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2006年03月12日(日) Jリーグ、今季は裏作か

2節が終了した段階で結論はないけれど、今季のJリーグに緊張が感じられない。筆者が優勝候補に挙げた千葉が、2節終了時点で勝点1という予想を裏切るスタートを切った。アウエーの大宮戦はともかく、ホーム開幕戦の甲府と引き分けたのは痛い。2節で最低勝点4がほしかった。千葉は2試合ともリードが守れていない。優勝候補の(といっても筆者の独断だが、)千葉の戦いぶりに象徴されるように、守備の課題が克服されていないチームが多い。全試合をチェックしたわけではないのだが、管見の限りでは、負けたチームの負け方が悪い。川崎が2試合で14点と大量点で勝利したことは評価できるが、相手の新潟、京都の守備に「粘り」がないことが気がかりだ。
TV解説者のI氏によると、春先は守備のコンビネーションが固まらず、大量失点を招くケースが多いという。確かにそうかもしれない。そのような傾向を否定するわけではないけれど、筆者は選手のマインドに問題が内在しているような気がしてならない。
W杯開催が、Jリーガーに影響を及ぼしていないか。代表に選ばれない選手にニヒリズムが漂っていないか。挫折感を感じている選手はいないか。マスコミが「日本代表」に偏向していないか。
たとえば、「代表に選ばれるためにリーグで頑張る」と、真顔でインタビューに答えるJリーガーが何人もいる。信じられない。サッカー協会は、そのような発言をする選手の頭の中をまず、改造しなければいけない。
グローバルな傾向として、プロサッカーの基盤は地域だ。W杯は4年に1度の世界的大イベントであることは確かだが、サッカーはまずもって、地域文化として自立し、地域経済に貢献する使命を負っている。代表とは結果に過ぎない。結果を目的とはきちがえてはならない。「代表」は選手のステップアップの象徴だが、リーグはその踏み台ではない。代表がリーグの上位に位置するのは、開発独裁国家の特徴だ。日本もそのような国家形態がつい最近まで続いていた。
筆者はかつて当コラムにおいて、サッカーは“リーグ”と“代表”の2つの焦点を持つ楕円であるべきだ、と書いた。日本人は円を国旗に使用しているため、楕円に美学を感じないのか。1つの中心をもつ整形された“円”の体系は美しいがしかし、必ずしも正しいとは限らない。2つの焦点で合成された“楕円”は一見すると美形とはいえないが、バランスという叡智が感じられる。
まずもって「国ため」にではなく、身近で等身大で関係の濃密な「地域空間のため」に貢献すべきなのだ。
W杯に出たいがために、欧州から日本のクラブに「電撃移籍」した選手がいる。そのような“わがまま”が契約社会において許されるのは、契約先のクラブにメリットがある場合に限る。もっとも、復帰を受け入れるJリーグのクラブ側が相手先に支払った違約金以上の収入が見込めるのならば、商談というものは成立する。契約社会は金銭で折り合えば何をしてもいいのだろうが、筆者はW杯=代表に一元化された日本サッカー界関係者の意識構造を危険なものだと感じている。
その理由は、この先、日本代表がW杯アジア予選を必ずしも突破できるとは限らない状況が迫っていることだ。
アジアの変化の第1は、06年以降、豪州がアジア予選に参戦することだ。豪州の代表クラスは、英国プレミア等々のクラブでプレーしている実力者ぞろいだ。第2は、石油産出国のオイルマネーの威力で国内リーグの底上げが必至だと思われることだ。第3に、中国、東南アジアの実力アップが挙げられる。
これらの複合的要因により、日本がW杯に出られなくなった途端、日本サッカーの斜陽化が始まるようであってはならない。日本におけるサッカー人気を不動のものにするためには、Jリーグが代表と同程度の位置にあり続ける必要がある。そのためには、Jリーグに世界レベルの選手が集まっていることも必要だ。銀河系軍団が日本にあっていい。そして、魅力あるJリーグであり続けるためには、まず、選手がJリーグに特別な思い入れ、誇りを抱いてほしい。選手がJリーグを「踏み台」と見ているうちは、Jリーグの位置も低いままだ。
有能なKキャプテンは、スポンサーが集まりやすい代表に力を入れて、でサッカー人気を拡大する戦略を採用している。この戦略は集金力は高いけれど、スポンサー撤退による危険度も高い。JリーグのチェアマンはKキャプテンに負けない戦略を構築してほしい。
             ※                  ※
中央集権化された日本社会ではある。地方は東京から発信された情報の受け手であり続け、東京中心に「日本」が論じられている時代が長く続いた。しかし、本当にそうなのか――
もちろん、サッカーだけで東京中心の中央集権構造がそう簡単に覆るとは思わない。近代以降、日本の政治、経済、社会の構造がそのようにつくられており、日本のマスコミはそれを維持し固定化するツールとして、十分すぎる機能を果たしている。日本の中央集権システムを「1940年体制」と命名した経済学者がいる。「1940年体制」を大雑把に説明すれば、日本がアジア太平洋戦争に突入する直前、政治・経済・社会を臨戦体制へと適合させるため、すべての権限を中央政府に集中させた。政党は大政翼賛会、行政は霞ヶ関だ。敗戦後、このシステムは維持され、こんどは経済復興のために機能した、というもの。1940年体制=開発独裁国家だ。
筆者は、日本サッカーが代表優先の中央集権型であることが気に入らない。まるで、「1940年体制」ではないか。
筆者は、新潟や浦和や清水のように、地域に根付いたクラブが優勝することを切に望んでいる。筆者の願いは、筆者が在住する下町・東京に、オシム監督率いるブエノスアイレスのボカジュニオールのようなチームが誕生することだ。そうなれば、“裏作”という言葉すら思い浮かぶことがないはずだ。筆者は、いつもいつも下町・東京チームを応援し続けているだろう。そのときは無論、当コラムの幕は降りている。万一存続したとしても、そのチームの専用コラムに変身しているはずだ。


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