仕事が早く終わったので、恵比寿で映画を見てきました。
「サマリア」 http://www.samaria.jp/
女の子ふたりの物語。 援助交際をするチェヨンと、その見張り役をするヨジン。 ヨジンはチェヨンが売春するのが嫌でたまらないのだけれど、とめることができない。 ある日チェヨンは警察から逃げるためにホテルの窓から飛び降りて死んでしまう。 彼女が男たちから受け取ったお金を返すために、ヨジンは自分も援助交際を始める。
とにかく主演の二人が美しかったです。 特にチェヨンはずっと笑っているのだけれど、その唇の端がにっと上がる表情と、見透かしたような瞳が印象的で、その形に刻まれた彫像みたいで、それだけでなんだかもう泣きそうになってしまった。 ヨジンは親友が死ぬ前と後とで表情が変わる、その変化に目を奪われました。
だけど、見終わったあとで感じたのは、これは少女の物語ではなくて、男のひとたちの物語だったんじゃないかってことでした。 ヨジンの父親や、二人の客となる男性たち。 宣伝も映画評もみんな一様に「純粋な少女の悲劇」のような言い方をしているのだけれど、もちろんそういう面もあるんだけれど、むしろ男の人たちの悲しさのほうが強く残った。
純粋さも、それによって引き起こされる悲劇も、悲しい。 でも、自分が何をやっているのかを分かっていて、それが世間でどんなふうに受け止められるのかも分かっていて、自分の汚さを認めてしまっていて、それでも何かしら行動を起こさずにはいられなくて、そしてその結果として責任をとらなければいけない、そういう普通の大人たちの姿は言いようもないほどつらかった。 何一つとりかえしがつかない。とりかえしがつかないのに、とりかえしがつかないことの責任をとらなくちゃいけないということ。 道理を知ってしまっているということ。
美しいのは少女たちで、それを見るだけでも充分価値があったけれど、でも、これは、大人の悲劇の話だと、私は思いました。
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サマリアについて、考えてる。 どうも映画全体を支配している静かに沈殿したような空気にあてられたみたいで、仕事の合間なんかに、ぼんやりと思い出してしまう。
なんでチェヨンは飛んだのかなって。 死のうとしたのかなって。 でもそうじゃなかったんだと思う。 ほんとに終わらせたくなかったんだと思う。何を、かはわからないけれど、警察に捕まってしまうことは、あの瞬間、死よりも「終わり」だったんだと思う。 それから、賭けたんじゃないかと思った。自分の可能性に。窓から飛び降りても何もなくて、そこから逃げ出せる可能性に。 飛び降りたらきっと、怪我する確率のほうが高い、そうなってしまったように、死んでしまうかもしれない、でももしかしたら無事に、ヨジンと笑いながら逃げ出せるかもしれない。それで、心配したヨジンを笑って抱きしめて、ごめんねって、言えるかもしれない。 もしも無事に逃げられたら、それは可能性に選ばれたってことだ。たとえ確率的にどんなに少ないことでも、少ないからこそ、それが叶ったとき、自分は選ばれたんだって、強く思うことができる。 偶然にまかせるということ、その結果、どうなったとしても、自分にはどうしたって抗うことのできない運に身をまかせるということ、それこそが、チェヨンがまた笑って生きていけるための、方法だったのかもしれないって。 そんなことを考えていた。
それから、ヨジンのことも。 彼女はきっと、チェヨンになりたかったんじゃないかと思った。チェヨンになって、彼女の行動をなぞって、最後まで決して分かることのなかった親友の心を少しでも理解したかったんだと思った。 懺悔よりも、罪滅ぼしよりも、それならば、分かる気がする。 それで、そこにあるはずだったチェヨンの苦しみや痛みを感じたかったんだと思う。そこに、痛みがあったということを知りたかったんだと思う。痛みであって欲しかったんだと思う。ヨジンが最後までチェヨンをとめようとした、その根拠だった彼女の苦しみが、そこに確かにあったのだと感じたかったんだと思う。 でもそれは最後まで、わからないままなのだけれど。別の人間だから、理解なんてできっこないのだけれど。
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今の職場には工場が併設していて、大きな車が出入りしているんだけど、ちょうどその車の横を通るとき、排気ガスのにおいがして、大型車のにおいがして、急に、中学生の修学旅行を思い出した。 大型バスで移動して、パーキングエリアにとまって、何時間ぶりに外に出たときに、立ち並ぶ車のむせかえるようなにおい。 急にそんなことを思い出して、なんだか妙な気持ちになりました。
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