人生事件
−日々是ストレス:とりとめのない話 【文体が定まっていないのはご愛嬌ということで】
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2002年09月02日(月) |
佐々木(仮)家の人々 〜 もう心の中では悲鳴を上げない |
どうにもこうにも・・・
母に、もう時効だろうと思って、言ってしまった。大学の都合上、東北に行ってしまった妹が夏休み帰省中、小・中学校の友人たちと遊びまわっていた話をしていた折、私のことを聞かれたからだ。
「私は小・中学生時代、いじめられっ子だったから、友人いないんよ」
母は私から言われて、私には小・中学校時代からの友人がいないという事実にはじめて気づいたようだった。
「知らなかった・・・あんた、そんなことひと言も言わないから」
「・・・多分、学校に行けないほどつらいと思ってなかったのかも」
母は、私がいじめられっ子だったことに気づかなかったことに、ひどくショックを受けてしまったようだった。本当は、時効だなんて思わず、言わなければよかったのかもしれない。私は、母を傷つけてしまったかもしれない。けれど、当時の私は親にそれを悟られまいと、必死に明るく振舞い、学校に元気に通っていたのだ。幼いなりに色々なことを考え、親に心配かけまいと頑張った私の努力は報われていた。
登校拒否・引きこもり者が増加している昨今を思うと、何故自分が学校に通っていたのか分からない。 話す相手もおらず、何か失敗すれば嘲笑され、揶揄られ、靴や教科書を隠されたり、学校で1日誰共言葉を交わすことがなかったり。 それでも私は、バカみたいに学校に通った。誰に言うこともなく、「こんな幼稚な行為に屈するものか」とひたすら耐え、涙をこらえていた。
小学校の頃、私は非常におとなしい子だったので、いじめやすかったようだ。女の子の割合の方が多かったが、男の子にも嫌がらせはされた。だけど私は、誰に言いつけることもなく、いじめられたまま過ごしていた。 担任の先生は6年間中4年間同じ先生だったので、2人の先生に学んだのだが、共に勉学に長け、先生の言うことをよく聞く優等生タイプの生徒をかわいがる人たちだった。私のように、足し算引き算・九九をクラスで一番最後に覚えたような人間にはほとんど目をかけない人たちだった。というか、気がついても、それを黙殺してしまう人たちだったように今は思う。
中学校は、地域の関係上、2つの小学校が統合された。私の出身の小学校の同級生は誰一人として私と話そうとはしなかったが、もうひとつの小学校出身者とはそれなりにうまくやれた、最初は。 中学時期というのは、異性に関心が向き始める時期である。そんな中、もうひとつの小学校出身者で、サッカー少年で、割りと女子に人気のあった男の子が、私のことをタイプの女の子と言った。それがまた、はじまりだった。 その男の子を好きだった女の子がいて、それが出身小学校のいじめっ子たちの中心的存在の子だったのだ。中学校では、女の子にだけ嫌がらせをされた。男の子たちには、それなりに好かれていた。それもまた、いじめを助長する原因となったのだとは思う。
もう、あれから10年経った。あのとき傷ついた痛みは、とうに忘れた。あのときのように、息することさえ苦しくて死にたくなることも、自分を卑下することも、己を殺して生きようとすることも、人が恐くて眠れなくなることもなくなった。 あの、いじめられた経験は、私に色々なことを教えてくれた。人の醜い部分を教えてくれた。いじめる張本人もどうかと思うが、それを黙ってみている第3者も、結局はいじめる側に荷担しているということを、身をもって知った。
傷つく痛みを知った私は、高校に入り、いじめっ子になることもなく、またいじめの対象になることもなく、私は今日まで付き合いを続けている友人たちと出会った。冬は、必ず春になるのだ。
だから、あなたも決してあきらめないで。
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