電信柱の上の小人はずっと歌っている。街は唐突に暮れ始めてもう闇の淵にビロードの裾を浸している。私は湿り気を吸い込んでそれが体内の細かな網の隙間へ浸透していくのを感じる。昔読んだおとぎばなしで、冷気を飲み込んだ少年は体の中から凍えていった。肺の中に、北の果ての雪深い森林が急速に育っていき、冷たく鋭い枝が幾重にも折り重なって、くぐりぬけようとする呼気すら凍らせてしまう。そうやって少年は窒息して、やがてひとつの透明な彫像になる。
そうやってきみはいつだって、 始めからわかっていたなんて顔をして、 まだ刻まれてもいない傷を両手いっぱいにひろげては 慰めに泣いて、全く変わらない明日のために眠るんだ。
みちしるべをそれとわからないひともいる。歩き出してしまったあとに、にせものとわかることもある。深い森の中で、グレーテルはどうやって自分の小石を信じたのだろう。わたしたちの目や手や足はたやすく幻に寄り添って、自分自身の奥の輪郭の溶けた場所を、魔女と呼んで恐れたりする。小石を追ってたどりついた世界にただ切り立った崖しかなかったら。目が覚めてから、額を伝う脂汗をぬぐって、それでもまだ目覚めていないとまぶたを下ろす、ほら、わたしはまだ何も見ていないよ。
わたしがもうここにはいないって、想像してみてよ。
両手で頬を包み込んでようやく息を深く吸い込む。題名を忘れたうたが鼓膜をかすめてはきえていく。電信柱の上の小人はずっと歌っている。眩暈がするほど見晴らしのいい場所で、地図にしるしをつけるように屋根と屋根をゆびさして。街は簡単に暮れてゆき、終わりを惜しまない。小人の歌も流れ出してとどまらずに消えていく。わたしが題名をつけよう、そのメロディに、風に乗って見えなくなっていくその音楽に、わたしが楽譜を書こう、点と点とを縫い閉じるように、まっしろなハンカチのうえに五本の線を引いて。わたしは息を吐き出す。譜面の書き方なんて知りもしないのに。音の捕まえかたなんて知りもしないのに。
全く変わらない明日のために眠る、その夜にも歌は消えていき、二度と戻ってはなかった。
しりたいことは始めからこの手のなかにあるなんてことを、誰におしえられるのでなく自分で知りたかった、だってこの手はわたしのものなのだから。深い穴へと自ら落ちていくのだとしても、グレーテルは自分の小石を疑わずに進んでいった、理屈ではなくて、それは彼女がたどるために落とした石で、石の描く道は彼女の中にしかなかったのだから、実在しない魔女を恐れて逃げ出しても、あるいは全てを投げ打って立ち向かったとしても、彼女だけがその向こうにたどりつけるのだから、
氷の城にとじこめられているちいさなこどもに手を差し伸べるように、自分に向かって耳を傾ける。震えが鼓膜に届いた瞬間、少年は女王に姿を変えて、冷ややかな目でわたしを見つめる。いつからか人と向き合っていても横顔を見ている思いがして、やましさのせいだと自分を責めた。けれど女王の凍りついた瞳をわたしは見つめ返す。色を失った森のなかで、たしかに息づく気配があり、ここへおいでよ、ここへおいでよ、ちがう、わたしがそこまでいくということ、腕を差し出すということ、この足で確かに地面を蹴って、次の着地点を選ぶということ、女王のかたくなな瞳に向かって、指を開く。氷の壁は指先に触れた瞬間硬度を失って、ゼリーのようにふるえながら、わたしを受け入れる。木々の枝はやわらかく私の腕に寄り添い、葉は皮膚に張り付いてやがて解けていく。体中に朝露のしずくをまとって、私はようやく声を出す、お腹の底から地響きがせり上がって、喉を押し広げ、そして放たれていく。
電信柱の小人はずっとうたっている。わたしをつれていくために。わたしはきいている。溶け出してしまわないように。この足の立つ場所にあり続けるために。わたしはずっと動いていたし、同じ場所にいたことなんて一度もなかった。そう信じて小石を握る。冷たい丸みにはやがてわたしの温度が移っていき、おなじぬくもりを帯びた時、手のひらをひらいて小石を放る。石は地面にはねかえって、軽やかな音を立てる。
わたしはずっと動いているし、 そうしてたしかにここにいて、 とらえることのできない音楽をつむぎつづけているのだから。
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