カンラン 覧|←過|未→ |
そおっと歩くそのわずかな振動すらからだじゅうに響きわたり、 しんどさこの上ない。 自らのからだのご機嫌をとるように、お願いするように、 なんとか家にたどり着き、 コートを着たまんまホットカーペットと布団の間で丸くなる。 しばらくたつと痛みも消え、 ほうっとひとここちじっくり浸かった湯船の中。 後頭部を浴槽のへりにのせ、 まっすぐ天井を眺めていると 疲れが薄らぐようなそれでいてどっとからだが重たくなるような、 眠りに向けた切り替えが始まる。 自堕落な私は、お風呂自体はそんなに好きではないが、 この瞬間を求めて毎晩律儀にからだを洗い、 髪を洗っているような気がする。 今宵風呂場にてごくごく周辺の変化に気づく。 いまさら。 私のことをずっとずっと昔から知っている人たちよりも 私のことをもっともっとわかってくれる人があらわれたということ。 今日私が感じた違和感、 その人とだったら感じることはなかっただろうな。 それから、そんな恵まれた状態に甘えることなく 伝えるべきことはきちんとことばで伝えよう。 これからもっとわかりあえるように。
ごっついシートにこっぽりおさまり快適な超高速帰路。 高くはつくけど、 まず二度とはない機会に財布の紐もゆるゆる。 ぽっけの中には 渡されたばかりほかほかのレトロな携帯カイロ。 寒がりの私にはこの上ない贈り物。
動き出す前の重たい頭を凝りのひどい首のてっぺんにのせて 冷蔵保存された二重焼きを餅焼き網で焼いていたところ, テレビがどこやらのアイドルの話をしていた。 ぼぉぉっとしたまま聞き流すつもりが, 耳の入り口ら辺にはりついて中に入れないままのいくつかのことばにひっかかり, 二重焼きを二度三度裏返したところでテレビに注目。 つがるだのゴールドだのと一体どこの国の話なんだ。朝っぱらから。 おかしな感じで始動開始してしまいそうな頭をどうどう落ち着かせる。 理解。 ・・・理解? なんでも東北の方の子を対象にしたゲイノウジン養成所みたいなところが 新しいユニットを打ち出したらしい。 その名も「りんご娘.」。 しかもメンバーの名前が, 「紅玉」や「ジョナ・ゴールド」などとりんごの品種名になってるんだそうな。 すごいな,つがる。 どうなの,本人たち。 「夢は全国区」。 その前にひとりひとり名前出させてもらうことの方が重要じゃないか? まずはカッコ書きででも。 おじさんついつい二重焼き焦がしてしもうたわいね。 がむばれ,りんごっこ。
私はわがままで期待されるのが大の苦手人間なため、 ほんとはこういうのってお断りなんだけどなぁ。 趣味はあくまできまぐれな手なぐさみにしときたい。 さて、でも今回に限ってはついに動かざるをえなくなった。 ことの発端は昨年の暮れにさかのぼるので、 はや一ヶ月以上は自分の中でもやもやくすぶりっぱなしでした。 で、今日ようやく重たい腰をあげた次第であります。 「ちゅうか、間にあうんかね。」 こんな言葉が何度も何度も右のこめかみあたりをかすめておりますが、 がんばってみよう。やってみよう。 この冬の間に仕上がらなければ、次の冬があるさ。 けど、この場合、決して中途半端なところで手を休ませないことが大切。 私、なまけものだから。 何ヶ月も放ったらかしにして、 一体何になるべきものだったのか謎な編みかけがそこいらにころがってます。 やっぱり勢いがあるうちに仕上げとかないとね。 いやいや、この冬中に出来上がればそれが一番いいかたち。 さて、もうひとがんばりしよ。 ・・・まずはお風呂入ってから。
小学生の頃から社会人になる手前ぐらいまで何度も繰り返された問い 歴史上の人物をはるか彼方から連れ出してきたり お約束の家族を引っ張りだしてみたり 誰をどのように尊敬すれば評価があがるのか 問う方も問われる方もその辺を大きな布で覆って そこは触れてはいけないもの とばかりに目隠しをする 特にそんなことをぶつぶつぶつと考えて過ごしていたわけではないのですが, つい最近になってふと,尊敬できる人がすぐそばにいることに気づきました。 そして,尊敬できる人がすぐそばにいるしあわせにも気づきました。 尊敬できる人を探すのではなく 尊敬できる人をつくりあげるのでもなく 尊敬できる人を思い描くのでもなく はたと気づけばそこに立っていた。 しっかと私の手をにぎって。 どうやら私にとって尊敬できる人というのは 私とそうかけ離れていない存在であることが大前提らしい。 どこからどうみてもご立派な方だと、 私のような人間は、はなっから別の生き物として位置づけてしまうからだ。 尊敬って、やっぱり自分があってはじめて生まれる感情だし。 自分とどこか似ていたり、 自分とおなじようなことで悩んだことのある人だったり、 まずそういったところからぐぐっとひきつけられていくように思う。 それから、その人を見ていると自分を嫌いにならない、というのも大事なこと。
私の電話らしくない電話がうぃぃんうぃぃんと長いこと唸った。 なんと珍しき出来事。 かちっと出てみると関東に住む友人から。 時の経過とともに、より一層環境悪化の一途をたどっている彼女の勤め先の話をして、 一息ついた彼女がふと「私、今年で29だよぉ。」ともらした言葉に一瞬混乱。 あぁ、そうだっけ。 え?つーことは私、今年28? あぁ、そうだっけ。 いつのころからか調子よくわからなくなる自分の年齢。 めったに会えない友達は私の中ではいつまでも当時の年齢のまま、ってのもあるし。 昔は28とか29ってすんごい先のことだと思ってたけど、 わずか数ヶ月先に手をこまねいて待ってるわけで。 すごいな、結構生きてるな、俺たち、みたいなことを話した。 木だったら、えいやさっと切ったところにほぼ30本に近い輪っかが姿を現すわけです。 すげー。 そんな輪っかを1本1本指の先っちょにひっかけて食べてしまいたい。 両手の指じゃたりないから、食べたはじからまた新たにひっかけて。 辛いの、甘いの、しょっぱいの。 それなりにいろいろあったしなぁ。 最後の5本ぐらいのところからじょじょに痛みに似た渋みが舌先にはしり、 吐き出してしまいたいと思ったところ、 残り3本あたりで噛み締めるほどにじわじわと体に染みわたる甘み。 そして今はしあわせだと思う。 日々、許容量ちいさなこの頭を騒がすことが起こったりもするけれど、 ここちよくやすらげるふかふかの枕があるからだ。 頭を沈めるとそのかたちにふんわり窪んでくれて、 朝が来ると起き上がるのを助けてくれるようにしてふわっと弾む。 うっすら浮かびあがる最後の1本はきっと私の気に入る味だろう。
後ろを振り返り振り返りしながらも 互いの歩みをとめることなく通り過ぎる そんなすれ違いがときにごろり横たわる世の中 きっかけあってふと思い返したときに少しせつないのは ほんの指先ほどでもこころを開いた記憶と 一瞬を一瞬として予感した記憶が残っているからだ
世の中、単純になったり少なくなったりすることはなく、 出来事は日々何やかにやと起こってはいるのですが、 どうも月日の流れゆく速さは増しているように感じられます。 そして、また新しい一年の始まり。 今年はどんなことが起こるんでせうかね。 今更後ろを向くようですが、去年はなにやらてんこ盛りでした。 手っ取り早く一言で言うなら「ザ・はじめてのことだらけ」といったところ。 はじめての仕事。(←これは常。) はじめての遠距離通勤。 物心ついてはじめての別れ。 はじめてよそさまの家族にもぐりこませてもらったり。 はじめて赤ちゃんだっこして。 ティッシュ箱に遭遇したおちび状態で、引っ張り出すときりがない。 今年はどんな年になるでしょね。 相変わらず、どんな年にしたい、ってのはないです。 長い長い一本の帯として鑑賞するならば、 生きている以上、変化って切っても切れないものだとは思うのですが、 変化に富んでる日々よりも穏やかなものを愛していきたい。 何の変哲のない一日、 見上げた空がじわりじわりと色を変えていくように。 動かない山がそのひとつひとつの木々を生長させて 衣替えしたりほんの少し大きく見えたりするように。 そして今は、手が真っ赤になるほど擦って擦って 消してしまいたい忌々しいほどのシミ。 そんな風にしか思えない自分の嫌いな部分を 少しでも自分なりに愛せる方向に持っていけたらなぁと思います。 これは今年の抱負ってか、永遠のテーマだな。
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