楓蔦黄屋
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2021年04月25日(日) |
癸卯・霜止出苗・スパラクーア |
こないだはスパラクーアに駆け込んだ。
久しぶりにまったりとした。 4時間半ぐらいいたけどもっと早く行って堪能したかったなあ。
お風呂よりもサウナが好きかもしれない。 お風呂内のサウナも好きだし ヒーリングバーデはもはやデフォだ。
サウナでウトウトするのも最高だし デッキでまったり寝そべるのも最高だ。 この季節は風も気持ちいい。
加えてこの日はエステも予約した。
整骨院にも行けなくなってしまって、騙し騙し使ってた右半身を キレイで優しいお姉ちゃんにずいぶんラクにしてもらった。 頭も首もだいぶ凝ってたそうだ。眼精疲労のせいで。 仕事のせいもあるだろうが半分はスマホの見すぎだと思う。 これからは目を労ろう。
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また河まで散歩をした。
いつもは渡らない橋を渡ると対岸に西日が見えた。 雲が大きく、光のハシゴが上にも下にものびていて、美しい眺めだった。 雲と同じ、灰色がかった青鈍色のスカイツリーがまた絵になっていた。
空の高いところを飛行機が飛ぶ。 光のハシゴにさしかかると、太陽の光を反射して一瞬きらめく。 きれいだった。
立ち止まって写真を撮っている人たちもいて、そうだよね、きれいだよねと心の中で同意。
なんというか。 夕方になればふつう太陽は沈むし、 雲は雲で、でかくなろうと思ってなったわけじゃなくただ そうなるべくしてそういう形になっただけだろうし、 光のハシゴと言っても、太陽光を受けて雲がカゲになったりならなかったりしてるだけだし、 地平に近い空の赤さも、ただそうなるべくしてなってるんだろうし、 スカイツリーもふつうに建っているだけだし。
すべてがすべて、ただなるようにしてなっているだけで、 こんなにも美しく見えるものなんだなあとぼんやりと思った。
ふつうにしてるだけでも見る角度によって美しく見えることもあるんだなあと。
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風が強い。 風が強いけどもう夜でもちっとも寒くない。
もうすぐ5月がくる。
2021年04月23日(金) |
辛丑・Baby,it's you |
宇多田ヒカル「One Last Kiss」をアナログレコードで聴く最高さよ。
私のレコードプレイヤーはそりゃもう全然音がよくないんだけども、 「Beautiful World」のイントロのギターが歪みながら流れると もうなんというか、なんとも言えずいいよねっていう。 オーディオマニアでない人間がレコードに求めるのはやっぱりこういうノイズでしょう。
加えて今の春の日差し、ほんの一滴セピア色を落とした鈍くて淡いプラチナ色の光が 午後になると遠くのビルとともに煙って見えて、 4月の終わりから5月になるまでのこのほんのわずかな季節の移ろいの景色が 宇多田さんの歌声とマッチしてまるでMVのようだ。
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今日はひさびさに川沿いを散歩をしました。 音楽を聴きながら。
青い空にはお椀を伏せたような白い月がかかっていて、 その下を雲が強い風で速く流れているのを見上げていたら YUKIちゃんの「Baby,it's you」がかかって、これもまた美しいMVでした。
視界に空しかない時間を過ごすのは久々でした。
手嶌葵バーションの「Beauty and the Beast」は 河の水面がさざめきたつ様と、流れていく様と、 シロツメクサの群生が風にゆれる様にとてもよく調和していたよ。
昔から空が好きで、今も空が好きで、 空が好きとかいかにも漫画チックだなと長年思いながらもやっぱり 私は空を見るのが好きだなと思いました。 やっぱり晴れてる空が好きだね。
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自分の、長年変えたいと思っていたところを 変えようとしてうまくいかないのをもう何年も繰り返しているけども、 ここへきて少しずつ少しずつ結果として表れている。
変えたいなと思ってからもう4年か。 もう4年というか、まだたった4年なのか。ちょっと意外。
4年で結果が出はじめてるならむしろたいしたもんだと思う。
すぐにはそんなに変われないし、変わったと思ってもたいてい気のせいだったりとかする。
お世話になってるダイエット動画で、 「ダイエットの目標というのは体重や体脂肪といった数値ではなく、 それによって自分と他人にもたらされる、有形無形の嬉しいことを想像することだ」 と言っていて、ほほおなるほどなと最近思った。
そしてそれはダイエットだけでなくわりと色んなことに言えることだなと思った。
変えることによって自分や他人にもたらされる有形無形の利益。 他人にどう思ってもらうかなんてまったく考えたことがなかった。 というより考えないようにしていた。 どう許してもらうか、ばかり考えていたからかもしれない。 どう嬉しく思ってもらうか、を考えるほうがいいかもしれない。と最近思った。
さて、4年もかけたんだからそろそろ結果の芽ではなく結果の実をひとつぐらい収穫したいもんだ。
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いろんな失敗をしてここまで生きてきたけども、 いろんな失敗をしたわりには相変わらず生きていて面白いなと日々思う。 年をとるのは面白いなと思ったりする。そしらぬ顔して思惑通りにいかせたりできるからだ。
人は長く生きてだんだんと自分になっていく。
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子どもを産まないという選択をした人たちのことを考える。 彼ら彼女らは「子どもを持たないと後悔するよ!」という子持ちの発言が心底嫌いなのだという。もっともだ。
「後悔するよ!」と言う人たちは、 子どもを産むということは実は自分たちに与えられた才能なのだということをおそらく自覚していないのだろう。 誰でも産めると思っているからだ。
実は産めて当たり前ではない。産みたいと思うのも、産める身体があるのも才能なのだ。
私はおそらく現代医学がなければ出産で子どももろとも命を落としていた。 そういう出産だった。 どちらかというと、子どもを産む才能に乏しい身体なのだと思う。
入院していた産院でも、「あたし現代医学がなかったら死んでたわー!」と あっけらかんと言うお母さんがいて、「私も私も!」とものすごく同意したものだ。
出産は死ぬ可能性が高い。 「命がけで産む」というのはつらくても必死に産むというより、失敗すれば普通に死ぬという意味だ。
妊娠は病気ではないが、死ぬ可能性は通常よりも高い。 帝王切開は、ラクだからするのではなくて、しなければ死ぬからするのだ。 そしてどんなに苦しくても経膣分娩できる限り帝王切開をしないのは、そのほうが死ぬ可能性は低いからだ。
ダンナは私の出産を待つ間、死を覚悟したという。
だから子どもを産まないと決心する人たちは、本能が働いているんじゃないかと私は思う。 才能がない、というと蔑んでいるようにも聞こえるが、 別に欲しい才能じゃないんだからなくてもかまわないよ、という感じだろう。 私だって別に、たとえば音楽の才能がないとか演技の才能がないとか言われても 別にふーん、という感じだ。だろうね、要らないし、みたいな。それとたぶん一緒だ。
だから子どもを産まないと後悔するよ!という子持ちの人は、 ステージにあがって歌わないと後悔するよ!という才能ある歌手みたいなものなのだ、きっと。
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じつはもう早く寝たい。
花冷えが続く。 でも冬のアウターだと昼間かならず暑くなる。
いつもマスクをしているので、外出してもうっかり空気の匂いを嗅がずに毎日を過ごしている。 まわりに誰もいないときにマスクをはずしてその日の外気の匂いを嗅ぐ。
でも鼻がじゃっかん利かなくなったように思う。 というよりも毎日ちゃんと嗅いでないから変化の積み重ねができてないんだろう。
春は花粉症だけど、それも四半世紀もそうだともうさすがにどうでもよくなって 憂鬱も感じなくなってくる。 ふだんの症状が軽くなってきたからかもしれない。 でも今年はうっかり油断してしまい、それがもとで寝込んだ。 夜お風呂に入ったときにものすごく鼻がかゆかったのに何も処置しないで寝てしまったのだ。 あのときこそ出来うるべきすべてをするべきだった。 疲れてもいた。
春の夜風が好きだ。 ぬるいのと冷たいのが完全に混ざらないで吹き抜ける感じが。
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めずらしく夫の話でもしようと思う。
付き合いはじめてから21年。 結婚して14年。
長い付き合いだが未だに彼のことがよくわからない。 言語の意思疎通はもちろんできる。性格についてある程度の把握はしているし、 行動の予測もつくし言動についての理解もできるんだが それでもなぜか「よくわからん人だ」という想いが拭えない。
私は、男性というものを構成する要素に 「真っ黒で熱くてもやがかかった太陽のようなもの」を昔から見る。 多かれ少なかれたいていの人に見る。 それが大きかったり濃かったりする人ほど苦手だ。
夫にはそれがまったく見えなかった。 そういう男性もいるんだと知って驚いた。だから付き合ったし結婚した。
だから「ダンナさんてどんな人?」という質問にうまく答えることができない。 そもそもがよくわかんない人だと思っているし 「真っ黒で熱くてもやがかかった太陽のようなもの」が構成要素にないとかって 自分の口にしたらたぶん自分が一番言っててよくわからんくなるからだ。
「自分にとって不快な要素を持っていない」というのが一番近いかもしれない。 または「不快だと伝えても受け止めてもらえる安心感がある」なのかな。
私と彼との会話は昔から、「無意味」と「不毛」だけで構成されていた。 要するにその場だけで笑えるだけのものだ。 大橋ツヨシの「エレキング」の中で繰り広げられているようなものに非常に近い。 実生活の連絡事項をのぞき、真面目な話はあまりしたことがない。
昔はそれが当たり前だと思って、夫以外の人ともそういう会話を求めていたが どうやらそういう会話をしたがらない人もいると気づいた。 そういうんじゃない会話をしたい人と話をするとたいてい自分は聞き役になる。 自分から話すことは特にないからだ。
うちの夫婦間は基本的に、相手のパーソナルな部分とそこに紐づく情報を含む会話はお互い、 あまり重要視していない。どうでもいいわけではないがどうであろうとたいして気にしない。 仕事の話だとか友人の話だとか、そういう話は私たち二人とも、 まあしないことはないし相手のはききもするけどその後の会話の発展は特にない。話して聞いて終わる。 しかしたとえば街ですれちがった知らん人がちょっと面白かったとかいうような話だとその後の会話が数珠つなぎに発展していく。 発展したところでその会話はどこまでいってもビックリするぐらい生産性がないが。面白いだけで。
この会話の仕方を夫以外の人に応用するとたいてい失礼にあたるということを、今はさすがに弁えている。 他人には致命的なことを当たり前のように許し合う。夫婦というのは特殊な関係だな。
しかし夫は、私以外の人のならパーソナルな情報をよく覚えていたりする。 たとえば友人の食べ物アレルギーを覚えていて、会食のときに一人だけメニューを変えてあげて感謝されたりしているのだ。対人関係において非常に要領がいい。 その点私は要領が悪いので、そういうところが羨ましい。
さらに言えば、そのパーソナル情報にもとづく気遣いは 私に関してのみまったく発揮されない。 向こうに言わせると私の情報は非常に把握しづらいんだそうだが私にしちゃ納得がいかない。
そういえば趣味や好きなものもあまりカブらない。 嫌いなものも、昔はカブっていたように思うが年を経るごとにこれもカブらなくなってきた。 同じアイドルが好きなのにも関わらず、私は現場が好きで夫はメディアが好きなので、 お互い完全に別行動なため同じものが好きだという実感はほぼない。ライブに一緒に行ったこともない。
書けば書くほどなんだかあんまり夫婦関係がよくないような感じになっているがそんなことはない。 家事だの育児だのに関しての不満もおかげさまでない。
何より、昔からやりたいようにやらせてもらっている。 やりたいようにやっている私の姿を「面白い」と言ってくれている。 20年以上も続いているのはたぶんそれが一番の要因だと思う。
楓蔦きなり
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