40歳にもなって・・・不惑になっていない
死ぬ間際になって・・・見苦しくなくありたい
という、世間体
世間体など所詮他人の評価でしかない
所詮他人など、他人にそれほど関心ないし、直ぐに忘れてる
所詮他人など、何時の日にか人類滅亡で消える
そういう世間体など死ぬ前に何になろう
虚しいなぁ・・・
虚しいなぁ・・・
じゃあ、自分のやりたいことをやる
その自分の中に他人の評価が入っている。どこまでも入っている。
私の自分の思考など、本当にありはするのだろうか。
個別性を超えた個性が存在するのであろうか
本能と環境と少しの偶然性による結果でしかない個別性が、自分のやりたいこと、なのだろうか
そんなことはない。
結局私がしなくても、誰かがする。
私がこの相手と結婚しなくても、誰かがする。
私がこの文章を書かなくとも、誰かが書く、それだけのこと。
私の個性などありはしない。
そもそも、本物の個性など人間が持てるはずがない。
だから、自分のしたいことをする、というのも虚しいなぁ・・・
虚しくない、生き方はあるのだろうか。
結局は目の前の瞬間瞬間に限定して、いまここわれ、という刻み付けるしか、虚しさを解体する方法はないものだろうか
今日も夜が深まり、肉体の睡眠の魔力に落ちる瞬間に、この思考の結末をゆだねるしかないのだろう
深夜におぼろげながら浮かび上がってくる、この肉体の生に感謝する言葉たち
その感謝する言葉たちさえ、他人との比較で出てくるものでしかない
そうして禅や仏教や他の宗教の原点を超えていく
伝承されてきた点でも、感謝を結論にする点でも
超えた先にある、ただただある、生気づまり(行き詰まり)の深い闇
その深い闇を破壊するのは、肉体的絶対性だけなのである
餅が膨らむように、心がプワ〜っとまとまらなくなる
この私が何時か、何時の日にか、全くいなくなる
誰も、何も、何の努力でも止められない、という想いが、心をプワ〜ッと膨らませていく
もう、思考、判断力、悟性で覚ますことなど出来なくなってしまう
もう、餅を固まらせるのは、肉体の作用しかなくなる
猛烈な眠気、激烈な空腹、絞殺的な激痛、放出後の脱力などの肉体の作用しかなくなる
思考や判断力や悟性は、修辞や表面と本質の入替えや幻想の設定や倒錯しか与えられない
それしか与えられないもの、だけれど、縋(すが)れないからこそ苦しむのだ
縋って縋ってズルズルと視界をくらませればよいのに
眩ませないから、肉体の作用しかなくなるのだ
どうして、数多の民衆が、いや君子でさえ、いや宗教家でさえ、修辞や入替えや幻想や倒錯で、心を穏やかにしているのに、お前は縋らないのか
天国はない、などと言いながらも、自分の死を見つめない民衆
死の本質を神という、道徳という表面へと入替えている君子
どうしようもないのだから、精一杯生き切ろうと説法する宗教家
こんな風に、小賢しい小手先の思考で誤魔化さないのか
何千万人も何億人も、その誤魔化しで、死の恐怖を散らしているじゃあないか
もっと浅い浅い金銭や名誉や幾つかの象徴に散らしているじゃあないか
道徳律って言ったっていいじゃあないか
どうして、お前は、それらなどでは、どうしようもない気狂いを見つめ続けるのか
布団に入り、いつもの手順で睡眠できるというのに、こうして起き出して書き残して置くのか
さらに言えば、肉体の作用しかないのだ、つまり、起き出して書くなど無駄なのだ
書き残して後世の評が欲しくてたまらないのか、ならば何故、今有名になっておかない
こんな片隅で書き残して、文字ゴミの海に埋もれるだけなのだ
どうして、お前は、こうして起き出して書き残して置くのか
何かを考えているようで、何も考えていないとはお前のことなのだ
問に対する答えを、思考たちは幾らでも与えてくれた
けれど、それが決して答えにならないこと、決して気狂いの圧倒的な熱量に敵わないことを知ってしまった
だからとはいえ、
どうして、お前は、ここにこうして、ただ、茫然とした地点に居続けるのか
誰にも理解されず、誰にもここへの降下を求めず、誰にも開放しない、茫然とした地点に