Sports Enthusiast_1

2006年01月01日(日) 期待裏切る、総合格闘技

大晦日恒例の2つの総合格闘技イベントは、筆者にはあまり面白いとは思えなかった。鮮やかなKOシーン、一本勝ちを期待したファンも同じように思われたに違いない。この印象は、スポーツが提示する「見せる」という要素、すなわち、スペクタクル性において総合格闘技がもつ限界であって、昨年のイベント固有の限界ではない。総合格闘技は、純粋に「見る娯楽」と考えるよりも、マッチメーク――戦う者にまつわる怨念、情念、確執等々を含めた「物語」――を楽しむものと考えたほうが良いのかもしれない。
関係性を無視して、純粋に「見る娯楽」としてスポーツを審級化するならば、ルールが厳しければ厳しいほど、規制が強ければ強いほど、面白さは増す。たとえば、「立ち技」という規制によって、ボクシング、キックボクシング、K1、相撲、空手といった「美しい」格闘技が成立する。総合格闘技は、打撃系立ち技に、投げ、寝技、締め、関節技・・・を加え、禁止技のいくつかを外した。現行の総合に、さらに、頭突き、肘打ち、噛み付き、急所攻撃、後頭部打撃等を加えれば、素手による殺し合いに限りなく近づく。そうなったとき、この「格闘技」は見るに耐えないものになる。凄惨な殺し合いになるからではない、防御が優先・発展し、両者が時間内にまともにファイトする確率が低下するからだ。警戒するあまり、睨み合いになる時間が長くなる、組み合っても、互いが相手の身体を抱えあったまま、動かない時間が増える。よしんば、両者が攻撃しあったとしても、その光景は一部の残虐趣味を持つ者を満足させるだけのものにとどまる。
総合格闘技の現行ルールは、「見る」スポーツの限界にある。うまく噛み合えば、互いに攻め合い、どちらかの技が決まることもあるし、噛み合わなければ、防御の時間が長く退屈になる。
総合格闘技のこの先はどうなるのか。このままなら、確執をもった格闘家同士のマッチメークが飽和して、物語性を失う。それを防ぐためには、プロレス、柔道、相撲・・・、ありとあらゆる格闘技からの参戦者を増やし、格闘家の絶対数を増やさなければいけない。幸いにして、日本には格闘技がたくさんあるので、格闘家の供給数は確保できるだろう。ただ、物語性をもったマッチメークがどのくらい可能なのかは、わからない。純粋に総合格闘技を楽しむファン層は、そう多くはないだろうから、結局、総合格闘技が一部マニアックなファンのもとに戻る可能性も否定できない。
余談だが、吉田vs小川の試合後、負けた小川がマイクパフォーマンスをしたあと、“ハッスル”を演じたが、醜悪である(昨年も同じことを書いた記憶がある)。小川がプロレスの世界で生きることはかまわないが、総合は、プロレスを否定した舞台である。総合はUWF結成から今日まで、プロレスに限界を感じた格闘家が生死を賭けて築いてきた舞台である。勝った吉田が“ハッスル”を拒否したことは美しい。“ハッスル”などというものは、大衆に消費される「演技」であって、芸に属さない。ましてや、本気の格闘技の舞台にそぐわない。
敗者がはしゃいではいけない。吉田に負けた小川は、05年12月31日を最後に、総合格闘技に出ることはないだろう。大衆は、小川がどういう存在なのかを知ってしまった。プロレスラー・小川は、タレントとして、プロレスファンのために今後も頑張っていただきたい。


 < 過去  INDEX  未来 >


tram