小さなお気に入りの居酒屋があった。
ちょっと地下に潜っていくと、僕が生まれる前からあったような、そんな落ち着いた静かな暗さを持っている居酒屋だった。
お気に入りの人しか決して連れて行かないし、「お気に入りの店ってある?」とか「どの辺で飲んでいるの?」と東京風に聞かれても決して白状しない店なのだ。
四方が柱で区切られたテーブルが縦に2列、4つも並んでいる。2人は横に通れない明け透けでギュウギュウの廊下と、頭の少し上まである木目が安心感をかもし出す。
料理は、まあ値段のわりにまあまあだが、店員が少ないので大分長居が出来から、恋人とも1年以上は駆けてきて少し腐りかけの時に来るのが最高だったりする。最初の飛ばしまくりのデートの時、失敗した時なんかの話をツマミにして飲んだりすると、とっても気持ちよくなったりする。
ある意味試金石になったりして、だらだらしないで済んだりもする。もう1度盛り上がったりもする。
「わたしなんてそんなことに値しないのよ」
古い漫画のように目を伏せて吐き出した台詞だった。
使い古された台詞を、さも自分だけの言葉のように使う人とは知らなかった。
やっと化けの皮が剥(は)がれたか、と思ったけれど、「わたしなんて」の「なんて」の奥底にある自意識過剰に口をつぐんでしまった。
2件目にお洒落なショットバーにいって「カミカゼ」を楽しもうと思ったけれど、この鼻につく自意識がライムの香りを消してしまうだろうから、頭の中のコース設定を一瞬でゴミ箱行きにした。ゴミ箱を空にしてやろうかとさえ、思ってしまったのだった。
こういう時、何も言ってあげないし何も囁(ささや)いても安心も慰めも怒りも上げたりしない。血液型や占いの話なんかもしてあげたりもしない。
じーっと、見るとはなしに見ていたりする。
「だって、○○さんは素敵じゃない。格好いいもの。もてるし、わたしなんてやっぱり・・・」
「そうでしょう。この前に遇った人、○○さんのことちょっと気に入っている素振りだったし、わたしだって最初に逢った時にそんな風に思ったもん」
「・・・」
「・・・」
「ねえ?」
「・・・」
「ねえ?・・・どう思っているの?」
「・・・そうだね〜・・・」
「・・・」
見るともなしに、その子の、たまたま背後になった壁の木目の節を見つめていた。
不思議な形。
木目といえど1つ1つ形が違う。けれど、木目は木目なのだ。
いくら渦がきつかろうが間隔が狭かろうが、いくら泣こうが喚(わめ)こうが、楽しもうが浮かれようが、木目は木目に過ぎない。
自意識過剰でも内省的でもスポーツマン的な楽天でも、飯を食い糞を出し性欲に惑わされ両親の生殖行動によって産まれてきたのだ。だから、そんな風に振舞えばいいとは思うのに、やっかいにしてしまうのだからなぁ、と壁半分の木目の数を数え終わった。
11個だった。
「きみのこと、最初っからみていたんだ。気に入っていたんだよ。だからこうしてご飯を食べられてとっても嬉しいし、これからも一緒に居たいと思っている。一緒に居るの楽しみにしてくれていた?」
「・・・だって・・・」
「楽しみにしてくれていた? とっても可愛らしい襟(えり)だね。選んで着てくれたのかな?」
「・・・うん・・・」
「そっか、じゃあ一緒に居るの楽しみだったでしょ?」
「・・・うん」
「今も一緒に居るの楽しいよね?」
「うん」
見つめあい、本当は何もないのに、目と目で感じあう、という錯覚を持つだろう。
ここで秋刀魚の開きとさけのおにぎりを頼んだら、白(しら)けるだろうなぁ、じゃあやっぱりあれかな。
「よかったよ、ちょっと安心した。安心したらお腹減っちゃった。デザート食べようか」
「うん食べる〜」
ここのデザートは少しだけはましなのだから、接近欲求が満たされた時に使えたりする。
人はそれ程のものなのだろうか。人にそれ程のものを求めて良いのだろうか、そんな事を思い悩んできた。
いや求められないよ、と切り捨てるのも、ああ求められるよ求めるだけは、とシニカルになるのも、ああ求めなさい、と信仰のようになるのも避けてきた。
所詮、女は外見だから、所詮、男は中身だから、と使い古された言葉にも数々の諺(ことわざ)にも頼らないように気をつけてきた。
それらは1つの説明でしかないから、その目の前にある酒の通った肉体や、透き通るような視点で見ているこの肉体のいち断片しか切り取れないのだから。
だとすれば、その肉の塊(かたまり)と付き合っても、ラブラブになっても、結婚しても、子供が出来て独立まで苦楽を共にして、老後に淋しい2人になったとしても、その一部しか切り取れないのだろうか。
ああ、そうなんだ。
ああ、そうなんだね、そういえばそうなんだよね。
ちょっと安心した。
だから君をこの居酒屋にいきなり連れてきたのかもしれないな。
こんなに静かで落ち着く、僕にとってはスペシャルな居酒屋に連れてきたのかもしれないな。
あはは、なんだか楽しいな。
「美味しいね〜」
「そう?良かったよ。この後もっとお楽しみがあるよ」
「え〜なになに?」
「気になるかな〜? アイスよりも美味しいよ」
「なるよなる。だってこのアイス美味しいもん」
注記:「カミカゼ」:カクテル名 太平洋戦争中にアメリカで生まれたカクテル。その鋭い切れ味が、神風特攻隊を連想させたそうである。レシピ「ウォッカ 45ml ライムジュース 15ml ホワイト・キュラソー 1tsp 」
まつ毛に密着して、視界を七色のレンズにしてしまう粘液
頭皮から産み出されるのに、毛髪一本一本の中にガチャガチャ入り込もうとする粘液の
やっとミニゲームに勝ったので階下の、20年も経つトイレの前の手洗い場にきても滴(したた)る粘液の性質
蛇口を思いっきりひと回しして、左手で右手からすすぎ、口に含み、うがいをするために頭部を垂直にした
途端に現れた正面の赤らびた男の顔
怒髪天を突くかのように粘液が、ピンピンのネズミ頭にしていた男の顔
何のことはない、ただの鏡だったのだ
ちょっと驚いたり、風体のことで色々浮かんだ思いは一瞬で消えて、また、スポーツマンの思考に切り替わった
ああ、この赤さならまだ充分出来るな、心拍もそれほど速くない、3分座って全身の力を抜けば、という思考に切り替わった
そのまま口腔の粘液を吐き出して、再びすすごうとかがみかけた時、右側の耳たぶ下がキラリと光った
スポーツマンのスルドさが全身を停止させたけれど、ふっと抜けたのだった
それは、頭皮から生み出された粘液の性質で涙的化した汗だった
キラリ、キラリ、と七色に光っている
涙的の後には木目の美しいドアとクリーム色の壁紙が
単調なそして無害であろうとする世界の中にあって、強烈なそして刹那的であろうとする粘液の性質
この七色の宝玉は、誰かを排除して得たものでも、誰かが作って得たものでもない、ましてや、自らの弱さや罪悪や不安を排除しようとしたものですらない
誰かに見せるためのファッションのためですらない、ここままかがんで顔を洗えば消え去っていくものだ
誰かに己を誇示するための顕示(けんじ)ですらない、汗のピアスの存在は私だけしか知らないからだ
私という個体の物質的な肉体と化学的変化によって生じた、スポーツマンの思考を停止させたのだ
汗のピアス
逢えた一瞬の煌(きらめ)き
風呂上りから十数分が経ったおでこを左ひざにそっと触れさせた。
うっすらと浮き上がる透明の脂がもう出てきていて、左右に揺らすと不思議な暖かさが脳内に広がった。
大き目の紺色の椅子に立てた左ひざは、水色パンツ一枚だったからクーラーが少し寒くて丁度良かった。
一層サラサラになった短髪を両手で撫で上げると、もっともっと頭の中が柔らかく気持ち良くなっていった。
思い出すのは君のこと
少しはにかんだ視線がとっても可愛くて思わず微笑んでしまったこと
思い出すのは君のこと
さわろうかな、でも暑い季節だからな、ってドキドキしてしまったこと
思い出すのは君だけのこと
少しの涙が嬉し涙になってくれたらなって、帰り際の暮れていく紅色を見ながら感じたこと
思い出すのは君だけのこと
ちょっとでも少しだけでもどんな仕事をどんな日常を送っているかなって、後1つ、君までの交差点で不安になったこと
すりすりすり
君にこんな風に甘えてもらえたらな
一緒の時間を過ごせるようになったらな、なんて想像して
恥ずかしくなってもっともっと、すりすりすりすりすりすり
眼を開けたら、両目を開けて頭を上げたら、君からのメールが来ているかなってドキドキ
ドキドキ ドキドキ