2007年03月29日(木) |
植木 等 さんと共演 (?) した思い出 |
「 われわれは過ぎ去った日々を思い出すのではなく、
過ぎ去った瞬間を思い出すのだ 」
チェイザーレ・パヴェーゼ ( 作家 )
We do not remember days, we remember moments.
Cesare Pavese
私の部屋には、大切にしている40年前の古いモノクロ写真がある。
プロの写真家が撮ったもので、そこには二名の人物が写っている。
場所は大阪コマ劇場、客席に最も近い舞台端に、裃を着けた立派な侍姿の男性が、小学校低学年の男児を膝に乗せ、微笑みながら座っている。
男性は左腕で子供を支えつつ、右手にはハンドマイクを携え、膝に乗った子供は手持ち無沙汰なのか、男性の帯に挿した扇子を弄んでいる。
実は、この二枚目な男性こそ 植木 等 さんで、将来、その 植木 さんよりも二枚目になりそうな気配を秘めた膝上の男児が、幼少期の私である。
家族で 「 クレイジー・キャッツ ショー 」 を観劇しに行った際、前から5列目ぐらいの中央に座っていた私を、舞台の 植木 さんが手招きした。
なにしろ古い話なので前後の記憶は曖昧だが、たしか 「 芝居 」 と 「 歌謡ショー 」 の二部構成で、それは二部の終演まじかの出来事だった。
当時、大人から子供まで、一世を風靡する超人気者だった 植木 さんだが、映画館と違って、舞台観劇にまで子供を連れてくる家は珍しかったようだ。
映画やテレビを通じて大ファンだった私は、両親の観劇に喜んでお供したのだが、まさか、舞台に上げられるなどとは夢にも思わなかった。
その少し前に、なんだかやたら 植木 さんが自分の方をよく見るなぁと感じていたが、曲の間奏部分になったとき、ご本人から手招きされたのである。
照れくさいので、じっと座ったまま動かなかったのだが、すぐに劇場の係員がやってきて、周囲のお客さんに席を立ってもらい、道を開けてくれた。
それでもやっぱり恥ずかしいので動かずにいると、両親が笑いながら私を通路へと押し出し、舞台までは係員に手をひかれて行ったのである。
後から聞いた話だが、とても子供好きな人で、ご自分の家族も大切にされ、仕事が終わると真っ直ぐに帰宅し、家族との時間を楽しまれていたという。
あの頃、日本中を忙しく駆け回っておられたので、小さい子供を見つけると家族が恋しくなって、可愛くて仕方がなかったのかもしれない。
大好きな 植木 さんの膝に乗せてもらったものの、観客全員からの視線と、眩いスポットライトに動揺し、嬉しいというより、早く座席に戻りたかった。
劇場には専属のカメラマンがいて、その日の様子をフィルムに収めてくれ、後日、家に届いた写真を、今も大切に保管しているのである。
芝居の内容や、そのときに何の曲を歌っておられたのかなどは思い出せないが、あの膝の温もりや、優しい眼差しは、いまでも鮮明に覚えている。
邦画が元気だったあの時代、東映、大映は時代劇、日活はアクション物、松竹は文芸物、東宝は娯楽作品が人気を博していた。
森繁 久弥 さんの 「 社長シリーズ 」、「 駅前シリーズ 」、加山 雄三 さんの 「 若大将シリーズ 」、そして 植木 さんの出演作品が大人気だった。
なかでも 植木 さんの作品はすべて観たし、いまも DVD で発売されているものは全部購入し、何度も繰り返して拝見している。
当時のギャグは陳腐化し、いまではけして面白いものでもないのだが、植木 さん独特の豪快な笑い声、軽妙な動きは、時代を越えて輝き続けている。
他のコメディアンと大きく異なる魅力は、二枚目で運動神経に優れ、面白いうえにカッコよく、そのダンディズムに憧れを抱いてしまう点だ。
小学校で 「 大きくなったら何の職業に就きたいか 」 と尋ねられたときに、級友の多くは 野球選手 や、パイロット などを挙げていた。
私だけは、スクリーンで活躍する 植木 さんに影響を受け、「 サラリーマン 」 と元気よく答え、周囲を驚かせたことを覚えている。
もちろん、映画と同じようにはいかないが、植木 さん演じる ハイテンション な主人公の持ち味である 「 創意工夫と努力 」 は、仕事での教訓となった。
ひょっとすると、自分が仕事を通じて目指してきた理想像は、あの主人公であって、そこに近づこうと今日まで努力してきたのかもしれない。
謹んで故人のご冥福を祈ると共に、幼い頃からの夢と憧れ、そして、いまも私に元気を与えてくれる 植木 さんに、心からの感謝を捧げたい。
「 一人の死は悲劇だが、百万人の死は統計だ 」
ヨセフ・スターリン ( ロシアの政治家 )
A single death is a tragedy, a million deaths is a statistic.
Joseph Stalin
スターリンの本名は、ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ である。
ペンネームの 「 スターリン ( 鋼鉄の人 ) 」 のほうが、断然覚えやすい。
インフルエンザの治療薬 『 タミフル 』 を服用した男女 ( 主に10代 ) が、転落などの異常行動により死亡するケースが相次ぎ、問題になっている。
もちろん、そんな薬を服用していなくても、高い場所から飛び降りようとするお馬鹿さんは数え切れないほどいるのが、当世日本の現状である。
いくら周囲が心配しても、生命の尊さを説いても、生きるのが面倒だったり、勇気を出し惜しみしたり、また、周囲の気をひくために自殺する者はいる。
問題は 「 致命的な因果関係 」 の有無と、代替する 「 安全な特効薬 」 の有無であるが、いまのところ決定的な代替品が見当たらない様子だ。
有用性が高くて、因果関係も明らかにされていないのだから、いまのところ国として使用を差し止める措置を取らないのも無理はない。
こういう問題が起きると必ず、薬を飲んで死亡した 「 確率 」 を数字で示し、その安全性を云々する人が現れる。
今回の場合でも、「 ○百万人が飲んで、○十名が死亡した 」 といった統計から、仕方がないとか、忌々しき問題であるなどと、論議を展開される。
これは一見、論理的な意見のように思われがちだが、実は危険な判断で、「 死を数字で語ることの空虚さ、恐ろしさ 」 を忘れている。
戦争も病気も、割合的に死者が少ないから良いとか、悪いとかいった類のものではなく、たとえ少数でも多数でも、それが善悪の決め手ではない。
数字という客観的事実の手を借りて、さも冷静な分析をしているかのように見せかけるのは、物事の本質を知らない愚人の行動である。
人間が数字に対して抱くことのできる想像力というのは実に貧困で、一人の死が招く悲しみは知っていても、それの数倍、数十倍を想像などできない。
冒頭の名言にある通り、統計としての百万人の死は、身近な一人の死よりも悲劇的ではないのが実態なのである。
スターリンのような独裁者や、自殺癖のある人、つまりは 「 生命の価値を理解していない人物 」 ほど、死の軽重を 「 数字 」 で判断しやすい。
地震で何人死んだ、戦争で何人死んだと喚く割には、自分や仲間の生命を大切にしたり、健康管理に心がけようとする努力が足りない。
特別な立場でないかぎり、普通は 「 何人死んだか 」 よりも、「 誰が死んだか 」 のほうに関心があるはずで、それこそが “ 人間的 ” なのである。
広く飲まれている割に死亡例が少ないので、タミフルは問題がないと話す人もいるが、その 「 ごく少ない死亡例の遺族 」 に、そんな論理は通じない。
発症例が少なければ問題ないのであれば、全米で毎日の食卓に上がっているアメリカ産牛肉に 「 BSE問題の不安 」 を抱くことは、さらにおかしい。
本気で健康被害を恐れているのではなく、評論家気取りで独断的な意見を押し付けることを好む人たちが、なにかというと数字を持ち出してくる。
問題は、自分や、大切な人々に危害を及ぼすかどうかであって、統計的な数字よりもそれを優先して考えることは、利己主義ではなく生への欲求だ。
医薬の場合は基本的に、「 どんな薬にも副作用はある 」 背景を忘れず、副作用のない薬を求めると同時に、服用者が注意することが肝要だろう。
「 政治家というのは、捕まらなかった政治屋のことである 」
英語のジョーク
A statesman is a politician who didn't get caught.
English joke
当然、立派な政治家も大勢いらっしゃることを、私は承知している。
あくまでもジョークなので、本気で受け取らないように願いたい。
洋の東西を問わず、政治家をコケにしたジョークは多く、英語にも良い意味の政治家 ( statesman ) と、悪い意味の政治屋 ( politician ) がある。
彼らが標的にされる大きな原因は、立場上 「 得をしているのではないか 」 という猜疑心と、「 役割を果たしていない 」 という不平不満によるものだ。
後者については人それぞれに評価の分かれるところだが、前者については制度上の優遇措置、いわゆる議員特権というものが明らかにされている。
国会議員のみならず、それは地方議会においても堂々と存在し、たびたび 「 市民感覚からかけ離れた非常識な議員特権 」 が記事に載っている。
最近では、そういった 「 税金の無駄遣い 」 を監視する市民組織も活発に動き始め、徐々に改正の傾向にあるものの、まだまだ十分ではない。
領収証が不要なことから、議員報酬の一部になっている 「 政務調査費 」 だが、ある県議会では 「 議員一人あたり月60万円 」 を支給している。
また、別の県議会では 「 海外視察費 」 というものが存在し、当選1年目の議員は60万円、2期目以上には120万円が、4年の任期ごとにもらえる。
議会に1回出席するごとに、交通費として1万1千円を支給しているところもあり、これは 「 歩ける距離でも支給する 」 というのだから驚く。
議員にだけ、月額2万5千円相当の駐車場を年額2万5千円で使い放題にしたうえ、一日あたり4千円の交通費を支給している自治体もある。
こういった 「 政務調査費 」、「 海外視察費 」、「 交通費 」 などが、本来の議員報酬に加わる “ 現金収入 ” になっているケースは多い。
任期が長くなると 「 永年勤続表彰 」 を贈られるが、勤続30年で90万円もする肖像画と、6万3千円のダイヤ入り記念章をもらえる議会もある。
そこまでいかなくても、勤続30年で50万円相当の物品を渡したり、在籍20年目から、5年おきに10万円相当の商品を贈る例など、別に珍しくない。
引退後、市の外郭団体に名を連ね、週2回午前中だけ勤務で34万8千円の月給をもらったり、最高では 「 時給4万2千円 」 のケースもある。
その他に、議員の個人的な収入ではないけれど、億単位の費用をかけて議員控え室を改装したり、公用車などに大金を投じる自治体も多い。
これで、「 市民のための地方自治 」 を謳っているのだから、一般市民に 「 政治屋 」 と罵られても、無理はないような気がする。
日本では、国会も地方議会も議員数が多すぎるうえに、市民の税金でこのような無駄遣いが行われている実態があり、政治に対する不信感が強い。
特に、大半の自治体は 「 財政難 」 に苦しんでいるはずだが、議員特権を縮小すべきという論議は積極的でなく、あまり改善が進んでいない。
海外には、地方議会をボランティアで運営している例も多いが、日本でこの制度を取り入れると、「 利権 」 を狙ったハイエナの餌食になりやすい。
だから、けして無給奉仕とまでは要求しないが、もう少し常識的な 「 労働に見合う対価 」 を実現していかないと、市民の信頼は得られないだろう。
せっせと真面目に活動している議員や、特権を返上する議員も少なくないが、全体の特権構造を縮小しないかぎり、地方自治の未来はない。
2007年03月19日(月) |
嘘をつかずに騙す人々 |
「 みんながそう言っている、と “ 私 ” が言うとき、
それは “ 私 ” がそう言っているという意味です 」
エドガー・W・ハウ ( アメリカのジャーナリスト )
When I say “ everybody says so, ” I mean “ I ” says so.
Edgar Watson Howe
ややこしい表現だが、言わんとする主旨は伝わる。
妙な自己主張をする連中の、いわば 「 常套手段 」 である。
自分に都合のよい嘘をつくとき、それが誰にも簡単に見破られてしまうものでは困るので、大抵、嘘つきは 「 小細工 」 を施すことが多い。
その一つは、「 断片的な情報だけを並べる 」 という方法で、自分の主張に適う事実だけを提示し、都合の悪い部分は隠蔽するというやり方だ。
たとえば、「 イラク戦争でアメリカは多くのイラク人を殺した 」 のは事実だが、その情報だけでイラク戦争の是非を語るのは正しくない。
そこには、「 イラク戦争でアメリカは多くのイラク人を救った 」 事実が語られていないし、他の重要な多くの事実が隠されてしまっている。
また、戦争をしなかった場合に 「 アメリカはどれだけのイラク人を見殺しにしたのか 」、「 フセインの横暴を見逃したのか 」 も語られていない。
アメリカの言うことを聞かずに、日本の憲法に固執せよと主張する人もいるが、いまの日本の憲法そのものが 「 アメリカ製 」 であることは伝えない。
駐留米軍の費用は問題にするが、米軍による日本沿岸の安全保障に係る費用については知らん顔で、まったく関心を持たない。
歴史上の観点から、日本が敗戦の混乱から復興を辿るまでの間、アメリカに救われた恩義に触れることはなく、今日の力関係だけを問題視する。
他にも、アメリカと日本の関係だけを例に挙げても、事実を隠蔽、あるいは断片的にしか伝えないことで、正しい情報を発信しない人が多く存在する。
ただ、満たされない気持ちをアメリカにぶつける人々は、嘘つきというより 「 わがまま 」 な性格が色濃く、精神的に未達な人が多いようだ。
もう一つ 「 騙しのテクニック 」 を挙げると、冒頭の名言に表されているような 「 情報操作 」 という手法がある。
たとえば、営業マンで 「 どなたにも大好評です 」 なんて言う人がいるけれど、「 では、買わなかった人はいないの? 」 と尋ねると黙ってしまう。
証券取引が 「 誰でも儲かる 」 ことはないし、逆に 「 誰でも損する 」 こともないのであって、すべての人に当てはまる話など滅多にないのが事実だ。
前述の 「 断片的な情報提示 」 と重なる部分もあるが、このように一部分の評価を 「 さも全体の意見のように 」 見せかけるのが情報操作である。
これも、嘘つきというより 「 他人の意見の威を借る 」 ことを好む性格の人がよく使いたがる手法で、精神的に 「 甘え 」 の強い人に多い。
営業の仕事を長く続けていると、少なからず、説得力、販売力を増すための手法として、「 嘘をつかずに他人を騙す 」 悪知恵が身についてくる。
その最たるものは 「 自己暗示 」 といって、自社製の商品が最高であると、自分で自分を暗示にかけ、そう思い込ませる手段である。
職業柄、そんな営業技術を実践し、それらを人に指導してきた経験からか、私自身は詐欺にあったり、他人から騙された覚えがない。
騙そうとしている人、論理が破綻している人は、少し話しただけで、あるいは文章の一端を読むだけで、すぐにボロが出てしまうものだ。
だから、見込みがあり、志の高い社員に対して私は、そのような技術を伝授しながらも、策を弄せず 「 正しいやり方で成功する 」 ように指導している。
これまでの選挙に加え、新しく始まる裁判員制度、国民投票制度など、これから国民の審判がますます求められる時代が到来する。
たまに、選挙の結果が自分の気にいらないからといって、日本人はバカだとか、これだからダメなんだと暴言を吐きまくっている御仁がいる。
私は、政治に興味がないというより、「 どんな結果でも、民主的に決定されたものなら、国民のためにすべて正しい 」 と思っている。
だから、結果をどうこう言わないが、マスコミや、一部のブログ等において、「 破綻した論理を事実のように湾曲する 」 横暴さには危惧がある。
ただ、なんだかんだ言っても日本は 「 恵まれた国 」 なので、よほど頭のおかしい連中とさえ関わらなければ、どうなってもハッピーに暮らせるだろう。
2007年03月14日(水) |
863万人分の個人情報 |
「 “ 秘密だ ” っていうことを、皆に言い忘れないようにね 」
英語のジョーク
Don't forget to tell everybody it's a secret.
English joke
怪しげな笑みを浮かべながら、「 ここだけの話だけどさ 」 と近づいてくる。
こんな友人には、ナイショの話を打ち明けないほうが無難だろう。
秘密にしたい事柄が知れ渡ってしまうか、地下でひっそりと守られるかは、周囲に居る友人の口の堅さによるとはかぎらない。
むしろ、その情報の価値によるところが大きく、つまらない話、誰にとっても関心のない話は、耳を貸す人も少ないので秘密が守られやすい。
逆に、面白い話を仕入れたときは、誰かに話したくなるもので、耳を傾ける人も多いし、今度はまた次の誰かに話したりして、たちまち広まっていく。
よくも悪くも、ご自分の噂話が広まるということは、少なからず貴方に対して周囲が関心を持っている証拠で、その情報にはいくらかの価値がある。
世の中には、「 他人が自分をどのように評価しているのか不安 」 と悩まれている方も多いが、誰からも関心を持たれないよりは幸せかもしれない。
ことさら秘密という程の情報ではなくても、どんな場所に、どんな人が住み、どんな生活をしているのか、それを知りたい人は大勢いる。
それらは主に、なんらかのビジネスに役立てたいという理由によるもので、たとえば企業が告知をする際、効率的に対象者を絞る手段に活用される。
具体例を挙げると、子供のいない家にランドセルや家庭教師のカタログを配っても無意味なので、どの家に子供がいるのか知っていれば得をする。
情報を基にして、DM、カタログの発行部数を抑えられるし、無駄な電話を掛けなくて済むし、より少ない経費と労力で、効果的に告知できるのだ。
あるいは、以前に利用した顧客の個人情報を保管し、新製品が出たときに案内したりすると、見ず知らずの新規客よりも成約に結びつきやすい。
いわゆる “ ブラックマーケット ” の中で、様々な個人情報を非合法に収集して販売する 「 名簿屋 」 という闇の商売がある。
一般企業が、長年に亘る顧客との信頼関係の中で得た個人情報を、彼らは 「 よからぬ手段 」 によって手に入れ、転売して利益を稼いでいる。
当然、マトモな企業が彼らに情報を売る可能性は低く、大抵は関係者から盗む、というか正確にいうと 「 盗ませる 」 のが常套手段のようだ。
社員の誰かを誘惑したり、賄賂を渡したり、あるいは弱みを握って脅したりして、機密文書である顧客の個人情報を、持ち出させるのである。
最近では、はじめから情報を入手する目的でスタッフを派遣社員として潜入させ、巧妙に大量の企業情報、個人情報を得ている名簿屋もあるという。
印刷大手の 「 大日本印刷 」 が、前代未聞である 863万人 という大量の個人情報を流出させる不祥事を起こし、巷は大騒ぎになっている。
同社は、NTT,トヨタ、イオンなどの大企業、ジャックス、レイクなどの信販、金融企業のDMを印刷しており、膨大な個人情報を保管していた。
犯人は業務委託先の男性で既に逮捕されているが、重要な情報を簡単に持ち出せたことなどに対し、管理体制への批判と責任追及は免れない。
どなたも経験があると思うが、見知らぬ企業から名指しでDMが届いたり、なかには年齢、職業なども知られており、薄気味悪いものもある。
それらには、こういった個人情報の流出が大いに関係しているわけだが、それ以上に悪用される怖れも十分に考えられるので罪は重い。
個人情報が流出した事件が起きるたびに、思い出す話がある。
幼い娘を病気でなくした夫婦の家に、毎年、時期がくると老舗人形店から 「 雛人形 」 のカタログが届き、開けてみると手紙が入っている。
そこには 「 ○○ちゃんも、○歳になられましたね 」 と、節句を祝う言葉が丁寧に綴られ、雛人形の購入を勧める文章が続いている。
死亡した情報までは流れず、非常識な結果になっているのだが、話を聞いた私が激昂したところ、ご夫婦は逆に 「 毎年、楽しみにしている 」 という。
娘が生きていたことを覚えてくれているようで、毎年、年齢まで加算されてくることも嬉しいという理由だそうだが、なんとも切ない話である。
「 私は年をとることが楽しみです。
ルックスがより重視されなくなって、自分が何者であるかが重要な
ことになりますから 」
スーザン・サランドン ( 女優 )
I look forward to being older, when what you look like becomes less and less an issue and what you are is the point.
Susan Sarandon
オスカー女優の名言だけあって、なかなか意味深なお言葉である。
年をとってこそ 「 中身で勝負 」 といったところだろうか。
人間には 「 ないものねだり 」 な部分や、「 仲間はずれを怖れる 」 部分があって、「 自分だけが損をしている 」 ことに不安を感じやすいものだ。
年齢もその一端であり、周囲の年長者たちから子供扱いされると悔しくて 「 早く大人になりたい 」 と願い、一人前に認められたい気持ちが強くなる。
その後、実際に年をとると、今度は若い連中との “ 距離 ” を感じるようになり、なんとも寂しい疎外感に切なくなってしまう。
他人を意識せずとも、自分自身の肉体的な衰えからは逃れられず、以前は難なくこなせた動作が上手くできなかったり、時間が掛かって焦り始める。
颯爽と車から飛び降りたら捻挫したり、通勤時に一段飛ばしで駅の階段を駆け上がったら心筋梗塞に陥ったりして、年をとるとそういう悲しさがある。
30歳ぐらいまでは、時々 「 タイムマシンがあったら 」 という妄想や憧れに浸るときがあって、いろいろと後悔することが多かったように思う。
まずまずの人生であっても、けして完璧ではないのだから、あの日あの時、あの場所で 「 ああしてたら、こうしてれば 」 と悔やんでも不思議はない。
この 「 たら、れば 」 が多い人を、以前は 「 後悔の多い人 」 と思っていたが、最近、それは違うような気がしている。
そういう人は、どこか 「 気持ちの若い人 」 であって、年をとった自分自身と諦めて付き合うことに抵抗を感じておられるのかもしれない。
なんでもクヨクヨと後悔するのは不健康だが、悟りきって “ 老い ” をすべて受けいれるより、少しは後悔や、やり直したい気持ちがあっていいだろう。
上海から少し離れた郊外の工場で、手入れが行き届いた古い型の日本製中型バイクを発見し、珍しいのでしばらく眺めていた。
ちょうど休憩時間だった持ち主の若い男性が現れ、私が連れて来た通訳と談笑しながら 「 乗っていいよ 」 と身振り手振りで勧めてくれた。
バイクに乗るのは30年振りなので、無様に転んで怪我したり、車体を壊したりするのが心配だし、なにより 「 年寄りの冷水 」 と笑われそうである。
それでも、実際の年齢よりも若く見られたのか、日本人が珍しかったのか、相手はしきりに勧めてくれるので、おそるおそる跨ってみることにした。
セルを回すと懐かしい振動と排気音が轟き、だだっ広くて何もない敷地の中なら、なんとか走らせられそうな気がしたので、少し借りてみたのである。
先週の上海は雨模様で、路面は少し濡れていたけれど、当日は雨も止んでいたので少しづつスロットルを回してみた。
アイドリングを高く設定されていたのでエンストはしなかったが、最初の一周はなんともぎこちなく、爽快感には程遠いヨタヨタ走りである。
二周目からは少し勘が戻り、いつの間にか集まったギャラリーや、持ち主、工場長らの歓声を浴び、なんだかテンションが上がってきた。
こうなると、ここは “ 日本代表 ” として (?) なにかパフォーマンスを見せなければという使命感に陥るもので、年甲斐もなく蛇行したりしてみせた。
本当は、最後に前輪を浮かせてウイリーしたかったのだが、若い頃でさえ下手くそだったのに成功する公算は少なかったから、自重しておいた。
言葉は通じないが、バイクを返すと笑顔で握手を求められ、親子ほど離れた自分の年齢を告げると、さらに嬉しそうな笑顔で強く握手してくれた。
下手くそでも、年寄りがバイクに乗ったり、お尻が下がっても REPLAY のジーンズを履いていたりすると、年寄りだからこそ “ ウケる ” ときがある。
それは、無理に 「 物わかりのよいオジサン 」 を演じるのではなく、同じように楽しもうとしている者同士であることが前提条件なのだろう。
大人になるのもよいけれど、「 おだてられて調子に乗るバカさ加減 」 を少しは残しておいたほうが、老化予防には役立つかもしれない。
冒頭の名言に反論するわけではないが、「 自分が何者か 」 なんて決め付けず、背伸びしないで生きていくのも、それはそれで悪くないと思う。
2007年03月12日(月) |
お金ではなく本能に従う生き方 |
「 なぜなら、そこにあるからだ 」
ジョージ・L・マロリー ( イギリスの登山家 )
Because it is there.
George L.Mallory
新聞記者から、「 なぜエベレストに登るのか 」 と尋ねられたときの答だ。
わずか4語だが、20世紀において最も広く知られた名言の一つである。
しばらく日記が滞っていたのは、中国への出張が長引いたのと、帰国後は溜まっている用事に追われたり、その他色々な事情による。
また近日中に、中国とベトナムと香港とアメリカに行かなきゃならないので、おそらく今後の更新も滞りぎみになるだろう。
最近、自分の仕事が 「 何屋さん 」 なのかよく判らなかったり、本業以外での収入が増えたりしているが、こういうときは気をつけなければならない。
本来、プロの仕事というのは 「 他人に負けない分野 」 に徹するのが原則で、中途半端に何にでも手を出すと失敗しやすいものだ。
儲かるからといって、あれもこれも首を突っ込むと、思わぬ失敗を招く危険もあるし、なにより、仕事以外の愉しみに使う大事な時間を失ってしまう。
一時的な浮き沈みはあっても、数年前から始めた外貨預金は予想以上に順調で、日本のアホ銀行に預けてないで本当に良かったと思う。
日銀の福井総裁自身が 「 日本人はもっと個人投資をすべきだ 」 と語っているぐらいなので、日本の銀行がいかに信用できないかは明白である。
かといって、彼が 「 最も日本経済に影響を与える身 」 でありながら、悪名高い村上ファンドを利用して私服を肥やしたことは問題だと思うが。
その問題も、マスコミが騒がなくなった途端に誰も追及しなくなるあたりは、いかにも日本的であって、ノンビリした平和ボケの象徴である。
お金に汚い、ずるい連中たちも、自分の懐から盗んだ実感がないかぎり、時間と共に免罪されていくのが、よくも悪くもこの国の実態なのだろう。
銀行に預ける代わりに、海外の不動産に投資したり、株を買ったり、為替が上がりそうな通貨に換えたり、金利の高い国で預金したりする。
そういった動作を 「 マネーゲーム 」 などと呼ぶ人も多いが、実際のお金を動かしているし、テレビゲームと違って失敗した場合にリセットはできない。
だから怖さもあるし、こつこつと働いて稼いだお金が秒殺で消滅した場合の “ やりきれなさ ” はダメージも大きいが、その分、儲けも大きいのである。
大事なのは 「 資金に対する程度問題 ( バランス ) 」 と 「 情報の豊富さ 」 で、その違いが明暗を分けているケースが全体の大部分を占めている。
これは経験よりも、「 お金のセンス 」 というか 「 お金への臭覚 」 みたいな感性の有無が大きいようで、なかなか他人に伝授できるものではない。
個人投資を、いわゆる一攫千金の手段として認識する方も多いが、それは “ やりかた ” であって、銀行預金に毛の生えた程度の堅実なものもある。
また、投資による配当益をアテにして生活する人と、あくまでも副産物程度にしか期待せず、本業を熱心に取り組む人にも大きな違いがあるだろう。
私の場合は、本業で 「 採算を気にせず、好きなことをやりたい 」 ために、本業の収支がトントンでも、常に資金が利益を産む投資を活用している。
最近の帳面を眺めると、「 本業で苦労しているのが馬鹿馬鹿しい 」 ほどに利鞘を稼いでいるときもあるが、それで本業を止めようなどとは思わない。
お金は、あくまでも手段であって、人生の最大目標ではないし、だからこそ、お金のことぐらいで目標を誤らないように、余裕を保持していたいと思う。
マロリーがエベレストをみて、「 そこにあるから 」 という理由だけで登りたくなったように、仕事も人生も、直感的な本能に従うことが自然だろう。
逆にいうと、仕事や人生につまづく人たちは、自分の意志や直感に従わず、不自然なしがらみとか、自尊心などに振り回されていることが多い。
なぜ、自分らしい生き方ができないかというと、そこでお金を理由に挙げる人が多く、「 お金に不自由しないこと 」 が最大の課題だと答える。
しかしながら、そういった人たちがお金を得たところで、今度はお金を気にせず自分らしい生き方をするかというと、実際にはそうでない。
お金を最重要課題と思い込み、執着している時点で、自分らしい生き方をすることなど放棄しているわけで、永遠に呪縛から解放されないのである。
お金のことばかり気にしている人も、まったく無頓着な人も、仕事だけの人も、遊んでばかりの人も、愉快な友人ではなく、本人もハッピーでない。
大事なことは 「 バランス 」 と 「 目的意識 」 であって、そこに自分らしさを追及し続ける人だけが、仕事面でも人格面でも成果を収めている。
ほとんどの人が、新入社員の頃にはバランスよく自分らしい仕事を目指していたはずなのに、いつしか手段と目的を見失い、バラバラになっていく。
それを防ぐためにも、自分のやりたい仕事をやりたいスタイルでこなして、お金の心配は別の手法で蓄財することが理想的であろう。
本来なら、そういった個人の経済顧問役を銀行が担うべきところなのだが、日本の銀行に資質のある人材は皆無で、それが残念なところだ。
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