2014年06月28日(土) |
W杯GL総括と日本代表の問題点 |
W杯ブラジル大会がグループリーグ(GL)を終えた。日本はC組最下位。1勝も上げられなかった。前評判は華々しかったけれど、進化する世界サッカーの流れに完全に取り残された、惨めな戦いぶりだった。とはいえ、勝負において勝ち負けは仕方がない。サッカー強豪国と言われるスペイン(前回大会優勝国)、サッカーの母国イングランド、優勝経験国のイタリア、Cロナウド擁するポルトガルがGLで姿を消しており、W杯における戦い方の難しさを物語っている。
(一)ベスト16決定――北中米・南米の強さ、アジア勢の弱さ際立つ
アジア地区から出場した4チーム(日本・韓国・オーストラリア・イラン)がそろって敗退。アジア地区のレベルの低さが証明された。反対に、開催地域という視点からみると、南北アメリカ大陸(北中米、南米)勢の健闘ぶりが目を引く。死の組と呼ばれたD組(イタリア・コスタリカ・ウルグアイ・イングランド)を1位で通過したコスタリカがサプライズを起こしたし、同じく死の組と言われたG組(ドイツ・ポルトガル・ガーナ・米国)においても、米国が2位に食らいついて勝ち上がった。本大会における北中米・南米勢は、開催国のブラジルを筆頭にチリ、コロンビア、ウルグアイ、エクアドル、アルゼンチン、メキシコ、コスタリカ、ホンジュラス、米国の10か国。うち、エクアドルとホンジュラスの2チームを除く8チームがベスト16入りを果たした。
予選地区別の詳細は、欧州勢13チーム中、オランダ、ギリシャ、スイス、フランス、ドイツ、ベルギーの6チームが勝ち残り、クロアチア、スペイン、イタリア、イングランド、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ポルトガル、ロシアの7チームが敗退している。アジア地区は前出のとおり4チーム中すべてがGL敗退。アフリカ地区5チーム(カメルーン、コートジボワール、ナイジェリア、ガーナ、アルジェリア)のうち、ベスト16入りはアルジェリア、ナイジェリア。
欧州勢が13チーム中6、北中米が4チーム中3、南米地区が6チーム中5、アジア勢が4チーム中0、アフリカ勢が5チーム中2というわけで、北中米・南米のアメリカ大陸勢の強さが際立っている。時差の関係だろうか。
(二)日本代表の問題点
GLにおける日本代表の戦いぶりは不甲斐ないものだった。初戦のコートジボワール戦がすべてだった。この試合は相手の攻守がともに不安定で、その中で日本が先制点を上げるという、またとない展開だった。この試合で勝ち点3を上げなければいけなかった。
ところが、相手がエースのドログバを投入したところで日本のDFが下がり始め、日本の左サイドからほぼフリーの状態で、早いクロスを上げられ、連続2失点するという失態をやらかした。1失点は仕方がないとしても、同じ攻撃パターンで連続失点というのは、日本のDF陣がいかに力不足であったかの証明のなにものでもない。
2戦目のギリシャ戦は相手に退場者が出て、これまた日本に有利な展開となった。ところが、守りに専念したギリシャの「堅守速攻」というブランドに腰が引け、けっきょく攻めきれずドローで終わってしまった。コートジボワールの負けた次のギリシャ戦、しかも相手が1人少ない状況で攻めないで、いったいいつ攻めるの、GLは3試合しかないんだよ、と外野席で怒鳴りたくなったのは筆者だけではあるまい。
最終戦のコロンビア戦は惨めだった。相手はGL突破を決めて、先発を8人替えてきた。いわば2軍に近い。そんな相手に4失点の惨敗だ。コロンビアのカウンター攻撃に対してノーガードで前に突っ込むのが「自分たちのサッカー」なのか。こりゃ玉砕戦法だ。
(三)日本代表をめぐる危機的言語空間
冒頭にも書いた通り、勝負に勝ち負けはつきもの。負けは仕方がない。この敗戦を糧にして、日本のサッカー選手全員の今後の精進を期待したい。しかし、代表サッカーにまつわる日本のスポーツメディアのあり方や選手の発言といった、サッカー日本代表に係る言語空間については、一言も二言も発言しておく必要がある。
(四)「自分たちのサッカーをやるだけ」という超主観主義の流通
「自分たちのサッカーをやるだけ」という言説は、もちろん、他国の有力選手がインタビュー等に答えるときに使う常套句であって、日本の代表選手がそれを真似て流通しているにすぎない。使っている外国選手に悪気もなければ、特別な意味もない。もちろん、それを真似る日本人選手も同様だ。大事な勝負を前にした選手がメディアに質問されて、まともに答えるわけがない。まちがって相手に礼を失する発言をしたら相手を刺激するだけだ。逆に、手の内を晒すような表現も避けなければならない。そんな状況で生まれた便利な表現が「自分たちのサッカーをするだけ」だ。
ところが、日本のサッカー・ジャーナリズムおよびマスメディアにおいては、この表現が日本代表の戦い方、スタイル、戦略、戦術を規定するものとなって一人歩きしてしまった。日本代表が南アフリカ大会でベスト16入りを果たしながら、その先に行けなかった反省から、「攻撃サッカー」を志向するという代表サッカーに係る批評パターンが定着し、「自分たちのサッカー」=「攻撃サッカー」というイメージがメディアにおいてほぼ常識化された。
選手たちはどう考えていたのだろうか。筆者はそのことを直接代表選手に質問したわけではないが、メディアを通じた発言から推察するに、選手・監督にとって、そのことは既成の事実として受け止められていたように思えた。つまり、日本は攻撃力で勝利することが、選手・監督にとっての「自分たちのサッカー」だと。そのように意思統一されていたように筆者には思えた。つまり、海外の有力選手が便宜上使用する言辞が、いつのまにかメディアがつくりあげた日本のサッカーの「方向性」と融合し、選手たちを呪縛し始めたのだ。
この現象は、筆者には想像しがたいほどの驚きだった。例えば日本がコロンビアと戦ったGL第3戦、結果は1−4の惨敗だった。しかも相手は二軍だ。
ところが、この試合こそが「自分たちのサッカー」という価値基準からすればW杯の中のベストゲームだったという総括が、日本の代表選手、メディア、サポーターから出されてしまっていた。この試合は、日本の玉砕戦法を相手コロンビアの二軍が赤子の手をひねるように逆手にとって、得点を重ねたという内容以外のなにものでもない。こういう大量得点差の試合というのは、大会においてありがちだけれど、日本チームにあったのは“攻撃する”という精神(意思)だけであって、それがパフォーマンスに外形化し結果に結びつかなければ、試合(勝負)にあっては、何の意味もなさない。そのことが一つ。
次に、「自分たちのサッカー」はまずできない、という前提で戦わなければならないのがW杯なのだ。そのことをGLB組の第一試合、スペイン−オランダが実証している。
前回王者のスペインに対して、オランダは5バックで守備を堅固に固めた。中盤でスペインの自由なパス回しを封じるためだ。オランダはスペインに先制されながらも、この形で逆転に成功し大勝した。
オランダといえばかつてトータルフットボールを掲げた、攻撃的サッカーを行う代名詞的存在。その意味するところは、全員攻撃、全員守備。しかるに本大会では、守備にフィールドプレイヤー7名を割くという、守備重視で対峙した。スペイン戦の陣形が「自分たちのサッカー」なのかどうかは判断に迷うが、とにかく勝つことが重要なのであって、相手に応じた戦略、戦術を駆使することが勝ち残るために必要であるという結果は理解できる。
オランダのトータルフットボールはモダンサッカーの新たな地平の(幕開けの)象徴だった。そして本大会では、その当事者オランダが強敵スペインのパスサッカーをつぶすため、新たなスタイルを用いた。サッカーとは常にある形を乗り越えることで進化してきた。それがサッカーにおける弁証法だといってもいい。
それだけではない。南米のある国のリーグ戦では、自分たちより実力の上のチームと対戦するときの作戦は、「相手のエースを削る」ことだと言われる。相手のエースを負傷退場に追い込み、それで勝利を得ようと。そんな作戦をとれば退場者を出すリスクもあるし、もちろん、そんな作戦はスポーツマン精神の視点から容認できない。だけれども、これもサッカーの現実の表れの一つなのだ。「自分たちのサッカー」という呪縛から日本サッカーを解き放さなければ、日本の強化は不可能である。
(五)サッカーはフィギュアスポーツではない
「自分たちの○○」で勝利をつかむスポーツもなくはない。その代表が、浅田真央ちゃんがやっているフィギュアスポーツ(スケート)だ。フィギュアの場合、相手とつかみあうわけではない。自分の蓄積してきた能力を舞台で100%(以上)発揮すれば勝つ場合もある。相手とやりあう必要はないかわりに、「自分のスケート」をやりぬくしかない。
また、相手ある競技だが、日本人が得意とする野球も「自分たちの野球」に徹することで、勝てる要素が高いものの一つと言える。たとえば、ノーアウト1塁で犠牲バンドという作戦に徹すること。相手にアウトを献上しても、塁を一つ進めるという考え方で勝とうとする。統計上は知らないが、日本野球ではこの形が好まれ、犠牲バンドは評価が高い。
フィギュアスポーツや守備と攻撃が分かれる野球のような競技を例外として、相手とやりあう競技の場合、相手の良さを消すことも作戦であり、そのために「自分たち」のスタイルの変更もあり得る。どんな相手でも自分たちのスタイルで戦って勝てると思うのは超主観主義であって、超主観主義を助長するような言語空間が、日本のサッカージャーナリズムに築かれていたことは日本のサッカーにとって、不幸なことだった。
(六)現実を度外視して、夢をのんきに語る楽天主義的言語空間
結果論としてではなく、どこの国のリーグかを問わず、その成績が重要なのではないか。日本惨敗の戦犯は、本田、香川、長友、岡崎、長谷部、内田、吉田の海外組。とくに大会前、優勝の大言壮語を吐いた本田の責任は重い。「出るからには優勝を狙う」と、言うのは結構だけれど、まずは目の前の一勝だろう。はったりで厚化粧した本田圭佑は、スポーツ選手としての美しさを欠く。
本田に限らず、自分たちの実力を過信して足元を見ず、はるか遠くの栄光を夢見て語るような傾向は、いったいいつごろから、この日本の言語風土に醸成されてきたものなのだろうか。夢を現実化しようと努力する姿勢に誤りはない。しかし、その途上のどのくらいの位置に自分が立っているかを自己検証するのも実力のうちだ。
イタリアの名門クラブ、ACミランで10番をもらったからといって、プレーをしていない者の実力が証明されたことにはならない。商売上、本田が10番をつければレプリカユニフォームの売上が上がり、日本企業のスポンサーが集まりやすくなることが、ACミランというクラブにとって重要なのだ。本田はジャパンマネーを集めるための広告塔、集金マシーンにすぎない。このことは香川にも言える。
本田がミランへの移籍でもっとも注目されたのは入団会見だった、という評価がすべてだ。本田の成績は入団後の19節から38節までのあいだの14試合に出場して、わずか1得点を記録したに過ぎない。そのような成績の選手がW杯で優勝を宣言することの虚しさが筆者には痛々しかったし、GLで敗退という結果を前にして、発する言葉をもたない。
(七)今後の課題
(1)フィジカル重視がトレンドに
前出のオランダがスペインに大勝した試合が象徴的だった。オランダのフィジカルがスペイン(バルセロナ)のパスサッカーを粉砕したのだ。本大会では、速い縦パス、速いカウンター攻撃、速いクロス、高いヘディング、堅い守備、激しいボール際の競り合い、走力、スタミナ、俊敏性・・・に富んだ、いわゆるフィジカルの強いチームが勝ち進んだ。体格は問題ではない。先発が180cm以下のチリがベスト16入りを果たすという、体格に恵まれない日本人にとって嬉しいニュースもある。メキシコも似ている。メッシのみならず、身長の低い選手の活躍も目立つ。それでも、90分間激しい運動量を維持できるチームが勝ってきた。
短期決戦のW杯の場合、強いフィジカルのチームの方が、そうでないチームよりいい成績を残す確率が高いようだ。パスサッカー、ポゼッションサッカーでは、W杯では勝ちにくくなっている。
(2)代表選手選考に見えた偏り
日本代表は同じようなタイプばかりだ、という評価もあった。ワールドクラスの強いセンターフォワードがいないのは確かな現実だろう。だが、それは世界各国共通の悩みだ。逆に、エトゥやドログバというワールドクラスのFWがいるアフリカ勢がGLで敗退している。日本代表の中に、強いフィジカルと高さを生かしたFWがいてもよかった(たとえば豊田、ハーフナー)。また、逆に、相手ペナルティーエリア内においてドリブルで勝負できるような選手もスーパーサブとして必要だった(斎藤は代表として選出されながら、一回も起用されなかった)。
セントラルミッドフィルダー(ボランチ)を安定的に任せられる選手の見極めに失敗した。予選から遠藤、長谷部がレギュラーとして君臨したが、遠藤の急激な衰え、長谷部の故障で、このポジションのレギュラーが混沌としてしまった。世界的トレンドとしては、フィジカルの強い守備型が務める傾向にある。早い時期に山口、青山、細貝をチームに融合させる必要があった。
だが最大の弱点は日本のCBだ。このことは拙コラムでなんども繰り返した。めぐりあわせとして、2014年にはこのポジションの人材に日本は恵まれなかったことは事実。ただ、CBとして適正に欠いた今野をレギュラーのCBとして信頼し続けたザッケローニの判断を、筆者はいまだに理解できていない。
キャプテンシーが強いとしてザッケローニに信頼された長谷部もフィジカル面で問題を残した。長谷部を中心としたチームづくりが、長谷部の故障で根底から崩れたというのでは情けない。長谷部が故障した時点で、長谷部抜きのチームを構築すべきだった。
香川はマンチェスターUで試合に出られない理由を証明してしまった。本大会のあのていどのパフォーマンスでは、モイーズでなくとも試合に出さない。
本田もACミランでは結果を出していない。イタリアで常時出場をするだけの実力はいまのところついていない。大言はリーグ戦で結果を出してからだろう。海外組は移籍でチームになじめなかったり、故障したりで試合出場が少ない選手ばかり。そういう選手はトレーニングでフィジカルを上げたからといっても、試合では結果を出しにくいし実際に出していない。試合に出ていない海外組を切って、Jリーグのレギュラーを中心にした代表チームづくりを考える必要があるかもしれない。だが、それにはJリーグの質も高めることが条件となろう。
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