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■ 北村薫を語ってみる
最近しつこく読み返しております。「円紫さんと私」シリーズばっかり。文庫で電車に持ち込みやすいというのもあるけど。
最近自分で驚いているのが、このシリーズのほんとに何気ない描写にものすごく涙腺が刺激されること。特に『夜の蝉』、これ動揺しないでは読めない。私にも姉がいるからだろう。ときどき本を閉じて、自分を落ち着かせる。 はじめて読んだのはまだ実家にいた頃だから高校生のころか。そのときは面白いとは思ったけれど難しいという印象のほうが強かった。口が悪いのをお許しいただければ、お高くとまってる、というか。自分では不勉強だという「私」があたりまえに語る古今東西の名著に圧倒されて、すこし拗ねた。わかりやすい「覆面作家」シリーズのほうがそのころは好きだったなあ。
名作と呼び声の高い『六の宮の姫君』も、告白すれば最初、どこが面白いのかわからないという気分だった。ひたすらに文学論すぎて。それが、とてつもなく魅力的な、奥深い物語だと気づいたのはいつだったか。本当に最近のことだ。作品から、詩歌から、文字資料から解き明かされていく作家の人となり。無二の友でありながら相反する理想を抱えた二人の作家の、互いへの心情。「私」の推理の軌跡をたどりながら、「私」とともにそこに思いを馳せる。北村薫が少ない言葉で鮮やかに描き出す人間像には、なんどもぞくりとさせられた。
たとえば、こんな一節。
少年、菊池寛。渇きを感じたから、君は本を読んだ。高松図書館の開館に歓喜し、連日通った。勉強だって出来るようにになった。学校で一番にもなった。そうなるしかなかったんだよねえ、菊池君。
あるいは――これはこの小説の謎解きに関わる部分だから、未読のかたには目をつぶっていただきたいのだけれど――
それでことが済むものならば、俺は何を苦しもう。菊池よ、許してはおけない。これを見過ごすことは、芥川にとって、人生の価値あるものを、そして自己を否定することだ。 彼は書き始めた。
センチメンタリズムという向きもあろうと思う。でも、私には響いたのだ。
そして、これは『六の宮』ではないけれども、このシリーズでひとつだけあげろといわれたら、これを採る。
「知で情を抑えることは出来るのに、その逆は出来ないのです。そこが知で動く人間の哀しさではありませんか。そういう意味で、知は永遠に情を嫉妬せざるをえないのでしょうね」
主人公の「私」は(当人の告白とは裏腹に)硬くて透明な水晶のような美しさで、それが昔の私にはまぶしいばかりだった。そのきらきらしさに反発を覚えもした。けれども今思うのは、それは汚いものを排除してつくりあげた美しさではなくて、汚いものから目を逸らさずにいるがゆえの美しさだろうということ。『盤上の敵』でむき出しの人間のエゴを真っ向から書いた作家北村薫の、祈りであり願いであるのが「私」という女性像であろうと思うのだ。……持ち上げすぎだろうか?
思えば初めて本を読んで泣かされたのも北村薫にだった。 好きだなあ。新作、待ってますよ、北村先生。
2003年09月10日(水)
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