日曜日の午後は、いっつもカフェ巡りをしていた。
時には大阪心斎橋まで3時間、新幹線を飛ばしたり、茅ヶ崎や大磯までドライブをしていた。
ここ最近気に入っているのは、浅草のちょっと外れの静かなオープンカフェ。お洒落過ぎず、コーヒーの芳醇な香りの中にちょっとだけ人情が混ざっているようなカフェで、4時間も5時間ものんびり、天気の変化を楽しんだりしていた。
目の前に大好きな人が居るのに甘ったるい小説を1冊読みきるのは、なかなか粋な感じだったし、専門書と格闘するのもそれはそれで能率が良かったりもする。「ウサギと亀」の昔話を違うストーリにした本を3冊持ってきて読み聞かせたりも結構楽しかったりする。
ある日曜日、丁度、ティー・オーレをアールグレーで注文し終わった、すぐ後に黒髪の君は質問してきた。
「最高のロリと麗しい美女から告白されてどっちと付き合うの?」と聞かれたので、「どっちも」と答えたら、怒ってしまった。
ぷーっと豚のように広がった頬も突き出されたほんのりと紅がのった唇も、黒髪と対比してますます魅力的だった。
「だってさ、2人の人間にパンが1個あったらどうする」という有名な問題と同じじゃない?と言うと、「そんなことはないわ!」といささか逆切れぎみのトーンになっていた。
「パンを2人で半分ずつ」なんていう嘘っぱち、頭でっかちの日本人的な答えは真っ平だよね。似非(えせ)詩人な笛吹きに踊っていると弱肉強食の海の中に叩き落されるのがおちだよ。
でも、「持ってきた人だけが食べる」なんていう一神教、神様万歳のキリスト教の答えも真っ平だよね。宗教問題が何時の間にか権力闘争で決着がついたのを肯定しなければならない悲劇に叩き落されるのがおちだよ。
でも、「誰も食べない。それが布施だ」なんていう原始仏教、色即是空の唯心論の答えも真っ平だね。その奥底に隠された衝動や欲望というものを捉えきれていない甘さがあるのだから生きていることを、人生を終えるという人間を否定する悲劇に叩き落されるのがおちだよ。
君が問うてどの答えを答えても無言でも怒るように、人は矛盾しているんだよ。矛盾は環境の変化がするからであって、人間が神のように善も悪も持っているからではなく、イエスによって罪が許されたからでも、仏性を持っているからでもないんだ。そんなものは遠(とお)の昔に消え去ってしまったのだよ。矛盾が生じ、さらに抽象化によって矛盾が拡大し続けるのは環境に適応するためで、抽象化できた人間が地上の支配者になって天国を望んだのも当たり前のことなんだよ。君が私との永遠の愛を望むようにね。抽象化が環境に適応するためだから絶対的に肯定され続けてきたのは、知的活動のみが人間の最高の英知、栄誉と言われ続けてきた事でも判るよね。そして最適化した雄に最高のロリと麗しい美人が寄っていくのも永世万世変わらないんだよね。
仏教の情欲を棄てよ、コントロールせよというのもの根源的な動機と知的判断が必要なのであって、それは結局の所、抽象化の産物にしか過ぎないんだよ。
そして最高度に抽象化した原始仏教がインドで滅び、支那でも滅び、日本やチベットで本来のものから全くかけ離れたのは、さらに人間の集団性の持つ愚かな取捨選択だったんだ。
その2つの抽象化を観て、人間の集団性の持つ愚かな取捨選択の結果の一夫一妻制を観て、その上でこの目の前の糞を白い陶器のような肌、すける様な静脈、緑色に輝く黒髪、柿右衛門のような口紅を保持しようとすべきだろうか。本当にそれが必要なのだろうか。この問の意味を死ぬまで50年説き続けても決して理解できない糞袋(くそぶくろ)と一緒に。同様に理解できない人間が殆どの社会的認知を得ることが。
「伉行(こうこう)して以て俗に違(たが)わず」という古訓を話してくれた人を、古訓の由来から、けいさんと呼んだ。
けいさんは、「是なり」と答えてくれたのだった。
少し向きなおして、君の両耳を両手で塞(ふさ)ぎ、軽くキスをして、次に重くキスをした。
「結婚しよう」、トイレに一緒に行こう、とでもいうように軽く軽く微笑んだ。
注記(H18.8.28)
:「伉(こう):�‖佚�の相手 伉麗は夫婦のこと �△泙辰垢阿砲燭帖F押垢帆蠎蠅砲垢襦廚覆里如�「伉行」とは自分なりの智慧と自信で堂々と歩んむこと。
「伉行(こうこう)して以て俗に違(たが)わず」の意味は、2通り。
A)自分なりにしっかり考えて人生を渡ってきたが、人と別に違わなかった。
B)恋愛のことを色々考えてきたけれど、結果として結婚という皆と同じ結果になった。
文の前半はA)の意味が、最後はB)の意味を持っているので、その分断した2つをつなぐのがこの諺。造語。
校正(H18.10.6)
オレンジ色の間接照明も入っている午後9時過ぎのカフェは、しっとりと穏やかな空気とカフェラテの香りに包まれていた。
雰囲気に少し気を許してか、半年に気を緩めてか、今まで封印してきた話が出てしまった。
メガネを左手で外すくらい短い間だけ、表情が嫉妬(しっと)に狂った。
数年前にもなる、歌舞伎町で、お洒落なカラオケ屋で、ほんの10分ぐらいだけの逆ナンパの話をしたからだろう。
メガネをティッシュで拭(ふ)くくらい話し終わってから時間があったから。
言葉を続けた。
麗しい黒髪の、その下の美しい眉ラインの、透き通るような白肌の、その下のドロドロどす黒い粘液を清流に換えようと。
その時はクリーム色に近い金髪だったし、コンパだったからまともな服も着ていたし、今はもう着ないし、黒髪から変える気はないし、もうずいぶん年を取ったよ。それにもう君しか見ていないんだから。
だけどね、
彼女のどす黒い粘液が言わせる。
うん、分ったわ、
彼女の純白のドレスに映(は)えるもち肌が言わせる。
必死に戦っている黒髪の君がいじましいと感じる。
加齢と共に肌の色がくすんできて、粘液が段々主導権を握るのを眺めたい、と感じる。
目じりの小じわも増えるだろう、隠しようがなくなる首周りの皺(しわ)もみ続けていきたいと感じている。
「なぜ、あなたは一時的な満足感で人生という長い期間を誓い合えるのかしら、私には不思議でならないわ。どうしても。」
「そうかもしれないけれど、今を生きると言うのは、実は生きるというのはそういうものじゃない。一瞬一瞬の積み重ねでしかないんだよ。」
「私にはあなたのその自信が羨(うらや)ましいの。親と周りの人間とあなた自身が一緒と疑わない、その傲慢(ごうまん)のような自信が。本当に羨ましくてしょうがないの、だって私には持てないものですもの」
「人は人だよ。そういう風にインプットされているんだ。人類が緩やかな一夫一妻制をとるのは直立二足歩行と妊娠期間の長さなんだよ」
「その通りよ、それは解っているの。けれど、種と個の違いはあるのよ。私は私の感覚からどうしても不思議に感じてしまうし、自信が持てないのよ。」
「君の内的な感覚は感覚でしかないじゃないか。最終的な決定が内的な感覚に頼れば、一貫したものは一生得られないし、霧散してしまうだけだよ。それだけは気をつけて欲しい。」
「・・・判ったわ・・・」
「じゃあ・・・」
「ありがとう、じゃあね、体を大切にしてね」
「うん、こちらこそ。クサイけれど出会えて本当に良かったよ」
「私もよ」
思い出していた、数年前の女性を。
この目の前の肉体の塊(かたまり)は、揚々として朽ち果てていくだけの外見のメンテナンスや化粧やらに1日2時間以上もかけている。無意識に対価を要求し、外見の醜い女よりも傲慢だ。そうだまさに傲慢なのだ。
もう、治まりかけてきた。
バックやら靴やらを買い与えれば、その本能のままに気分が晴れる。だからこそ、彼女を選んだのだ。
忘れられないのかもしれない、数年前の女性を、何故なら全く正反対なのだから。
忘れてしまっているのかもしれない、数年前の女性を、何故なら全く正反対なのだから。
右唇横の小さな黒子(ほくろ)だけが、唯一の共通点だと思っている。
目の前の黒髪の君は疑わない、永劫の約束を、親を友達を
目の前の黒髪の君は見ようとしない、離婚率が最も高いと40%を超えることを
目の前の黒髪の君は考えようとしない、加齢という現象を精神的には
目の前の黒髪の君は足掻(あが)こうとはしない、自らにないと思われるものを
もう後10分で、閉店時間になるから店員が声をかけに来るだろう。
それまで、もう少し言葉を続けよう、君のその豊かな漆黒の長髪の、そのたゆたう様をを眺めながら。
今まで付き合ってきた中で最も好きなのは君だけなんだよ。
知っているだろう? もう、何度も何度も言ってきたじゃないか。
抱きしめて、そしてキスをして、頭を撫(な)でながら、見つめ合いながら
どうして好きかって?
そんなのに理由はないよ、君だけなんだよ
たとえ君の豊かな髪を切ってショートにしたって、交通事故であるけなくなったって、君の側にずーっといるよ
電車にぽこっと乗ってきたこの巨体の女性が私だったら、どういう事になるのだろうか。
体重はゆうに70キロを超えウエストも1m、バストも1m、身長はサンダル5センチを入れて165センチオーバー。
ひざ上の3センチ間隔の折り目のついたスカートから見えている太ももを下っていくと、木目のサンダルが目に入ってきた。
木目のサンダルと少しばかり薄い茶色の肌との間に、象の皮膚のようにカサカサに白くすれた肉がサンダルからはみ出していた。
現在の私の考え方と変わるのだろうか。
彼女と心だけが入れ替わったとして。服装や嗜好や目標は変わるのだろうか。
単純にいってダイエットはするのだろうか、成功するのだろうか。
私が現在のような肉体を手に入れたのは、私自身の個性ではなく、いや個性と言われるそのものが、実は内在的な衝動の構成によるものではないのだろうか、と巨体の女性を見て、ふっと感じた。
巨体が一駅で電車を降りていった。
私も一駅ならば、少々空いた席に座らない。
替わりに乗ってきた女性は、みんなの視線を集めた。
白く品の良いテーラードスーツに真珠のネックレスをつけた女性は、衣装の白さがさらにその女性の肌の美しさを際立たせているからなのだろう。
目の前に座り、目じりの小じわに、ふっと腐りかけた甘い匂いを出す食虫植物を連想した。近づかないと判らない狂気と奥行きの深さに。
食虫植物の女性なら、どういう事になるのだろうか。
与えられた肉体に男が寄り添い栄養を与えてきただけのことなのだから。
彼女なら、彼女らなら、私自身なら。
追伸:原題は「巨体と食虫植物」です
好きな人が出来ると、頭の中がグルグル、ぐるぐる
その人の渦で私の理性も日常もぐるぐる、あり地獄の中に
ぽあぽあ、と恋がしたい恋がしたい
ぐるぐる、と恋をした恋をしたした
あり地獄におちたのは誰だったかな?
あり地獄に落としたのは私だったかな?
誰だろう?私だろう?
ぽあぽあ、ぐるぐる、恋がしたい恋がしたい
君が僕を救ってくれるというのに、世界が自分を助けてくれるというのに、両親が私を産んでくれたというのに、遺伝が己を確実に滅ぼすというのに
この肉体の塊は何も、何1つ返す事は出来ない
返す、という道徳的観念の総体を捨てきったとしても、物質的な事実は変えることが出来ない
いっそ逃げ出せば、無言へ思考停止へ排一神へ空へ仏陀へ阿弥陀へ神の国などの観念の悦楽へと
ああ、もう眠たくて眼が開けられない
ああ、もう疲れてしまって体がまっすぐしない
ああ、もうもう
泣き言だ、皮肉的発言だ、根本的な死からの逃避だ
ああ、もうもう
セカイハウツクシイ カンシャモカンタンモカンゲキモカンネンモシナイデココニイル
追記:原題は「青丹の空に」です
いっそのこと水商売をしてしまおうかしら、と聞いたのは俯(うつむ)きながらだった。
2秒も経たない内に、そうだねそれがいいんじゃない、と続けて答えたんだった。
酷(ひど)い人ね、私にあんな商売をさせたいの? 20を過ぎればもうおばさん、25歳でもう誰もちやほやしてくれなくなるというのが水商売なのに、そんな酷い、もう私のこと嫌いになったわけ?
とまくし立てられた。
2人で初めてきた北イタリアの、海岸の砂粒ほどいる白人ばかりの避暑地の、純白の海岸で、黒いウェイターにお気に入りのカクテルを運ばせている時だった。
退屈しのぎの、何気ない一言が、何気なく広がっていってしまった。
この後、私たちは気まずくなって、つまり、混沌しだして、後に爆発が来て、そして収束へ向かうんだろうな、ってキラキラと光る砂浜と深く青い宝石のような海を眺めた。
仲直りの言葉は、大好きだよ
仲直りの行動は、婚前交渉だよ
仲直りの決定打は、イタリアの海の色の宝石、って所だよ
白人が羨(うらや)んで仕方がない豊かな黒髪とNBAのチアガールのような最高級のプロポーション
もう黒髪の君は20歳を過ぎてしまったのだし、生涯獲得金銭を考えれば水商売よりも資産家や将来有望な青年やスポーツ選手なんかを手に入れた方が良いなんてことははっきり分っているくせにね。
いや、水商売なんて止めな、と反対の言葉を出しても、
なんで? 私の肉体からしたらもったいないと思わない? とっても努力しているの知らない訳ないでしょ? 貴方が。
なんて言いながらその対価として、イタリアの海の色の宝石を強請(ねだ)るんだから
ああ、友よ、心の友よ
「女性だろうが男性だろうが、相手の欲求に正直な人ほど対応が分りやすい人はいないんだから、人の上に立つあなたはまずその人を救ってあげる気持ちで合わせてあげればいいんだよ」
と言って去った友よ
これから先はどうしたらいいのだろうか
私には目的があった、金と女と権力だ。どれもが程々に手に入れてしまった
上を、もっと上を目指すべきだろうか、ここらで落ち着くべきだろうか、それとも落としていって、最後には棄てる方が私には合っているのだろうか
ああ、友よ、心の友よ。
どうか教えて欲しい どうかどうか教えて欲しいんだ。
欲求、衝動、不安、学歴、疑心、過信、金銭、容姿、家族、信頼、正義、法律のどれでもいい1つに捉われている人間は簡単だ。
何も考えていない行動基準を自立できない人間なんて犬猫のペットのようなもんだ。
もう、いいんだよ。
世の中の仕組みも見えたし、権力の因果も功罪も、金銭の魔力もパワーも分ったよ。
もう、あの20歳の頃の大志を輝かせるものではなくなったんだよ
ああ、友よ、心の友よ
私はこれからどうしたらいいのだろうか
この横の正直すぎる人間とは、帰って待っている金銭と権力のシステムにはどうしたら良いのだろうか
上手くやっていけるだろうし、上手くやっていくだけの覚悟も決意も功利性も経験も持ち合わせている
イタリアの太陽のように焼け付く日差しのような大志の輝きを遮(さえぎ)るパラソルのような諺(ことわざ)も数多くしているよ
「それが人生だろ」、「清濁併せ呑(の)むのが大人だ」、「周りを大切にすることは自分を大切にすることなんだ」、「力強い正義だけが人生に安寧をもたらすもの」、「悩み続ける事が人間だ」、「周りの中で生かされている」、「働けるだけでも有難い」てな具合に
納得させるテクニックも、そして実際の鼓舞や行動も、イメージトレーニングすらもやってきた
ああ、友よ、心の友よ
どこにいるのだろうか どこへ行ってしまったのだろうか
近代欧州の合理性を支えてきた北イタリアの街並みや絵画などの文化の刺激が強すぎたのかな
今でもお茶漬けのようであって欲しい
そうだ、秘書に探させて一緒にお茶漬けを食べよう そうだそうだ
そうか、ならば、宝石はやっぱりトルコ石よりもサファイアにしよう
飛び切り深い青色の、イタリアの海を、最初の旅行を忘れないための記念として
さてと、そろそろスィートルームに戻るとしよう
(校正H18.6.14)
新緑の木立(こだち)の間を抜けると、緑の絨毯(じゅうたん)の上を風が吹いていました。
あと、半分で家まで帰れる、と思ったのでした。
街まで急用で行ったので、帰ったら鳥を一羽潰(つぶ)してご馳走を作ろうと胸をワクワクさせています。
テクテクという足音は、貰ったお金が多かったので、家族も喜ばせてあげよう買った女性物の上着と子供のオモチャが、はやくはやく、と囁(ささや)いているようです。
川幅2メートルでゴツゴツの岩ばっかりで普段は水がちょろちょろとしか流れていないアーチ型の石橋まで近づいてきました。
その橋の上になにやら人が居るようです。
女性がいるようです。
ここ10年は山賊が退治されたので、この橋は安心して渡れるようになったのですが、昔は父親に連れられて街に行く時はよく迂回したものでした。
まあ、女性一人だからと近づいていきました。
もう、女性の髪留めが赤色かな、と分り出す頃、真剣な顔で川面を眺めているのが分りました。
それでも、どこか気(け)だるい感じが全身に残っていて、さっと女性は村で生活していないのも伝わってきました。
村の女性は、ボコボコとしていてガハハと笑いながら、キツイ農作業も大変な子育てにも動じない強さがあるからです。
橋の手前から砂利の坂になっていて、ザッザッという音をさせると、その人は、はっ、とこちらを一瞬見て、そして恥ずかしがるようにまた、水面の方を眺めました。
「こんにちわ、いい天気ですね」と声をかけました。
「ええ、そうですね」と水面を眺めたままでした。
「どうかしたのですか?」と続けると
「・・・はい。もう生きているのが嫌になったのです」と答えました。
「・・・それは、どうも・・・」 答えに詰まりました。
「だから、いっそのこと、4mくらいですが、ここから身を投げるか、山の方へいって動物に食べられるか、と思い悩んでいたんです」と急にこちらを向き直しました。
それから話を聞くと、旦那さんが賭け事で大きな借金をして、それを取り返すために出かけたのですが、一向に帰ってこなくて娼婦になったそうです。けれど、借金は増えていくばかりだし、何度もおろしているし、旦那が帰ってきても合わす顔もなく、子供も産めなく、年老いてお客もつかなくなってきた、という事でした。
私は彼女に何と声を掛けてあげたら良いのでしょう。
あるいは、彼女を放っておけばいいのでしょうか。街には何十人という乞食(こじき)がいました。家族全員で物乞いや盗みをしていたり、しょうがなく山賊になる若者もいました。それが当たり前なのです。人間は数千年間ずーっとそうやって暮らしてきた、と街の先生が言っていました。だから、来世では食べ物に困らない、美人や美少年のいる、お酒も飲み放題の天国に行こう、と奨められたりもしています。
私は彼女に何と声を掛けてあげたら良いのでしょう。
このまま彼女を連れて帰れば、借金取りが村まで探しにくるかもしれません。彼女はもしかしたら山賊の手先かもしれません。
そんな気持ちが伝わったのか、彼女はふっと振り向いて橋の膝までしかない両壁から飛び込もうとしました。
とっさに両手で彼女の両方の二の腕を掴(つか)みました。
そして自然と迷いが消えて言葉が出てきました。
「私だってあの緑の丘を越えたら、山賊が出てきて殺されるかもしれない。家に帰れば大好きな妻や子供が不慮の事故でなくなっているかもしれない。けれども私は家に帰るよ。あの丘を越えていこうと思っている。この橋から見えているあの木立から緑の丘までの世界が、全てじゃない事が分っているから。だから、貴方も今見えている世界以外の世界を見てくださいな。あの緑の丘を一緒に越えていきましょう。苦しい事が待っているかも知れないけれど、嬉しい事も待っているかもしれないから」
と声を掛けたのでした。
その女の人は、ワーッと泣き出して、数分間泣いていました。
そしてしゃくりあげるようになった頃、私は独りで歩き出しました。
10歩ほど数えながら歩き、振り替えしました。
なんともなんとも、喜怒哀楽、どれにも入らない表情で彼女はこちらを見ていました。
そうそう、暴力の酷(ひど)く農作業もしない夫がやっと酒の飲みすぎで死んだ質素なお葬式で、50歳を過ぎる奥さんが同じような表情をしていました。
「さあ、こないの? それともそこにいる?」と声を投げかけました。
「はい。」と自分自身に言い聞かせるように彼女はこちらへ向かってきました。
もうすっかり感動も無くなってきた口寄せも、長い黒髪の簾(すだれ)から離れるのは名残惜しく感じる
さらさらと両耳を撫(な)でながら、ほわん、ほわん、とした香気を振りまいてくれるからだ
君の瞳は相変わらず奇麗な二重で麗しいほどの真っ赤でプルプルのくちびる
ちらりと視線を外さないようにしているのは、きっと君が悲しんで後々にもっともっと厄介なヒステリーが爆発するから
周りの友人、親類、家族、赤の他人までが君の事を外見も内面も誉めそやす
時には羨(うらや)ましそうな、嫉妬たらたらな視線まで受けるし、それも心地よかったりもした
私も熱中していたのだし、実際相当の努力も払ってきたのだし、これからも払っていくだろう
周りの友人、親類、家族、赤の他人までが外見も内面も貶(けな)しつくされた人と一緒の時もあった
時には嘲(あざけ)りや生涯唯一のお願いだから別れろという忠告まで受けたし、それも心地悪かったりもした
私は熱中していたのだし、実際相当の努力も払っていたのだし、全てが消えうせていったのだし
もう、腰まである黒髪がサラサラと遠ざかっていって、振り返りこっそりとため息をつく
絶世の美女なら稀代の悪女なら、西施なら呂太后なら、違うものを見せてくれるのではないかって
行く果て果てまでも人との関係の中にあって、私なんて何処にもないじゃないかって、君なんて何処にもいないじゃないかって言葉を隠してため息をついた
定め、さだめと、さだめを受け入れろ、と囁(ささや)いた老人がいたっけな
夕暮れ一面に広がる広がっていくだけの赤い地平線、海の上にオレンジの鱗(うろこ)がキラキラと遊んでいる
定め、などと物知り顔で偉そうに振舞って、身の回りに飛んでいる美女や醜女(しこめ)に捉われているがいいさ
もう、後3分もしない中に甘い囁(ささ)きが後頭部から聞こえてくるだろう
私は、その物質との関係を否定するのではなく、私は、その精神との関係を否定するのではなく、私は、その関係の中でしか存在しない私を否定できないでいるだけ
日が翳(かげ)っていくごとに、キラキラと光る鱗は少なくなっていく
鱗は想像上の龍鱗でもなく、実体もなく、全ての自然界の偶然の調和によって産み出されているものなのが、少しだけ心を癒してくれる
同時に、私を心をさび付いた斧で何度も切りつけ続けてきた
そこへ蟻も食べない白砂糖で出来た和菓子の餡(あん)のような甘く切ない彼女の言葉が塗り込め続けられてきた
もう、日が消えかかって
もう、いや、もうやっと、と思ったら
後から君の両手が私の両目をさえぎったのだった
(加筆・校正H8.6.8)
紺碧(このぺき)の床まであるカーテンを、ザッと引くと暗闇も見えなくなった。
背もたれのある椅子を引くと、グゥゲゲと濃い緑色の座席が表われてきた。
チョンと腰掛けてからティッシュを1枚引くと、ブブブブガァと大きな音を立てて雑音まで捨て去った。
パパッと視線と上げて気持ちをズズッと引きこむと、満天の星空よりも広いガラーンとした大聖堂の天上からポトリポトリと落ちてくる。
胸の奥で滴を何とか引き受けて吐き出すように、何度も書きだしてきた。