幸田露伴先生、確かに仰られる通りです。
こうして詩を書いているのに、きちんと習ってきませんでした。
『努力論』を読むと、背中から冷や汗が、ピチャピチャと滴り落ちます。
病院で死病に取りつかれたベッドの上で、きちんと習ってこなかったことを私は恥じるでしょう。
けれども、きちんと習ったからといって死の恐怖を安らがせることが出来るでしょうか。
「ここで仲良くなって付き合うようになった。だから、葬式まで付き合わないといけなくなった。もう、10人も死んでるよ」
と老年の男性がある番組で言っていた。
死を摩耗させていることに驚いてしまった。
努力をすれば、死を摩耗させることは出来るのでしょうか。
私は世間一般に「幸せ」と言われるものを手に入れることが出来ました。
けれども、一向に摩耗しないのです。
幸田露伴先生、幸田露伴先生、
なぜ「考えてもしょうがない」で済ませられるのでしょうか。
感謝、一歩でも前進、斬り捨て、それらで本当に済ませられるのでしょうか。
田舎の刈入れた田んぼの、暮れゆくあぜ道に、ポツン
独りになり、独りをかみしめ、そして独りに物足りなくなってくる
いつも、死ぬことを意識して生きている
けれども、それは現実の死を意識している、と言えるのだろうか
あぜ道に独り
なんともなしに人恋しくなってくる
私達が家族や友人関係をわずらわしいと思いながらも、独りになれないのは、この人恋しさが備わっているからである
数百年前は、家族や友人は物質的生存の必須条件であった
共同体の中での治安、物々交換による食料確保、災害時の助け合いなどである
けれど、現代ではそれらは国家が肩代わりをするようになった
年金、医療、災害など。
食糧を買う金は労働で得た金銭で買える。
スーパーやコンビニで食糧を買い、量販店で衣服等を手に入れられる。
そこに家族や友人との関係は必要なくなっている。
国家としかつながらない個人が確立しうる時代に変わったのである。
けれども、私達は友人や家族関係で、思い悩み苦しみ、悦び悲しむ。
悩まないものはごく少数に過ぎない
つまり、私達の思考を、あぜ道の独り人恋しい、が制限しているのである。
私達は制限された思考でしか、死を考えられていないのではないだろうか。
つまり、家族や友人との関係の切断、跳躍という形でしか、死を捉えられてない、という意味である。
いつも、死ぬことを意識して生きている
けれども、それは現実の死を意識している、と言えるのだろうか
自動販売機で缶ジュースが買える。自宅で安いコーヒー、紅茶、お茶が飲める。
けれども、喫茶店に行き、なんとなくの人恋しさを紛らわすのである。
本当に死を考えられているのだろうか。
死を考えられてないのなら、生きることを考えられてないことも意味するのではないだろうか。
付記:溝呂木梨穂著『らりるれろのまほう』を読んで影響を受けました。