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2005年07月26日(火) 国家のための「代表」ではない

東アジア選手権を戦う日本代表だが、ジーコ監督は同大会において、控え、若手を中心にすると明言し、田中(浦和)、村井(磐田)といった、フレッシュな選手選考を行った。その一方、故障が完治せず、Jリーグでも15分限定で出場している久保(横浜)の召集にこだわった。召集に応じない久保及びクラブに対し、「代表は国のために・・・」という意味の言辞で非難したと伝えられている。
この発言は危険だ。代表ならなんでも優先という時代ではない。欧州のクラブでは代表戦出場よりは、クラブ優先が確立している。なぜならば、選手(久保)の個人的事情を考慮すべきだからだ。選手はできるだけ長く現役を続け、生計を支えなければいけない。故障をおして代表ゲームに出場することが、選手生命を失う可能性に結びつくことだってある。クラブの事情もある。横浜が後半巻き返すためには、元気な久保を必要としている。「代表」というのは選手にとってもクラブにとっても、絶対的価値観でないはずだ。
もっと重要なことがある。代表召集を断ることをもって、久保が「国家への貢献や忠誠」という観点で貶められる理由はない。ジーコ監督の「久保批判」は、サッカーとナショナリズムを結びつけた危険な発言だ。日本サッカー協会は、ジーコ監督に対し、久保と横浜への謝罪及び発言取り消しを勧告したほうがいい。
日本の多くのサッカー愛好家は日本代表を応援するけれど、国家のために代表選手が戦うことを求めていない。代表が勝つことが国家の威信に結びつくとも思っていない。日本の多くのサッカー愛好家は、近隣の某国のように、「将軍様」や「共和国」のために戦う代表を求めていない。代表選手は国の奴隷や道具ではない。国の代表より、選手個人の尊厳が優先されなければならない。
久保はこの期間を利用して故障を直し、復活して代表に戻ってくればいい。代表復帰の条件は、Jリーグで活躍することだ。それができなければ、久保が代表に戻ることはない。そんなことは久保自身がもっともよく分かっていることだ。
日本のサッカージャーナリズムは、代表監督の“危険な発言”を批判してほしい。ジャーナリズムがまずもって、代表万能、代表絶対、代表=国家の威信、という思考回路を断ち切ってほしい。ナチスドイツは、「民族の祭典」と称して、国家と五輪を結びつけた。国家とスポーツを結びつけたがっている政治家は、いまの日本にだっている。


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