Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2007年04月30日(月) ダブルスタンダード



「 川を見ると落ち着く、それは川に迷いがないからだ。

  川の行き先は決まっていて、ほかへ外れることはない 」

                        ハル・ボイル ( アメリカの特派員 )

What makes a river so restful to people is that it doesn't have any doubt - it is sure to get where it is going, and it doesn't want to go anywhere else.

                                     Hal Boyle



近頃の若者には、正しい日本語を使えない人が多いという。

では、年輩者の日本語は正しいのかというと、いささか疑問に思う。


なかには、言葉の持つ意味自体は間違っていないが、解釈の仕方に誤りがあったり、あるいは自分勝手なために、世間で通用しない例もある。

最近、どう読んでも 「 一貫性 」 の感じられないブログが、「 私のブログは終始一貫している 」 などと書かれているのを見て首を傾げた。

たしかに、そのブログは常に 「 与党 」、「 アメリカ 」 を毛嫌いし、愚痴と、恨み言と、後ろ向きの意見を繰り返すだけで変化がない。

ところが、その中身は 「 状況によって解釈をコロコロ変えている 」 もので、まったく一貫性の欠片も感じられない代物である。

そういうのは、日本語で 「 偏見 」、英語で 「 ダブルスタンダード 」 といった言葉が当てはまるわけで、一貫性などという言葉はまったく相応しくない。


先日、特急列車の車内で約40名の乗客が居たにもかかわらず、若い女性が暴行されるという事件があった。

これに対し、周囲の乗客に勇気が無いとか、助けもせず傍観していたのは卑怯だというコメントが、いくつかのブログで紹介されていた。

私も、まったく 「 その通り 」 だと思うし、不当な暴力に苦しめられている人は、我が身の危険を冒してまでも助けるべきだと信じて疑わない。

その被害者が、自分と何の縁故もない人であっても、周囲の乗客と協力し、粗暴な悪人を撃退し、被害者を救済すべきだろう。

先に述べた 「 一貫性のないブログ 」 も、同じ主張であって、武士道精神の 「 義を見てせざるは勇なきなり 」 という意見を展開している。


国連では、自国を攻撃しない他国を、自国と同盟を結んでいる第3国への攻撃をもって、第3国と共に ( 代わって ) 反撃する権利を認めている。

これは一般的に 「 集団的自衛権 」 と呼ばれるもので、国連憲章で認められているものの、日本の政府見解としては 「 憲法違反 」 となっている。

それで、立場上 「 テロ特措法 」 などの時限立法を制定して、日本はイラク戦争における同盟国アメリカ軍の支援を行ってきた。

これに対して、前述の 「 一貫性のないブログ 」 は執拗に違憲性を追求し、アメリカの戦争に加担するな、イラクに関与するなと主張している。

世界には、他国の干渉なくして圧政者からの弾圧から逃れられない人々が多いことを知りながら、「 関係ない他国に手を差し伸べるな 」 という。


ここで、特急列車に乗っている若い女性を 「 イラク国民 」、粗暴な強姦魔を 「 フセイン 」 と仮定して考えてみよう。

周囲の乗客40名を諸外国に置き換えたとして、悲鳴を聞きつけ強姦魔に立ち向かったのは 「 アメリカ 」 で、それに日本は協力したわけである。

集団的自衛権など認めないとか、憲法9条の改正に反対するということは、この列車内で強姦場面を傍観するのと同じようなものだ。

悪者が弱者を イジメ ているなら、有志が力を合わせて撃退するべきだと、片方では 「 正義 」 を第一に唱え、片方では 「 傍観 」 を善しとする。

外国の戦争と国内の犯罪を同一には語れないという意見もあるだろうが、身近に感じられる センス の有無だけで、物事の本質は同じである。


人それぞれ、色々な意見があってよいし、どのような持論を展開してもよいと思うが、時事のブログを書くなら 「 一貫性 」 は持っていてほしいと思う。

集団的自衛権に反対するということは、他人の窮状に救いの手を差し伸べないという意味に等しく、世界の傍観者であり続けることを指す。

ダブルスタンダードは他にも多く、福知山線で多数の死者を出した JR は庇いたて、死傷者のない 全日空 の整備不良には辛辣だったりする。

他にも、「 タミフルの副作用は、全体からみて少ないので問題ない 」 と言い放ち、もっと被害の少ない 「 米国牛のBSE不安 」 は問題視したりする。

本人は 「 一貫性がある 」 と勘違いしてるので始末におえないが、読む人が読めば一目瞭然であり、なんとも珍妙な 「 二面性 」 になっている。






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2007年04月28日(土) 自己認知



「 物事をややこしくするも、簡単にするも、自分次第さ 」

                     映画 『 モンタナの風に抱かれて 』 より

You can make it as complicated or as easy as you like.

                            The Horse Whisperer



多少の人生経験と観察力があれば、他人の性格は分析できる。

皆、よくわからないのは、意外と 「 自分自身 」 のことである。


現在の仕事柄、企業の人事に関与する場面も多いため、さまざまな適性の検査や、性格のチェックリストなどを入手し、人物診断に役立てている。

自分自身で試してみると、たしかに思い当たる個所と、よく周囲から指摘される部分が多く、その結果に信憑性のあることが認められる。

このように 「 自己診断 」 を心がけることで、自分の長所と短所を認識することを、一般的に 「 自己認知 」 あるいは 「 自己認知行動 」 という。

では、そのような行動をとれば 「 自分の長所を知り、欠点が克服される 」 かというと、それほど簡単なものではない。

なぜならば、大抵の人間は自分の欠点や嫌な部分を認めたくないし、仮に認めたところで、改善できるとはかぎらないからだ。


性格的な問題に関しては、長所とも短所ともいえるような、良し悪しの判断がつなかないことも多く、それを変えることが得策とはかぎらない。

たとえば、「 せっかち 」 と呼べば短所となる性格の人が、決断力の速さや、積極的な行動力という長所を備えていることがある。

逆に、「 のろま 」 だと思われている人が、慎重さや、思慮深さという長所を持っているケースもあり、「 長所は短所の裏返し 」 である例が少なくない。

また、自分自身の性格に気付いても、どのような原因で人格形成が行われてきたのか、自分で深層心理を探ることは難しい。

ゴールデンウイークで持て余している暇を 「 自分探し 」 にあてて、過去の歴史を振り返って自己認知に努めるのも、たまにはよいだろう。


人間の性格は、「 生い立ち 」 と 「 経験 」 によって形成される要素が大きく、自分を取り巻く環境と、経験した出来事への対応で決まりやすい。

なかでも、幼児期の環境や出来事が性格に影響を与えやすい事実は、広く一般的に知られており、それは差別や偏見などの意識にも現れやすい。

たとえば私の場合、この日記で何度も 「 自殺者、自殺企図者 」 に対して、「 卑怯者 」、「 人間のクズ 」 などと蔑み、明らかに偏見を示している。

自殺を企図するのが大好きな 「 鬱病 」 の方々から、弱者差別だの、精神病患者への偏見だなどと、お叱りを受けたことも少なくない。

自分では、立場の弱い人たちに憐れみを持たず、傷口に塩を擦り込むような 「 嫌な奴 」 だと思いたくないが、はたしてどうなのだろうか。


たしかに私は、健康的な身体と精神を持つ人を好み、自分自身も若い頃はスポーツに情熱を傾け、心身の鍛練に励んで成果を挙げてきた。

父も兄も同様で 「 文武両道 」 を尊び、友達の大半は何らかの種目で選手経験があるし、落ち込むことはあっても鬱病になった者はいない。

だからといって、病気に苦しんでいる人を軽蔑したり、身体の不自由な人に辛く当たったことなど、一度も無いはずである。

おそらく私の場合、「 病気の人 」 ではなく、「 甘えている人 」 が嫌いなのであって、「 鬱病患者全体 」 でなく、「 鬱病に甘える人 」 が嫌いなのだ。

では、なぜ 「 甘える人 」 が嫌いになったかというと、自分自身の生い立ちや経験に関係が深いわけで、それには思い当たるフシがある。


幼い頃から特に不自由なく暮らし、尊敬できる両親に育てられたけれども、私の母親はずっと病気がちで、34歳でこの世を去った。

子供は普通、母親を相手に甘えたり、泣き言を聞いてもらう練習をするものだが、そういった機会が私には少なかったようである。

父親は特に厳しいわけでもなく、むしろ陽気で明るい性格だったが、それがかえって 「 泣き言を吐露しにくい 」 環境であったのかもしれない。

そのせいか、骨折しても、親が死んでも、学校の成績が下がっても、国体で上位に入れなかったときも、愚痴や泣き言を漏らした記憶がない。

この日記を5年以上続けているが、どの日をみても、他人に対する恨み言やら、仕事の愚痴やら、泣き言などは見つからないのがその証拠だ。


WEB日記の中には、「 世直し 」 と称して、自分のジレンマを他人のせいにし、日本政府や、超大国アメリカの悪口ばかりで綴っている人がいる。

そういう連中は、自分の 「 鬱 」 を言い訳に利用し、病気を治療することには専念せず、同じように 「 甘えた人間 」 に共感を求めているだけだ。

おそらく、自分も他人に見せないだけで、弱い部分があるのだろうけれど、「 甘えてはいけない 」 という習慣がついているので、それを軽蔑する。

別れた彼女に再会して、当時の自分は 「 泣き言を漏らして甘えることができず、潔い別れを選んだのではないか 」 という気もしてきた。

冒頭の台詞は、そんな 「 ややこしい自分 」 への戒めとして、せめて好きな相手には、もっと心を開いたほうがいいかなと、反省を促す言葉でもある。






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2007年04月27日(金) 恋愛リサイクル



「 あなたがあなたで居てくれて、よかった 」

                                      昔の恋人

Thank you for being you.

                              My old girl friend



元来、私はさほど リサイクル に熱心なタイプではない。

したがって、昔の恋人を訪ねて行くことなど、まず滅多にない。


インターネットで公開されている日記の中には 「 匿名 」 という特徴を活かして、かなり好き勝手に嘘八百を並べているものもあるようだ。

ただし、それでも数年に亘って毎日のように更新されていると、徐々に作者の性格やライフスタイルが伝わり、嘘をつけばバレる場面も出てくる。

カッコつけて正義漢ぶっても、「 あんた、そんな人じゃないじゃん 」 とか、「 あんたに、そんなこと出来るわけないじゃん 」 てなものである。

私も匿名で日記を書いているわけだが、それとはまた違う理由で、もし嘘を書けばすぐにバレてしまう運命が待ち受けている。

それは、「 実際に会った人 」 や 「 とても親しい人物 」 がこの日記をご覧になっているためで、ほとんど匿名性が意味を成していないからだ。


5年前に別れた恋人が自分と同じようにWEB日記を書いていて、お互いに時々なんとなく気になるのか、相手の日記を覗いている。

たぶん、本当に嫌になって別れたのなら、そんな不健康な行為に及ぶこともないと思うのだが、この関係だけは、ちょっと複雑な事情が絡んでいる。

当時の私は、勤め人を辞めて独立する大きな転機にあり、仕事と私生活をバランスよく並行して維持したり、誰かを気遣う配慮を著しく欠いていた。

些細なことで腹を立てたり、相手のリズムを待てなかったり、逆に、自分のリズムに追いつけない相手を許せなかったり、いま思えば最悪だった。

そこで出した結論が 「 別れ 」 だったのだが、当時はそれが最善手であると疑わなかったし、付き合い続けていても、上手くはいかなかっただろう。


すぐに二人とも別の恋人ができて、お互いに結婚まで発展しそうだったが、新しい彼女は大病を患い、自分の前から姿を消してしまった。

そんなときに、心配してメールをくれた彼女もまた、相手の嘘や不誠実さに傷つき、やがては破局して落ち込む結果となった。

別れた後でも、お互いの誕生日にメールを交わしていた二人は、どこかに気持ちを残していたのかもしれないが、実際に会いにいくことはなかった。

本音を言うと私の方は、会いにいきたくなったことがあったけれど、恋人を 「 リサイクル 」 するのもどうかと思って、ずっと躊躇していた。

事情がどうあろうと、別れたのには理由があったはずだし、落ち込んでいる彼女を再び自分が傷つけるなんてことは、なんとしても避けたかった。


二度と会うことはないと思っていたが、最近、また彼女の身に辛い出来事が重なったことを相手の日記で知り、思わず連絡をとってしまった。

さほど緊急の用件も無かったのだが、出張の機会をつくって彼女の住む街に出かけ、5年ぶりに再会することとなった。

彼女を待つ間、不思議な気持ちだが 「 老けてブサイクになっていればいいのに 」 と願い、これで気持ちの整理をつけようとする自分がいた。

やがて現れた彼女は、期待に反して相変わらず美しく、二人でお茶を飲みながら話していると、タイムマシンで当時に戻ったような気がした。

私に対する相手の印象も 「 5年の歳月をまったく感じさせない 」 というものだったが、それは私が相変わらずバカなせいかもしれない。


二人とも年の割には子供っぽいが、安易に 「 また付き合う? 」 なんて話をしなかった点が、少しは成長した証かもしれないと思った。

慎重というより、お互いに 「 時間が欲しい 」 という気持ちと、再会して自分の気持ちがどう変化するのか、確かめたい気持ちが一致したのだろう。

いつも日記の冒頭には著名人による名言を引用させていただいているが、今夜だけは、再会したときに彼女が呟いた一言を掲載した。

なんとなく嬉しかったが、それに対し 「 いまも君が好きだよ 」 と言う代わりに、「 いまも俺が好きでしょ 」 なんて生意気な台詞を返してしまった。

帰りの車中で彼女にメールを送信している最中、彼女からの受信が届き、いま送信したメールと同じタイトルだったことに、運命を感じる夜だった。






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2007年04月26日(木) ライオンと羊



「 たった一日でもライオンでありたい。

  一生、羊でいるよりはマシだ 」

                    エリザベス・ケニー ( 小児麻痺研究家 )

It's better to be a lion for a day than a sheep all your life.

                                Elizabeth Kenny



別にライオンが偉くて、羊が劣っているというわけではない。

ライオンは生まれながらにしてライオンであり、羊は羊なのである。


特急サンダーバード号といえば大阪と北陸を結ぶ列車であるが、その車内で36歳の男が女性に暴行を加え、後日、逮捕された。

同じ車内には40名の乗客がいて、異変に気付いたが容疑者にすごまれ、誰も助けなかったという、なんとも被害者にとっては悔しい事件である。

このニュースを聞いて、周囲の 「 見て見ぬフリ 」 に憤慨したり、愕然とされた方も多いと思うが、それほど驚くような話ではない。

最近の多くの日本人にとって 「 見て見ぬフリ 」 は専売特許みたいなもので、被害者には気の毒だが、この国はそんな国なのである。

イラクでフセインが圧政を加えようが、各地で紛争が起ころうが、自分たちの平和憲法を盾にし、知らぬ存ぜぬを決め込むのが当世日本人気質だ。


こんなとき、まず被害者の女性は、大声で助けを求めるのが得策なのだが、「 殺すぞ 」 などと脅かされただけで、声を出せないという人も多い。

大声を出せば殺すなどと犯人は脅したそうだが、実際には、言いなりにおとなしくなる 「 子羊ちゃん 」 のほうが、殺されてしまう率は高い。

反撃まではできないとしても、大声を上げたり、暴れて抵抗するほうが犯人は手強く感じるし、周囲の乗客に異常を知らせる効果も高い。

被害を受けつつ黙っていても、待っていれば必ず誰かが助けてくれるような国なら、学校で陰湿なイジメが続いたりするわけがないではないか。

助けてくれない周囲を 「 酷い 」 と愚痴りたくなる気持ちもわかるが、まずは被害者自身が自分の身を守る術を、少しは身に付ける必要がある。


もし自分がそこに居合わせたなら、「 そんな野郎はぶっ飛ばすぜ 」 とカッコよく言いたいところだが、おそらく実際には 「 状況次第 」 である。

たとえば、犯人が 「 アーネスト・ホースト 」 みたいな男だった場合、そこへ突進していくのは効果的でないし、たぶん何の助けにもならない。

むしろ、こっそりと通報ブザーを押しに行くほうが、カッコよくはないけれども被害者を救える率は高く、よっぽど役に立つだろう。

知らせを受けて駆けつける車掌が、私より喧嘩慣れしている可能性は低いと思うが、日本人は大抵 「 制服に弱い 」 ので犯人が立ち去りやすい。

少なくとも、味方が増えるわけだし、車掌は鉄道警察に連絡するし、車掌の目前で暴行を続けることなどないと思われる。


犯人が自分と同等か、それ以下の体格であっても、いきなり殴りかかったりすることはしないほうがよい ( するかもしれないが )。

ぱっと見て 「 強姦魔と被害者 」 に見えても、実は 「 恋人間の痴話喧嘩 」 かもしれないし、その場合、いきなり殴ったら傷害罪に問われる。

たぶん今の私なら、普通に 「 どうかしましたか 」 と話し掛けて、相手を刺激しないように事情を把握しようとするだろう。

この場で 「 大声で相手を威嚇する 」 のは愚の骨頂で、いたずらに犯人を興奮させて収拾がつかなくなる危険がある。

凶器でも持っていた場合、自分の身は守れても、近くにいる被害者が切り付けられたりしたなら、取り返しのつかないことになる。


犯人に声を掛けるということは、「 説得できなかった場合には、腕力勝負になる 」 という覚悟が必要だということを、自覚しておくべきだろう。

経験上、喧嘩は 「 先手必勝 」 であることに間違いなく、最初のダメージを与えた方が圧倒的有利になることを知っている。

ならば、相手を威嚇して暴れさせるより、柔和に近づいて急所に蹴りを入れたほうが、制圧できる公算が高い。

たとえ制圧をできなくても、揉み合っている間に被害者を逃がせるし、他の乗客が車掌を呼びに行く機会もつくれるから、この方法が最善だろう。

友達同士の喧嘩じゃないから、かなり 「 汚い手 」 も使えるし、被害者さえ逃がせば、自分もダッシュで逃げたってかまわないのである。


一番大事なことは、自分がヒーローになることではなくて、被害者と犯人を引き離すことであって、カッコいい、カッコ悪いは、どうでもいい。

敵に殴りかかる勇気などなくても、こっそり通報ブザーを押すだけでいいのだから、誰でも問題解決に参加することができるのである。

近頃に多い 「 鬱の人 」 などは、自分の言いたいことが言えないから鬱なのであって、犯人に声を掛けたり、威嚇したりすることが難しい。

そういう人の場合、犯人に声を掛けることが、殴りかかる以上に難しいけれど、それでもブザーを押しに行くぐらいはできるはずだ。

虚勢を張って 「 ライオン 」 に憧れなくても、「 羊 」 のできる精一杯を努力することで、皆が助け合える社会は実現可能だろう。






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2007年04月20日(金) 平成19年度の新入社員



「 この人にはこれだけしか能力がないなどと決めつけていては、

  能力を引き出せません 」

                          井深 大 ( ソニー の創業者 )

If you label a person as having only so much abillity,
you will never bring out his true potential.

                                  Masaru Ibuka



人間は忘れっぽい生き物で、子供の頃や、若い時の記憶が曖昧になる。

子供や若い人と打ち解けられない原因は、たぶんそこにあるのだろう。


(財)社会経済生産性本部という機関が、昭和48年以降、34年間もずっと 「 入社年度別新入社員のタイプ 」 なるものを発表し続けている。

それによると、今年の新入社員のタイプは 「 デイトレーダー型 」 だそうで、細かい損得勘定で銘柄 ( 会社 ) の物色を継続する傾向にあるという。

景気の回復で久々の大量採用となり、売り手市場だっただけに、早期転職が予想され、おそらく 「 安定株主 」 にはなりにくいだろうという根拠だ。

常に、良い待遇、良い仕事を求め 「 銘柄の乗り換え ( 転職 ) 」 を目論む意識は、個人投資家の活動に近いという見方である。

ネットを駆使した横のつながりで情報交換が活発だが、情報に踊らされない慎重さも必要だと、発信者は分析し、警告を促している。


ちなみに、昨年 ( 平成18年度 ) の新入社員は 「 ブログ型 」 で、繊細な感受性に優れるが、パソコンに語るだけに止まる傾向があるという。

17年度は 「 発光ダイオード型 」 で、電流を通す ( ちゃんと指導する ) と光る ( いい仕事をする ) が、決して熱くならないとのこと。

16年度は 「 ネットオークション型 」 で、ブランド名やらアピールに釣られて高値で落札したものの、アテが外れることもあるとの分析だ。

15年度は 「 カメラ付き携帯型 」 で、瞬時に情報を取り込んで発信をする処理能力はあるが、なかなか経験や知識が蓄積されにくいとしている。

14年度は 「 抱き枕型 」 で、クッション性があり等身大に近いけれど、上司が気ままに扱うと、床に落ちたり ( 早期退職 )、変形しやすいのだという。


なるほどと思う点もあって面白いのだが、「 その年に流行したモノの名前を借りて、“ 近頃の若い奴は ” となじっている 」 だけのようにも感じられる。

たしかに、時代の変遷から、企業側がかつてのような 「 企業戦士 」 を育てようと待ち構えていても、その期待を裏切られることが多くはなっている。

しかし、いつの時代にも、コツコツと努力する者もいれば、すぐに怠ける者、プレッシャーに負けて挫折する者など、人それぞれに歩みは異なる。

大事なことは、新入社員をタイプ別に分類することではなく、彼らを一人前に育てる 「 企業側の努力 」 であり、その姿勢が彼らの明暗を分ける。

目の前の仕事にじっくり取り組み、技術を培い、我慢強く情熱を維持させる環境づくりが、未来ある若者を預かる企業の使命といえるだろう。


一口に人材 ( ジンザイ ) といっても、「 人財 ( 企業の財産 ) 」 もいれば、「 人在 ( ただ居るだけの人 ) 」 も、「 人罪 ( マイナスの人 ) 」 もいる。

困るのは、会社のお荷物になっているのに本人のプライドだけ高く、会社や世の中に対する愚痴と批判ばかりを繰り返す人たちだ。

ネットの世界にも多いが、こういう人たちの言動は新戦力の弊害であって、不安を抱える新人を取り込み、希望や情熱を奪い去る危険がある。

立場の弱い者同士、それで友達になれるならまだしも、実際には、彼らこそ若者を理解できない 「 時代遅れ 」 であって、結局は新人を潰してしまう。

毎年の新入社員と、その年の流行や新製品との共通点は、「 時代遅れの中高年には使いこなせない 」 という側面なのかもしれない。






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2007年04月19日(木) バージニア乱射事件の犯人



「 みんな、誰かに八つ当たりがしたいんだ! 」

                   映画 『 サタデー・ナイト・フィーバー 』 より

Everybody's got to dump on somebody!

                            Saturday Night Fever



大学に入って最初に観た映画が、この作品だったと記憶している。

世界的に大ヒットし、空前のディスコブームを巻き起こした。


冒頭の台詞は、ダンス・コンテストで最高の演技をみせたプエルトリコ系のダンサーを、人種差別により審査員が落選させる直後の場面に使われた。

主演のジョン・トラボルタが、自分に与えられた優勝トロフィーを彼らに渡し、恋人を連れて会場を後にしながら、社会の不条理に対して吐きすてる。

この作品では、普段は地味な生活を過ごしている主人公たちが、土曜の夜になるとディスコへ繰り出し、華麗なダンスに興じる。

そして、土曜の夜の興奮 ( フィーバー ) が収まると、また普段通りの生活に戻るのだが、そこには社会の矛盾や問題点が、色濃く渦巻いている。

やりきれない思いは、より弱い立場の者への差別意識や、八つ当たりなどに姿を変えることが多く、そんな現実に主人公は辟易としてしまう。


陽気で楽観的なイメージの強いアメリカは、片方で人種差別など 「 陰 」 の部分を抱えていて、昔ほど露骨じゃないにしても、根底に潜んでいる。

それが大人の社会だけでなく、たとえば学生の間にも根付いていることは、自分もアメリカに留学した経験があるので、十分に知っているつもりだ。

バージニアで起きた銃乱射事件の犯人である韓国人留学生も、そういった疎外感や孤独感に苦しみ、徐々に狂気へと駆り立てられた模様である。

犯人が自殺したので、精神鑑定を行うことなど不可能だが、常軌を逸した行動から推測して、とても 「 マトモな精神状態 」 だったとは考え難い。

前回の日記では、銃器の氾濫するアメリカ社会に問題があると書いたが、このような事態を食い止められなかった背景には、また別の問題がある。


犯人の学生は、室内でもサングラスをかけ、帽子を目深にかぶり、ほとんど他の学生と話もしないため、周囲からは不気味がられていたという。

事件後、彼に詩を教えていた教官が、彼が授業で書いた作品の 「 異様さ 」 に懸念し、大学当局や学内の警察に相談していた事実も明らかになった。

つまり、なんらかの 「 予兆 」 はあったわけだが、実際に暴力を振るうなどの行動はとっていなかったので、介入は難しいと判断されていた模様だ。

日本でも、狂気の沙汰としか思えない異常な事件が続発しており、捕らえてみると精神科の患者だったり、同じような前科を持った者の例が多い。

もちろん、むやみやたらに精神病患者を迫害してよい道理はないが、放置して悲劇を招くことが 「 仕方のないこと 」 であるとは、とても思えない。


精神科に通っているからといって、見るからに狂人ぽいわけでなく、きちんとした身なりをして、それなりに社会生活に順応している人も多い。

自分の周囲にもいるが、そういう人は気持ちのどこかで 「 私は正常だし、なにも狂気じみたところはない 」 と思い込んでいる。

だが、彼らの言う通り、もし本当に何の異常もないなら、「 どうして精神科に通っているの? 」 という疑問が残る。

実際、表面的な言動や、短い付き合いだけでは気付かない 「 異常さ 」 に驚かされたり、危険を感じることも少なくはない。

まして、今回の犯人のように、日頃から異常行動が目立っていたのであれば、周囲が何らかの 「 対策 」 をとっておく必要があったのではないか。


そういった異常者への 「 対策 」 が、人権団体や、頓珍漢な市民団体から槍玉に上げられ、非人道的だと中傷される傾向にある。

犯罪被害者のシンポジウムに参加した際、奥さんを殺害された弁護士さんも、「 その立場になるまで、自分は人権擁護派だった 」 と語っていた。

社会の秩序を維持し、生活の安全を守るためには、すべて無軌道に自由をばら撒くのではなく、特定の人物に対する監視や制限も必要だろう。

差別的だと思う人もいるだろうが、そうすることで周囲も、精神を病む人も、双方が被害者にも、加害者にもならなくて済む可能性が高い。

銃器や差別を撤廃することも大事だし、人権擁護も疎かにはできないが、異常者への対策をこまねいていると、また悲劇は繰り返されるだろう。






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2007年04月18日(水) 銃社会アメリカの悲劇



「 銃が人を殺すのではない。 人が人を殺すのだ 」

                                 全米ライフル協会

Guns don't kill people. People kill people.

                         National Rifle Association



この表現には少し無理があって、名言というよりは 「 迷言 」 だ。

道具を使うのは人間だが、道具自体も無軌道に放つわけにはいかない。


バージニア工科大学で銃の乱射事件が発生し、自殺した犯人を含む33名が死亡するという、未曾有の凄惨な悲劇が伝えられた。

アメリカには、銃愛好家の市民団体 「 全米ライフル協会 ( 通称:NRA ) 」 があって、このような事件が起きると必ず注目を浴びる。

この団体は、銃器を撤廃しようとする人たちからは 「 好戦的な集団だ 」 と白眼視され、特に今回のような事件が起きるとバッシングされている。

ところが、銃規制に関する法案などが提出されると、容易に妥協することが多いために、意外と銃器産業界などからも疎まれている側面を持つ。

なんだか立場のはっきりしない団体なのだが、約400万人の会員数を保持しており、「 銃社会アメリカ 」 を語るのに不可欠な存在である。


冒頭の言葉は NRA のスローガンで、銃そのものを規制するのではなく、所有者への啓発活動を強化することが、悲劇を防ぐ手段だと信じている。

あまり知られていない話だが、合法的に銃を所持しやすい国はアメリカだけでなく、カナダやスイスも比較的簡単に購入できる仕組みになっている。

実際に、国民一人あたりの銃保有率でいうと、スイスのほうがアメリカよりも高い数値になっていて、伸び率もスイスのほうが高い。

ところが、カナダやスイスにおいては、銃による事件や犯罪がアメリカほど頻繁に発生していないわけで、NRA はそういった点を指摘する。

すなわち、「 銃の数ではなく、扱い方に問題がある 」 との意見で、たしかに一理あるような気もするが、腑に落ちない点も多い。


小型の拳銃を保有するアメリカ人の大半が、その目的を 「 護身用 」 と答えるのだけれど、その効用については実に疑わしい。

ごく稀に、「 強盗を撃退した 」 とか、「 強姦されそうになったが助かった 」 などという話も聞くが、失敗談を聞く機会のほうが圧倒的に多い。

家で手入れをしていて暴発したとか、子供が持ち出して誰かを撃ったとか、犯人を撃退しようとして逆に銃を奪われたとか、そういう類の話である。

現地に住んでいた頃、所持を勧められたこともあるが、慣れない者が扱うと、かえってロクでもない結果に陥りそうなので、丁重にお断りした。

それに、多少の体格差があっても、血の気の多い頃だったから、接近戦なら負けないという自信があったので、その必要を感じなかったのである。


日本の警察官がアメリカを視察すると、「 民間人が銃を持っている社会 」 に対する危惧を、大抵は実感して帰るのだという。

逆に、外国人の犯罪者は日本に対し、「 一般家庭に銃がないので、とても仕事がしやすい 」 と感じているらしい。

アメリカという多国籍社会と、単一民族に近い日本の環境は違うし、素手で戦うことに自信のある者と、非力な人とでも、銃に対する意識は異なる。

銃に対しては様々な意見があるけれど、全世界的に、精神を病んだ人間が増え、何人たりとも人権が尊重される世の中である以上、銃は危険である。

つまり、「 銃は規制できるが、狂人の行動はコントロールできない 」 わけだから、銃を撤廃するしか悲劇を防ぐ手立てはないだろう。






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2007年04月16日(月) 生ビヨンセの魅力



「 しばしば直感に頼らなければなりません 」

                     ビル・ゲイツ ( マイクロソフト社の会長 )

Often you have to rely on intuition.

                                     Bill Gates



緻密な計算能力だけでは、何事も頂点を極めることなどできない。

世界一のお金持ち ビル・ゲイツ もまた、直感の重要性を知っている。


仕事柄、4月上旬は忙しく、日記の更新も滞りぎみなのだが、先週は前々から楽しみにしていた 『 ビヨンセ 大阪公演 』 に出かけた。

会場に到着してまず最初に気付いたのは、老若男女に亘る幅広いファン層があり、各人が自由に、それぞれの楽しみ方に興じている点だ。

アーチストの歌唱力や音楽性を語るのに、小難しい理屈を並べる人もいるが、音楽とは 「 直感 」 で受け止めて、心で味わうものではないだろうか。

たとえば絵画の場合、写真という技術が発達する以前は、対象となる人物や風景を正確に模写する能力が重要だったが、現在の評価は違う。

どこそこの音楽学院を出たやら、何々の賞を獲ったという理屈で評価するだけでは、正確性を判断できても、真の魅力や価値には触れられない。


良い席を確保できたおかげで、歌もさることながら、情熱的なダンスやら、細かいパフォーマンスまで堪能できて、大満足の一夜となった。

最近、巷では若い人の間で 「 エロカッコイイ 」 なんて言葉が流行っているけれど、まさにそういう表現を感じさせるアーチストである。

若者言葉の台頭について、日本語の乱れだとか、語彙が貧困だとか揶揄する人も多いが、それは一概に言い切れないように思う。

現実的に、「 肉体的な豊満さによる魅力 」 とか、「 セクシー 」 などといった過去の言葉だけでは、単純に言い表せない新しい資質がある。

マリリン・モンローのセクシーさと、ビヨンセのセクシーさは異質で、たとえばそこに 「 妖艶 」 などという言葉を用いても、ちょっと違う気がする。


細かいことを言うと、総体的に昔風の艶っぽい女性の場合、どこか男性に媚びたような印象があり、「 エロカッコイイ 」 には、そうでない強さがある。

異性の視線を気にするだけではなく、自分らしさを追及する中での創造的な魅力というか、本能に従うたくましさのような気配を感じさせるのだ。

堅苦しい分析は余計かもしれないが、とにかく 「 エロカッコイイ 」 というのは言葉が新しいだけでなく、昔にはなかった概念のようである。

だから、あえて古い言葉に置き換える必要もないし、けして日本語の乱れでもないわけで、安倍内閣の目指す 「 美しい国づくり 」 にも抵触しない。

特に年輩者は、新語を頭でなく直感で受け容れる癖をつけたいものだが、スタイルだけ真似て 「 エロアツクルシイ 」 にならぬよう注意も必要だ。






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2007年04月09日(月) 選挙結果を云々する人々



「 人は道を選べる。 それが人間の値打ちなんだ 」

                            映画 『 エデンの東 』 より

A man has a choice, and the choice is what makes him a man.

                                 East of Eden



東京都知事選挙をはじめ、全国各地で統一地方選が行われた。

焦点の東京、福岡、北海道では、与党の推す候補者が勝利をおさめた。


それぞれ存在価値の大小は別としても、日本には複数の政党があり、国民は選挙時の投票活動によって、自由に政権政党を支持できる。

靖国問題、慰安婦問題などで、いくら中国や北朝鮮が批難しようと、そこが彼らとの大きな違いであって、民主主義国家の証明となっている。

政治家や、一部のマスコミ、あるいは一般市民の中に、選挙の結果を云々する人もいるが、投票結果を批難することは、国民に対する中傷である。

どのような意見があろうとも、国家は国民のためにあって、不正なく国民が選んだ政党、人物が、政局を運営することこそ望ましい。

内閣の支持率が高ければともかく、低迷している昨今でさえ支持を集められなかった野党各党は、不人気の原因を反省する必要があるだろう。


選挙にかぎらず物事は 「 選択の問題 」 であることが多く、判断力に勝っている人が成功し、劣っている人が失敗するのは世の常である。

人間は動物と違い、自分の意志で善にでも悪にでもなれるし、勇気をもって困難に挑戦する人もいれば、怠けて自堕落に破滅する人もいる。

新年度を迎えて、志望校に入れた学生もいれば、受験に失敗して浪人生になる者もいるが、その違いは力量よりも 「 努力の差 」 にあることが多い。

私の知る大企業の重役は 「 浪人経験のある者 」 を嫌って採用しないが、その理由は、「 計画性に疎く、判断力に乏しい 」 からだという。

事情にもよると思うが、たしかに同じ時間の中で結果を出せなかったことは歴然とした事実であり、現役合格者と比較されるのは仕方ない面もある。


最近、日記が滞りぎみだけれど、企業の戦略構築やら人事育成の仕事を請け負っている関係で、3月〜4月は仕事のほうが忙しい。

今年も多くの新社会人と出会ったが、野球選手などと違ってビジネスマンの場合は、学生時代の記録をみたところで、企業での活躍は予測しにくい。

経験則からみて、運動部で鍛えられた者のほうが忍耐力に優れていたり、主将経験者にリーダーシップがあることも多いが、それも確率の問題だ。

学生時代、ぱっとしない者が成功したり、将来性の華やかにみえた者が早くに挫折することも少なくないわけで、最初の印象だけでは判別しにくい。

すべては、これから出くわす場面にどう対応するか、経験を自分の中でどのように処理していくのか、そういった選択の問題になってくる。


幸せなんてものも、ある意味 「 選択 」 と 「 解釈 」 の問題であって、よほどのハプニングでも起きないかぎり、それは運命の違いなどではない。

良くも悪くも、いま自分がここにいて、こんな生活を過ごしているのは、自分の意志による選択の結果であって、それ以外の理由は考えられない。

それを誰かのせいにして、お母ちゃんが悪いとか、総理大臣がけしからんなどと言っている人は、自分の 「 選択ミス 」 から目を逸らしたいだけだ。

結果として成功したからではなく、都度の場面で自分の選択が正しかったと思える人こそが、人生は選択の問題だと素直に認めることができる。

やるべきことを知りながら、怠けて楽をしたり、誘惑に負けたり、勇気を出せずに躊躇する人は、なんでも 「 運が悪い 」 の一言で片付けてしまう。


選挙の話に戻るが、有権者の判断である投票結果は、過去の実績と将来への期待を反映した 「 評価 」 であって、そこに疑う余地はない。

もちろん、知名度や先入観などの影響やら、組織、団体などによる洗脳や、マスコミが偏った情報操作をした可能性も否定はできないだろう。

それでも、「 いま起きていること = 必然の結果 」 の図式に変わりはなく、それを素直に認め、受け容れることが肝心である。

選挙の結果に不満があっても、「 自分を含めた少数派が正しく、多数派に同調した人間は頭が悪い 」 などと考えるのは愚かの極みであろう。

そういう人たちは、パソコンに向かって語りかけるのをやめ、広く客観的に世間をよく眺め、自分の生き方から見つめなおすことが望ましい。






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