2015年10月18日(日) |
セリーグ2015シーズンを総括する |
日本プロ野球はポストシーズン(クライマックスシリーズ=CS)が終了。パリーグはソフトバンクが、セリーグはヤクルトがそれぞれ、日本シリーズ進出を決めた。両リーグともペナントレースの覇者が勝ち残り、日本一をかけて相まみれることになった。筆者はこの結果に満足している。CS第1ステージではパリーグ2位の日ハムが3位のロッテに敗れ、いわゆる「下剋上」ムードが漂ったが、ソフトバンクがロッテを3タテで退け、同ムードを一掃した。まずはめでたしである。
ヤクルト優勝を予想できず
セリーグの結果をおさらいしておく。順位表は以下のとおり。
(1)ヤクルト、(2)読売、(3)阪神、(4)広島、(5)中日、(6)DeNA 筆者の開幕前予想は、 (1)広島、(2)阪神、(3)読売、(4)ヤクルト、(5)DeNA、(6)中日
2014シーズンは、読売、阪神、広島、中日、DeNA、ヤクルトの順位であったから、ヤクルトが最下位から優勝という驚異的結果を出したことになる。筆者はヤクルトのチーム力が向上していたとは感じていたものの、優勝とは予想できなかった。いい訳をするわけではないが、1位と予想した広島については、黒田のMLBからの復帰を称賛する意味が強く、実際は阪神優勝、2位広島、3位読売、4位ヤクルトではないかと思っていた。
戦力から見ればダントツ1位は読売である。選手層の厚さ(多彩な投手陣、実績のある打撃陣)は両リーグナンバーワンであることは疑いようがない。読売がリーグ戦2位、CS敗退で終わった主因は、原監督が豊富な戦力を浪費し、結果に結びつけることができなかったから。シーズンを通して一貫性を欠く原の采配では、どんなに豊富な戦力を擁していてもリーグ制覇はできない。原が辞表を出したという報道があったが、原が監督を辞するという決断を自らに下したことは誤っていない。
読売敗退の主因は言語破壊のスローガン「新成」
読売の問題点を具体的に明らかにしておこう。読売の混乱は、原が掲げた「新成」という造語スローガンを発端とする。この造語は日本語破壊という深刻な問題を抱えていたのだが、球団もメディアもそのことを咎めなかった。つまり、原が日本語破壊という罪を出発点としたことにより、リーグ優勝、CS勝ち残りを逃すという罰を負った。これは言葉の問題というよりも、造語による日本語破壊をチームコンセプトとしたため、チームに混乱と無秩序をもたらしたと解釈すればわかりやすい。日本語というのは歴史の積み重ねであり、それを破壊すれば、観念、概念、根本的思想、常識等をも破壊することになる。原はそのことを知らなかった。浅知恵ゆえに…である。
「新」すなわち「新しさ」は、未熟、無秩序、不慣れといった、否定的側面をもっている。「新しさ」には新鮮、溌剌、刺激的といったプラスの要素もあるが、マイナス面がプラス面を上回るのが世の常である。たとえば、「新入社員」という言葉を思い浮かべればよい。新入社員は職場に活力を与えるが、ビジネスの戦力にはなりにくい。新入社員が実績を上げるのは、早くて3年後だろう。
次に「成」である。この語はいろいろな意味を含むが、原が用いた意図は、ことが成就する、成し遂げる、成功裡に終わるといった意味をあらわしたかったのではないかと推測する。ということは、新をもってことを成功裡に終わらせたいという、なんともムシのいいスローガンを掲げたことがわかる。「新」を掲げたならば、「成(功)」は少なくとも3年を待たなければならないのが世の常識であるにもかかわらず――である。
チームを大混乱に陥れた「新成」
かくして、読売は混乱を重ねる。たとえばチームの要である捕手。原は「新」として小林を正捕手に据えたが、早々と見切り(二軍落ち)、FAでとった相川に正捕手をまかせた。その相川が故障すると、阿部を捕手に復帰させ、阿部の故障を再発させてしまった。相川が復帰するもすぐケガで登録抹消となると、今度は小林を呼び寄せ、ベテラン加藤と併用するという無秩序ぶりを露呈させた。ヤクルトが相川を出したのは、「新」の中村悠平の成長を見届けてのこと。ヤクルト投手陣が読売打線を封じたのは、中村の落ち着いたリードがあったことはだれの目にも明らか。中村でいけるというヤクルトの判断は正しかったが、小林でいけるという原(読売)の判断は間違っていた。捕手をめぐる判断の差こそが、「新」と「成」が同時に成り立たないことのよき証明である。
原の「新」には実力の裏付けがない。そのことを象徴するのが大田である。筆者は、大田は250の打者だといい続けてきた。その根拠については重複するのでここでは書かないが、原は大田のイメージに惑わされて起用し続け失敗した。大田にとどまらない。「新」であるはずの、橋本も実績が上がらなかった。
深刻なのは内野陣で、「新」となる若手は皆無であった。結局、FA組(自由契約を含む)村田、井端、片岡といったピークを過ぎた「古」に依存した。「新成」ならぬ「古成」である。
補強による投手陣の「新成」は偶然?
一方、「新成」となったのは、先発投手陣である。ローテーションは、菅野、新入団の外国人2人と新人の高木勇人、2年目の田口麗斗と菅野以外はさまがわり。内海、杉内は早々と登録抹消。大竹もシーズンを通して登板できる状態ではなかった。クローザーも先発から転向した沢村がフルシーズン活躍した。中継ぎも新人の戸根、先発から転向した宮国が活躍したが、山口、マシソンは成績を落とした。
読売投手陣は、表向きは「新成」となったように見えるが、外国人2投手、高木勇については読売が自力で育てた戦力ではない。高木勇はシーズン後半になると打たれだした。外国人補強の成功という意味の「新成」である。このことは、偶然性に依拠していないか?
投に反して打者の外国人補強はうまくいかず、フランシスコ、カステヤーノスは一軍出場も数試合で終わった。投資としては大失敗である。
結果から見れば、読売の「新成」は、先発投手の外国人2人及び高木勇人、中継ぎの新人・戸根といった補強に表れたにすぎない。補強をもって「新成」というのは、はてどうなのだろうか。
カネに任せた「新成」に明日はない
結論をいえば、読売はチームづくりに企画力がない。カネに任せて、その場しのぎの補強で選手層を厚くしてきた。今シーズンの2位はできすぎである。そんなチームに未来はない。逆にいえば、セリーグ5球団が読売を凌げなかったことが情けない。
原が退任し、その後を受けた監督は苦労するだろう。「新」を成そうとすれば、2〜3年は我慢をしなければならない。先述のとおり、「成」は簡単には手に入らないからだ。しかし、それが世の常である。毎シーズン、読売が優勝し続けるということは不可能なのだから。「巨人」が特別なチームであり続けるなんてことは、それこそ「20世紀の神話」である。
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