年下に慕われれば嬉しくなる。
同輩に信用されればもっと力を発揮したくなる
年上に嘱望されると自尊心が膨らんでくる
これらは全て、私の存在意義が不明確から来ている。
生まれた意義、存在し続ける意義、存在していこうとする意義の全てが不明確であるのは言うまでもない。
人間はそれほどの可知領域を持っていない。
人間の頭脳、理解しうる方法論によっては、宇宙全体を知りえないし、その始まり以前さえも知りえない。そしてこの世界に意思があるかどうかさえ、原理として理解しえないのである。これらは信仰によってしか知りえない。
だからこそ、行為こそが代替可能性を私に落とし込み、現実世界に存在者たらせるのである。
行為の本性であり代替可能性が私に落とし込まれるのは、私の存在意義が不明確であるからである。
誰にでも代わってもらえる仕事を私がすることで、年下に、同輩に、年上に認められる。なぜならば、私が何をするためにこの世に生きているのかが不明確だからである。不明確であるからこそ、仕事を認められるのである。明確であれば、その仕事が是であるか非であるかが確定する。
私たちが本性として、このような行為の代替可能性を持っているのは、人間の可知範囲に基づく存在意義の不明確さからである。
その不明確さや行為の代替可能性に目を向けずに、感情で埋め尽くする人々もある。ストア派が一定の説得力を持つのもここに原因があろう。
病魔、災害、加齢、二人称の死もまた、感情と同じように私たちにふるまいをさせるものである。
しかしながら、私とは行為である。
行為に着目しつづけなければ、結局、私は消滅してしまうであろう。
反射的に感情を振りまく人間が消滅しているのと同じ、という論拠からである。
この仕事は私でなくてもできる。
どんな仕事も私でなくてもできる。
なぜなら、仕事とはそもそも代替可能性を持たなければならないからである。
加えて、私とはそもそも代替可能性を持っているからである。
私は偶然に生まれた。ということは生まれない現実世界もあり得た。
私は自己決定の必然として生きている。ということは生きないという現実世界もあり得た。
しかし、私は偶然と自己決定の必然の結果として現実世界に存在している者となっており、それゆえに、代替可能性を持っているのである。
私が偶然と自己決定の必然を放棄して、死んだ場合、この世界が続いているかは認識できないし、判断もしえない。
けれども、代替可能性を持っていることだけは、認識できるし、合理として判断しえる。
仕事とは行為が終了すれば、そこで終了し、新たな仕事へと進展していく。
代替可能性で共通する仕事と私から推量するに、
私とは行為が終了すれば、そこで終了し、新たな人へと進展していく。
つまり、私とは行為であり、その行為が終了すれば私は、他の肉体的存在者に取って代わられるであろう、となる。
私とは行為である。
行為こそが、代替可能性を私に落とし込み、現実世界に存在者たらせる、そのように解される。