宿題

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2006年06月30日(金) 実験4号/大木温之
飲んでりゃ昨日もみえるだろう
明日が行き止まり
僕らの死ぬまで 考えた
そして最悪の人生を消したい

どれだけクサれば晴れるだろう
止むかよ 時間切れ
まんまと潜りこみ 閉じ込めて
君と最悪の人生を消したい

ハンパな笑顔でこっちだけみていた
賑やかなラストにわざと一人
傷を舐め合うのさ 痛みがわかるのさ
確かに未来が昔にはあった

ゆーワケで せっかくだし 悪いけど
続くよ まだ二人いる
何かまたつくろう 場所は残ったぜ
君と最悪の人生を消したい

そして最悪の人生を消したい


★実験4号/大木温之★

2006年06月29日(木) ハスキー/甲本ヒロト
まるで デジャヴのように、懐かしい映画のように
スローモーション 止まってしまう
凍りついた ストップモーション

破壊が 目的なら、情け容赦は 無用
ふり返るな 欲のタンク 
フルスピード 欲のタンク

枯れ葉のような舟で、 ユーレイ船に会った
そしてもう戻らない、 もう二度と戻らない

ロマンチックな 理由で、ロマンチックな 方法で
ロマンチックな 結末の、ロマンチックな 途中の場面
  
枯れ葉のような舟で、 ユーレイ船に会った
そしてもう戻らない、 もう二度と戻らない
うたおう ハスキーボイス Wow
うたおう ハスキーボイス     


★ハスキー/甲本ヒロト★

2006年06月28日(水) ゲド戦記のすべて/鈴木敏夫×岡田准一
鈴木「宮崎駿が若かったら、こういう『ゲド戦記』をつくったんだろう
っていう感じは出てるんでしょうね。
僕自身は吾郎君の共犯者なので、客観的には見られないですけど。
とにかく宮崎駿は吾郎君が映画監督になることに反対していて、
そんな話も岡田君にしてたんですよ。
そうしたら岡田君も来てくれた初号試写のときに宮崎駿が来ていて、
後ろにいた岡田君から見て、前に吾郎君がいて、
さらにその前に宮崎駿がいて(笑)」

岡田「面白かったですよ。駿さんが入ってきた瞬間、
吾郎さんがまったく動かなくなった(笑)。そういう関係なのに、
鈴木さんは”父さえいなければ、生きられると思った”っていう
キャッチコピーをつけて、すごいなって。
すごいプロデューサーだなって(笑)」

鈴木「素直に作ったらああいうものになったんですよ(笑)。
今の時代、吾郎君くらいから下の世代には親の問題が起きるんじゃないかなと
僕は思ってるんですけどね」

岡田「駿さんが来たとき、鈴木さんも様子がおかしかったですよ。
そわそわしていて(笑)」

鈴木「だって宮崎駿は来る予定じゃなかったんだもん(笑)。
緊張したね。しかも彼は途中で席を立ったんですよ。
どこで立ったかと言うと、映画が始まって1時間後なんですけど、
ちょうどテルーの歌が終わって、アレンが父を殺したって告白するシーンで…」

岡田「そうだったんですよね。本心はわからないけれど、もういられなくなったのか、
それともダメだと思って出ていかれたのか」

鈴木「岡田君に聞いたら、宮崎駿が出てった瞬間、全員がそっちを見ていたって(笑)
トイレに行って、タバコを吸ってから戻ってきてたみたいだけれど、
なにか気を静めたかったんでしょうね…。初号のときは映画に集中できた?」

岡田「見れなかったですよ。吾郎さんは動かないし、
駿さんは席を立つし、鈴木さんはそわそわしてるし(笑)。
僕も関係性としては吾郎さんの共犯者なので、
駿さんはどう思われてるか気になって」


★ゲド戦記のすべて/鈴木敏夫×岡田准一★

2006年06月27日(火) さよなら ナム・ジュン・パイク/高橋悠治
ピアノなら「乙女の祈り」だが
アプライト・ピアノを 弾くだけでなく
ペダルをなめたり のこぎりで切ったり
突き倒したこともあった
白人女への 家庭内暴力のように
へらへら笑いを浮かべて

最初のTVシンセの展覧会も見た 物置のような画廊で
中古の受像機に巨大な磁石を添えただけのもの
画像が歪んで 虹模様になる
ロックフェラー財団の学芸員の前で
パイクは もっともらしい説明をする
へらへら笑いを浮かべて

受像機の自己増殖
白鳥よりは透明で ありのままの
無意味な世界を映す 画面の無意味
白南準の 黒いダダの虚無主義
月を映したヴィデオZENで 世界を騙る
西洋も東洋も超えて
アリスの猫のように
身体が消えても のこる あの
神々のような へらへら笑い

「貧乏な国から来た 貧乏人
できるのは ひとを たのしませるだけ」


★さよなら ナム・ジュン・パイク/高橋悠治★

2006年06月26日(月) さよなら ナム・ジュン・パイク/坂本龍一
伝説的なドイツでのパフォーマンスで、パイクさんは客席に飛び込んでいき、
そこにいたジョン・ケージのネクタイをはさみで切って投げ捨てたという。
それにちなんで、お葬式では、なんと列席者のネクタイがすべて切り取られたのだ!
切られたネクタイはパイクさんの眠る棺桶に投げ入れられた。
なんともパイクさんにふさわしいお葬式ではないか。


★さよなら ナム・ジュン・パイク/坂本龍一★

2006年06月25日(日) ヒロト&マーシー、サード・アタック/島田諭
ザ・クロマニヨンズ。ちょっとへんてこりんな名前が正体不明のまま、
今年の夏のイベントやフェスの出演者欄にあったけど、
それは「このふたり」の新バンドだった。
大阪の万博記念公園で行われた野外イベントがこの新バンドの初ステージだった。
THE BLUE HEARTS、THE HIGH-LOWSに続く、
甲本ヒロトと真島昌利による新バンドが、ザ・クロマニヨンズだったのだ。
つまりは「またか!」ということで、多くの観客が彼らを見て笑っていた。
だけどそれは決して白けたものなんかじゃなく、とくに若い人たち。
大喜びしていた。笑っていた。
ザ・クロマニヨンズはだれも聞いたことのない新曲5曲を披露したわけだけど、
曲を知らなくても多くの観客は楽しんでいて、とくに若い人たち。
大興奮していた。笑っていた。
そう、これがロックンロールの力なのである。
まず理論や知識ありきじゃなく、聴く者を奮い立たせ、
ぼくらのからだにガソリンを注入してくれるのがロックンロールなのである。
ロックンロールには不思議な力があるのだ。
そして、右も左も知っているようで実はよくわかっていない若い人たちにこそ、
ロックンロールはリアルに響く。
こんな世の中と吐き捨てる時代にロックンロールの魔法は必要なのだ。
ザ・クロマニヨンズは9月20日(水)にデビュー・シングル
「タリホー」を発売すると同時に全国ツアーを開始する。
ぼくらの知らないあいだにばっちり準備をしていた。
たしかに「またか!」なんだけれど、この魔法がまだ続くなら
それだけで最高じゃないか。


★ヒロト&マーシー、サード・アタック◇ぴあ1161号/島田諭★

2006年06月24日(土) 誠実な詐欺師/トーベ・ヤンソン
(カトリに頼んだ「子どもからのファンレターの返事」の代筆を読んで)

「じゃあ、これは!」とアンナはつづける。
「注釈はどこよ?この子は兎を描こうとした。どうみても才能はない。
でも、書けたはずだわ。絵は仕事机の向かいに掛けてあるとかなんとか…。
ほら、スケートを始めたって。猫の名前はトプシー。
スケートと猫の話で一枚まるまる埋められる、大きい字で書けばね。
あなた、せっかくの素材を使いきっていない」
「アエメリンさん」とカトリはいう。
「あなたこそずいぶんシニカルですね。どうやって隠しおおせてきたんです?」
アンナは聞いていない。手紙の束に手をおき、説明をつづける。
「もっとやさしく!もっと大きな字で!わたしの猫の話も。
描写して、その猫の仕草を…」
「猫なんか飼っていないじゃないですか」
「かまわないわ。感じのいい手紙を返す、それが肝心…。
心得ておいて。でも、あなたにできるかしら。子どもは好きじゃないでしょう?」
カトリは肩をすくめ、例のすばやい狼の薄笑いを浮かべた。
「それはあなたも同じですね」
アンナの頬にさっと赤みがさし、会話はうち切られた。
「わたしの好き嫌いはどうでもいい。
この人は信頼できる、そう子どもに思わせなければ。
子どもを裏切ることはできないのよ。今日はもう疲れたわ」


★誠実な詐欺師/トーベ・ヤンソン★

2006年06月23日(金) 誠実な詐欺師/トーベ・ヤンソン
「それはよかった」とアンナは叫ぶ。
ほっとしたのは、郵便のせいでも缶詰のせいでもない。
この奇妙な女性がようやくふつうの会話らしきことをいった、
ただそれだけのことなのだ。

「きまって花を育てていると思われるのは、どうしてかしら…」
「わかりますよ。花に子どもに犬」
「は?」
「花や子どもや犬が好きだと決めつけられる。でも、そんなもの、
あなたは好きじゃない」
アンナは顔をあげ、するどく視線を走らせた。


★誠実な詐欺師/トーベ・ヤンソン★

2006年06月22日(木) 誠実な詐欺師/トーベ・ヤンソン
「まだ行かないで」とアンナは頼んだ。
「あの、クリングさん、ずいぶん助けていただいて。
パパとママの家をおみせしたいのよ」
ふたりはいっしょに部屋から部屋へと屋敷を見てまわった。
どの部屋も独自の変わらぬ秩序にしたがっているのだが、
カトリにはたいした差とは思えない。
どれも色あせた青で、なんだか気が滅入る。
アンナはとりとめなく喋る。
「これはパパが新聞を読んでいた椅子よ。
雑貨店まで新聞を買いに行くのはパパと決まっていて。
パパは新聞を順序だてて読むの。
郵便物はめったに来なかったわね…。そうそう、
これがママの夕べのランプ、シェードにはママが刺繍をした。
この写真はハンゲーで撮ったものでね…」
カトリ・クリングはあまり喋らない。たまにそっけなく相づちをうつ。

「そしてね、クリングさん、パパは村に知り合いはほとんどいなかった。
でも、パパが通るとだれもが帽子を取ったの、いわれなくてもね」
「はあ」とカトリは応じる。
「それで、お父さんは帽子をおとりになったんですか?」
「帽子を?」アンナは呆然とくり返す。
「そもそも帽子をかぶっていたかどうか…。
変ねえ、パパの帽子を思い出せない…」
そしてすぐさま喋りつづけた。
アンナはひどく動揺している。多弁すぎる。
さて、こんどはママの話になった。
クリスマスに、村の貧しい人たちの家をおとずれて、
小麦とパンを配ってまわったんだとか。
「配られた人たちは気を悪くしなかったのですか?」
とカトリはいった。
アンナはさっと顔をあげたが、すぐに眼をそらし、
勇気をふるって話しつづけた。
パパの切手募集帳、ママの処方箋の手帳、犬のテディのクッション、
自分の善行と悪行が列挙してあり、
大晦日にじっくり読み返されたパパの日記について。

アンナは両親の家を見境もなくさまよい、
尊く愛すべきものを生まれてはじめて疑い、
あげくのはてに白日のもとにさらけだす。
タブーに挑んでいるという罪深い開放感にあおられて、
もはや自分を押しとどめられない。
気乗りしない客にパパの挿話や小話をつぎつぎと披露するが、
カトリの沈黙を待つまでもなく、意味はすでに失われている。
教会で高笑いするにひとしい。
剣呑な攻撃にさらされて、神聖なものの覆いが剥がされるが、
アンナは頓着しない。
声がうわずり鋭くなり、敷居につまずく。
ついにカトリはアンナの腕をとって、
「アエメリンさん、もう、おいとまします」
といった。アンナはふいに黙りこむ。カトリはやさしくつけ加えた。
「ご両親はとても強烈な個性の持ち主だったんですね」


★誠実な詐欺師/トーベ・ヤンソン★

2006年06月21日(水) 誠実な詐欺師/トーベ・ヤンソン
電話すべきじゃなかった。
だけど、あのときは切実に感じた、信頼できる人に話を聞いてもらわなくてはと。
じっくり聞いて、いろいろ質問をして、「なかなかいいんじゃない」
と言ってくれる人を求めていたのだ。
またはこんなふうに。
「アンナ、すてきじゃない!あなたって、自分のやりたいことを自覚していて、
しかも実現してしまうのね、電光石火の早業で!」


★誠実な詐欺師/トーベ・ヤンソン★

2006年06月20日(火) 仔羊の巣/坂木司
「そうだ。だから大人の方が楽しいんだぜ。
自分の好きにしたかったら、お前も早く大人になることだな」


★仔羊の巣/坂木司★

2006年06月19日(月) パダン...パダン/エディット・ピアフ
夜も昼もつきまとうあの一ふしは
昨日今日からのものじゃない
私の生まれたときと同じくらい遠い昔から
幾十万の音楽家につられてつきまとう
ある日私はこの一ふしに気が狂うだろう
その訳を言おうとあせっても
言葉さえ切られてしまうのだ
いつもそれは私より先にしゃべり
その声に私の声が消される

パダン、パダン、パダン
それは私を追いかけてくる
パダン、パダン、パダン
「覚えているか」とこづかれる
パダン、パダン、パダン
それは私を指さす
そして私は後にひきずって行くのだ
変なまちがいのように
何でもちゃんと知っているこの一ふしを

彼は言う
「おまえの恋人たちを思い出せ
思い出せ、今度はお前の番だ
おまえも泣くんだ
胸の中の数々の思い出と共に」
けれど私は残ったものを考える
あの身ぶり手まねが浮かぶ
あのいつも鳴っている一ふしを聞く時
目に浮かぶ

パダン、パダン、パダン
パリ祭の恋の轟き
パダン、パダン、パダン
安請け合いの「いつまでも」
パダン、パダン、パダン
「どうだい、そうら」と十把一からげのキス
それがみな街角で
つきまとうあの一ふしとなって
私に降りかかる

あの騒ぎが私を襲うのをお聞きなさい
私の過去が一緒になってついてくるように
苦しみは後々まで残すべきものだ
私はあの一ふしの音符をみなもっている
それは木の心臓のような音を出している


★パダン...パダン/エディット・ピアフ★



■対訳は橋本千恵子さん。

2006年06月18日(日) 魔法のコトバ/草野正宗
あふれそうな気持ち 無理やりかくして
今日もまた 遠くばっかり見ていた
君と語り合った 下らないアレコレ
抱きしめてどうにか生きてるけど

魔法のコトバ 二人だけにはわかる
夢見るとか そんな暇もないこの頃
思い出して おかしくてうれしくて
また会えるよ 約束しなくても

倒れるように寝て 泣きながら目覚めて
人混みの 中でボソボソ歌う
君は何してる? 笑顔が見たいぞ
振りかぶって わがまま空に投げた

魔法のコトバ 口にすれば短く
だけど効果は 凄いものがあるってことで
誰も知らない バレても色あせない
その後のストーリー 分け合える日まで

花は美しく トゲも美しく
根っこも美しいはずさ

魔法のコトバ 二人だけにはわかる
夢見るとか そんな暇もないこの頃
思い出して おかしくてうれしくて
また会えるよ 約束しなくても
会えるよ 会えるよ


★魔法のコトバ/草野正宗★

2006年06月17日(土) 誠実な詐欺師/トーベ・ヤンソン
お金は臭うと人はいう。
それは嘘だ。お金は数字と同じようにきれいだ。
臭うのは人間のほうで、だれもがそれぞれ隠された臭いをもっている。
いやな臭い。
怒ったり、恥じたり、怖がったりするとき、臭いは強くなる。
犬はそれを感じとる。瞬間的にわかるのだ。
わたしが犬だったら、わかりすぎていやになるだろう。
でもマッツには臭いがない。あの子は雪のようにきれいだ。
わたしの犬は大きくて美しく、わたしに服従する。
あの犬は私が好きじゃない。でも、わたしと犬はお互いを尊重する。
わたしは秘密めいた犬の生活、本来の野生をいくらかはとどめている
大きな犬の秘密を尊重する。
だからといって信頼はしない。
自分をじっと観察する大きな犬をどうして信頼できよう。
人びとは<人間みたいな>特質を犬に押しつける。
気高さとか愛想のよさとかいったものを。
犬は口をきかず、人間にしたがう。
でも、わたしたち人間をじっくりと観察して知りつくし、
わたしたちのみじめさを嗅ぎつけてしまった。
それなのにあいかわらず人間につきしたがう。
この信じがたい事実をまのあたりにして、驚き、感じいり、
うちのめされるべきなのだ。


★誠実な詐欺師/トーベ・ヤンソン★

2006年06月16日(金) 東京大学のアルバート・アイラー/菊地成孔×濱瀬元彦
濱瀬「採譜は大体終わってるんですが、アナライズはどのくらいやったかな?
ちょっと正確には分りません。
ものすごく時間がかかるんですよ、もう十年くらいやっているんですが、
最初は『こうだな』と思って進めていくと、『ああ、違う』、とかなっちゃったり(笑)。
もう繰り返しやっていくしかないんですよね。
誰かがやった方法でやろうとかも思ってみるんですが、
上手くいかないんですよね。
まあ、他の人のいろいろな方法を援用してやってもみるんですが、
外れちゃうんですよね。あんまり人は信用しちゃいけない(笑)。
結局、自分が見ていって、失敗して、やり直して、繰り返していって、
で、ある時ピタっとアナライズできる。
でも、それで九割は言えるんですが、残りの十%は未だ分らない。
でも、その分らないっていうことが、というか、
それが分らないぞってことが重要だと僕は思いたい。
だから『全部分った』みたいな話はウソだぞ、と(笑)」


★東京大学のアルバート・アイラー/菊地成孔×濱瀬元彦★

2006年06月15日(木) 東京大学のアルバート・アイラー/菊地成孔×濱瀬元彦
ミュージシャンとして僕がかつて聞いた、
都市伝説めいた噂話の一つなんですが、
先生がもうベースを弾くのをやめちゃって、
朝から晩までパーカーの研究を続けて何年にもなる。
っていうのがあったんですが、今日ご本人にお伺いしたら、
なんと本当だったという(笑)。

濱瀬「幸せだった、その頃は(笑)。あの頃は、朝起きて、仕事場行って、
でコピーして、夜九時頃になったらプールに行って泳いで、そんな繰り返しで。

それ、幸せだったんですね(笑)。

濱瀬「凄く幸せだった。
四〜五年くらいやっていたんじゃないかな。
ここのところ別の仕事とか入ってきて中断しているけれど、
本当は、それを続けたい」


★東京大学のアルバート・アイラー/菊地成孔×濱瀬元彦★

2006年06月14日(水) 文藝「特集いしいしんじ」/いしいしんじ
今、僕が旅行に行くのはなぜかと言ったら、
嫁さんが旅先でとても楽しそうな顔になるからです。
嫁さんを喜ばせるというのは、今、僕が生きている中で一番
大事な目的なんで、そのためには何でもします。


★文藝「特集いしいしんじ」/いしいしんじ★

2006年06月13日(火) 文藝「特集いしいしんじ」/いしいしんじ
うーん、ただ想像力とかはまったく信用していないですから。
物理的に書いているという感じがあるんですよ。
自分の中に入れている経験とか知っていることとかっていうものを
フィジックってまさに「からだ」的なことですけど、
それが出てくる勢いとか、それがぶつかり合ってる感じとか、
あるいは起き上がる感じとか、そういうものは信用するけれど、
頭で考えて架空の場所を想像してというようなことをしても、
自分ではあまりこっちに返ってこない。


★文藝「特集いしいしんじ」/いしいしんじ★

2006年06月12日(月) 文藝「特集いしいしんじ」/いしいしんじ
たぶん基本的にいろいろなものがどうでもいいんじゃないかと思う。
外面的には、どっちでも同じだろうという。
自分の表層では、ぞっとするようなことを言えば、
人が死ぬっていうこともどうでもいいっていうようなところがあるんです。


★文藝「特集いしいしんじ」/いしいしんじ★

2006年06月11日(日) いしいしんじさん年譜メモ(2000年〜)
■2000年(34歳) 『グレートピープル。ストレンジ/日之出出版』『ぶらんこ乗り/理論社』

「(理論社の人に)どういう話ですかね」って聞かれて、
「たぶん動物と人間は絶対にわかり合えないっていう話になると思います。
動物と人間だけじゃなくて、男女とか老人と子どもだとか、
あらゆるものは結局わかり合えないっていう話になると思うんです」
って、すごく明るく言っておきながら、
その時はどういうことかよくわかっていなかった。
実際、「たいふう」と引っぱり出してきてそれを最初に据えたというのも、
別に目的があったわけではなくて、
何となくその一九九九年に帰省している時に
「幼稚園の時に書いたものがあるかな」とか言って見せてもらって、
「あ、こんなのやったのか」ってその時に初めて思って。
…そうか、それを見たから二〇〇〇年に気分が晴れたのかもしれませんね。
年末に天王寺でということが重要なのではなくて、
帰省したときに「たいふう」を見たというのが大きかったんでしょうね。
★『文藝特集いしいしんじ』★

「(「ぶらんこ乗り」を書くまでは身体を投げ出すことで)
自分がわりとちゃんと外部に受け止められるというか、
つながることができると思いこんでいましたからね」
「でもそれは無理なんだ、それは全然意味がない
ということがわかって、つまり外部でしかないっていうことが
わかったので『ぶらんこ乗り』を書き始めたのだと思うんです」
★『文藝特集いしいしんじ』★

『ぶらんこ乗り』を書き上げた頃、小三冶の落語を観に行き、
園子さんと知り合う。

■2001年(35歳) 『トリツカレ男/ビリケン出版』『人生を救え!/朝日新聞社』
「マオマオネット」で「虹色とんかつ」等、
ごはんで遊ぶような連載が始まり、その後今も続く『ごはん日記』に。
『ごはん日記』にはおいしそうに食事する描写がたくさんあり。

京浜急行で三崎港へ。
路地を散歩していると、海の男のためのバー、スナックがいっぱいみつかる。
「夜霧」「ばっかす」はわかるとして「蜂」ってのはいったいなんだ? 
土蔵などがたくさん残るすばらしい港町です。
引っ越しを検討しながら帰宅。
★ごはん日記★

この年に10年住んだ浅草を離れ、三崎へ引っ越す。

■2002年(36歳) 『麦ふみクーツェ/理論社』
包丁で親指をケガ。

三崎で嫁さんと料理をしていて左手を切ったんですよ。
ダーッと血が出てぶらぶらの状態で病院行って、六針ぐらい縫った。
僕はアトピー性皮膚炎がずっと右手に出ていたんです。
だから利き手でシャンプーや石けんが使えなかったんです。
なのに、それまで使っていた左手が切れてしまって、
「水仕事とか絶対だめですよ」って言われて、
「そうか。明日から右手を使わなあかんのか、
手袋をしてシャンプーとかするの気持ち悪いだろうな」
と思ってその晩は寝たわけ。
そしたら翌朝、右手のアトピー性皮膚炎がまったくなくなって、
ツルツルになっていたんです。
七年ぶりぐらいに右手で歯を磨いて顔を洗って洗いものをして、
「ああ、利き腕の方が楽だ」って思った(笑)。
それで10日ぐらいで抜歯できることになって、
「よかった、このまま出ないかもな」って思っていたら、
タクシーで病院から家に帰る途中、
ふと右手を見るとまた出ていたんだよ。
★『文藝特集いしいしんじ』★

■2003年(37歳) 『プラネタリウムのふたご/講談社』『絵描きの植田さん/ポプラ社』

いしい「『プラネタリウムのふたご』を三崎の家の二階で書いてたんです。
ラストのあたりでクマが踊る場面を書いて、
『クマが踊るわ、どんな風に踊るんだろう』って思っていたら
ふすまがガタガタ揺れるんですよ。
また近所の子どもが遊びに来たのかと思ったので『邪魔やねん』
って言っても反応がないし、でもまだ揺れているから
『何だろう、うっとうしいな』と思ってふすまを開けたらそこにクマがいたんですよ。
黒いクマで僕の胸ぐらいの高さで、しかも踊っているの」
川内「その踊っているっていうのがいいね」
いしい「踊っていたんですよ、本当に」
川内「その時はいきなり自分の頭の中の映像が目の前にビジュアルとして
現れたわけでしょ。おかしくなりそうにならなかった?」
いしい「『自分はこうはならないと思っていたのについになってしまった』
っていうふうにいろんな思いが錯綜しましたね(笑)。
ただ何も言えずに言葉を失って後ずさって、急に腰に力が入らなくなって
ペタッて床に座り込んでしまった。
逃げようと思うんだけど身体も固まって動かない、
そこにクマが踊りながらやってきて……」
川内「怖いわ(笑)。しゃべれるんですか?」
いしい「しゃべれない。その時にもしかしたら僕は悲鳴を
上げたのかもしれないんだけど、それも覚えていないんです。
そしたら「どうしたの?」ってクマが言って着ぐるみの頭を取って(笑)。
嫁さんだったんですよ。
嫁さんはコマーシャル関係の会社に勤めていたんですけど、
たまたまその日に会社を辞めて、辞めるにあたって
「何でも好きなのを持っていっていいよ」って言われたので
クマの着ぐるみをもらって三崎までドライブしてきたんですね。
それをそっと持って二階に上がって着替えてふすまをがりがりと
こすった」
★『文藝特集いしいしんじ』川内倫子さんとの対談★

■2004年(38歳) 7月、中島らもさん亡くなる。
8月、園子さんと結婚。

園子さんは中劇再生のための会合に出て留守。
ひとりで麻婆茄子をつくり、工房のトマトといっしょに食べ、夕方に買った本を読んでいる。
留守番電話に返答の電話をしたら、昨夜、中島らもさんが亡くなったと知らされた。

朝起きて新宿へのバスに乗り、らもさんのことをいろいろと思う。
幸い、隣の席には誰も座っていなかった。親しいひとの死はいつも突然やってくる。
遠くの森や夏雲や家並みをただじっと見ている。
毎年こういう景色を見るたび、らもさんのことを思い出すだろうと思う。
★『ごはん日記』★

二階のちゃぶ台で書類を整え、判子を押す。
23年前に亡くなった父方の祖母は名前を「園子」といった。
ぼくは四人兄弟の二番目で、園子おばあちゃんにいろいろと面倒をかけることが多い、
いわゆるおばあちゃん子だった。
三年前、このごはん日記のなかに「園子さん」という名前を見いだした両親は、
「いったい誰や?」と電話をしてきた。
「まぼろしのおばあちゃん」とこたえると、両親とも大いに混乱した様子で、
あとから「あいつ、だいじょうぶか」(父)
「昔のしきたりとか詳しいみたいやから、ほんとうにおばあさんかもしれへんわ」(母)
などと物陰でひそひそ会話を交わしあったらしい。
まじめな父母なのです。
戸籍上、園子さんは明日から「石井園子さん」になる。二代目襲名です。
初代園子さんは猫が好きでなかった。
犬を家にあげるのも「けじめ」といって許さず、土間でつないで飼いつづけた。
二代目石井園子さんは猫の化身であるいっぽう、
尾久の実家にいる「テツ」はやはり、庭につながれた生粋の番犬です。
初代は毛糸の編物が好き。二代目は松本で日々染織に取り組んでいる。
うちの母は電話で、
「わたし、イシイソノコさんに挟まれたサンドイッチの具」といっていた。
松本の家の園子さんのこたつには、園子おばあちゃんの編んだ、
色とりどりのこたつカバーがかかっている。
★『ごはん日記』★

■2005年(39歳) 『ポーの話/新潮社」『白の鳥と黒の鳥』

2006年06月10日(土) いしいしんじさん年譜メモ(1998年〜1999年)
■1998年(32歳)『みみだれ通信』vol.1発刊。
『うなぎのダンス/アスキー』『その辺の問題/メディアファクトリー』

この頃、1997年から書き始めていた2千枚の長編小説が完成。
長薗さんに渡すが、出版はされない。

ちょうど今、書いている長編が終わりかけなんですけどね。
例えて言うと、今まで考えたり読んだりしたけど忘れてしまっているさまざまなことが、
意識の底のどぶ池にずぼずぼ溜まっていて、そこにバキュームホースを突っ込んで、
その先っぽを握りしめて、発射の勢いを調節しながら、
壁に絵を描いていっている、と、そういう感じなんです。
★その辺の問題★

らも「君は、長いのは書き終わったの」
いしい「昨日、終わりました」
らも「どんな感じで終わった」
いしい「なんか、ずっと野生の暴れ馬に跨って、
ふと気づいたら、相手が静まってなついていた、いう感じですね。
ブルブルって、鼻、鳴らして」
らも「ええなあ、羨ましい」
いしい「後は、馬の毛並みにブラシ入れて、
待っててくれた仲買人さんに渡すんです。
たっぷり丸1年かかりました」
★その辺の問題★

長薗「B4ででっかいダブルクリップ二つ使ってやっと束ねたのを
重ねて持ってきたんですよ。
それがまたコピーしたてで熱いの。
『熱っ』とか言ってるのに『読んでください』って。何枚あったのかな」
いしい「どうでしょうね、原稿用紙で二千枚以上はあったんじゃないですかね」
長薗「『何だこりゃ、預かって読むよ、今は読めない』て、そのあと
飲みに行ったんだけど、とにかくいしいがめずらしく興奮してて、
今までで一番興奮していたんじゃない?」
いしい「うん、そうでしょうね」
長薗「何かもう瞳孔開いたみたいな感じで(笑)」
いしい「本当におぼえてない」

長薗「それは本にならなかったんです」
いしい「ボツったんですよ。わけがわからないっていうことで。
『読めません』て」
長薗「僕だって読むのに一ヶ月半ぐらいかかりました。
ノート取らなければわからないんだもの(笑)」

■1999年(33歳) リクルート時代から親しくしていた亀谷誠さんが亡くなる。
喘息が再発。右手指がアトピー性皮膚炎に。ガラスをよく割る。
左腕には力が入らなくなり、「いつもダランとさがっている」状態が1年ぐらい続く。
血尿も。
荒木経惟さんに「今小説とか書いたらお前は死ぬかもしれんからダメだよ、
当たり障りのないものを書いてしのげしのげ」と言われる。

いしい「この前、浅草でその頃に撮った写真というのが出てきたんです。
もうね、しりあがり寿さんの描く死人みたいな感じなの、痩せこけてて。
俺もこいつが現れて『小説書いてます』って言ったら『やめろ』って言う(笑)」
★「文藝特集いしいしんじ」★

「血尿が出た。ある日を境にとつぜん、赤くなった。
便器に流れるピンク色の血の筋にうっとり見とれ、なあるほど、
たしかに小便とは濾された血液のことだったな、なんて2、3日は
感心していたものの、そのうちえび茶色に変色したあたりで観念し、
近所の病院へ出かけた」
★『グレートピープル。ストレンジ』★

「今ではもうネタ話にしていますけどね。
(血尿は)相当不安だったです。
だからその頃に長薗さんと会っても、何かろれつが回ってなくて
わーっと喋っているような雰囲気で」
「本当にのべつ飲んでいて。だって飯食ってなかったですよ」
★『文藝特集いしいしんじ』★

「ここ数週間、毎朝起きると必ず線香を2、3本に火をつけ、
玄関や洗面所や、スピーカーの上になど立てては煙を見ている」
★『グレートピープル。ストレンジ』★

長薗「その頃いしいが『もうこの1年間とってもいやだった』
って言ったんですよ」
いしい「亀谷さんが亡くなって、それでものすごい闇の中に入って行った
感じがあったんです。体は一層ボロボロになっていくし。
ただ外ヅラは普段はそんなに悪くない。
『グレートピープル。ストレンジ』みたいなものを書いて渡してとかって
いうのは普通にできていたんです。
でも家では自動書記っていうのが大げさではないくらい、
何も考えず、ずっと書いてた。
自分の中にしかその話がどういう意味を持っててとかいうのは
わからないと思うんですけどね。
それでもやっぱりすごい大きかったですね。
自分が書くものが人に伝わらないというのが実は当たり前なんだ
ということに気がついたのは。
それまで自分が思っていることや書くことというのは、
必ずみんなに伝わるはずだって思ってたんです」

いしい「ただ、あれ(2千枚の小説)は自分の中にあったものなんです。
アイデアを何かからもらって書いたものではないというのは確かなんです」
★『文藝特集いしいしんじ』★

1999年の12月31日は、帰省して天王寺で座りこんで過ごす。

年があけて帰って、起きたらいろんな空気がきれいになっていた。
「今年は違うのかな」と思っていたら理論社から電話がかかってきて、
長編小説を書き下ろしでやりませんかという話があったんです。
★『文藝特集いしいしんじ』★

2006年06月09日(金) いしいしんじさん年譜メモ(1989年〜1997年)
■1989年(23歳) リクルート入社。 
スイス、スペイン(バルセロナ、バレンシア、マラガ)、ドイツ(フランクフルト)へ旅行。
           
長薗「あれは朝日だっけ」
いしい「そうです。リクルートの内定者が朝日新聞に僕のことを『ふざけたやつがいる』
って書いたんです。
『(内定者の中に) リクルート事件をおちょくった替え歌を歌っているやつがいる。
信じられない。私はこんな会社に入社するのはいやだから辞めます』って(笑)」
★『文藝特集いしいしんじ』★

経理とか営業とか、そんな仕事が一回してみたかったんです。
でも、結局、そういうところには配属されず、新規事業開発的な、
なにをやっていてもいいようなところで、ブラブラ社員してました。
そういえば、入社式では、チェッカーズ「涙のリクエスト」の替え歌
「涙のリクルート」を唄いました。
「涙のリクルート 最後のリクルート(コーラス) 最後の札束 
祈りをこめてmidnight官庁 ダイヤルまわす僕に教えて まだ不起訴よと
トランジスタのボリュームあげてはじめて知った かもめの大将 
江副の逮捕 きびしすぎるね ひどい仕打ちさ」
と唄ったら、なぜかそれが朝日新聞にも「なんと、ふとどき新入社員」
とスクープされて、有名な新入社員になってしまいました。
僕は、リクルート事件まっただ中にリクルートに入社したんです。
さすがに、そんな奴が営業や経理では、ヤバイかなぁ…と思ったんですかねえ。
★マオマオネットインタビュー★

■1990年(24歳) モーリシャス、コモロへ旅行。
シーラカンスを釣りに行った顛末を書いた絵日記『シーラカンスの絵日記』
がリクルートで小冊子として配られる。

長薗「『このゴールデンウィークにシーラカンスを釣りに行きます」って言うんで、
『何言ってんだ、お前』みたいな(笑)。
くしゃくしゃの新聞記事か雑誌の切り抜きを取り出して、『ほら、見てください、
ほんまに釣れるんですわ』って言うんで『本当に?』とか言いながら、
一口1000円だっけ、それを三口出した」
いしい「お金を集めてたんですよ」
★『文藝特集いしいしんじ』★

■1991年(25歳) ジャマイカへ旅行。山賊に襲われる。

いしい「市場を歩いていたら、顔なじみのプッシャーが来て、
『山の上にミック・ジャガーの別荘があって、開放したある。
おもろいから、行ってみい。笑うで』言うんで」
らも「あるんかい、ほんまに」
いしい「で、ラリって山道登ってたら、呼び止められたんです。
『ヘイ、マンコフェイス!』って。
らも「うまいこと言うたな。君、そういう顔、してるよ」
らも「してませんって。なんやろって振り返ると、
木の陰から、3人、忍者みたいにすすっと現れまして、
手に手に、石持ってるんです」
らも「うわあ」
いしい「林に連れ込まれて、殴られて、血塗れになって逃げながら、
財布から一枚ずつ、撒きビシみたいに、道に札を投げていったんです。
最後の札がなくなったときに、山頂の別荘地に飛び込んで助かったんですけど」
★『その辺の問題』★

■1994年(28歳) 『アムステルダムの犬/講談社』
長薗さんが雑誌『ダ・ヴィンチ』を創刊。
いしいさんも編集部へ異動する予定だったが、
もとの部署が急遽いしいさんを出さないという結論に。
リクルートを退社。着ぐるみをよく着ていた。

当時、長薗さんと同じくらいお世話になっていた
関さんという人事役員のところに行って「辞めます」
って言ったら、
「本を書くんだろ。じゃあ、そこの書類書いていって」
って、全然引き止めてくれないんです(笑)。
「これで本当に辞めたんですかね」
「そうだよ、お前はもう関係ねえんだ」って言われて
「そうすか」って帰ろうとしたら、
「ちょっと待てよお前」って後ろから追いかけてきて、
「飲みに行くぞ」って、夕方の四時くらいからだったんですけど、
「いいんですか関さん、取締役なのに」
って聞いたら「いいんだよ、取締役だから」
って、あれはすごい嬉しかった(笑)。
★『文藝特集いしいしんじ」★

『ダヴィンチ』に新進作家として「いしいしんじ 犬の本10冊」が載る。
『畜犬談』太宰治
『爆弾犬』ヘンリー・ローソン
『野生の叫び声』ジャック・ロンドン
『ボートの三人男』ジェローム・K・ジェローム
『チャーリーとの旅』ジョン・スタインベック
『人イヌにあう』コンラート・ローレンツ
『愛犬物語』ジェイムズ・サーバー
『世界の犬種図鑑』
『街角で笑う犬』椎名誠
『犬のルーカス』山本容子
の10冊。

■1995年(29歳) 『なきむしひろこちゃんはかもしれない病かもしれない/講談社』 
『ダ・ヴィンチ』11月号でスチャダラパーにインタビュー。

ボーズ「遠くの声を探して」アニ「因果鉄道の旅」シンコ「とうとうロボが来た!!」
とそれぞれ本を選んだスチャダラパーの3人にいしいさんは
「ところで、3人それぞれ別の本を持ってきていただいたわけですが、
3人で1冊なら『ドカベン』じゃないか、なんて思ってました」と発言。

■1996年(30歳) 『とーきょーいしいあるき/東京書籍』
5月「ダ・ヴィンチ」で中島らもさんとの対談始まる。
対談の前日に酔って三越のライオンに跨り、
警察に職務質問を受ける。一晩留置所に。

長薗「『ダ・ヴィンチ』で中島らもさんのインタビューに行ってもらって、
そしたら、らもさんがいしいのことを気に入って、
「対談にしてもらおうか」っていうことになったのがきっかけですね」
★『文藝特集いしいしんじ』★

ボクシングジムに週3で通う。
食事にあまり興味がなさそうな時期。

いしい「定食屋に『いしいくん定食』いうの、作らせたんです。
入ったら、必ずそれが出てくるし、なんにも手間がいらなくて、えらい楽なんですよ」
らも「それは、どんなメニュ−なんや」
いしい「タマゴご飯に、味噌汁です。塩辛もついて400円」
らも「君も、幸薄い食生活、送っとんなあ」
いしい「この塩辛が、、ぞくぞくするくらいまずいんですよ」
★『その辺の問題』★

いしい「この夏、突然、右脚が曲がらなくなったんですよ。
洒落にならんから、急遽、健康保険に入りましてね」
らも「君、保険すらなかったんか。非国民やな」
いしい「大学病院言ったら、MRI検査っていうの、やらされたんです。
レントゲンの大袈裟なやつ。これがまたごっつ高くて、8000円くらいする。
で、結果が出たいうんで行ったら、写真眺めながら、
「いしいさん、あなたの半月版はでかい。いや、でかすぎる」
「はあ、それが原因なんでしょうか」
「いやそれは別に関係ないんだけどね」って。何じゃそれ」
らも「がっはっは」
いしい 「じゃあ、早く教えてくださいよ」
「あのね、わからない」「え?」「原因不明、はい、これ」って、
紙一枚渡されて、見たら、リハビリ体験基本8コースって書いてあって」
らも「はっはっは、おっかしいねえ」
いしい「冗談じゃない。体操一回あたり1000円ですよ」
★その辺の問題★

「たいふう」から続く幼稚園の頃に書いた「サイシリーズ」とか、
小学校や中学生の頃にやっていたことから
ある意味三十歳くらいまで続いていくものというのは、
たぶん「たいふう」で一瞬つながった感覚を求めていたんでしょうね。
「あの時はつながったの今つながらないのはおかしい」というような
感覚を頼りにいろいろくり出す。
出すんだけれども裂け目にどんどん落ちていって、結局三〇歳ぐらいで
種切れになって出すものがなくなったと感じて、
あるいは結局つながっていなかったのかもしれないって思って、
ヒュッと横を見たら「ああっ、『たいふう』でつながっていたのか」っていう
感じなんです。
★『文藝特集いしいしんじ』★

■1997年(31歳) 『シーラカンス/金の星社』
中島らもさんと一緒にアムステルダムへ。
1時間のラジオ番組を1年半続ける。

いしい君は哀しいくらいに頭のいい人で、例えばこういうことがあった。
3回分の対談を収録しようというので、ロケイションをアムステルダムに定め、
延々と何時間かしゃべったのだが、実はテープレコーダーにトラブルがあった。
3時間分、何も録音されていなかったのである。
いしい君は「大丈夫ですよ。記憶をたよりにまとめますから」と言った。
そんなことが可能なんだろうか。少なくとも俺なら無理だ。これは確言できる。
ところがいしい君は記憶の縄バシゴをつてにして、みごとに3本分の記事を
ものにしてしまったのである。
俺は心のなかで驚きと賞嘆の拍手を送ってしまった。
★『その辺の問題』あとがき/中島らも★

勝新太郎さんが亡くなったと知り、葬儀に参列。
なぜか前の列へ通され、勝さんにごく親しい人々に囲まれて
の式を体験。

2006年06月08日(木) いしいしんじさん年譜メモ(1966年〜1988年)
■1966年 2月15日生まれ。大阪の帝塚山出身。
■1970年(4歳) 幼稚園の宿題で「たいふう」書く。
その後「サイシリーズ」など続々書き上げる。
おばあちゃんのお茶器にオバQの絵を描いて、
「今度描いたら、お酢を飲ませて体をぐにゃんぐにゃんにして
サーカスに叩き売るよ」と怒られたりも。

いしい「(自分の身体を)お供えというか貢ぎ物みたいに出して
喜ばせる、そういう外部と自分との距離のとり方だったと思います」
編集部「それはいつ頃から始まったことでしょうか」
いしい「『たいふう』を書いたあとからじゃないかな」
編集部「書いたことで変化が起きたんでしょうか」
いしい「ウケたからじゃないですかね」
★『文藝特集いしいしんじ』★

■1972年(6歳) 小学校入学。旺文社文庫を愛読。

いしい「小学生のとき、歌を習ってました」
らも「へえ、どんなん歌ってたんや」
いしい「『ぼくらはみんなーいーきているー』とか、いわゆる唱歌を。
大阪のフェスティバルホールで、発表会をやったんですけどね」
らも「大物シンガーやな」
いしい「歌詞ど忘れして、やけくそになって、
全部、替え歌にしてしまったんですよ。
『クラゲだって、浮輪だって、ものごいだーって』なんて。
ものすごい受けましたけど、虚しかったな」
らも「親御さんは、客席で、つらかったやろな」
★『その辺の問題』★

よく服を脱いで走り回ったりしていたが、担任の先生に
「いしいくんは本当に女の子がすきやねんな」と言われて
「すごい失敗した」と感じやめる。
その後、テストや提出物に自分の名前を書かず、
勝手に作った名前や空欄のまま提出するように。
空想の日記も書く。友達とは野球やがきデカやテレビの話など普通に話す。

小学校三年生の頃に書いた日記が出てきたんですけど、
もう嘘八百ばかりなんですよ。字も勝手にあみ出したりしていて。
その日記に先生がずっと判だけをついているんです。
途中で僕が日記のあとがきを書いていて、
「先生、判子ばっかりじゃおもしろくないから何を思ったか
ちゃんと書いてください」って訴えていて。
★『文藝特集いしいしんじ』★

■1977年(11歳) 心斎橋の手塚治虫講演会に参加。
整理券待ちの行列に並んで後方正面の席を手に入れる。

■1978年(12歳) この頃まで小児喘息の為、
毎週水曜日は学校を休んで注射を打ちに。

小学校高学年から中学校にかけては、小児喘息にかかっていたこともあって、
身体と精神、両方の病院に通い、学校も休みがちになりました。
そうすると、学校の一員とは思えなくなって、
傍観者の気分でみんなを見ていました。
★マオマオネットインタビュー★

■1979年(13歳) 中学校入学。家にあったルソーの『告白』を読み、気に入る。

■1982年(16歳) 高校入学。シャガールの絵を見て画家になると思う。

「おれが子どもの頃から思い描いていたものが、
こういうふうに絵になっている。つまり、おれは絵描きになるんだ。
というよりも、頭の中にそういうものがあるんだから、もうほとんど絵描きだ。
あとは絵を描くだけだ」と思い込んだんですね。
★『文藝特集いしいしんじ』★

■1983年(17歳) アメリカ(イリノイ、ワシントン、バージニア、サンフランシスコ)へ旅行。

高校2年生の時に初めてアメリカに短期留学で2ヶ月が最初です。
そこは、まだ日本人もきたことも無いようなくらい田舎で、
僕が行ったときに新聞ネタになったくらいでした。
そこではいろんな事を経験しました。いままで服用したこと無い変わった薬や…
まあいろいろな体験をしました。でもそんなんは、やめといたほうがいいなあ。
はじめて道化師のかぶりものをしたのもこのときです。
それ以来様々な場面でかぶりものをするようになりました。
たとえばパーティなんかで全身着ぐるみでいるとみんなからは、
見えないわけで、小さい頃、学校を傍観者としてみていたような、
そんな感じです。まあただ最近はかぶりものにたよらなくてもよくなりました。
たぶん、気持ちのバランスがいいのですかねえ。
★マオマオネットインタビュー★

■1884年(18歳) 芸大受験に失敗。デザイン事務所に就職。

デザイン事務所の社長にある日、「いしい君、きみはなぁ、
芸大とかに行ったらあかん」と言われたんですよ。
「おれは昔から、きみみたいな人間が芸大に行って
どんどん頭がおかしくなっていくのを何人も見ている。
だから、よくない。ふつうの大学に行きなさい」と。
その人の言い方がものすごく真に迫っていたので、
勉強して大学に行ったんです。
★『文藝特集いしいしんじ』★

■1985年(19歳) 京都大学仏文学科入学。フランス(パリ)へ旅行。

山田稔さん、宇佐美斉さん、吉田城さんなどが当時の仏文先生陣。
しかし興味があったのは生物学や博物学。
キュヴィエ、ラマルクなどを原語で読んでいた。
ジャコメッティと矢内原伊作さんの本も好き。
法律にも興味があり、裁判を傍聴しに行ったりも。

卒論は
「博物学で書いたんですよ。
それこそ、マンドラゴラとか民間伝承について」
★『その辺の問題』★

大学2年で専攻を決めるわけなんやけど、
仏文はフランス語で書いていることだったら何を勉強してもよかった、
というのが一番の理由かなぁ。
文学でも、政治でも、経済でも、料理の事やら絵画の事やら、音楽の事やら、
何を読んでもええ。
もう一つの理由としては、大学2年のときヨーロッパに行って
フランス人の女の子がいちばんかわいかったというのあるなぁ。
結局、僕が好きで読んでいたのが、フランスの生物学の話で、
いろいろな船長さんが他の大陸から戻ってきては、嘘の話ばかりしているような。
例えば、アフリカには羊のなる木があると言えば、
新聞にそのまま載ってしまい、今も記事とかスケッチが残っていて、
そういうものを読むのが、すごい楽しかったんです。
★マオマオネットインタビュー★

おもしろい授業は、ときどきありましたね。森毅先生の数学とか。いきなり
「諸君、数学において、数とはいくつまで勘定できたら偉いか、答えよ」
って、指さして当てるんですよ。
「自分は、無料大数という位まで、知ってます」
「阿呆、死ぬまで勘定しとれっ」とか言って。
結局、森先生が言うんです。
「あのな、君らの言うとるのは、算数。数学における数とは、3つでええ。
0、1、ぎょうさん。この3つやっ」
今でも覚えてますね、「存在するんか、せえへんのか、
するんやったら単数か複数か。これを考えるのが数学ですっ」て。
格好よかった。
★『その辺の問題』★

外国の美術館で、ジャコメッティの30センチほどの立像を見ていて、
「奇をてらってこんなカタチになったのではないそうだよ」
「ジャコメッティには実際、生きたヒトがこんなふうに見えていたらしい」
と学芸員のおじいさんに話しかけられる。

大学を卒業する直前、知人の紹介だ、ということで
「カネコ」という人物から吉本興業へスカウトされる。
一晩「ネタ」を見せ、ラーメンをごちそうになるが、
翌日以降連絡はなし。知人も「カネコ」など知らないと言う。

2006年06月07日(水) 乙女なげやり/三浦しをん
これは、群れで生活する動物のサガなのか。
あるテリトリー内での順位づけというか役割分担ができてしまって、
それに則って日常生活を演技する。
演技するだけの余裕や情熱がなくなってしまうと、
共同生活はうまくいかない。
いかなる愛情も、つきつめれば実態は「演技する愛情」なのだ。
演技できるかどうかによって、愛情が持続するか終息するかが
決まるんじゃないだろうか。
もしかすると『ぼくの魔法使い」は「人間関係は演技で成り立つ」
ということを描いているのかもしれない。


★乙女なげやり/三浦しをん★

2006年06月06日(火) 東京に暮す/キャサリン・サンソム
扇子も慎重に選ぶ必要があります。
寒い季節が過ぎるとあちこちで扇子を目にします。
大工さんも持っていて、腰に差したり、
着物の袖の中に入れたり、もっと粋に首の後ろの襟の中に差して
扇子の先が耳の横に見えるようにしたりしていますが、
イギリスの労働者では考えられないことです。


★東京に暮す/キャサリン・サンソム★

2006年06月05日(月) 東京に暮す/キャサリン・サンソム
六、七年前モスクワを通過した時は大変な猛暑でしたが、
紙の日傘がただみたいに安く誰でもがさしていた極東と違って、
日傘をさしている人はいませんでした。
唯一の例外は、ウラジオストックからシベリア鉄道に乗せて日傘を持ってきた私でした。
その他の私の持ち物はわずかで、自分で持てるだけ、
すなわち小さな旅行かばん二つと旅行用のクッションだけでした。
私は「ブルジョア」に見られないように気をつけました。
久しぶりに外見からは外国人であることがわからずに済むのは気持ちが良いものでした。
極東と違ってモスクワでは私もプロレタリアートの群集の中に溶け込めるはずでした。
それが日傘のせいで駄目になってしまったのです。
その時私はロシア型の革命は日本では絶対に成功しないだろうと思い
嬉しくなったのです。
日本は古くからの伝統が国民全体に伝わっている非常に恵まれた国です。
みんなが何でも買えるというわけではないにせよ、
この商品は特定の人しか所有できないといった階級差別はありません。
だから、たとえ革命の恐ろしい鐘がなったとしても、
日本の夏の街には風にゆれる色鮮やかな日傘で相変わらず花壇のようであると
私は確信しています。


★東京に暮す/キャサリン・サンソム★

2006年06月04日(日) 東京に暮す/キャサリン・サンソム
日傘や扇子のことが話題になるとつい心が弾んでしまいますが、
それをわかってもらうには実物を見てもらうことです。
実に美しい花模様の和紙や絹の典型的な和傘は、洋風の日傘に引けを取りません。
後者もヨーロッパのものよりはずっと華やかなのですが、
日本では和服姿の女性は帽子を被らないし、
男性も夏には帽子を被らない人が多いので、日傘は私たちにとっての
ハンカチと同じように必需品であります。
白と紺の浴衣と大胆な柄の日傘が行き交う夏の日本の街は
芝居の舞台のように華やかです。


★東京に暮す/キャサリン・サンソム★

2006年06月03日(土) 東京に暮す/キャサリン・サンソム
ところで、商品の中でひときわ鮮やかで美しいものは絹や綿の
女性や子供の着物です。それに日傘です。
日本人は本当にこういう華やかなものが大好きです。
日本に来れば、お金持ちだけが美しいものを楽しんでいるわけではないことが
すぐにわかります。
イギリスでいうとフランスの高級デザイナーの最新作品に相当するような
非常に美しくて大胆な着物を、田舎の女中の娘があかぎれの手で触っているのを見るのは面白いものです。
この娘にその一番豪華で一番高価な着物が買えるはずはないのですが、
娘と社交界の婦人との間に好みの違いはありませんし、
娘にも美しいものをめでる権利があります。
お客を平等に扱うという点では日本に勝る国はないでしょう。
急き立てる人もいませんから、娘は何時間でも好きなだけ着物に触ったり
じっと眺めていることができます。


★東京に暮す/キャサリン・サンソム★

2006年06月02日(金) 今日の家元/立川談志
6月1日 銭湯の四百三十円は高い。もう行かない。
2日 ずっと家に居る事は体に悪いのか?
3日 バスで帰りな・・・。
4日 酒と薬の日々。
5日 あの絵は盗作である。
6日 保谷もにぎわい座もちゃんと受けてる。ケド、演舞場の客は受けナイ。
7日 家元は石原慎太郎を大事にすると決めた。
8日 意識が朦朧としてる・・・。
9日 マーベリックスに勝たせてやりたい。
10日 牛の喧嘩ぢゃあるまいし・・・。
11日 日本が勝てるもの何かないかネ。
12日 エレベーターに事故が無いとでも思っているのか。
13日 頑張ったってロクな事ぁナイ。
14日 喰い物の奴隷である。
15日 今日は酒の薬も飲みたくない。
16日 今日はよく歩いてる。
17日 電車は早い。
18日 薬飲まないでずっと起きててみようか。
19日 ジェイソン・ウィリアムズとゲイリー・ペイトンに勝たせてやるのもいいか。
20日 「ココシリ」はよかった。「ポセイドン」は酷かった。
21日 ホテルにカンズメ、いい物喰ってナイ。
22日 家元は腹ァ減るとまづビールである。
23日 左耳が聞こえない、もう駄ァ目ー。
24日 晩節を汚したくないという思いはアリマス。
25日 中国は纏まらない。
26日 料理はオリジナリティーである。
27日 ラーメンには裏切られる。
28日 サッカーなんざぁブラジルが優勝してオシマイ。
29日 町興しは犯罪に限る。
30日 ベトナムへ行ってきます。これがサイゴン・・・。


★今日の家元/立川談志★

2006年06月01日(木) 「高田渡 高田漣 27/03/03」解説/佐藤英孝
ただし、私とて渡さんのライブを全く観たことがないわけじゃなくて、
その素晴らしさも恐ろしさも重々知っているつもりだった。
あるときには笑わせ泣かせて本当に一生忘れられない体験を与えてくれることもある。
しかし、がっつり飲酒した状態で相当にでろんでろんで、
話もおぼつかなければギターも満足に弾けない、
という凄まじい生き様を見せつけられることもある。
勿論、その両刃の剣ぶりこそが渡さんであり、
ロシアン・ルーレットみたいにどっちにあたるか判らないのも一興でもある。
とはいえ、録音物をリスナーに届けるのが第一義ですから、
「うへえ、べろんべろんだぁ。面白れえなあ」と喜ぶ一方でもいられないわけで。
そこで思い出したのが、渡さんのライブって、共演プレイヤーの人数が
少ないとき、それも息子さんの漣さんと一緒のときの打率が、
実に高いことだった。


★「高田渡 高田漣 27/03/03」解説/佐藤英孝★

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