職業婦人通信
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2004年11月09日(火) |
たったひとつのたからもの その2 |
更新間隔がまた空きました。
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ヨッちゃんと会わなくなって数年が経過したころ。
父はそれまで勤めていた会社を辞め、田中のおじちゃんが 経営する会社に転職した。
田中のおじちゃんとともに経営に参画する立場となった 父であったが、田中のおじちゃんの間には 亀裂が生じはじめていた。
原因はヨッちゃんをめぐることで ウチの父が余計な口出しをしたことにあった。
後に父が語ったところによれば、 ヨッちゃんは公立学校の養護学級に通いはじめたものの、 しばらくするとほとんど行かなくなってしまったという。
ヨッちゃん本人が行きたがらなかったわけではなく、 むしろ学校で習った歌やら踊りやらを父に披露して 楽しそうに見えたのだと父は言う。(←そのへんは父の主観にすぎないが)
行かなくなった主な原因は 母親である田中のおばちゃんが もともとヨッちゃんを人前に出したがらず 他人と交流を持たせることも嫌っていたところにあったようだ。
そして結局、田中のおじちゃんは 会社にヨッちゃんを連れてくるようになった。
そして会社は、 IDカードがなければ通行できないような ものものしい造りの自社ビルで、 ヨッちゃんはその中で一日中 うちの父をはじめとするオジさんたちと 過ごすようになったのだ。
養護学級の先生が何度か会社を訪れ、 田中のおじちゃんに 「ヨッちゃんは学校が楽しそうだった、だから是非とも通わせるようにしてほしい」 と話したようなのだが そのたびに田中のおじちゃんは黙って首を振ったという。
これを見たうちの父が 「会社に一日閉じ込めておくのは可哀想だ、同い年のほかの子供と遊ばせたほうが いいんじゃないか」と口出しし、 田中のおじちゃんは 「学校に行けば他人に傷つけられるだろう、行かせたくても行かせられない 親の気持ちも考えろ」 というようなことを言ったらしい。
父は余計な口出しを謝ったというが、結局、これをきっかけに 田中のおじちゃんとの仲は悪化。 そうなってくると仕事上でも意見の相違が相次ぎ、 父が結局別の会社に移ったことで2人の交際は途絶えた。
こうして父と田中のおじちゃんが絶縁してから さらに何年もの月日が流れ、バブルがはじけた頃。
私は父から、田中のおじちゃんの会社が倒産し、 おじちゃんもおばちゃんも、ヨッちゃんもどこかに行ってしまって 消息が知れないのだという話を聞いた。
父は 「ヨッちゃんは医者から、20歳までしか生きられないって言われてたんだ」 と、私の知らなかったことを語り、 飲んでいた水割りのグラスの中に ぽたりと涙を落としたのであった。
私は21歳になっていた。
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今でも時折、ヨッちゃんの夢を見ることがある。 気のいいおじさんだった田中のおじちゃんと ヨッちゃんは夢の中では元気に笑っている。
彼らがその後どうしているか、私は知らない。 父は知っているのかもしれないが その話をすることはない。
私は聞くことができずにいる。
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