きよこの日記

2005年06月27日(月) エーリッヒ=ケストナー『飛ぶ教室』

ごめんなさい。私はやっぱりカタカナの名前が苦手です。
読み終えるまで誰が誰やらこんがらがったままで、キャラひとつも際立たず、作品としてのよさもいまいち感じ取ることできずでした。

ドイツの寄宿男子学校の男の子達と先生の心温まる交流の話です。

でも、学校のお話しってやっぱり抵抗があってだめだあ。
心温まるいいお話なんだけど、「古きよき時代の学校」って感じで、現実の学校生活とものすごく距離を感じてしまった。
私が教師をしていて、朝読書の10分間に教室で読んだりするからいけないんだな。
中学生くらいの、とくに男の子に読んでもらうとうんといいだろうな。

「ボクサーの言葉を借りれば、防御をかたくしなければいけません。ぶんなぐられてもそれにたえ、それをがまんすることを学ぶのです。でないと、みなさんは人生のくらわす最初の一撃で、もうグロッキーになってしまいます。なにしろ、人生というやつは、ものすごくでかいグローブをはめていますからね。みなさん、それにたいする覚悟なしに、そういう一発をくらうと、後はもう、ちっぽけなはえのせきばらい一つで十分、それだけでもう、うつぶせにのびてしまいます。
 だからいうのです。へこたれるな、不死身になれ、と。わかりましたね。いちばんかんじんなこのことさえわきまえていれば、勝負はもう半分きまったようなものです。なぜなら、そういう人は、ちょっとぶらいパンチをくらったところで、おちついたもので、いちばんかんじんなあの二つの性質、つまり勇気とかしこさをしめすことができるからです。わたしがつぎにいうことを、みなさんは、よくよくおぼえておいてください。かしこさをともなわない勇気はらんぼうであり、勇気をともなわないかしこさなどはくそにもなりません!世界の歴史には、おろかな連中が勇気をもち、かしこい人たちが臆病だったような時代がいくらもあります。これは、正しいことではありませんでした。勇気のある人たちがかしこく、かしこい人たちが勇気をもったときにはじめて――いままでしばしばまちがって考えられてきましたが――人類の進歩というものが認められるようになるでしょう。」



2005年06月25日(土) 瀬尾まいこ『優しい音楽』

うまいたとえかどうかはわかんないけど、読んでいてマジパンでできたケーキの上の飾りみたいだなどと思いました。
マジパンでできたクリスマスケーキのサンタや煙突つきの家はとても愛らしくおいしそう。みんなほしくて争奪戦になるけど、食べてみたらスカスカざらざらした歯ざわりと、変に甘ったるい味がする。

やさしく甘い文体で、さらりと読ませるけど・・・。



2005年06月22日(水) 三島由紀夫『新恋愛講座 三島由紀夫のエッセイ2』

「また、読んじゃったよう」です。
好きだけど、私がなかなか三島由紀夫の本に手をつけないのは、限りある三島作品を読みつくしてしまう瞬間が来ることをすごくおそれているからです。

三島文学の集大成、豊饒の海4部作はもちろん、最後のとっておきのお楽しみです。
もちろん、三島氏は多作ですから、まだまだ読んでいない本、文章はたくさんあるのですが、それでも、年々既読の本が増えていき、終わりに近づいていくのは切ないです。

さて、恋愛についても一過言あります。三島由紀夫。
「恋愛学というものがあるとすれば日本人は、別れのさびしさをたくさんの歌に歌っていることで、恋愛学の大家ということができましょう。しかしだんだん西洋風な考えが入ってくると、恋愛というものをコンクリート建築や石造建築と思う人たちが多くなりまして、ことに女性は、台風があっても自信があっても、崩れないような建築の恋愛を望みます。それで男のほうも、ますます別れが難しくなってくるのであります。この建築のたとえがうまく言いあらわしているように、別れのむずかしさは、愛情の力よりも、習慣の力なのであります。」

そして、同時収録「終わりの美学」から、「学校の終わり」

「学校ではこのような、完全な羞恥心の欠如が許される。それが学校の精神病院である所以である。私は今でもはずかしく思うが,学生時代,専門外の仏文研究室へ飛びこんで
「先生、僕はゴーチェみたいのが好きなんです」
 などと、ゴーティエというべき発音を、ゴーチェ、ゴーチェと、ごっちゃごちゃに発音しながら、得意げに宣言しましたが、そのじつ私はゴーティエなんか、一度も読んだことがなかったのでした。
 それに対して仏文の先生は、まともに学問的な答えをして、
「あれはロマン派と自然主義の中間に出た作家だから不鮮明で、無視されがちで」
 などと、丹念に答えてくれましたが、どうして大学の中では頭の変な学生に対して、まともに答えなければならぬという社会的義務があるのでしょう。
 頭のヘンな若い連中の相手をしているのが好きな人たちだけが、先生という職業を選ぶのではないでしょうか?
 さて、問題は、この「学校のおわり」です。学校のおわりは卒業式ということになっている。しかし、それで本当に卒業した人が何人いるでしょうか?
 本当の卒業とは、
「学校時代の私は頭がヘンだったんだ」
 と気がつくことです。学校を出て十年たって、その間、テレビと週刊誌しか見たことがないのに、
「大学を出たから私はインテリだ」
 と、いまだに思っている人は、いまだに頭がヘンなのであり、したがって彼または彼女にとって、学校は一向に終わっていないのだ、というほかはありません。」

すごいでしょ?
もはや痛快です。ばっさばっさと一刀両断です。
そして、本質的にすごく鋭いからニヤリとしてしまう。



2005年06月14日(火) 村山由佳『星々の舟』

村山由佳というと『おいしいコーヒーの飲み方シリーズ』しか読んだことがなくって、その純情青春ラブストーリーっぷりにあてられ、少々辟易していたものですから、この本を半ば無理やりにある先生に手渡された瞬間は「気が重いなあ」と思ったのですが、うれしい予想外。
彼女はやります。
面白くってひきこまれて一気に読んでしまった。

『おいしいコーヒー』シリーズでは鼻について仕方なかった文体は、とても自然で流れるような文体になっていました。

この本は一つの家族のそれぞれの視点を借りた短編集です。
一つ一つの短編がそれだけでしっかりとした色をもって完成している上に、連続して読むとさらに奥行きと厚みが増すという、なかなか憎い演出です。

「正直なとこ、ききたいのはこっちだよ」
「え?」
「どうしてきみは、いつもそう優しい?どうして俺に何も要求しようとしないんだ?」
美希は、きょとんとなった。何を言っているのかわからない。
「要求って?」
「是までオレは、きみに引けめを感じたことはなかった」と、ひどく低い声で相原は言った。
「お互い承知でこうなったんだし、君が今だに一人でいるのは君自身の選択であって、別に俺が申し訳なく思うことじゃないはずだってね」
 美希は、肩をすくめた。「そのとおりじゃない?」
「でも、今・・・・・・どうして優しくするのかって訊かれて、初めて気がついた。俺はたぶん、きみが何ひとつ要求しようとしないのが怖いんだ」
「怖い?」
 思わず訊き返すと、相原の目の中をわずかに狼狽のようなものがよぎった。
「というか、落ち着かないんだ」
と言い直す。
<怖い>と<落ち着かない>はずいぶんちがうじゃないかと思ったが、美希は気づかないふりをした。男の言葉尻をつかまえて追いつめるとろくなことにならない。
「そりゃ、俺のほうはいいとこどりだからさ」と、相原は苦笑混じりに言った。「きみと会った日は、元気が出る。女房にも子どもにも、いつもより優しくなれる。けど、その間きみは一人きりだ。なのに恨みごとひとつ言うでもなけりゃわがまま言うでもない。それで時々、その、不安になる」
 店員が水を注ぎにきた。
 美希は、冷めかけたコーヒーをゆっくりと飲んだ。
 恨みごとを、言ってもいいとは知らなかった。優しい声で残酷なことを言う男だ。


まあ、私はこういう恋愛描写にうんうんとうなったわけですが、この本を貸してくれた先生が私に読ませたかったのは、最後に納められた「名の木散る」なんだろうなあ。

その先生は私があまりにも平和教育についてのんきな考えをしているのを遺憾に思っておられて、常々新聞記事を切り取って回してくれたり、私に啓蒙教育を試みておられるのです。
私としては、そういうのってありがたいとは思いながらも、身に迫るものがないためちょっとうるさく思っていました。

でも、選書眼は確かでした。
「名の木散る」は、なぜ戦争を伝えなきゃいけないか、なぜ戦争は起こされるのかについてしっかりと伝え、考えさせてくれました。
今、日本が戦争ができる国になりつつあるという事実も、私にはだんだん理解できるようになってきました。
くやしいけれど、私があまりにも浅はかで、無知だったということです。

さて、戦争を憎む心を子供たちにどうやって伝えればいいんだろう?
不十分な平和教育が私の浅はかさを生み出したのだとしたら、私が受けた教育を繰り返すだけではだめでしょう。
どうすればいいんだろう?


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