Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2007年01月30日(火) 憲法を改正するのは当たり前



「 国があなたのために何ができるかではなく、あなたが国のために

  何ができるか、問いかけてください 」

             ジョン・F・ケネディ ( アメリカ合衆国第35代大統領 )

Ask not what your country can do for you,
but what you can do for your country.

                                John F.Kennedy



冒頭に著名人の名言を挙げているが、これは最も好きな名言の一つだ。

政府の愚痴ばかり吐いている人間が、いかにみっともないかがわかる。


小泉前総理に比べて、安倍総理が少し頼りなくみえるのは、前任者が日本の首相というより 「 大統領っぽい 」 指導力を発揮したせいかもしれない。

所信表明演説をみても、声の調子やパフォーマンスを含めて、小泉さんは大統領のように話し、安倍さんは与党の代表者という印象が強かった。

経済は上向いてきているものの、過去の好景気時とは違って、無気力な人の多い世の中にあって、力強いリーダーの登板を望む声は多い。

教育基本法、日銀法など、中身が腐っていても介入を阻止せんとする保身の集団に楔を打つなどして、なかなか安倍さんも実行力はある。

いまは、負けられない大きな選挙を前にして、やりたいこと、言いたいことが山ほどあっても、慎重にならざるを得ない時期なのだろう。


安倍内閣に期待する最大の関心事は、小泉前総理でさえも成し得なかった 「 憲法改正 」 であることに間違いなく、誰もがその成否を見守っている。

ただし、安倍さんが出来なかったとしても、あるいは民主党が政権を執ったとしても、おそらく近い将来、憲法は間違いなく改正されるだろう。

それは、先進国の一員として国際社会に共存するための 「 必須条件 」 であり、戦後体制の支配や、島国根性から脱皮する試金石となるはずだ。

改正において焦点となるのは 「 九条 」 で、けしてそればかりではないのだが、集団的自衛権や、有事対応について賛否両論が渦巻く気配である。

賛成でも反対でも、いろんな意見があってよいが、反対する人の大半が 「 議論も許すまじ 」 と息巻く様子をみると、反対派のほうが行儀は悪い。


前回も書いたが、何もしない人、自分のことしか考えられない人、周囲とは関わり合いたくない人が増えていて、世間には無気力ムードが漂っている。

いじめの問題にしても、ごく少数の 「 いじめられっ子 」 と 「 いじめっ子 」 について、大多数の 「 いじめも、助けもしない傍観者 」 が語り合う。

いじめた人間が悪いとか、いじめられる子にも問題があるとか議論は過熱するが、「 いじめっ子に立ち向かって助けなかった罪 」 は誰も問わない。

もし世界中が平和な状態なら、日本の非武装中立は自慢できるが、助けを求める人々がいる状態では、「 我、関せずの卑怯者 」 と紙一重である。

北朝鮮やイラクのことを少しでも知る人なら、諸々の問題について平和的な話し合いだけで解決できるわけではないと、誰もが理解しているはずだ。


隣町の 「 井楽町 」 に 「 布施 陰 」 という名の悪ガキがいて、他の子をいじめたり、ひどい目に遭わせるので、級長の 「 雨利 寛 」 が立ち上がった。

雨利クンも気の荒いところがあるので嫌う者は多かったし、実は布施クンが持っているオモチャを横取りする思惑があるのではと、疑う者も多かった。

雨利クンと仲が良い 小泉クン、安倍クンは、加勢したかったが周囲に反対され、せいぜい、雨利クンを自転車で井楽町まで送るのが関の山だった。

その後、雨利クンだけが戦って布施を倒したが、助けられた子の声は誰も聴かず、「 雨利って暴力的な奴だなぁ 」 と陰口を叩く者が多かった。

そこで、「 困ってる子を助けもしなかったくせに、その言い草はないだろう 」 と、小泉クン、安倍クンは少し首を傾げたのである。


子供の話に置き換えてみたが、「 話し合いの通じない乱暴者 」 と、そういう連中から酷い目に遭わされている 「 弱い子 」 は世界中に大勢いる。

だから、すぐ武力を行使してもよいという結論には至らないが、少なくとも、ある程度の力を持つ者は 「 自分にできること 」 を考えるべきだろう。

現在の憲法は、第二次大戦の終了直後、世界中が戦争に辟易して、誰も戦争をしようとは思わなかった時代に制定された 「 夢の象徴 」 である。

けして悪い憲法だとは思わないし、もし、世界中から戦争がなくなり、平和な世の中が実現した際には、ぜひ世界中で採用してもらいたい逸品だ。

いまは残念ながら、こんな 「 現実離れ憲法 」 を盾にして、争い事に参加しない言い訳をしていると、単なる 「 自分勝手な卑怯者 」 とみなされる。


安倍総理の提唱する 「 美しい国 」 という言葉について、格差社会の闇や、年金問題の不安などを持ち出し 「 何が美しい国だ 」 と吠える人がいる。

憲法を改正して、この国を戦争に導くのではないかと疑問視したり、権力の腐敗や、役人の天下り問題などを解決できないことに憤る人もいる。

それも一つの考え方だが、私は 「 美しい国 」 の条件として、国際社会での役割をきちんと果たし、「 自分勝手な卑怯 」 を棄てることに意義を感じる。

憲法改正を議論する際に、日本の平和とか、日本の利益という観点だけではなく、国際社会に貢献できる日本であるかどうかを、問いたいと思う。

だいたい、憲法がどうなろうと、ちゃんと頑張ってる人はそれなりに幸せで、国の愚痴を吐くしか能のない御仁は、相変わらずみっともないのである。






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2007年01月29日(月) 人に迷惑をかけないという価値観



「 人々の善が最高の法律である 」

                    キケロ ( 古代ローマの雄弁家、哲学者 )

The good of the people is the greatest law.

                                        Cicero



世の中には善い人と、悪い人と、どっちつかずの人がいる。

すべてが善い人であることは理想だが、それは望み得ないだろう。


座右の銘といえば、「 誠実 」 とか 「 真心 」 などを挙げる人が多いけれど、近頃は 「 人に迷惑をかけない 」 という言葉を後生大事にする人も多い。

個人的に、この 「 人に迷惑をかけない 」 という言葉や生き方が大嫌いで、そんな言葉を有難がって使っている人は一切、信用しないことにしている。

人間は生きているかぎり、それが意図的かどうかは別の話としても、誰かに迷惑を掛けたり、掛けられたりして暮らしているものだろう。

自分は誰にも迷惑を掛けていないなどと思うのは 「 大きな勘違い 」 だし、人生で大事なことは、どれだけ迷惑を掛けるかという問題ではない。

さんざん迷惑を掛けても、それ以上に社会へ貢献する者のほうが、ただ、「 人に迷惑をかけない 」 と消極的な生き方をする人間よりよほどいい。


こういう言葉を好んで使う人物というのは、たとえば、身体障害者の人たちと接したことが少ないのではないかとも思う。

私は長い間、車椅子で行う競技をサポートしてきたが、彼らの前で 「 人に迷惑をかけない 」 ことが正しい生き方であるなどと、とても言えなかった。

もちろん、親切な方々にとって、彼らの補助をすることを 「 迷惑 」 とは感じないだろうが、彼ら自身の気持ちとして、そういう負い目は常に持っている。

これは極端な例かもしれないが、誰しも、自分の気づかないところで誰かの世話になっているし、そんなことを恐れるばかりでは、何もできないものだ。

いづれにせよ、「 人に迷惑をかけない = 善い人間 」 という考えは正しいといえず、むしろ、善い人間というよりは 「 単なる小心者 」 のように思う。


一部の不心得者は別として、学校の先生というのは、子供に教育を施そうというのだから、さぞや立派な志を持っているはずである。

ところが、教育現場では 「 いじめ問題 」 が深刻化しており、いじめられた子の証言などによると、「 先生は何もしてくれない 」 のだという。

これは、それぞれ個々の先生が悪いというより、「 何もしない 」 ことが最善であるという間違った指導体制の結果であると考えたほうが自然であろう。

事実、教育委員会が行った 「 いじめ実態調査 」 に対し、北海道の教職員組合 ( 北教組 ) は、道内全21支部に協力しないよう指導していた。

こんな馬鹿げた連中を粛清せず、個々の教師を責めたところで問題は解決しないわけで、国会に証人喚問するなどして、とことん言及すべきである。


生徒たちの大半も、その親から 「 人に迷惑をかけない 」 ことが第一なのだと教えられて育ったので、いじめに加担することはない。

ただし、それ以上の正義漢を求められることはなく、むしろ、面倒な争い事には関わらぬことが賢明であるかのように、若くして悟っている子が多い。

もちろん、いじめる子がいなければ問題はないのだが、汚い大人の世界と同様に、子供の世界にも、悪意や差別意識がうごめいている。

しかもそれは、無邪気な分だけ残酷で、法律に縛られない分だけ無秩序に継続され、受ける側の痛みは、免疫がない分だけ苦しみが深い。

現実に目の前で、いじめが横行していても 「 我、関せず 」 と見て見ぬフリをきめていた大半の 「 人に迷惑をかけない 」 生徒たちに罪はないのか。


民間企業でも、この 「 何もしない 」 タイプの勤め人は増えていて、移動の多い部署や、「 夜討ち朝駆け 」 の多い部署を嫌う傾向が強い。

当然、人より苦労して頑張った分だけ、報酬や立身出世の見返りもあるし、なにより、自分自身の経験や能力を磨く効果は絶大である。

しかし、そのような 「 プラス思考 」 の人は激減しており、やる気のない人を無理に配置した結果、業績も伸ばせず、下手すると鬱病に陥る。

知能指数をはじめ人間の能力は、せいぜい5倍程度の差しかないといわれているが、やる気に関しては、人によって100倍もの差がある。

全員、不正なく入社試験に合格した人たちだが、「 人に迷惑をかけない 」 程度の志しかないようでは、先達の跡は追えても、新しい道を拓けない。


このように最近は、「 無気力 」、「 無関心 」 であり、常に被害者でも加害者でもないことが、最善の生き方であると示されている風潮が強い。

個性だ自由だと主張するけれど、精神面では、いたるところで 「 サムライ 」 の気質は廃れ、「 人畜無害 」 の群れに埋没しているように思う。

その元を遡れば、「 人に迷惑をかけない 」 の教訓に辿り着くような気が、周囲の人たちを眺めていて、つくづく感じるのである。

もちろん、エチケットやマナーの点において、他人に迷惑をかけないことは基本中の基本だが、それを倫理観や、生き方にまで転用するのはどうか。

迷惑をかける、かけないよりも、もっと大切にすべき事柄や、もっと大事な何かがあることを、もう一度、日本人は考え直すべき時期だと思う。






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2007年01月22日(月) テレビ化する人たち



「 最近の視聴者は、自分の生活よりもテレビ番組に詳しい 」

              ラリー・ゲルバート ( アメリカのTVプロデューサー )

Today's audience knows more about what's on television than what's in life.

                                   Larry Gelbart



ネット全盛の今でも、やはりテレビの持つ影響力は大きい。

人によっては、「 テレビの声は、神の声 」 だったりするようだ。


私は大嫌いなので勧められても食べないが、「 納豆ダイエット 」 なるものがテレビで紹介されたところ、その内容は出鱈目だったという。

この番組にかぎらず、「 ○○ が体によい 」 などとテレビで紹介されるモノのすべてを、私は一切、何も信じていない。

なぜならば、どんな栄養のある食品でも、食べ過ぎると不都合があったり、場合によっては害になる危険を孕んでいるからだ。

それに、「 食べる 」 という行為には、単に栄養素を摂るだけでなく、それを味わったり、誰かと一緒に楽しむことで交流を深める意義もある。

嘘っぱちの健康番組を制作した側も悪いが、ガセ情報を鵜呑みにしたり、頼ったりして、振り回される視聴者の側にも問題はあるだろう。


一昔前、フジテレビは 「 楽しくなければテレビじゃない 」 というスローガンを打ち出したが、なかなか秀逸なコピーだと思うし、とても共感できた。

基本的にテレビとは 「 娯楽 」 であって、新聞やラジオと同じニュースを伝えたとしても、テレビを介することで 「 情報 」 は 「 娯楽 」 に変わると思う。

でなければ、キレイな女子アナを据える必要もないし、現場からの中継や、ヘリによる取材、当事者の家族や近所へのインタビューも要らない。

だから、すべて娯楽と割り切っている私のような人間は、テレビの製作過程で ヤラセ や、多少の嘘が混じっていたところで、さほど腹も立たない。

逆に新聞は、ほとんど娯楽的な要素がない ( クソ面白くもない ) だけに、朝日新聞のように、嘘や捏造や詭弁が多いと、かなりムカつくのである。


テレビをよく観る、いわゆる 「 テレビ通 」 の人は、学校や職場でテレビの話をよくしてくれるが、その他の話題になると口数の少ないことが多い。

お金と違って時間というものは、誰にでも公平に24時間づつ配られるものだから、テレビを眺める時間が多いと、当然、他のことをする時間が減る。

冒頭の言葉にある通り、テレビ番組には詳しいのに、ご自分の生活やら、それを取り巻く環境の話に疎い人というのは、実際、かなり多いようだ。

言い換えれば、「 他人のことには詳しいが、ご自分のことはよく知らない 」 不思議な人物が、近頃は増えてきているような気がする。

特に、自己嫌悪の強い人物、鬱や精神疾患のある人物の場合は、自分は何者で、何ができ、何をしたいか、「 自己認知 」 を避ける傾向にある。


ある人のブログで、「 会社で意地悪な人が、教会で祈りを捧げたり、ボランティアをしている 」 ことについて、心理学的 (?) な解説を加えていた。

私は心理学を勉強しているが、この人がそれを 「 反動形成 」 や 「 投影 」 といった用語を使って説明されるのを、首を傾げながら読んでいた。

この場合に、「 会社で意地悪 」 というのは主観的な意見であり、「 教会で祈る、ボランティアをする 」 というのは、客観的事実であることがわかる。

ならば、この人は 「 教会で祈り、ボランティアをするような人 」 であって、「 意地悪な人が意外な行動をする 」 表現は、伝え方として正しくない。

この人だけが 「 意地悪だなぁ 」 と感じているのかもしれないが、このように先入観ありきで物事を伝える仕組みは、実に 「 テレビ的 」 なのである。


逆に、この人は沖縄知事選で与党候補が当選したことについて、「 沖縄の人間はすべて馬鹿 」 と、かなり過激なご意見を述べておられた。

その後、難病の子供を気遣う意見や、社会の不正を糾弾するご意見なども書いておられ、その中には、なるほどと共感できるものも多い。

前述の 「 反動形成 」 や 「 投影 」 という言葉を当てはめるなら、それも 「 馬鹿者扱いした沖縄の人 」 への 「 誤魔化し 」 という論理になる。

実際は、そんな偽善者でも、悪い人でもないと思うが、他人の善行は裏があると勘ぐり、自分の行いには目を瞑るという発想は、あまり感心しない。

カウンセラーの資格をとって以降、悩みを持つ人から話を聴く機会も増えたのだが、このような 「 テレビ的感性の人 」 が巷には多いようだ。


私が日記を書くのは、約30分〜60分程度の所要時間だが、よほど忙しいときにはその暇もなく、また、書きたい気にもならない。

一時、「 毎日書こう 」 と決めた時期もあったが、その制約を設けることで、他人や社会の重箱の隅をつつきすぎ、自分自身から目が遠のいてしまう。

楽しみにされている僅かな読者の皆様には申し訳ないが、悠々自適という立場ではないし、この日記以上に、まだ自分自身のことで精一杯である。

ブログを書く人も増えたが、少し危惧するのは、自分の生活や仕事などから目を逸らし、評論家ぶることにより 「 現実逃避 」 する人の多いことだ。

健康や体によい食べ物は紹介してくれても、テレビが視聴者を本気で心配してくれないのと同じように、まず自己認知に努め、責任を負う必要がある。






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2007年01月21日(日) 日本人が忘れてはいけない島



「 自由とは、ただ好きなことをすることではなく、我々が当然すべき

  ことをなす権利をもつことにある 」

                                 ヨハネ・パウロ 2世

Freedom consists not in doing what we like, but in having
the right to do what we ought.

                              Pope John Paul 



生まれたときから自由を得てきた人間には、理解し難い言葉であろう。

もちろん私も、他人から自由を束縛されたことなど、一度もない。


たまに戦争映画などを観ると、当時の人が 「 自由 」 に憧れ、それを欲し、有効に使いたいと願った想いを、身に染みて感じる場面がある。

それに比べると、多くの現代人によって語られる 「 自由 」 とは、安っぽく、薄っぺらなものであるのか、同時に痛いほど思い知らされてしまう。

若い者は 「 盗んだバイクで走り出す自由 」 や 「 校舎の窓ガラスを壊して回る自由 」 を謳い、教師は 「 国旗、国家を冒涜する自由 」 を唱えている。

中年の勤め人は、自分が人並みに満足な仕事もできないことを棚に上げ、会社や社会の愚痴を並べては、ストレスで精神病になった不幸を嘆く。

そんな連中には、自分に 「 自由 」 が与えられるなら、信念に基づき誠実に、国家や家族や地域社会のため、奉仕したいなどという発想などない。


話題の映画 『 硫黄島からの手紙 』 を鑑賞してきたが、オスカー有力候補と目される内容だけあって、見応えのある作品に仕上がっている。

第二次大戦末期、この硫黄島で、水も食糧も、弾薬の補充も受けられず、圧倒的な兵力、火力差に劣る日本軍将兵は、玉砕覚悟で米軍と戦った。

史実に近いと思うが、このような悲惨な戦いを強いられた背景には、海外の事情に疎い無能な参謀たちの 「 ミスリード 」 が大きかったようだ。

それでも、硫黄島に孤立し、国に見捨てられた2万の将兵は、「 自分たちが留まり、一人でも敵を倒し、上陸を遅らせる 」 ことに命をかけた。

そうすることによって、祖国が攻撃され、愛する家族に危害の及ぶ事態を、ほんの僅かでも阻止することができると信じたからである。


組織ぐるみの不祥事で揺れる 「 不二家 」 にも内部告発者がいるように、どんな腐った環境や、集団の中においても 「 正義漢 」 は存在する。

映画では、渡辺 謙 の演じる 栗林 中将 や、伊原 剛志 の演じる 西 中佐 ( いづれも実在 ) が、そんな 「 智・勇・仁 」 を兼ね揃えた好人物だ。

彼らとて、軍部の暴走には逆らえず、敗色濃い戦局の中、無益で理不尽な消耗戦に巻き込まれていくのだが、決戦を前に想いを呟く。

たとえ命尽き、孤島の砂に果てようと 「 きっと未来の日本人が、涙を流して自分たちに感謝してくれる 」 と、絶望感を振り払うように漏らすのだ。

劇場には年配の観客も多かったが、私も含めて、その言葉に思わず頷き、胸の中で手を合わせた御仁は少なくなかったろうと思う。


しかし残念ながら、彼らに感謝するどころか、靖国参拝は違法だとか、教師が国旗、国家を掲揚しないことは自由だなどと愚弄する日本人も多い。

彼らの死を無駄にしたのは、当時の大本営や軍首脳、政治家や、浮ついた国民ではなくて、そういった現代にはびこる 「 売国奴 」 かもしれない。

硫黄島で命を落とした2万人の日本人将兵のうち、実際には米軍と戦って死んだ人よりも、餓死、病死により非業の死を遂げた人の方が多い。

それでも彼らは、数倍の兵力と火器を持つ米兵と互角に渡り合い、日本側よりも8千名多い2万8千の米兵の命を奪ったのである。

過酷で絶望的な戦局の中にあって懸命に戦い抜いた彼らを、鬱だ、精神病だと泣きを入れては仕事を休む 「 戦わない現代人 」 が嘲笑している。


観終わった実感としては、「 こんな時代にしてしまって、本当に申し訳ない 」 という悔恨と、豊かになったはずの日本人の 「 心の荒廃 」 に胸が痛んだ。

また、冒頭の言葉と同じように、「 真の自由とは、自分本位な好き勝手ではなく、自分のやるべきことをやれる機会のこと 」 だと改めて思い知った。

作品は、日本人気質が十分に表現された素晴らしい脚本と、ハリウッドならではのスケール感に溢れた映像が見事に調和した佳作に仕上がっている。

それと、特筆すべきは、若い兵を演じた 二宮 和也 という俳優の演技力が抜群で、主役の 渡辺 謙 を食うほど、とても新鮮で印象的な好演だった。

オスカーの前哨戦である 「 ゴールデングローブ賞 」 では外国語映画賞の栄冠に輝いているし、本番でも高い評価を得られるものと期待している。






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2007年01月15日(月) 007/カジノロワイヤル



「 あらゆる創作活動は、何よりもまず破壊活動である 」

                        パブロ・ピカソ ( スペインの画家 )

Every act of creation is first of all an act of destruction.

                                  Pablo Picasso



一般的に、同じことを何度も繰り返すと、マンネリ化して飽きられやすい。

しかし、質の高いマンネリは、むしろ安心感として歓迎される場合もある。


エンターティメントの場合、観客がたえず意外性を求めてるとはかぎらず、いわゆる 「 お約束 」 的な決め事に期待するケースも珍しくない。

たとえば 『 水戸黄門 』 は毎回、クライマックスで悪者を相手に水戸光圀の正体を明かし、往生際の悪い敵が歯向かうところを一網打尽にする。

たまに、少してこずったりすることはあっても、黄門一行が負けたり、悪党が逃げのびたりする展開はなく、観客もそんな意外性には期待していない。

これは、『 ウルトラマン 』 や 『 仮面ライダー 』 などの子供番組でも同じで、意外性より、勧善懲悪の 「 スカッとする結末 」 を聴衆は期待している。

渥美 清 が主演した 『 男はつらいよ 』 が長寿記録を打ち立てられたのも、全48作を通じて同じ失恋模様を繰り返したからこその所業である。


配給会社の松竹では、渥美氏が死去した後にも 西田 敏行 を代役として 『 男はつらいよ 』 のシリーズを継続するという計画が、実はあったらしい。

しかし、たとえ物語や作風が同じでも、主演俳優のイメージが劇中の人物とあまりにも同一化されすぎた為、役者が変わると 「 同じ味 」 が保てない。

観客の脳裏には 「 渥美 清 = 車 寅次郎 」 という図式が出来上がっていて、その世界観にどっぷり浸かっていたい人が劇場へ足を運んでいた。

その点が、前述の 『 水戸黄門 』 や 『 ウルトラマン 』 や 『 仮面ライダー 』 との大きな違いであり、主演俳優の醸し出す主人公像に拠る比重が高い。

上映中、観客は物語の展開などではなく、かねてより自分が抱くイメージをけして裏切ることのない主人公と、共に過ごす時間を楽しんだのである。


過去、ジェームズ・ボンド を演じた俳優は数人いるが、初期の作品から観ている人間にとって、最初に演じた ショーン・コネリー の印象は最も強い。

派手なアクションが伴うので、数十年間に亘って同一の俳優が演じることは難しく、また、極端に若い俳優では、独特の人物像が演出できない。

それで、たびたび俳優を替えながらシリーズを継続しているのだが、いまのところ、ショーン・コネリー を上回る評価を得る人物は現れていないようだ。

最新作の 『 007/カジノロワイヤル 』 では、シリーズ史上初めて、金髪で青い目の ダニエル・クレイグ が演じているというので観に行ってきた。

本家のイギリスでは賛否両論に評価が分かれており、「 彼を起用するかぎりは観ない 」 と言うアンチ派もいる一方、「 シリーズ最高 」 との声もある。


ボンド役の難しさは、「 強靭なる肉体 」 を持つのと同時に、オックスフォード出身の 「 明晰なる頭脳 」 を併せ持つという設定である所以だ。

加えて、あらゆるスポーツに通じ、グルメで、ギャンブルに強く、女性を虜にする風貌を持ち、オシャレで、ユーモアがあり、SEXの達人である。

そのうえ、世界情勢、地理、歴史に詳しく、格闘技、射撃の名手で、並外れた運転技術、冷静沈着な判断力、俊敏な反射神経を擁し、正義感の塊だ。

この設定による人物を演じようとした場合、たとえば、肉体の強靭さに拘ると頭が良さそうに見えなかったり、オシャレに拘ると正義漢ぽくは見え難い。

もっと単純にいうと、「 まったく非の打ち所がない男性 」 など滅多にいないわけだから、ほとんど 「 誰も見たことのない男性 」 を演じる必要がある。


最新作の ダニエル・クレイグ の場合、「 強靭さ 」 の面では過去最強ともいえる面構えだが、頭の良さ、品の良さ、博学さといった側面は伝わり難い。

また、これはスタイリストの問題かもしれないが、フォーマルウェアを除くと、普段着もスーツも着こなしが芳しくなく、少なくとも 「 ボンドらしさ 」 がない。

特に、ラストシーンで着用されるスーツにいたっては、借り物のように浮いていて、着慣れた感じがまったくせず、なんだか 「 七五三 」 のようである。

粋な要素に欠け、肉体のいかつさが目立つ割には、繊細なことで苦悩するような芝居もあり、過去のボンド像とは 「 脚本的 」 にも演出が違う。

角度によっては 「 ケビン・コスナー に似ている 」 ようにも見えるが、女性にモテまくる風貌とも思えず、親近感はあるが、カリスマ性に欠けたボンドだ。


本編を観てみると、主演はもとより、その他の面においても従来の作品とは革新的に異なる部分が多く、両方の意見がある背景について理解できる。

一番の変化は、流血場面があったり、格闘の翌日に生傷が残っていたり、不祥事をマスコミに報道されたりする 「 現実路線 」 への軌道修正だ。

事件そのものも、宇宙規模のファンタジー的な話ではなく、日常的に起こり得る題材を取り上げているので、現実的な話として感情移入はしやすい。

また、近作につきものの 「 近未来的な秘密兵器 」 に頼らず、銃と腕っぷしだけで勝負しているところは、初期作品の醍醐味に回帰していて面白い。

全体的に従来の作品と比較した場合、ユーモラスさや、粋な部分が少なく、緊迫感、血生臭さは増え、エロチシズムの代わりに切なさが加味された。


一見の価値アリと思える作品なので、未見の方のためにも 「 ネタばれ 」 となる記述は避けたいが、もう少しだけ補足しておこう。

今回は、「 007の誕生秘話 」 という設定になっているが、時代は現代で、第一作の 『 ドクター・ノオ ( 1962 英 ) 』 以前ということではない。

本作でシリーズ第21作目ということだが、この作品と、それ以外に分類してもよいほど、本作は革新的な違いが多く、従来の作品とは趣が異なる。

だから、映画としての評価は 「 面白い 」 といえるが、007シリーズ特有の 「 お約束 」 に期待して行くと、なんだか、しっくりしないのも事実である。

個人的には、「 本作をもう一度観たいとは強く思わないが、次回作は必ず観たい 」 という感想で、今後の展開に興味津々というところだ。






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2007年01月14日(日) “ 自分たちのやり方 ” を盲信した不二家



「 疑問を呈しなくなるまでは、人は本当の愚か者にはならない 」

           チャールズ・P・スタインメッツ ( アメリカの電気工学者 )

No man really becomes a fool until he stops asking questions.

                             Charles P.Steinmetz



多くの物事を知らない人が、けして馬鹿なわけではない。

知ったつもりになり、何にも疑問を抱かなくなったら、本当の馬鹿である。


あるブログを読むと、改憲に賛成する人は国民の40%、集団的自衛権という言葉の意味を知っている人は 8% だという記述が載っている。

だから、「 集団的自衛権の意味も知らないくせに、改憲論に賛成するのは無責任だ 」 という主張を、繰り返し展開されているようだ。

たしかに一理ある話だが、集団的自衛権の意味を知らなくても、その他の理由から、改憲の必要を感じる人がいても不思議ではない。

また、その言葉の意味を知っていても、国際貢献の意思が薄く、「 日本だけが戦争に加担しなければ、誰が困ってもいい 」 という意識はどうかと思う。

いづれにせよ、自分が知っている何かを知らない人に対して 「 馬鹿扱い 」 するだけで、他の考え方があることを知ろうとしない人のほうが頭は悪い。


大手菓子メーカーの 「 不二家 」 が、消費期限の切れた牛乳を使っていたことなどの発覚により、一部の営業活動を休止している。

行政指導ではなく自発的な 「 自粛 」 という話だが、消費者から衛生管理を疑問視された食品が売れる可能性は低いので、必然的な結果だろう。

卵など、他の食材でも期限切れのものを使っていたようだし、一つの工場で1ヶ月間に50匹のネズミを駆除していたという情報もある。

創業者一族による同族経営にありがちな 「 ワンマン経営で、独断に陥りやすい 」 ことも不祥事の一因だろうが、事態の隠ぺい工作も目にあまる。

雪印の例と同じく、「 ブランドの消滅 」 までが懸念される中、今後、企業としてどのような対策を講じていくのか、興味のあるところだ。


企業でも、個人でも、正しいことをするのは 「 当たり前のこと 」 であるし、法令というものは、社内のルールよりも優先的に遵守されるべきである。

食中毒の恐れがなくとも、消費期限の切れた食材をみて、「 まだ使える 」 と勝手に判断する権限は、食品メーカーの社長にも従業員にもない。

おそらく、今回の問題が明るみに出た背景は 「 内部告発 」 によるものだと推測されるが、それがなければ延々と続けられていたことだろう。

加えて、不衛生な工場の実態などが露呈した以上、工場の移転、新設や、経営陣の大幅な刷新などを実行しないかぎり、信頼の回復は難しい。

営業停止による損害などより、はるかに大きな 「 評判 」 というかけがえのない財産を失った彼らの前途は、相当に険しいことが予想される。


なぜ、こうなったかというと、原因は彼らが 「 自分たちのやり方 」 に疑問を感じなかったという一点に尽きる。

おそらく普段は、「 消費期限の切れた牛乳を棄てる奴は馬鹿 」 という認識で、それを使った従業員のほうが、評価されるような体制だったのだろう。

法令類を無視して、ギリギリまで使えると 「 知っている 」 ことにベテランの価値を認め、知らずに棄てる人間は馬鹿にされる風潮もあったようだ。

それは外部からみると 「 節約 」 ではなく、単に 「 品質の低下 」 を意味するだけだが、疑問を抱かない彼らには、その違いが理解できない。

結果、彼らが 「 節約 」 と勘違いしてきた消費者への 「 裏切り行為 」 は、間違った節約の累積分を、はるかに上回る代償を支払う義務を負った。


先に挙げた改憲の問題も、不二家の問題も同じだが、自分たちが過去に成功してきた 「 やり方 」 が本当に正しいのか、常に疑問を抱くべきだ。

そのためには、社内のルール、国内のルールだけではなく、食品衛生法、あるいは国際法など、社外、国外のルールや、現状を把握すべきである。

日本は憲法を建前として、いかなる国際紛争にも加担せず、たしかに平和国家として世界から賞賛される立場を貫いてきた。

しかし実際には、世界中で紛争が絶えず、武力的な介入や、調停を必要とする無力な善人が虐げられており、力による救いを求めている。

改憲を拒み、ここで 「 見て見ぬフリ 」 をすることは、「 自分たちのやり方を盲信し、疑問を呈しなかった不二家 」 と同じで、かなり愚かな気がする。






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2007年01月10日(水) 日本の常識



「 異常なまでに高められた常識のことを、世間は知恵と呼んでいる 」

           サミュエル・T・コールリッジ ( イギリスの詩人、批評家 )

Common sense in an uncommon degree is what the world calls wisdom.

                             Samuel T.Coleridge



多国籍企業の就労マニュアルは、総じて分厚いモノが多い。

日本では取るに足らない事が、別の国で重要な意味を持つ事例もある。


たまに、口癖のように 「 常識 」 という言葉を使いたがる人がいて、自分の意に介さぬ行動をとる人を指しては 「 常識がない 」 などと揶揄する。

ところが、言われている側には 「 非常識なことをしている 」 といった意識がまったくないという場面も、けして珍しくはない。

常識という言葉は、生い立ちや環境の近い人々、同じ価値観を共有できる人々の間にのみ通用する 「 共通認識 」 であることを、知るべきだろう。

歴史や文化、風習や宗教が異なる多民族の集団においては、「 常識 」 という言葉では伝わらない事柄も多く、事細かなルール決めが必要となる。

ある国の 「 常識 」 が別の土地では 「 非常識 」 だったりするので、大きなトラブルの原因にならないよう、事前に取り決めを行うことが望ましい。


過去において、日本は単一民族に近く、終戦まで国家規模による全体教育が施されていた背景もあり、誰もが似通った 「 常識 」 を思い描いていた。

戦後、朝鮮半島のように民族分断の不幸は免れたが、全体主義思想への回帰を避けたい占領国の思惑から、価値観の多様性を植え付けられた。

その結果、自由と解放を手に入れた代償として、愛国心や道徳といった 「 過去の日本人が “ 常識 ” として抱いていた概念 」 は共感性を失った。

今でも日本は、ほぼ単一民族に近い形態になっているけれど、「 隣の人間が何を考えているのか、さっぱりわからない 」 ような疑心暗鬼がある。

親が子供を虐待し、子供が親を殺し、教師が率先して生徒をいじめ、得体のしれぬ愉快犯や、魑魅魍魎の渦巻く社会に 「 常識 」 など存在しない。


そんなことは皆、誰もが承知の上で、いまだに日本人は 「 常識 」 で物事を判断し、「 常識 」 によって問題を解決しようとするクセが抜けていない。

あるいは 「 常識 」 を、「 良心 」 という言葉に置き換えてもいいだろう。

教育現場での 「 いじめ問題 」 しかり、「 少年法 」 しかり、「 教育基本法 」 しかり、すべてが曖昧で不安定な 「 常識 」 頼みである。

安倍内閣の提唱する 「 美しい国 」 という目標も曖昧だが、本気で実現を目指すなら、愛国心のみならず、事細かな明文化、法制化が必要だろう。

まず最初に 「 常識ありき 」、「 良心ありき 」 という大前提があり、そこから物事を考え始めるという習慣を、そろそろ変えるべき時期にきている。


いま、外資系企業の就労規則をつくる作業を手伝っているのだが、これは日本で必要だろうかという項目まで、かなり網羅されたものになる予定だ。

きっと、自分の頭の中にも 「 常識 」 という概念が潜在するので、外国人の助力も得て、いくつかの項目が抜け落ちないように注意を払っている。

ふと思うのは、これが外資系でなくても、これからの組織には窮屈でがんじがらめのルールづくりが、必要とされるのではないかという危惧だ。

国旗、国家を掲揚しない教師など、「 自由 」 と 「 無分別 」 の違いがわからない一部の 「 はみだし者 」 のせいで、窮屈な世界になってゆく。

それが、これからの日本の 「 常識 」 なのかもしれない。






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2007年01月09日(火) 国会議員の待遇を上げましょう



「 お金を嫌悪する者は多い。

  が、それを人にやってしまえる者は少ない 」

          フランソワ・ドゥ・ラ・ロシュフコー ( フランスのモラリスト )

Plenty of people despise money -
few are able to give it away.

                     Francois de la Rochefoucauld



ホリエモンは 「 お金で買えないモノはない 」 と豪語したが、どうだろうか。

私の意見としては、「 安いモノは、お金でも買える 」 と思っている。


たとえば、「 お金で買える友情 」 や、「 お金で買える愛情 」 なんてものは、いかにも安っぽくて、しかも薄っぺらい感じがする。

お金だけを目当てに働いている人の仕事ぶりも、やりがいとか、達成感などの副産物を求めて働く人に比べると、どうにも安っぽい印象を受ける。

実際、生きていくうえでお金は必要で、懐が暖かいと安心なのも事実だが、お金があれば幸福が保証されているのかというと、そのかぎりではない。

私が過去に手に入れたことのある 「 大切なもの 」 の大部分は、お金ではなく、知恵や勇気や体力や心意気といった、何か別の代償によるものだ。

ただ、お金に対する欲望や野心は、総体的に経済活動を活発にするうえ、競争を促すので、ことさらに嫌悪する必要もないと私は思っている。


何かの不祥事が起きると、大企業の役員や政治家は 「 減給 」 を自ら申し出て、禊 ( みそぎ ) という形で責任の決着をつけようとする。

それで一応の評価をされる方もいるようだが、私は個人的に、まるで納得をできないし、問題のすり替えというか、筋違いな解決策としか思えない。

それに、「 給料を50%返上します 」 と言える人たちは、半分の所得で十分に生活ができるわけで、本人にとっては痛くも痒くもない話である。

責任ある人たちには、「 所得を下げる代わりに、質の低い仕事で許される 」 ことはなく、高給と引き換えに質の高い仕事をしてもらわないと困る。

お金がすべてではないが、仕事内容と報酬面のバランスが悪いようでは、なにかと上手くいかないのが世の常でもある。


政治家の待遇について、給料が高すぎるとか、経費を使い過ぎてるとか、議員宿舎の家賃が安すぎるとか、いろいろと不満を並べる人がいる。

このあたりは 「 経費対効果 」 の問題であって、何の役にも立たないダメな議員には1万円だって払いたくないし、安いから良いというものでもない。

逆に、日本を画期的に良くする救世主みたいな人物が現れたら、今の給料の10倍払っても価値があるわけだし、本来、そう願いたいものである。

赤坂議員宿舎の建設費が高い割に家賃が安すぎると、訴えている政治家もいるが、国民が政治家に望んでいるのは 「 そんな仕事 」 ではない。

たかだか 「 そんな仕事 」 で満足して、国会議員としての給料を堂々と受け取っているようでは、彼への報酬は議員宿舎以上の 「 無駄金 」 である。


しみったれた事を言ってないで、国会議員には高い報酬を支払い、経費をふんだんに使わせ、よい家に住ませて、美味い物を食べさせるべきだ。

庶民感覚も必要だが、庶民と同じ責任感では困るし、特別待遇を与えることにより、「 相当、頑張らなければならない 」 という重圧にも繋がる。

そして、「 不祥事があったけど、お金を返すので許してね 」 みたいな甘えには耳を貸さず、給料分の働きをしない議員はどんどん追訴すべきだ。

民主党がよくやる 「 国会の欠席 」 なんかは、雇用者でもある我々国民が、「 なぜ仕事をしないで、給料を受け取るのか 」 もっと言及すべきである。

基本的に、国会議員の問題点は 「 給料が高いことではなく、仕事の質と量が低すぎる 」 ことにあり、そこに目をやらなければ発展しない。


現実問題として、政治にはお金が掛かるので、極端に待遇を抑えてしまうと、悪いことをしてお金を稼ぐか、富裕層出身者しか政治家になれない。

困っている人たちを身近に見て育ち、この日本をよくしようと理想に燃える才能ある正義漢を輩出するためにも、それは好ましくないだろう。

日本の政治を改善したいなら、国会議員の給料を倍増して、もっと待遇を良くしてみることが、とてもシンプルだが効果的ではないかと思う。

そうなると、ますます国民の監視は厳しくなり、政治への関心度も高まって、いい加減な議員や、責任を果たせない議員では通用しなくなっていく。

現状は、「 それほど儲かる商売でもない 」 のが国会議員の実態で、所得を上げることで優秀な能力の参入や、全体の底上げも期待できるだろう。






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2007年01月08日(月) 紅白歌合戦の品格



「 最後の曲でお願いしたいのですが …

  安い席に座っている人たちは、手をたたいてください。

  あとの方々は、宝石類をジャラジャラ鳴らしてください 」

                   ジョン・レノン ( イギリスのミュージシャン )

For the last number I'd like to ask your help …
for the people in the cheaper seats, clap your hands,
and for the rest of you to rattle your jewellery.

                                  John Lennon



1963年、英国王室御前演奏会のステージ上に、ビートルズは居た。

冒頭の句は、彼らの音楽に興味なさそうな王室関係者をからかったMC。


ここ数十年、私は 『 紅白歌合戦 』 なるテレビ番組を観ていないので、昨年の大晦日に、誰が出て、何を歌っていたのか知らないし、興味も無い。

ただ、ここ数年は視聴率が低迷していることや、昨年は 「 DJ OZMA 」 のバックダンサーによる衣装が問題になったことは、報道により知っている。

どうやら、裸にみえる 「 乳房などが描かれたボディスーツ 」 に衣装替えした女性ダンサーが1分以上踊って、視聴者からの苦情が相次いだらしい。

苦情の内容に多かった 「 これが NHK の品格か 」 という意見を具体例に挙げ、NHK 会長は4日、職員に向けた年頭の挨拶で謝罪したという。

文化相も5日、「 品性をもった人間が動かしていけば、そういうことは起こらない 」 と不快感を露にし、NHK への自粛を促したようである。


この問題に関しては、どうにも腑に落ちない点が多い。

まず一つ目は、なぜ NHK が 「 ハプニング防止策 」 をとっていなかったのかという点と、それに対する説明が一切ない部分だ。

ご記憶の方も多いと思うが、2004年2月に生中継されたスーパーボウルのハーフタイムショーで、歌手のジャネット・ジャクソンが片胸を露出した。

当初はハプニングを装っていたが、意図的な演出であったことが判明して、生中継を流したテレビ局は、高額の罰金処分を受けることになった。

それ以来、世界中の大手メディアは 「 生中継を数秒間、遅らせる 」 という措置をとるようになり、不測の事態や放送事故に対処してきている。


第二の疑問点は、OZMA氏側が事前に 「 やるよ 」 と予告していたことや、彼自身のツアーで同じパフォーマンスを見せていた事実にある。

NHK は 「 放送まで知らなかった 」 とコメントしているが、彼の出演が決定してからずっと話題になっていた世間の関心事であり、素直には信じ難い。

断定はできないが、視聴率獲得のため 「 ある程度のハプニング 」 は予測し、あるいは期待したうえで、彼を登用したと考えるほうが自然だろう。

第三の疑問点は、猥褻物を開陳したわけでもないのに、苦情が多かったら不祥事という結論に達してしまうのか、その曖昧な基準である。

紅白では 「 観るに耐えないギャグ 」 が曲の間に展開されるけれど、それを不快と思う私のような人間が苦情を多く寄せると、不祥事になり得るのか。


結論的に言うと、この一件には 「 加害者 」 など存在せず、パフォーマーはもとより、NHK の職員の誰一人として、何の責任もないと思う。

国民放送といえども歌番組なんてものは 「 娯楽番組 」 なのであり、そこに教育的見地とか、高度な品格など求めることに無理がある。

品格を語るなら、ロックやポップスにおける歌詞の大部分に問題はあるし、大御所と呼ばれる有名歌手による演歌も例外ではない。

荒波の寄せる日本海に古い船で漁に出ると、海上保安庁の視点からみて 「 模範的な品格 」 には程遠い話で、誰かが真似したら海難事故に繋がる。

不倫中の女性が冬の旅館に泊まり、「 着てはもらえぬセーター 」 なんかを寒さこらえて編んでいる光景も、教育上よろしくない話である。


問題は、「 誰に向けて、喜んでもらう番組を流すか 」 という一点であって、スポーツのようなノンフィクションは別として、万人を喜ばすのは不可能だ。

たとえば私は演歌が苦手なので、サブちゃんや氷川きよしクンが出ているかぎり、そんな番組を満足して眺めることは考えられない。

善い悪いではなく、それは 「 趣味 」 の問題であって、低俗か高尚かなんて基準と同様に、人それぞれの価値観に委ねられるものだろう。

結局、「 観たくない奴は観るな 」 という次元の話で、DJ OZMA の表現する世界観を理解せず、衣装にだけケチをつける視聴者側に問題がある。

音楽とは 「 音を楽しむ 」 ものであって、楽しきゃ観ればいいし、楽しめなければ観ないという選択は、NHK といえども視聴者の責任なのだ。






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2007年01月07日(日) ハムレット男に気をつけろ



「 弱き者よ、汝の名は女なり 」

               ウイリアム・シェイクスピア ( イギリスの劇作家 )

Frailty, thy name is woman!

                            William Shakespeare



文中の英単語 「 frailty 」 は、脆いもの、壊れやすいものを意味する。

シェイクスピアの悲劇 『 ハムレット 』 に登場する、有名な台詞の一節だ。


名作と呼ばれているので一応は読んだり、映画化や、舞台化されたものを観たりもしたのだが、私には 『 ハムレット 』 の魅力がまるで理解できない。

ハムレットの母親は、夫である国王 ( ハムレットの父 ) が死ぬと、まもなく国王の弟と再婚する。

このことを快く思わないハムレットは、女とは貞節堅固でなく自分の欲望に支配される 「 意思の弱い者 [ frailty ] 」 と決め付け、冒頭の台詞を吐く。

このあたりは、よく冷静に、客観的に眺めてみると、再婚した自分の母親を恨んだり、罵ったりする 「 わがままな甘えん坊 」 の愚痴でしかない。

むしろ母親のほうは 「 弱き者 」 どころか、どんどん再婚して自分の人生をやり直そうとする 「 たくましさ 」 があって、前向きな生き方をしている。


ハムレットのほうは、自分の母親が叔父と再婚したことを恨み、そこから父の亡霊を見たなどと言って狂人のふりをし、滅茶苦茶な行動を繰り返す。

その後、大臣を殺し、恋人を狂死させ、母を殺し、叔父を殺し、友達を殺し、しまいには自殺するという 「 救いようのない凶悪犯 」 になり果てる。

世の通説では 「 偉大な悲劇 」 とされているが、わがままでネクラな青年の陰気な犯罪心理劇であって、ちっとも感動する場面など見当たらない。

行動もそうだが、有名な 「 生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ 」 などといった台詞から、ハムレットが重度の 「 鬱病 」 であることも明白だ。

自己愛型人格障害の主人公が、母親に 「 裏切られた 」 と曲解して精神を病み、周囲に害悪を巻き散らしていくドラマの、どこに感動があるのか。


けして名作悲劇などとは思えない 『 ハムレット 』 だが、最近、相次いでいる家庭内殺人の背景を考えるには、なかなか参考になる部分も大きい。

本来なら、もっとも親しく、愛情と理解が深いはずの親子関係ではあるが、ひとたび、それが 「 裏切られた 」 と感じた場合、極端に歪むこともある。

それに、事件を報道するマスコミや、ブログで意見を述べる人たちも、特に男性の場合は、マザコンからくる 「 母親への依存 」 が表れやすい。

たとえば最近の 「 母親がスノーボードに出かけている間に、2歳児の坊やが焼死した 」 という事件に、「 鬼母である 」 と、大騒ぎする人が多かった。

その翌日に、「 父親が幼児を暴行死させた 」 という事件もあったのだが、マスコミの扱いは小さく、それを取り上げるブログも見当たらない。


犯罪性、凶悪性から判断すると、「 故意ではない、若い母親の不注意 」 と、「 故意による残虐な犯行 」 では、どう考えても後者の罪が重い。

しかしながら、特にマザコン思考の強い 「 母親依存型 」 の男性や、自己愛傾向の強い人の場合は、そのあたりの順序が逆になるようである。

彼らにとっては、「 母親は自分の欲望や、気晴らしをする資格などない 」 という決め付けがあり、いついかなるときも、子育て中心でないと許されない。

つまり、「 子供が焼死したこと 」 よりも、「 子供から注意を逸らした 」 ことへの異常なまでの怒りが大きく、すべてはそこに帰結するのである。

母親だろうが、一人の女性として、人間として、ストレスもあれば気晴らしも必要なのだが、そんなことは全く考えようとはせず、極端な意見に走る。


もちろん、気晴らしにも限度があり、子供を放置死させた責任は重いけれど、家事、育児を分担しない父親や、妻子を棄てる男性にも問題はある。

その点には一切ふれず、鬼の首でもとったかのように、母親側の育児責任ばかりを追及する男性が、このところ世間には多いように思う。

本当の男らしさとは、家事、育児をしないことではなく、女性への思いやりに長けていることであり、「 お互いの責任 」 を全うすることではないだろうか。

私の周囲にも、ごくたまに奥さんが不在したときなどに 「 子供の面倒をみて、大変だった 」 などと吹聴して回る男性がいるが、実にみっともない。

奥さんのほうは、やむをえず一日外出しただけで、いつまでも恩着せがましく言われるので、「 二度と出たくない 」 などと漏らしているようだ。


こういう男性にかぎって、些細なことで気を病んだり、すぐに 「 生きるべきか死ぬべきか 」 と世を憂いて嘆き、いざとなったときに意気地がない。

まさに、「 現代版ハムレット 」 ともいうべきマザコン男の典型である。

他人にまで聞こえるように 「 生きるべきか死ぬべきか 」 などと呟く行為は、独り言ではなく、周囲に甘えているだけのことだ。

家庭の崩壊も、教育現場の荒廃も、父親をはじめとした 「 力強い男性 」 の減少によるところが大きく、そこから世の中がぐらついているのだと思う。

女性に甘えてみるのも 「 たまに 」 はよいが、依存し過ぎると呆れられるし、そういう人間は家庭以外でも、どんな組織にいても頼りにされない。






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2007年01月03日(水) 2007年 新年の気分



「 人はいつも、時が物事を変えてくれると言うけれど、実はそれは、

  あなた自身で変えなくてはならないものなのだ 」

               アンディ・ウォーホル ( アメリカの画家、芸術家 )

They always say that time changes things, but you actually
have to change them yourself.

                                   Andy Warhol



新年 あけましておめでとうございます

本年も よろしくお願い申し上げます


世の中には星の数ほど会社があるけれど、では 「 日本最古の会社 」 とはどこで、それはいつ頃に生まれたのか、ご存知だろうか。

それは、大阪の 「 金剛組 」 という建設業で、創業は西暦578年である。

聖徳太子が四天王寺の建立を思い立ち、百済から招いた三人の工匠の中に金剛重光という人がいて、工事を請け負う組織を作ったのが始まりだ。

重光の指揮によって四天王寺が創建されたのは593年だが、工事はその後も続けられ、最終的に完成したのは100年以上も後の奈良時代である。

以来、金剛組は日本全国で神社・仏閣の建築を手がけ、数多くの宮大工を抱える日本最古の 「 会社 」 として存続してきた。


約一年前、昨年の一月に金剛組は 「 バブル絶頂期の過剰投資 」 という、なんともツマラない原因によって、事実上の破綻に追い込まれた。

それを受け、大阪の 「 高松建設 ( 東証一部上場 ) 」 というゼネコンが、「 金剛組を潰したら、大阪の恥や 」 と助け船を出し、窮地を救った。

社名や、世界最長寿といわれる歴史を守った 「 大阪人の心意気 」 には、各界から賞賛されたが、約1400年の間、危機は何度もあったらしい。

そこで窮地を救い、伝統を継承してきた背景は、はたして何だったのか。

ただ単に、継承ばかりを心がけていたのでは、今日まで存続していない。


わが国の伝統芸能である能や、歌舞伎、文楽、あるいは茶道等にしても、その時々の継承者が、創意工夫を凝らしてきた結果として今日がある。

優れた伝統を次の時代に続けていくためには、継承した点を一歩進めて、新たな創造を加えることが不可欠だといえるだろう。

私は 「 改憲論者 」 であり、数十年を経てカビの生えた、しかも日本が戦争に負けて何の意見も言えなかった時代の憲法を、善しと思っていない。

もちろん、それが世界的に平和憲法として評価されていることや、混沌とした20世紀後半の世界にあって、貢献してきた事実を認めたうえのことだ。

巷には、議論することさえも避けようとする妄信的な意見もあるが、過去において通用した伝統が、次の時代に効力を発揮するかは疑わしい。


何事も 「 継承なき創造 」 は空中分解を招き、「 創造なき継承 」 はやがて消滅を余儀なくされる運命にある。

企業も、国家も、個人も、過去のやり方で上手くいってる時には、どうしても創造が疎かになって、新しい意見や方法が導入され難いものだ。

平和という伝統を継承するためにも、日本にあう憲法は何か、次世代にあう憲法は何かということを、常に研究し、一歩進める努力は必要だろう。

前総理は 「 自民党をぶっ潰す 」 などといった発言を好み、破壊こそ創造の第一歩という発想が強かったけれど、けしてすべてがその通りでもない。

新年に、「 継承 」 と 「 創造 」 という二枚の両輪を活かして、新しい時代に続く、豊かで平和的な国づくりが実現されることを願う所存である。






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