達と価値観や生活様式を共有しているのです。>という表現かなと思う。
つまり、“私たち”という主体は共通の意識空間にのみ存在する。
究極的には、思考と思考が人と人をリンクさせるに他ならないってコトだと思う。
例えば、今、この日記を読んでくれている“あなた”は、“私”の中にある何かとリンクしている、ってコトになるのかもしれない。(→だといいなぁと思います。あくまで希望形だけど・・・)
つまらないオチだけど(笑)、久しぶりに語学を勉強したくなった。
もっとたくさんの人達と相互リンクして、“私たち”という範囲を広げるために、“コトバ”いう道具を、もっともっと、増やしていきたいと思った。
なので明日から勉強開始、だっちゃ♪(←仙台弁。)