Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2007年12月27日(木) 師走の喜怒哀楽



「 人生はレールの上を走っているわけではない。

  いつも思い通りの方向へ行くとは限らない 」

                     ウィリアム・ボイド ( イギリスの小説家 )

Life doesn't run on railway tracks.
It doesn't always go the way you expect.

                                   William Boyd



今年も残り僅かだが、悔いの残らないように、しっかり頑張りたい。

去年と違って、風邪もひかず、健康に年越しを迎えられそうだ。


人間は 「 喜怒哀楽 」 の感情を持つが、最近の子供たちは、昔に比べると総体的に 「 怒り ( 怒 ) 」 の感情を表出させることが多くなっているという。

怒りと同じような負の感情でも、こと 「 悲しみ ( 哀 ) 」 に関しては淡白で、感情反応が少ないという調査結果が報告されている。

本来、悲しいという感情は、何かを失った物質的喪失感、心理的喪失感、あるいは、目標を達成できなかったことなどが、主たる原因となる。

物を大事にしなかったり、人を愛さなくなったり、達成すべきことへの関与が弱すぎることで、最近の子は悲しみの感情反応が少ないのかもしれない。

また、悲しみが減少したからといって、その対極にある 「 喜び ( 喜 ) 」 の感情が増えたわけではなく、単に、怒りだけが増えているようだ。


怒りと悲しみは、どちらもネガティブな感情だが、怒りは誰にも自然に出てくるもので、悲しみは、ある程度の生活体験や想像力がないと生じにくい。

そういう意味では、怒りの感情を多く出す人より、傷ついたり、悲しんだりといった感情を表出しやすい人のほうが、人間的な成熟度は高いようだ。

喜び、楽しさといったポジティブな感情も、実は、この 「 悲しみ 」 に深く関係していて、悲しみを知っているからこそ、生まれるという説がある。

喪失感があるからこそ、物の有難みがわかるし、達成できないときの悔しさがあるからこそ、やり遂げたときの喜びや手応えが味わえるものだ。

そういう話を聴く機会があったので、自分自身の最近において、喜怒哀楽を感じた場面を思い出し、まとめてみることにした。


「 喜 」 については、中国関係で新たな投資を計画していたが、実行直前に不安要素を友人の国際弁護士から教えられ、中断した事例が挙げられる。

期待をしていた投資だったので、心残りな部分もあるけれど、損をしないですんだと思えば幸運な話だし、旧友への感謝は紛れも無く 「 喜 」 である。

「 怒 」 については、つい先日、彼女とドライブをしていたとき、障害者の方が運転する車が進入しようとしたので、徐行して進路を譲った際の話。

多少、進入に手間どられたのも事実だが、後ろにいたダンプカーの運転手が何度もクラクションを鳴らすので、ムカついて車を降り、睨みつけた。

すると、途端に大人しくなったのだが、助手席で彼女の呟いた 「 ヤ○ザ風の車種と人相だから、相手がビビッたのよ 」 という台詞に 「 怒 」 である。


「 哀 」 については、社会人になりたての頃、色々と面倒をみてもらった当時の上司が亡くなり、かつての仲間と共に葬儀へ参列したことだ。

その際に、上司の訃報はもとより、同期の一人が癌で急逝していた事実を知らされ、予期せず二重の悲しみに接する 「 哀 」 となった。

「 楽 」 については、初めてクリスマスシーズンに中国へ行き、従業員一同で心のこもったパーティを企画し、楽しませてくれたのが嬉しかった。

遠く離れた場所で、普段は実務を丸投げしているような 「 悪い経営者 」 に対し、それでも気を遣ってくれる彼らには感謝感激である。

また、帰国後すぐに彼女と会って、色々と不平不満はあるだろうに、上機嫌で素敵なイブを過ごしてくれたことも、「 楽 」 に挙げねば バチ があたる。


とまぁ、このように平凡な日常風景ではあるが、そこには喜怒哀楽と、気の置けない仲間との触れ合いや、ささやかな幸せに包まれた自分がいる。

特に何もないといえば何もないし、色々あったといえば色々あった一年が、様々な思い出と共に過ぎ去ろうとする気配を感じる。

日本での仕事は明日で区切りをつけ、新年は7日から再開する予定だが、中国の会社は30日まで営業し、新年も2日から稼動する。

できれば私自身は7日までゆっくりしたいが、メールやFAXや国際電話で、完全なオフにはならないかもしれない。

とりあえず明日は、オフィスの掃除をし、夕方から彼女と買出しに出かけ、ゆっくりと彼女の 「 喜怒哀楽 」 でも伺うことにしようと思っている。






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2007年12月26日(水) 不幸を動機にする犯罪者



「 私たちの幸福のほとんどは、境遇ではなく、心の持ち方次第である 」

              マーサ・ワシントン ( アメリカの初代大統領夫人 )

The greatest part of happiness depends on our disposition,
not our circumstances.

                              Martha Washington



苦労して幸福を手に入れた人々は、大方、この言葉に共感する。

苦労を避け、たえず幸福じゃないと嘆く御仁には、永遠に理解されない。


大阪在住の 押谷 和夫 容疑者 は、38回にわたり使用済みの女性用下着など 計=約120点 を民家に投げ込み、逮捕、起訴された。

動機は、「 下着を人が拾って、ビックリするところを想像すると興奮した 」 というもので、性的人格障害、ようするに早い話が 「 変態 」 である。

ところが、捜査の行き詰まっていた14年前の強盗殺人事件で、犯人のものとみられる体液のDNA型が一致し、強盗殺人容疑で再逮捕となった。

しかも、過去の勤務先においては、私的な株式投資のために 約2億円 を着服していた事実まで判明し、捜査陣のみならず、世間を驚かせている。

過去、性犯罪、殺人、横領、それぞれの犯人は数あれど、「 変態で、人殺しで、泥棒 」 というのは、他に類をみない珍しいケースといえるだろう。


もちろん、人格障害者、精神障害者のすべてが犯罪者ではないけれども、犯罪に手を染める者は、多かれ少なかれ 「 精神の異常 」 を擁している。

押谷 容疑者 は警察で、妻の死後、男手一つで子育てをした苦労を挙げ、「 なぜ自分だけ、こんな辛い思いをしなければいけないのか 」 と漏らした。

ちなみに、妻が死去したのは95年で、殺人事件は93年の出来事だから、横領や変態行為はともかく、殺人に関しては何の言い訳にもならない。

第一、男手一つで子育てをする父親が、皆、近所に下着をばら撒いたり、強盗殺人をしたり、横領に手を染めているわけではない。

どんな苦労があったにせよ、「 同じ境遇にあれば、同じ悪事を犯す 」 とは考えられず、すべては彼自身にこそ、問題があるとしかいえないだろう。


近頃、世間には、押谷 容疑者 とまるで同様に 、「 なぜ、自分だけ、こんな辛い思いをしなければいけないのか 」 と嘆く御仁が多い。

単なる世間知らずや、情報不足ではなく、拉致被害者の家族や、理不尽な犯罪の犠牲になった方々、自分より哀れな存在を、彼らは知っている。

だが、他人がどんな苦労に耐えていようと、今年の流行語じゃないけれど、彼らにとっては 「 そんなの関係ねー 」 わけで、自分にしか興味がない。

悲惨な境遇や苦労に耐え、頑張っている人の話は、聞き流して遮断するか、適当に話は合わせるけれど、我が身の反省には活用しない主義だ。

自分は不幸な境遇にあるのだから、どうしようもないのだと嘆いていれば、人並みの努力をせずにすむし、楽で、居心地がよいのである。


妻に先立たれ、子育てをする父親の中には、己の不幸を嘆くだけの御仁もいれば、それ以上に、妻の分まで努力しなければと奮起する方々がいる。

子育ての責任を億劫に思う御仁もいれば、妻は亡くなったが 「 かけがえのない子供を残してくれた 」 と、己の宿命に感謝する人もいる。

このあたりは、家族に対する愛情の深さに起因しているようで、自分本位な人ほど、何かといえば 「 家族を養う責任 」 を、重荷でしかないと語る。

犯罪や、自傷、自殺に走りやすいタイプは、結局、家族や周囲に奉仕する喜びを知らず、自分さえよければいい 「 自己愛型人格障害者 」 である。

身の回りに 「 なぜ自分だけ、こんな辛い思いをしなければいけないのか 」 と口癖のように語る人物が現れたら、注意して観察することが望ましい。


押谷 容疑者が横領した職場の元同僚は、彼のことを 「 目立つタイプではなかったが、仕事ぶりは “ 非常にまじめだった ” 」 と語っている。

彼に下着をばら撒かれた近所の住民は、「 おとなしそうだったけど、自宅の二階から全裸で放尿しているところを目撃し、警戒していた 」 と語る。

この証言から、元同僚は観察力が欠けていて、近所の奥さんのほうが優れていることは明白で、周囲の警戒が検挙の速度にも影響を与えたようだ。

精神障害者といっても、奇異な言動を繰り返すだけでなく、人並みに知力があり、大抵の作業、日常生活は普通に行える人物のほうが圧倒的に多い。

差別や偏見ではなく、社会秩序を維持し、彼らを大きな事件の被害者にも、加害者にもしないために、日頃から周囲が見守る必要があるように思う。






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2007年12月25日(火) イブの食事風景



「 食事をしながら音楽を聴くというのは、コック と ヴァイオリニスト に

  対する侮辱である 」

                ギルバート・K・チェスタトン ( イギリスの作家 )

Music with dinner is an insult both to the cook and violinist.

                          Gilbert Keith Chesterton



お酒を呑む程度ならよいが、生演奏に食事というのは、あまり好まない。

クリスマスなので趣向を凝らしてみたが、やっぱり、不自然に感じた。


世間一般がクリスマスでも、お正月でも、普段以上に汗を流す人々がいて、そうした人たちのご努力により、大勢の人々が楽しい時を過ごせる。

まことに有難いことだと感謝しなければならないが、彼らにも恋人や家族の存在があって、そうしたイベントに参加できない寂しさはあるだろう。

旧知のジャズマンは、何十年もイブに 「 他人の家族 」 を喜ばせる目的で演奏し、ささやかな拍手と笑顔とギャラのため、家を空けている。

以前に、「 寂しくないか 」 と尋ねたところ、「 皆さんより、私は多くの人々の笑顔に囲まれているので、とても幸せな商売です 」 と返答された。

本音かどうかはともかく、他人を喜ばせる作業に誇りと生きがいを求めて、自身や家庭を犠牲にしても仕事に徹する、彼は本物の 「 プロ 」 である。


もちろん、なかには嫌々やってる人もいるだろうし、家に早く帰りたい人や、無邪気に楽しむ酔客を羨ましがっている演奏家もいるだろう。

しかし、そうではなく 「 プロ 」 として、最大級のもてなしを追求する人も多く、彼らは熱のこもった演奏を、華やかなイブの舞台で繰り広げている。

それがわかっている反面、イブには 「 不埒に女性を口説くもの 」 と決めている私としては、演奏と女性、どちらに集中すべきか戸惑ってしまう。

女性に集中すべきか、プロの演奏を傾聴すべきか、半々にバランスを取る ( 女性を小声で口説きつつ、曲間に拍手 )べきか、それが問題だ。

そんな葛藤の最中に、食事なんか出されても、優雅に味わう余裕などないわけで、せいぜい強い酒でも口に運ぶのが、やっとのことである。


そういった経験から、生演奏を聴きながらの食事は、冒頭の 「 料理人にも演奏家にも失礼 」 という言葉に、なんとなく共感するところがある。

どちらかというと、クラシック音楽の弦楽四重奏でもやってくれたほうが聞き流しやすく、ジャズのセッションなんかは、傾聴しないと気がひけてしまう。

クラシックとジャズの大きな違いは、前者が決められた楽器に指示を与えられるのと対照的に、後者の生命が各パートの自発性にあるところだろう。

指揮者もなければ譜面もなく、雑多な個性を持った演奏家たちが、互いの個性を最大限に発揮させつつ、全体の調和を探るのがジャズの醍醐味だ。

そのため、クラシックは 「 機械的 」、ジャズは 「 人間臭さ 」 が表出されていて、どうしても演者のことが気になってしまうのである。


黒人音楽を源流に持つジャズという文化が、アメリカで支持され、大成した背景は、それが極めて 「 アメリカ的 」 だったからではないかと思う。

雑多な個性を持つ人々が、権威ある指導者に頼らずに、自発的に協力することで社会を編成してゆこうという思想は、まさにアメリカそのものだ。

そんなことをボンヤリと考えながら、演奏に耳を澄まし、目の前で楽しげに会話 ( 一方的に ) する彼女を眺め、上の空で食事を口にする。

これこそ、イブなのに 「 演奏家にも、料理人にも、彼女にも失礼 」 な態度であり、ついでに言うと 「 キリストにも失礼 」 な話である。

当然、「 さっきから私の話、ぜんぜん聞いてないでしょー 」 というお叱りが飛んでくるわけで、その後、事態の収拾に苦労する結果となった。






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2007年12月17日(月) クリスマスの予約



「 女心に通じる道は、美味しい料理を出すレストランのドアを通る 」

                                   英語のジョーク

The way to a woman's heart is through the door of a good restaurant.

                                   English joke



今週は、今年最後の中国出張を予定している。

本来なら10日は行きたいところだが、クリスマスまでに戻らねばならない。


冒頭の言葉は、元ネタの 「 The way to a man's heart is through his stomach. = 男心に通じる道は胃袋を通る 」 をもじったジョークだ。

美味しい手料理が男性の心を射止めたのは昔の話で、当世は、ご婦人のご機嫌をとるために、美味しいレストランを確保する必要がある。

最近は海外向けの仕事が増え、多忙を理由に会う機会が少なかった彼女に、せめてクリスマスぐらいは、感謝の気持ちを伝えたいと思う。

関空に車を置いたまま出発し、24日に帰国して、自宅に寄る暇もなく神戸へ走り、ホテルにチェックインしたらすぐ、夕食に向かう段取りである。

たとえ飛行機が堕ちなくても、道中に何らかのトラブルが起きて、万が一、遅刻するような事態になったら、この日ばかりは 「 命に関わる 」 のだ。


過去、色々な女性とクリスマスを共に過ごしたが、皆、宗教的な意味合いではない 「 特別な日 」 という想いがあり、それぞれ、楽しみにされていた。

それは女性特有の可愛らしさでもあるけれど、その期待を裏切らないように、「 接待 」 する側は、毎回、相応の苦労を強いられるのである。

特に今年は、「 ミシュランガイド東京 」 なんてものが出たおかげで、東京の男性諸氏は、予約の確保に奔走しているのではないだろうか。

経験から言うと、高価なプレゼントよりも、レストランの質が重要で、その後の関係にも影響が大きいように思う。

冷静に考えると、毎回、趣向を凝らさなくても、「 お相手が違う 」 のだから問題ないのだが、男性の場合、昨年と同じでは 「 罪悪感 」 を感じるのだ。






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2007年12月16日(日) 散弾銃乱射事件 : 真相は自殺の巻き添えか



「 人間は自然の犯した唯一の誤り 」

          ウィリアム・シェウェンク・ギルバート ( イギリスの劇作家 )

Man is Nature's sole mistake !

                         William Schwenck Gilbert



12月中旬は、各局が 「 今年の重大ニュース 」 を編纂する時期である。

大抵、この時期になって、それを覆す大事件が起きるから不思議だ。


昨夜、佐世保で発生した 「 散弾銃乱射事件 」 は、当初、犯人像について様々な憶測が飛び交い、真相を解明するには時間が掛かった。

このところ九州の北部では、暴力団の抗争に関わる発砲事件が多かったので、最初は、敵対する組員を狙った犯行とも思われた。

午後10時からテレ朝のニュースが始まると、NHK側では発表の無かった 「 犯人は外国人風 」 という報道がなされ、大きく風向きが変わった。

司会の 古館 伊知郎 氏、論客の 鳥越 俊太郎 氏 とも、佐世保に米軍基地があることから、明言はしないが 「 犯人が米兵 」 の可能性を示唆した。

次のニュースが 「 地球温暖化問題 」 で、両名が好む 「 嫌アメリカ思想 」 を展開するための、これは ガセ による捏造された伏線に過ぎなかった。


今朝になって、犯人が近所に住む37歳の男であり、早朝に自殺したという事実を知ったのだが、乗り捨てた車には、他に二丁の散弾銃があった。

犯人の 馬込 が、射殺された 藤本 勇司 さん の友人で、当日、彼を現場に呼び出していたことなどから、どうやら 藤本 さん を狙った可能性が強い。

巻き添えで命を絶たれた 倉本 舞衣 さん や、負傷者の方々、事件に遭遇して ショック を受けた子供らは、まったく災難としか言いようがない。

近所の住民によると、普段から奇行が目立ち、精神的に不安定で通院していた 馬込 に、銃の所持許可を取り消すよう、警察に求めていたという。

法律では、精神障害のある者に対し、銃の所持許可を与えてはならないと定められており、今後、佐世保署が責任を問われることは必至だ。


このような事件が起きると、犯行の背景に、知人同士で何らかのトラブルがあったとか、恨みなどの動機が潜んでいるのではないかと、普通は考える。

しかし、犯人が 「 教会 」 で自殺していることや、精神障害者の疑いが強いことなどから、「 別の可能性 」 も浮上してくる。

それは、特定の誰かを殺害したかったのではなく、「 自殺願望 」 を持った犯人が、一人で死ぬのは淋しいので、親友を道連れにしたという説だ。

殺された 藤本 さん の親族によると、二人は仲が良く、最近も 藤本 さん の家で昼食を共にしていたという情報が寄せられている。

いづれにせよ、「 自殺者の九割は精神に異常がある 」 という統計があり、その異常者が死んでしまった以上、すべて真相は闇の中である。


いつの時代でも、「 精神異常者の人権擁護 」 と、「 社会の治安維持 」 は両立が難しく、どこの国も手を焼いてきた問題である。

第二次大戦中、ナチスによるユダヤ人迫害はよく知られる話だが、実は、ユダヤ系以外でも、精神障害者の多くが粛清されていた。

それより以前に、アメリカでも 「 悪性の排除 」 という名目で、精神障害者を強制的に去勢したり、不妊手術を受けさせた歴史的事実がある。

そこまでいくと 「 行き過ぎ 」 だが、感情や行動を抑制できない人々に対し、なんでも同等に権利を与えることは、悲劇の引き金になりやすい。

狩猟のために散弾銃の必要な方や、料理のために包丁が必要な奥様方にとっては、けして 「 凶器 」 じゃないモノが、恐ろしい結果を生むのである。


佐世保署は、犯人の 馬込 が散弾銃を所持するにあたって、「 欠格事項はなかった 」 としているが、はたして、どこまでの調査を行ったのか。

精神障害者といえども、外見的には健常者と変わらず、他人と会話したり、文章を書いたり、それなりに働き、普通に生活している人のほうが多い。

また、映画の 『 レインマン ( 1988 米 ) 』 で ダスティン・ホフマン が扮した自閉症の主人公のように、高度な暗算能力を持つなどの例も珍しくない。

見た目に 「 変 」 でも脳が正常なら狂気に走らないし、「 マトモ 」 に見えても治療を必要とするかぎりは、その危険が拭えないのである。

精神障害者に理解を示せという 「 キレイゴト 」 だけでは、結局、被害者も加害者も救えないのが現実であり、これからも同様の事件が起きる。






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2007年12月11日(火) 年金問題に関する三つの疑問



「 疑問を呈しなくなるまでは、人は本当の愚か者にはならない 」

           チャールズ・P・スタインメッツ ( アメリカの電気工学者 )

No man really becomes a fool until he stops asking questions.

                            Charles P. Steinmetz



逆に言うと、「 何も疑問を持たなくなったら、本当のバカ 」 となる。

世の中は不確かなことで満ち溢れ、常に疑問が渦巻いているものだ。


自分の思考を持たず、出来合いの思想に凝り固まる者や、あるいは、その集団のことを 「 原理主義者 」 という。

私のような “ へそ曲がり ” は原理主義に向かず、純粋で、何をやらせても応用の利かない “ 退屈な人々 ” が、原理主義の餌食になりやすい。

常に、尊師が言ったから、アラーの神の教えだから、聖書に書かれているから、日本国憲法に反するから … などの 「 原理 」 が、彼らを支配する。

目の前に、原理では解決できない問題や、原理との矛盾が並んでいても、知りたくない情報に対しては、自主的に情報を遮断してしまう。

こういった 「 知りたくないことには耳を貸さない 」 タイプには、話が通じないわけで、宗教や民族問題などの紛争、あるいは戦争の火種になっている。


今年の政局において、最も関心を集めたのが 「 消えた年金 」 問題だが、なんと 「 流行語大賞 」 にも輝いた (?) らしい。

なんにせよ、問題意識を持つのは良いことだが、「 問題だ 」 という割には、政府与党への口撃ばかりで、深く考えている人が少ないように思う。

年金問題について、私が疑問に感じることは3点あるのだが、そのいづれについても、あまり議論されている様子がないことを不思議に感じる。

まず第一には、「 そもそも年金制度は必要なのか 」 という点で、年老いて働けなくなったからといって、生活に困窮するとはかぎらないはずだ。

子供に養ってもらう方法もあれば、老後までに十分な蓄財を貯める方法もあるし、定年のない仕事に就き、ずっと死ぬまで収入を得る方法もある。


実際、年金受給後に 「 平均 2000万円 」 の貯蓄ができているとの報告もあり、もちろん個人差はあるが、それほど悲惨な状況ではない。

また、「 もしも年金を受給できない場合、生活ができなくなる 」 という人は、全体の 「 二割未満 」 だとする統計資料もある。

これは、年金制度がある前提での調査結果であって、もし、本当に年金がもらえないとしたら、おそらく、その大部分もなんとかして生き抜くだろう。

当然、それでも数パーセントの 「 サバイバル能力に劣る人 」 が取り残されるだろうが、あくまでも 「 わずか数パーセント 」 である。

そこで、二番目の疑問だが、「 年金を加入者全員に支払うべきか 」 という点に、話を移していきたいと思う。


消えた年金問題を、銀行預金にたとえて、「 銀行に預けたお金が、窓口で不明だと言われたら、腹が立つでしょう 」 などと仰る御仁がいる。

年金の支払いを、老後の生活に困る年寄りのためだと考えるなら、これは 「 生活保障 」 であって、「 投資 」 や 「 保険 」 の類ではない。

お金を銀行に預けるのは、「 堅実に運用して利息を還元する 」 という契約に基づいた 「 商行為 」 であり、まるで年金とは性質が異なる。

銀行の商売と、国民の生活保障を同一視するような、頓珍漢な兄ちゃんが現れるのも、年金が 「 もれなく支給される 」 という悪法のせいではないか。

80歳、90歳でも、企業の役員や理事をして高収入を得る者、莫大な資産を持つ者、その他、生活に困らない者にまで、年金を支払う必要はない。


年金制度を廃止するまでいかなくても、全員が、老後に困る人を救済する福祉費用として掛け金を支払い、本当に困っている老人にだけ支給する。

そのような 「 合理的手段 」 を用いれば、現在の財源でも十分に運用可能だし、いまのように支払った金額を帳尻合わせする必要もない。

年金制度があるために、「 まだまだ働けるのに働かない 」 という人もいるはずだから、むしろ、健康な年寄りにとっては、年金などないほうがよい。

近頃、「 うつ病に対する理解 」 が向上した結果、うつ病に陥る人が増えたのと同じで、深刻に苦しむ人以外は、甘やかさないほうが本人のためだ。

年金の管理ばかりに焦点を当てず、「 年金制度の在り方 」 から考え直してはどうか、という意見が誰からも出ないのは、なんとも不思議である。


最後に、第三の疑問は 「 なぜ、年金問題で自民党は責められ、民主党に期待する人が増えたのか 」 という点を挙げておきたい。

たとえば、民主党の 長妻 という議員が、社保庁の失態やら醜聞を指摘し、それを 「 英雄 」 のように扱う御仁がいるのは、なんとも不可解である。

社保庁の職員などが属する 「 自治労 」 は、もともと民主党サイドの有力な支持母体であり、彼らと民主党のつながりは深い。

組織に不満のある職員を誘って、同僚の悪口や、職場の悪習などを聞きだすのは、いとも簡単な作業であり、たいした労力も要らない。

長妻 議員 の功績は、それ以上でもなければ、それ以下でもなく、たしかに問題を 「 表沙汰 」 にはしたけれど、何の問題解決も果たしていない。


それどころか、安倍内閣が 「 社保庁の解体 」 を試みようとした際、民主党は自治労への手前から、それに猛反発して解決を遅らせている。

ちなみに、民主党は 「 ネクスト ○○大臣 ( この表現は、ウザくて嫌いだが ) 」 という、政権交代後の各大臣要員を用意しているらしい。

そこで、次期厚生大臣候補は 長妻 議員 でなく、別の人物をあてがう姿勢であることも、物事の道理からみて、まったく釈然としないところである。

つまり、「 悪口を並べて叩く係 」 と、「 一応の改善を目指す係 」 は分けて考えているらしく、長妻 議員 は前者の役どころだという。

もっとも、彼を 「 英雄 」 だと信じて疑わない御仁には、そんな情報は耳に入っても遮断されるのだろうが、それが事実なのだから仕方がない。


以上の三点が、私なりの 「 年金問題に関する疑問 」 というか、いわゆる 「 腑に落ちない点 」 なのだが、皆様は、どう思われているのだろうか。

そもそも年金制度の始まりは、中世の封建諸侯や貴族が、引退後も忠誠を誓う家臣に、毎年、一定額を下賜したことがルーツだと言われている。

それを思うと、できれば 「 国からの施し 」 など辞退して、なんとか自分の力で老後も暮らせるように、頑張りたいと思う。

ましてや、僅かな施しを巡って、国と争うようなことは、なるべくなら避けたいと思うのが、「 普通の感覚 」 ではないだろうか。

反対意見もあるだろうが、個人的には、国からの施しが多いとか、少ないとか、管理が曖昧だとか不満を並べるのは、少し 「 みっともない 」 と思う。






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2007年12月09日(日) 未来への投資



「 ビジネスの世界において、すべての人は二種類のコインによって

  支払いを受ける。 現金と経験だ。

  まず経験を取れ。 現金は後からついてくる 」

                   ハロルド・ジェニーン ( アメリカの企業家 )

In the business world, everyone is paid in two coins : cash and experience.
Take the experience first ; the cash will come later.

                                 Harold Geneen



しばらく日記を更新できなかったが、すこぶる体調は良い。

中国とアメリカへ行き、いくつか仕事を片付けてきた。


まず中国は、従来の仕事に加え、新しく投資を考えている事業があるので、たぶん年末までにもう一度、出張することとなるだろう。

アメリカは、サブプライムローン の余波を受けて、保有資産の 「 目減り 」 に対処するため、あれやこれやと面倒な手続きを行ってきた。

ついでに、知人宅を回ったり、過去に何度か説明を受けたのだが、まったく意味不明な研究を続ける娘の顔を見にいったりして、時間が掛かった。

誰に似たのか知らないが、お金よりも、仕事への好奇心に執着するタイプなので、さほど儲からなくても、好き勝手に楽しくやっているらしい。

冒頭の名言が示す通り、たとえ少しぐらい回り道になっても、貴重な経験が積めるならば、そちらを優先するのが正解である。


経験というものを、単純に時間の単位だと考える御仁もいるが、長く働いて何も身についていない人や、逆に、若くして経験豊富な人もいる。

それは、仕事や人生で遭遇する数々の出来事について、どのような姿勢で対処するかという心構えの違いから、生じる 「 個人差 」 なのだろう。

自分で解決しようとはせず、評論家ぶったり、何事も他人まかせにしたり、すべて悪いことは他人のせいにするようでは、経験が蓄積しない。

目の前にある事態から逃げず、できるかぎり自分の行動で解決を図ることの積み重ねが、その人の成長を促し、一回り大きな人格を形成していく。

つまり、どれだけの数の出来事に遭遇したかよりも、自発的に対処した数の違いこそが、その人の経験値になるのだと考えられる。


海外のビジネスマンや経営者の話を聴くと、日本の若者が、総じて貴重な経験をする機会が与えられていないことに気づかされる場面も多い。

長丁場の仕事でも、ただ一度の失敗を恐れて、重要な局面には、なるべく経験の豊富な年長者をあてがい、若者は “ かやの外 ” に置かれている。

政治の世界でも、改革が必要と口にしながら、若く有能で情熱のある人材は 「 青二才 」 と軽視され、老獪な政治家の思うままに動かされている。

活躍の場を与えずに、「 最近の若い奴は駄目だ 」 などと話す御仁も多く、まともに経験させないのだから、必然的に成長しない事例も目立つ。

人口面のみならず、仕事面でも 「 少子 ( 若者の活躍する機会が少ない ) 高齢化 ( 難しい仕事はベテラン任せ ) 」 の著しい社会がそこにある。


ご承知の通り、アメリカは 「 移民の国 」 であり、一世よりも二世、二世よりも三世のほうが、より 「 アメリカ人的 」 な存在に近づくと考えられている。

国語教育には熱心なので、母国語の訛りがある一世よりも、二世、三世のほうが、英語の発音は滑らかで “ アメリカ人らしい ” 感じがする。

そんな事情から、アメリカでは 「 古いものが正しい 」 という概念は少なく、子が親から学ぶだけでなく、親が子から学ぶ習慣がある。

たった三世紀の浅い歴史と、未成熟な文化背景は、過去よりも現在、現在よりも未来に、その価値と重要性を置いているのだ。

日本ではハンディとされやすい 「 若さ 」、「 新しさ 」 が重用され、どんどん機会を与え、ベテランがそれを真似るような事例も珍しくない。


すべて 「 アメリカ型 」 が正しいとは言わないが、日本で仕事をしていると、すぐにベテランが仕切り、新しい発想が生まれ難いのでつまらない。

最近は、古い因習にとらわれず、新しいビジネスやら活動を始めようとする若者を発掘し、投資することに楽しみを見出している。

たぶん、大半はモノにならなかったり、失敗するだろうが、利潤を回収することよりも、一緒に 「 経験する 」 ことに重点を置いている。

一件あたり 7000$ 前後の小額投資を数件と、70000$ 前後の本格投資の両建てで行い、前者は簡単な事業計画を聴くだけで承認している。

これをご覧の方で、名乗りを上げていただいても結構だが、私自身がよほど 「 面白い 」 と思うプランでないと興味を示さないので悪しからず。






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