大量に消費されていく。
文字、写真、音声、映像、数々のコンテンツの生命は極端に短くなった。流動するスピードが加速し過ぎて、シャットダウンしたり極端に入り口を狭くしたりした。
はたと気がつけば、大量に時間が消費されてきた。
楽しませるゲーム、服装、髪飾り、おしゃべり、ペット、数々の時間浪費アイテムが巷(ちまた)にあふれかえっている。何にもなりはしない。何も価値を生み出さない、と思うようにして避けてきた。
仕事も誰かが取って代われる仕事だ、文章も読まれないで消えていくだろう、退屈も私でなくてもいいのだし、歓喜すら社会の中の他人から与えられるようになってしまった。奇麗に美しく簡単にやり易く感じよく操作性もよく去勢もされ流行に一喜一憂して、そんな風にパッケージングされて、そのパッケージングされたものしか、もうこの体は受け付けなくなってしまった。
添加物を取ると体に悪いと言うのに、無性に欲しくなる。
浪費しているだけと言うのに、無性にしたくなって押さえがきかない。
怠惰であるだけなのに、無性にそれが悔しくなって、けれども自分の中の道徳を捨てられなんかない。
世知、仁義、教養、人気、金銭、異性、商品、本、そんなものが増えたけれど、結局は消費されて消えていくだけのものだ。
この両手を見てみろ。私の手じゃないか。誰に取って替えられない手じゃないか。
この両手を見てみろ。こんなに分厚くなって私の塊のような手じゃないか。この手に消費されない何かをつかませてあげたっていいじゃないか。
そんなものがあるのだろうか。
消費されない何かなどこの手に掴(つ)めるのだろうか。
文化の薫(かお)り高い欧州に行けば、思想の誇り高いインドに行けば、掴めると錯角すら出来ないで居るのに、周りは消費されるだけのものたちだけなのに、何かをつかめるのだろうか。
友情、親友、両親、兄弟、いづれがそうではないと言えるのだ。人間関係があるから私が私としてありえるのだろうか。天皇制という日本を代表する世界観の中に埋没すれば、どんな分野でも権力構造の頂点に立てば、そんなかけがえのないものを掴めるのだろうか。
年を取り1つ1つ積み重ねて上に上がれば上がるほど、色んなものを獲得すれば獲得するほど、吟味できる能力がつけばつくほど、絶望は心の中にナイフを突きつける。
30代後半から40代まで、体力の衰えと共に亡くなって行った数々の天才たちがいた。けれども、その死すら私のこの手に握らせる事が出来るのだろうか。誰にだって訪れる体力の低下と、それによる精神的な更年期障害なのだから。
肉体の変化すら、この手に確たる消費されない私自身の証として与える事は出来ないのだ。
全ての現象事象に答えが無いというのなら、観念や信念の中にあるのだろうか。
それすら、過去の偉人たちのモザイクになり、新しいモザイクと判定するのは知的エリートであり、存続させるのは民衆と言う無関心集団なのだ。話題性や知名度や権威権力の高さがそのキーワードであることは疑いようもない。
知的エリートに良いよ、と言われて喜ぶ感情で穢(けが)された観念でこの手は満足するのだろうか。誰のものでもない私の両手が。
小指から指を徐々に合わせていって親指で最後になった。
合掌(がっしょう)のポーズとなった。
閉じた私の手。
爪の汚い短い私の両手。
老いていくかは判らないけれど、必ず朽ち果てる汚くて短い爪のちょこんとついた私の両手。
辛い事があって、この世を憎んで全ての人がいなくなればいいと思った。
苦しい事があって、身の回りを壊しつくして全ての人を殺そうとさえ思った。
けれど、それは1つ1つの関係を間違っているだけ。
辛い原因はこの世の全てではないし、苦しいのは何も自分だけではないのだから。
だから、その1つ1つの関係をきちっと分けて行こうと思っていたんだ。
透明のふわふわとした風のような塊を両手を大きく振って分けていくと1つ1つは少しだけはっきり見えてきた。
やっと僕は気持ちよくなって、辛さや苦しさに耐えられるようになってきた。
そうすると、意外と人生も悪くないな、いや周りの人と一緒にいるのも結構楽しいかもしれない、って思うようになったんだ。
そう思っていると、また風のような透明のふわふわとした水母(くらげ)がどこからともなく漂(ただ)よってきた。
面倒くさかってけれど、最初よりは上手く分けて行って友達や親やお金や恋人なんかを少しはっきり見えるようになったんだ。
けれど、少しはっきり見えてきたのはただの錯覚だった。
両手を大きく左右に振り分けた後には、別の、もっと透明なふわふわとした氷のような塊が入り込んできただけだった。
氷だから空気よりも少し見え方が違っただけだったんだ。
それを知って愕然(がくぜん)として、前よりも焦って焦って、辛くなって苦しくなったりもした。
けれど直ぐに褪(さ)めた僕にも気がついた。
「どうせ、これでいいんだ」ってね。「これが幸せってものだよ」ってね。「もう諦(あきら)めたらいいよ、だって皆幸せそうじゃないか」ってね。「また、あの社会不適応者に戻るのか、皆に迷惑かけるだけの、それって結局若いから許されるんだろう」ってね。「もう、お前は安住の地を見つけられるし、それは歴史が保証してくれているじゃないか」ってね。
僕は、その内なる声を振り払うように、無視するように、動力にするように思いっきり両手を振り払って払った。無理だと判ると浮浪者のダンボールを使って、捨てられていたマックのゴミ袋で大きく振り払ったんだ。
少しづつ透明なふわふわとした氷を払い出せるようになって、コツをどんどんマスターしていった。
マスターしていくのはとても気持ち良かったから、自分の周りからは完全になくなるまで頑張った。
恋人を抱き寄せてキスをする距離なんて当然で、6畳の狭い部屋の端から端までは充分に、昔行った小中学校の教室ぐらいの広さまで完全になくしたんだ。
けれど、またはたと気がついた。
あの嫌な直観が、ゴキブリが、カサッと部屋の隅(すみ)でささやく瞬間を捉えるようなあの嫌な直観が、僕を襲ったんだ。
今度は氷のような鋭さじゃなくはんぺんのような生々しい透明な塊だった。
やっと仕事から帰ってきた僕は、狭い暗い6畳で一気にへたりこんでしまった。
やっと手に入れたこの部屋が、世間によってやっと許されたような、つまり自分は働かないと全く価値が無い人間じゃないかって罵倒されているようなそんな感覚が蘇ってきて、振り払うために使った労力を思い出して、もうへたりこんでしまった。
また、一から透明の塊を払うのかな。
それとも、もう疲れたから、と見ない振りをするために、色んな口述をつけて透明の塊が身の回りにあってイライラするのを、心の奥底に封印するのかな。
ああ、もうどっちでも良いんだ。多くの人が払っていないじゃないか。
ああ、もうどっちでも良いんだ。だって僕は人間なんだから、人生の目的など1人1人に与えられていないのだから。
このまま逝ってしまってもいいし、このまま愚痴を言い続ける人生でも良いし、このまま闘争し続けても良いんだ。
透明の塊は決して振り払ってなくすることは出来ないんだ、それだけははっきりした事実。
透明の塊が観える合理性を与えられ、そして同時にそれと相反する不信不明感情情欲を与えられたのだから。
振り払うのが上手くなって気持ち良くなっていく事、振り払いながら汗が出た事、そういう1つ1つが1つ1つの関係を誤らせる基になっているのだから。
救いなんてない。苦しみも本当はない。喜びも分かち合いも愛も自分も他人すらも本当は無かったんだ。
透明のふわふわとした塊が、僕たちにまとわりつきながら見せていた陽炎(かげろう)だったのだろう。
決して触れなかったんだ、だって透明の塊を振り払えないんだから。
この潤(うる)みは何時の間にか涙として消えていくだろ
この潤みは人生全てで味わえる感情を集めても、出て来はしない
この潤みは満天の冬空の下で世界が一体となった天地不動の境地に先にしかない
この潤みは行く果てのない、行く宛ても与えられない、往くことも出来ない、異句など繋げられない
天地すらなくなり公私すら消え去り観念すら寄せないこの潤み
なんと私は人間で、人間で、人間なのだろうか
迷いが、迷いの落とし穴のようなものが、ぽっとりと道程に用意されている。
その迷いの元は、好き嫌いだけで判断する限界を知ったから。
その迷いの元は、1つの合理だけで判断する限界を知ったから。
その迷いの元は、自らの名誉欲と金銭権力欲をコントロールできるようになったから。
その迷いの元は、最終的なゴールの虚しさをしみじみと感じているのに生きながらえているから。
その迷いの元は、日々の生活の中で統制して抑制する喜びと、評価と不満を同時に併(あわ)せ持っているから。
どちらでもいい。どちらをとってもいい。
ならば穢れと禊(みそぎ)で解決するのか、ただ唯々諾々と流されるのか、違う階層を垣間見ようとするのか、情動に生きるのか、何時までチャレンジを続ける分野を広げておくのか。
なんと私は人間で、人間で、人間なのだろうか。
徹底的に人間なのだ。