「先生、今日誕生日じゃない?」1年生のあるクラス、授業が終わって、にこにこ顔で女の子がやって来て言った。 ?顔の私。 「どうして私の誕生日知っているの?」 「この前のバースデーチェーンで・・・・」 「あ、そっかあ。それで、覚えててくれたんだあ。」 「うん。誕生日おめでとう!!」
道徳の授業で、やったバースデーチェーンというゲーム。 一言も話さずに(ジェスチャーなどを駆使して)誕生日が4月1日の人から順で並んで輪になるというゲームなのですが、私もその列に参加したのです。
そして、ちゃんと順番通りにならべたか種明かしで自分の誕生日を言っていったのですが、でも、たったそれだけのことで、私の誕生日を覚えていてくれたなんて、すごい!
午後、カトリーナが私のところにハッピーバースデー、と言ってきてくれた。 例のクラスで英語の授業のときに、生徒が今日は私の誕生日だと教えてくれたんだそうだ。
自分自身だって毎日の慌ただしさの中で誕生日なんて忘れかけてすごすところだったのを、思いがけず周りの人々に祝福してもらい、私は幸せものだなあ、と思います。 どうして、こんなにやさしい人々に囲まれながら、私は小さなことにくよくよして不幸の要素を探してしまうんだろうね。 私を大事に思ってくれる人々に幸せを返してあげられるように、私はいつも笑っていたいな。
2004年06月28日(月) |
私のアイデンティティ |
期末テストです。 テスト監督は私のぼんやりタイムです。
世の中には常に活動していたい、しゃべっていないと窒息しそう!という人もいるようですが、私はどちらかというと、じっとしていることのほうが好き。
ぼーっとしていていい、と言われたらどれだけでもぼーっとしていられるかもしれない。
でも、1年生の数学の試験監督をしていて、ちらりと問題を見てみたら、ちょっとおもしろそうだったので、ためしにやってみました。 せっかくやってみたので、放課後数学の先生に採点してもらったら、95点。
「かしこーい。」といわれ、2年生のテストもやってみる。 94点。 そのテストを作った先生が自分で解いてみたら74点だったというから、またちょっとうれしくなる。
「3年生のもやってみますか?」という誘惑に負け、国語のテストの採点をほっぽりだしてチャレンジ。
「勝負しよう!じゃあ、負けたほうが本を一冊買うってことで」という、理科の先生の挑戦をうけてたつ。
順調に解きすすめていったのだけど、”袋の中に赤い玉が3個と、白い玉が4個入っています”の問題にみごとにやられました。
結局85点対92点で、本を買うことになりました。
楽しく遊んで日が暮れて、私はちょっと寂しくなる。
テストの成績がいいということが私のアイデンティティだった子どもの頃の私の面影に気がついて。
テストの成績にはたいした価値はない,他にもっと重要なことがあるとわかったはずの私なのに、それでもテストで問題が正しく解けるということが私のアイデンティティなのだ。
卓球の試合のとき、セット間には選手にアドバイスをすることが許されています。 ほんの1分程度。 その時間、選手は試合の緊張やら興奮で冷静に考えられるような状態でないことが多いから、私は技術的なことはほとんど言いません。 それよりも、前向きにのびのびと試合ができるような一言を心がけます。
いい状態で試合に臨むためのとっておきの一言があります。
「どんなに点差が離れても、次のセットはジュースになるから、点数は気にせずに自分のいい卓球をすることだけ考えるんだよ」
最終セット前のアドバイスです。 実力が伯仲していて、シーソーゲームが予想されるときに言います。
今日もこのアドバイスを生徒に言いました。
相手は中部地区新人戦1位のチームのレギュラーで、確実に格上ですが、大健闘で迎えた5セット目、凡ミスはなかったけれど、気がつくと6−10のマッチポイントを迎えていました。
応援する誰もが「ここまでか・・・」と思ったのですが、そこから彼女は淡々と得点を重ね、そこから1点も取らせずジュースに持ち込み、12-10で勝ったのです!
対戦相手と挨拶をしベンチに戻ってくる彼女の顔は「自分でも信じられない・・・」と言っています。
「ほらね、私の予想は当たるんだよ」
2004年06月24日(木) |
)ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』千野栄一訳 |
AETのカトリーナは授業のないときは、たいてい職員室で本を読んでいます。 いつも違う彼女の本が私はとっても気になるのです。 私はカトリーナのように自然に、身近に本を携えている人を知りません。
あ、あえて言えば、中沢先生か・・・。
この『存在の耐えられない軽さ』も、題名だけは知っていたのですが、カトリーナが読んでいるのを見て、まねっこして読んでみたのです。
超知的な小説で、私は正直よくわからないです。
だけど、愛ということを深く深く探り、観察し、考察していくとこういうことがいえるのかもしれないなあ、と、思いました。 私にはまだうっすら垣間見るという程度で、共感とかには程遠いです。
「人生のドラマというものはいつも重さというメタファーで表現できる。 われわれはある人間が重荷を負わされたという。 その人間はその重荷に耐えられるか、それとも耐えられずにその下敷きになるか、それと争い、敗けるか勝つかする。 しかしいったい何がサビナに起こったのであろうか?何も。 一人の男と別れたかったから捨てた。 それでつけまわされた?復習された? いや。彼女のドラマは重さのドラマではなく、軽さのであった。 サビナに落ちてきたのは重荷ではなく、存在の耐えられない軽さであった。」
「テレザはぺトシーンの丘の道を降りた。彼女の心の中には、彼女を撃とうとして撃たなかったあの男への思いが残った。 その男に憧れた。 誰かが彼女を助けなければならない! トマーシュは助けはしない。 トマーシュは彼女を死へと送る。 テレザを助けるのは誰か他の男でなければならない。」
背に腹はかえられない、と一念発起。 「ADSLの調子が悪くって、ずっとネットに接続できないんですが、ちょっと見てもらえないですか?」 とてもうれしそうな顔で、調子を見てくれることを約束してくれたS先生。
複雑な気分。
S先生はどうやら私に好意を抱いているらしい。 はっきりそういわれたわけではないけれど、なんとなく、そんな感じです。 その好意をありがたく受け入れられる自分であれば話は簡単なのになあ、と思います。
そうは思っても、私は自分が好きだと思えない人とうまくはやれないのです。 S先生に限らず、私は不特定多数の誰かにはよく好意をもたれます。
私にとって、特別になり得ない不特定多数の誰か。 だけど、私は自分にとって特別だと思える人には好きになってもらえない。 これはまがうことなく不幸なことだと思います。
多くの人の好意が寄せられたとしても、それが私を特別幸せにしたりすることはないでしょう。
朝から左耳がつまっていてよく聞こえないのです。
確か、1週間前もこんな日が一日あったのですが、翌日には直っていたので気にしませんでした。
でも、また同じ症状。 ちょっと不安になって耳鼻科に行ってみました。
突発性難聴ですって。 睡眠不足やストレスが原因ですって。 ふーむ思い当たるふしあり。
処方箋をもって薬局へ行って薬をもらいました。 メチコバールとアデホスコーワを処方してもらったのですが、アデホスコーワってATPなんですって。
えーてぃーぴーって、たしか、生物の時間にならった、光合成や呼吸でつくられるエネルギーそのものってやつ?
ええーー。 なんか、それって、すごいなあ。 万能薬っぽいじゃないですか。
でも、エネルギーって私のイメージでは、すごく観念っぽくって、それが、目に見える物質として存在するってすごく不思議な感じです。
お薬として服用できちゃうなんてさらにびっくり。
中3の授業でこのところ助動詞をやっています。 助動詞の授業は「私はもてる」と黒板に書くことから始まります。
「ええーー。もてないでしょう。」
私はもてない。と書く。 私はもてないらしい。 私はもてないようだ。 私はもてた。
助動詞が日本語の文末決定性に大きな影響力を持つことをやらんとしているわけです。
私は女だ。 俺は男だ。 俺はおかまだ。
「どうやら、“だ”っていうのは、言い切る、断言するっていう意味を持っているようだねえ。じゃあこれはどう?」
私はもてるだ。
どっ。「松本弁だー。」
「“私はもてるんだ”ならいいんじゃない?」
なるほど。“ん”とか、“の”が入ると言えそうだねえ。 でも、言い切るときには“だ”をつけるっていうことならば、“私はもてるだ”っていう松本弁のほうが規則性にのっとっているよねー。 共通語が失ってしまった規則性を松本弁がまだ保っているのかもしれないよ。
今夜、雨が降りそうだ。 今夜、雨が降るそうだ。 「この二つの文はどう違うでしょう?」 「・・・・・」
きよこ先生はもてそうだ。 きよこ先生はもてるそうだ。 「では、この二つの文は?」 「えーと、上のほうは見た目、って感じ。」「下の方はうわさ、みたいな感じ」
ご名答!!
「先生、コーキー先生とつきあってるの?」 「いつ結婚するの?」 「昨日はデート?」
生徒ってうわさが大好き。 この手の質問は去年からなので、もう慣れっこなのです。
「さあ、どうかなあー」 なんて、適当にはぐらかしてとりあわなかったら、ずいぶん下火になってきたのですが、新年度になって、うわさが再燃してきました。
それも、去年とは違う生徒から言われる。
なんだろうなあ?と思っていたら、なんのことはない。
コーキー先生が授業で私をネタに話をするんだそうだ。 なんだい。 こちとらいいめいわくでい。
初任者研修に一緒にいっただけでデートにされちゃたまらんわい。
目には目を、というわけで、私も授業でうわさを流してやる。
「でもさ、コーキー先生には竹川先生がいるからさ、私なんて相手にしてくれないよ」
「ええーー!!そうだったのーー!」
生徒の間ではコーキー先生と竹川先生と私の三角関係愛憎ドラマが勝手に始まっちゃいました。
昨日の夜は地区大会の打ち上げでした。 学校の飲み会のすべてがこういうわけではないのですが、またしてもひと騒動。 今度は私じゃないですよ。 講師のA先生がよっぱらって、他の講師のB先生にからんでいったんです。
B先生はとてもやさしくて人気のある男の講師の先生です。 ただ、文学部を出たてなので、授業がなかなかうまくいかないらしくって、最近悩んでいるなあ、という感じはしていました。
そのB先生にA先生が「そんなんでいいのかよ!」と、かなり語気荒くつめよったのです。 B先生はA先生にそんなふうに言われなくっても、はなから自分はまだまだだって自覚しているし、どうにかしようともがいてるんだから、と、
私は間に入って、すったもんだしていたのですが、ふと、ふりかえってみると、B先生、正座して小さくなってうつむいて涙を流しているじゃないですか・・・。
もーーーーーーーーー!!
私は「だいじょうぶだよーー」ってすんでのところで抱きしめてしまうところでした。
あぶないあぶない。 セクハラ告発されるところですよ。
授業がうまくいかないB先生のつらさって、私もよーくわかる。 でも、授業をするのは結局自分だから、自分なりに考えながら試行錯誤してやっていくしかないんだよね。
今日の涙はきっとむだにはならないよ。 悩んで考えることが一番成長につながるはず。
なにかが存在しないということは、そこに存在するときとの比較で実感されるんですね。
いつもないのであれば、それが当たり前の状態で存在していないのだと気づくこともないのです。
今日はとってもたくさん笑った幸せな一日でした。
あの人とおしゃべりをしていると、私は楽しくて声を立てて笑ってしまいます。 ほほがゆるんでしまいます。 笑いがこみ上げてきて思うように落ち着いてしゃべれないほどです。 “箸が転んでもおかしい”状態。
こんなふうに笑うのいつぶりだろう・・・。
学校での私、こんなに笑っているかなあ? 生徒の前でもこうやって笑ってあげられているかなあ?全然だなあ。 授業は仕方ないとしても休み時間に話すときに、これだけ楽しんで会話しているかなあ?
私、人より感情の浮き沈みが少ないほうだと思ってはいたけれど、こんな風にくったくなく笑えるんだあ。
三角関係とか四画関係とか入り乱れる職員室ですが、私の暗躍の甲斐あって、桃ちゃん、寺島先生と付き合うことになりました! 寺島先生のほうから好きだっていってきました。
うわあ、こんなに世の中うまくいくことってあるんだねえ。 目の当たりにしてびっくり。 お互いに好きって思っていて、お互いにいつ言おうかってタイミングはかってたなんて。
本当の両想いだね♪
もちろん生徒や他の先生にはナイショです。 大変な騒動になっちゃう。
でも、私は二人をくっつけるという任務が終わっちゃったから、ものすごく暇になってしまった。 桃ちゃんを誘ってご飯食べに行くなんて無粋なことできないし。 祭りの後のさびしさだわ。
教えることの限界、それは、教える>教えられるということです。 教えられる側がえるものは、教えたことをこえることがないのです。 そういう風に考えていくと、人類の知的財産は消費されるばかりで、先細りの未来があるばかりです。
しかし、教える、に対立する存在として、「教えられる」ではなく「学ぶ」があれば、教える<学ぶという関係も大いに成り立つと思います。
私は生徒が学べる授業をしているかなあ? ということを昨年度の反省としてずっと持っていました。
かっちりと学習課題を決めて、手順を踏んで、すっきりまとまる授業、そういうのはうまくできるようになりました。
でも、そういう授業は生徒にとっては教えられてはいるけど、面白がって、もっとやりたい!知りたい!みたいな感じにはなっていないんじゃないかなあ、と。
そんなわけで、今年度の私の目標は「意味のないことに意味を見出す」と決めてやってみています。
「授業一時間の中で身につける力」なんて、ねらいません。 50分なんて小さな単位ではわからないことをやりたい。 そのときちょっと心に残っていて、10年後にふっと思い出してわかるようなこともあるかもしれない。
「追求の活動」なんて最小限です。 「生徒の興味関心」にすりよったりもしません。自分の好きな小さな世界の話よりも、自分がまだ知らないすごい世界がものすごくあるんだ、という発見のほうがスペクタクル。
具体的にどうするかというと、まず、私が話しをする。 とくに道徳的でも、教訓的でも、教育的でもない話。 どんな本を読んだ、とか、どんなことがあった、とか。
それについて考えを述べさせたりもしません。
ただ、体を向けて話を聞かせる。 そして,一人一人私の話について心の中ではいろんなことを考えます。
これは手抜きっぽいんですが,実は自分への挑戦でもあるんです。 しーんとさせて,自分が話をする一人語りってにがてなんです。
聞くことを強いるからには、興味深い話にしたい、と思うし、プリント用意して授業組み立てたほうが教科書進めるし。
でも、私も生徒もけっこう楽しい実感はあります。 この前意外と好評だったのは「教師をバカにすべし」の話と、旧約聖書のアダムとイブの話。
2004年06月09日(水) |
報道における偏愛と排他 |
窪塚洋介が飛び降り自殺をはかった。 一命を取り留めてまずは安堵。 それ以外に私は興味がない。 どうでもいいじゃん、と思う。
窪塚洋介がどんな暮らしをしようと、どんな思想を持とうとどうでもいいじゃん。
だけど、多くの報道関係者はそれ以外のことが何よりも大事なんだね。 いかにも事実と論証の積み上げの体裁をとりながら、結局自分の臆測の方向へ向けて牽引していくのだ。 とにかく、窪塚洋介は一般人の常識をはずれた変人で、言行が狂っていて、薬をやっているかもしれないから、排他すべきだ。 そのような先入観がまず堅固にあって、 「きっと絶対そうにちがいないんだよ、今はこれしか証拠はないんだけどね。でも絶対そうに決まってるんだから。みんなもそうおもうよねー?!」という誘導尋問みたいな報道。
とても不愉快だ。
この一件にとどまらず、報道というものが、好悪の多数決で決められていく。 メディアに認められた人は何をやろうと、虫酸が走るようなくだらないありきたりの賞賛のことばで飾られ、気に入られなければ、何をやっても臆測でけなされるのだ。 まったくもって、この国の報道の程度の低さにはあきれはてる。
そして、間違いだらけの情報の中から、真実と虚実を見分け、批判する力を持たなければ、本当に危険だと思う。
2004年06月08日(火) |
アーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』 |
国語教師なんてのをやっていると、読書感想文を読んだりして、読んでもない本でもあらすじだけを知っている本がどんどん増えてくる。 ヘミングウェイの『老人と海』も、そんなふうにして、読まないうちに半分読んだ気になって興味を失ってしまっていました。
珍しく、カトリーナが、職員室の私の机までやってきたから、何事かと思ったら、
「図書館で『老人と海』を見つけた!シンプルで、でもいい作品だから、ぜひ読んでみて!」ととってもうれしそう。
もちろん図書館にあったのは原書ではないんだけど、HEMINGWAYの名前で見つけたみたいです。
異国の地の図書館で自分の国の、大好きな本に出会う。 それがとってもうれし懐かしい気持ちにさせる出来事であろうことは想像に難くないですね。
あらすじは知っていたので、ふんふんと読みすすめました。 とってもシンプルで、含みや比喩のさしはさみようのない短い文章。 でも、孤独で年老いた漁師と巨大魚との決死の戦い。 その壮絶さにひきこまれました。 そして、虚無感と満足感が一緒に訪れるエンディングにはぐっときました。 朴訥としていながら、とても力強く、胸を揺さぶる作品でした。 百聞は一読に如かず、ですな。
朝の5分は夕方の20分に値する、なんていう人がいますが、私もご多分に漏れず、一瞬でも遅くまで家にいたい人です。
だけど、ここのところ、ものすごく早起きなんです。 目覚まし時計はなんとなく5時45分にかけているんだけど、いつも、勝手に4時30分に目が覚めます。 12時に眠っても。
一時のように、眠れない、ということはなくって、夜はぐーぐーなんだけど、早朝目が覚めます。 二度寝もはかばかしくないので、早めに学校に行ってみました。 6時50分到着。
朝部活までゆったりできるので、なんかちょっと得した気分。 だけど、先生方って早起きなんだなあ。 一番乗りの先生は5時45分だって!一体何時に起きているんだろー?
2004年06月06日(日) |
MR.CHILDREN『Sign』 |
タイトル曲はミスチルの王道中の王道のラブソング。 いやー、ストライクど真ん中です。 そして、それだけじゃないのがこのマキシシングル。 二曲目はジャジーな感じ、3曲目はソウルな感じ、と、今までのミスチルにないイメージです。おもしろいぞー。
「ありがとう」と「ごめんね」を繰り返しても僕ら/ 人恋しさを積み木みたいに乗せてゆく/ ありふれた時間が愛しく思えたら/ それは“愛の仕業”と小さく笑った/ 君が見せる仕草僕に向けられてるサイン/ もう 何ひとつ見落とさない/ そんなことを考えている
今日は一日生徒と卓球しました。 朝8時半から、休憩を挟みながら3時まで。 私個人のことを振り返っても、こんな風にみっちり練習したのはどれくらいぶりだろう。
学校の部活では、いつも休みの日はやったとしても半日だから、もちろんこんな練習は初めて。 それというのも、来週は大事な地区大会なのですよ。 それで娘たちも気合はいっとるんです。
私は部活動は生徒主体でやるもんだと思っているので、練習方法を教えたり、足りないところを指摘したり、アドバイスしたりはしても、あんまり一緒に打ったりしなかったんだけど、さすがに試合直前。私でよければ練習台になりますとも。 ドライブも打ちますよ。 カットもしますよ。 珍しく、フットワークだってしちゃうよ。 おまけに、1試合に10点はとれる必殺サーブも伝授しました。
雨が降ったりして蒸し暑い中、汗だくだく流しながら練習したから、終わる頃にはへとへとになっていたけれど、「ちょっと強くなった気がしない?」って、聞いたら、へへへって照れて顔を見合わせていました。
一年前はフォア打ちも満足にできなかった子たちですが、今や技術や戦術の話をつっこんですることができるようになりました。 うれしいなあ。その成長がうれしいです。
うちの部の子達は、まだまだ全然下手であまり勝てないのですが、ちゃんと自分の卓球を持っています。 自分で考えて、試して、作っていっています。 その点ではそんじょそこらの中学生には負けないと思うな! 中学を卒業して、その後も卓球をやめても、卓球でああだこうだ試行錯誤して強くなっていったことは、他のところできっと役に立つと思うのです。
2004年06月04日(金) |
寺山修二『ポケットに名言を』 |
世によくある、名言格言集を期待して、この本を手に取ったら、期待がはずれた。 そんな生易しいものではなかった。 ぱっと一目見て「そうそう!いいこというね!」みたいなお手軽な言葉はなく、古今東西の文学、演劇、映画の中の一言が抜き出されているのだが、その一言だけでは、何を意味しているのか、真意はかりかねる、というものが多い。 それでも、読みすすめるうちに、この本は、名言格言を知識として得ようとするのではなく、並べられた言葉を通して、寺山修司という人を読み解いていくほうが面白いかもしれないなあ、と思った。
心に残ったいくつかを抜粋。 「教育。--「よく噛むんだよ」とお父さんが言う。そこでよく噛んで毎日二時間ずつ散歩して、冷水浴をした。だがやっぱり不幸せな無能な人間が出来上がった。(アントン・チェーホフ)」
「英雄のいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸だ。(ベルトルト・プレヒト「ガリレオガリレイの生涯」)」
「僕は詩人の顔と闘牛師の体とを持ちたい。(三島由紀夫「鏡子の家」)」
「青春は例外なく不潔である。人は自らの悲しみを純化するに時間をかけねばならない。(吉本隆明「初期ノート」)
でも、やっぱり、最後にまとめられた筆者自身の言葉がやっぱり一番いかしていたな。
「すべてのインテリは、東芝扇風機のプロペラのようだ。まわっているけど、前進しない」
「ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし」
「煙草くさき国語教師が言うときに明日という話は最もかなし」
「あたしはあなたの病気です」
生きていくということは変わっていくということなのかなあ?
私らしさ、と思っていたものも絶対ではなく、気がついたら違うものが私らしさになっていたりするんだなあ。 好むと好まざるとにかかわらず。
最近の私の混迷をかえりみてみて、私は、はたと思い当たったのです。
この生きにくさは、思春期のそれなのではないか、と。 もしかしたら、私は今頃思春期を迎えたのではないか、と。
たとえば学校生活。 私は中高生のとき、人並みの悩みとか苦悩とかとは無縁で、五体満足な体で自分のことばっかり考えて鈍感にすごしていたんだよね。 女の子特有の、○○ちゃんグループみたいなのとも無縁で、我関せず。いつも単独行動。
今になって、体の調子が悪いことの苦しさを知り、翌日のことが心配で安眠もできず、周りの人からどう思われているかが気になって、すこしのことでくよくよしたりしています。
ふつう多感な10代のころに経験するはずの、こういうことが、20代も半ばを過ぎて、ようやく私にもやってきたみたいです。やってきた、というより、ようやくそういう繊細なことに気づけるように成長してきたというべきだろうな。 この遅く来た思春期を越えれば、きっと私は本当の意味で大人になれるんだろうな。
そう思ったら、少し楽しみになってきました
生徒は好きとかキライとか、そういう対象じゃない、…はずなのですが、今年入学してきた子で、かわいくてたまらない子がいます。
犬っころみたいにころころしていて、しっぽふって 「せんせいせんせい。ねえねえ」って私のところにやってくるんです。
授業とか全体を扱うときに、特別扱いをするようなことはまったくないんだけど、休み時間とか、話していると、めじりがたれちゃう。
にこにこーっとしちゃう。 かわいいなあーって思っちゃう。
そういうの、ひそかに思っているだけだったらいいけど、周りの子にばれちゃうと絶対いい気持ちしないだろうから、ちゃんと心ひそかに思うだけにしないとね! 気をつけよう。
早おきなおばあちゃんがうらやましかった私。 「もっと寝ていたいのに勝手に目が覚めちゃうんだよ」と苦笑していたおばあちゃんの気持ちが分かった気がする。
なんで目覚し時計がなるまで寝ていられないのー!? そのくせほとんど寝た気がしないんだから参ってしまう。
どうやったら眠れるのかなあ、と、悩みあぐねて、すんでのところで、抱き枕になってくれる人の求人広告を出すところでした。
それが、ここ数日、とっても安眠。 るんるんのサウンドアスリープ。
夜になると健全な眠気が私を襲います。 だらしないうたたねをして、夜中に目が覚めて布団にもぐりこみ、あとは朝までぐっすりです。
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