漫画を読んだ。
芸術大学受験、3回浪人する。
苦悩し、ストレスを抱え、内なる声にさいなまれ、続けた。
1回目の浪人、2回目、3回目の違いが丁寧に描かれていた。
最後に合格を果たし、「どんな絵を描いていこうか」と希望を胸に入学する場面で、漫画が終わる。
そしてそれは、受験期のノイローゼから希望へと移っていくことが正常であるかのように、世間一般では見られている。
しかし、そうであろうか。
私達は死すべき存在者なのである。
「長く生きよう、永遠に生きよう」と希望を持っても、かならず不合格が出され続けてきた存在者なのではなかろうか。
古来、人は長寿を望み、永遠の命を望むがゆえに、天国を作り出し、あらゆる努力を払ってきた。
しかし、「長く生きよう、永遠に生きよう」という試験を受験して合格したものはいない。
私には、ノイローゼの時期こそが正常であり、希望を持つことこそが、幻想にすぎないとさえ感じてしまう。
幻想を持つことを全否定するのではない。幻想を持つから、ノイローゼがはっきりし、絶望を認識できるのである。
けれども、そのノイローゼを正常とする判断から逃れる訳にはいかないように思う。
その現実しか、死すべき存在者に持つことができないであろう。
空想、幻想、夢想、理想は幾らでも持てるのだけれども、持つことができないであろう。
富や名声、家族や仕事に恵まれようとも、それは本当の現実とは言えない。
なぜなら、死すべき存在者だからである。
自分には人生の目標がある、課題がある、本を残すことだ。
そのためには調べる時間を投下しなければならない。
けれども、家族や地域社会の責任もある、善人にもなりたい。
2つは相反していて、それぞれ膨大な時間を必要とする。
どうしたらよいのだろうか。
本を書き残しても人類はいつか滅びる
私の肉体があと50年もして滅びた後に残したとしても。
ならば、日々の目の前の社会を家族を少しでも善くしていくべきであろうか。
自分が善なる社会に育ててもらったのだから。
そちらの方が楽だし、楽しいし、人間の機能快を満たしてくれるのだから。
どうしたらよいのだろうか。
時々、この悩みを捨てないことですね、というこ憎たらしいことをほざく人がいる。
いつか形になりますよ、と。
それが私の本性かもしれない。
偉そうに利口ぶって、何もしない。人を楽させる言葉だけ吐く。
どちらにも徹することができない弱いもの。
それが私の正体。