| 2003年04月14日(月) |
ヨバン、ファースト・・・ |
清原選手が復帰した読売だが、チームは危機的状況だ。清原選手は、肉体的にみて、もうプロ野球の選手は無理なのではないか。あくまでも推測に過ぎないが、清原の肉体はもはや、野球選手のそれではいないように見受けられる。体重が重すぎる。多分、筋トレのしすぎだろう。元ボクサーに聞いたのだが、ボクサーは上半身の筋トレを控えるという。よけいな筋肉がつけばパンチのスピードが落ちるし、ガードもできなくなるというのだ。スポーツにはそれに適した身体づくりが必要なのであって、上半身を筋肉で覆えば、野球はできない。さらに体重が増え、その加重に下半身がついていけなくなって、肉離れを起こす。下半身は上半身より、鍛えるのが難しい。年をとればより難しくなる。 体重を落とし、下半身を鍛え直し、スピードを重視した身体づくりを行うには、清原選手の年齢では無理だ。好調なときのビデオをみれば、清原の身体がどんな状態だったか、すぐわかるだろう。 次に問題となるのは、清原選手の起用法である。原監督は就任した年に日本一になったため、自分が指揮官として有能だと錯覚した。そのため、「4番は清原」と明言し、その言葉に縛られ、読売のチームコンセプトを崩してしまった。確かにこの明言は清原のプライドをくすぐっただろうだが、原監督が1年目成功したのは、若手にチャンスを与えるという、無心の起用法だった。そのことが、天才前監督の呪縛から選手を解放し、いい結果につながった。原監督はその原点を忘れ、4番に「格」や「名前」や「実績」のようなものを求めてしまった。 読売の不調は清原選手の起用法だけが原因ではないが、調子のいい選手を使い、チームに流動化を起こし、それをエネルギーにかえることが野球の、いや、スポーツの原点だろう。なぜ、清原という「名前」にこだわったのか。 ところが、これには裏があって、週刊誌報道によると、原監督が早く清原に現役を諦めさせるため、故障のまま出場させ、再起不能にさせる陰謀だというのである。これが原監督の真実なら、この人、相当の悪であって、名監督の素質がある。そうでなくって、原監督が清原選手に敬意を表したのだとしたら、人の良い凡人にすぎない。
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