初夏の日差しが初到来し、海風に当たりにいった。
山々はカラフルな緑に覆われ、白雲はモクモクと盛り上がり、空は天まで突きぬけていた。
風に当たりすぎ、遅すぎる午睡のまどろみのなかで。
お前は何者にもなれない
これから何かを努力しても積み上げても何者にもなれない
そういう声が肝から響いてくる
私の肉体は後100年はもたない。
私を記憶する人々は200年はもたない。
私に関わる物質は決して残らない、という蓋然性の高さを自然科学の方法論が教えてくれる。
その厳然足る事実を、無視することは出来ない
仏教のように、「あなたの命は大いなる命に戻るだけですよ。風船が割れるだけですよ」 などと。
一神教のように、「あなたの命は永劫に存在しますよ。地獄か天国かの違いはありますよ」 などと。
新美新吉のように、文字が私自身である、と錯覚することもできない。
文字は物質に囚われないからこそ、残るのである。
この性に絶望する。
いや、もう絶望は通り越している。
決して物質的側面を忘れることは出来ない。
このゆるやかなる、だるさの眠気に身を任せれば、私の物質的側面が私の明晰判明な意識を奪い去っていくからである
このゆるやかな、だるさの老化に身を任せれば、私の物質的な側面が私の明晰判明な意識を奪い去っていくからである
病も死も同じである
私は絶望の先にいる
けれど、物質的側面を無視することができない
だからこそ、絶対的自我を見続けるのである
春の蠢動(しゅんどう)が肉体をモゾモゾとさせる。
モゾモゾの奥底、川底で沈んでいるのが、私は死ぬ、という褪めた想いである。
この褪めた想いを拡大させれば、この世との乖離になる。
私は死ぬ、「のだからどうせ」という来世への願望になる。
そうはなるまい。
ブッタが修行者には語らなかったのだから、来世を。
イエスが方便として語ったにすぎないのだから、来世を。
孔子は最晩年に死を語ったのだけれど、その来世を。
そうはなるまい。
この蠢動に身を任せながら、絶望の淵に立ち続ける。
立ち続けたい。
仕事や家族や栄誉や金銭や大義や国益に身をプカプカと浮かべていようとも。