己が全て消し去ってしまう、底知れぬ恐怖の中、親鸞聖人のことばが聞こえてくる
「浄土を信じきれないからこそ、浄土に行くのが確定するのです」
イエス、ムハンマド、孔子、墨子、プラトン、アリストテレスなどのことばは聞こえてこなかった
底知れぬ恐怖で体が震える中では、消え去っていた
それでも私は言う
「浄土がある、とどうして言い切れるのですか?
浄土があるなら、救われもしましょう
浄土があるなら、信じきれないからこそ、浄土確定と言い切れるでしょう
そもそも、浄土がある、とどうして言い切れるのですか?」
親鸞聖人は徹底して己の悪人さを抉り出し、主語を私から弥陀に置き換えられた
けれども、世界を徹底して抉り出し、主語を私から物質に置き換えられなかった
エネルギー保存の法則と質量保存の法則群が、世界と肉体に依存する己を結び付けてしまった
私を支える肉体の物質性が世界とつながっていて、意識が依存していることが詳らかになってしまった
精神疾患に物質性を持つ薬品が効き、幽霊は自動車を動かすことができない、という事実が、私達の日常世界を規定し続けている
浄土がある、とどうして言い切れるのですか?
どうしても、どうしても
己が全て消し去ってしまう、底知れぬ恐怖の中、親鸞聖人のことばが聞こえてくるけれども、
それは幻聴、個人の願望にすぎない、と想えてならないのです。
親鸞聖人、お教えください。
自分が体験しないと解らなかったこと、
なのに我が子は私と同じだから口頭で教えれば解る
という何千年も言われてきた落とし穴
孔子は弟子一人一人に言葉を変えて体験を促している
片目をつぶってみても、そうした教員や指導者の少ないことよ
眼を閉じて思い出せるだけに限ってみても、一律の教育で良いとする親の多いことよ
自分が体験しないと解らなかったこと
その体験は一律では決してないというのを忘れているのだろう
とうい何千年も言われてきた落とし穴