楓蔦黄屋
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はい何書くか忘れたー。
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理想の自分というものを思い描いたことがない。
昔、ああ自分はカメラなんだなと思ったことがある。 きれいな景色を見てボーッとしてたら、母に 「自分が映画かドラマの主役になった気持ちなんでしょ」と 他意なく笑って言われたのだがピンとこなかった。 むしろ映画を観ているような気分だったからだ。 物語の断片を見ているような。
高校の頃、電車の窓から見る景色が好きだった。 混み具合と本数の少なさと空調の極端さは大嫌いだったが車窓だけは好きだった。 いつも乾燥しきった強風にさらされた、埃まみれの窓ガラスは 陽があたると、光がつぶれたように柔らかく拡散し 何もない風景を白く彩っていた。 岩井俊二監督の映画の画面に似ている。
今でも音楽を聴きながら車窓を観るのが好きだ。 たちまちそれはミュージックビデオになる。 風景が多めのときは何を聴いても絵になるが、 人が多めのときにはくるりが秀逸。 そこらへんを歩いているだけの人がたちまち輝いて一流の役者にすら見えてくる。
なんの話だったか。
そう、私はカメラであって、その中の物語の主人公ではない。 私は私の人生の主人公というより、 私の人生を彩る風景を撮影するカメラだ。
だから理想はいつも外に期待する。
追い求めて歩き回ったりもしない。 車窓に流れる景色と、耳に流れる音楽が 奇跡のように融合して体中を震わせる瞬間を ただただボーッと待っているのだ。
自分の中に理想を求めるのは大変だ。 常に自分の外に委ねる。 芯がない生きかたと言えばそうだ。 実際、風船のようだと例えてくれた友人もいた。
他人任せだ。 自分でどうにかできることなど、たかが知れている。
有るが儘とは、つまり我が儘だ。 我にとって我が儘とはどういう状態なのかを把握すること。
楓蔦きなり
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