Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2006年12月31日(日) 前を向いて力強く



「 私は常に前を向いていました 」

           クリス・エバート ( アメリカ出身の女子プロテニス選手 )

I always looked ahead.

                                    Chris Evert



常に表情を変えず、「 アイス・ドール ( 氷の人形 ) 」 とも呼ばれた。

35歳で引退後、国際テニス殿堂入りを果たした名プレイヤーである。


目先の小事に翻弄され右往左往している様子は、キョロキョロした視線にも表れるもので、人間らしいといえばそうだが、なんだか落ち着きがない。

それに対し、目標をずっと先に置いていたり、長期的な視点で物事を観察している人は、一見、無表情にみえるが、冷静で、動じるところが少ない。

一年間、いろんなことがあったけれど、基本的な姿勢は、たとえば冒頭の 「 ずっと前を向いていました 」 だけで、十分ではないかと思う。

法律が変わったり、事件があったり、どこかの国で戦争があったり、若者に変なブームが起きたりしても、イチイチ、目くじらを立てる必要はない。

そんなことは、去年も、一昨年も、十年前も、五十年前も、同じ様に起こっていることで、とりたてて珍しいといえるようなモノは少ないのである。


大事なことは、個々の事象への反応ではなく、目標をもって人生を前向きに強く生きるということである。

時事問題についても、些細な問題で過剰に反応する人たちがいるけれど、そういう人たちにかぎって、まっとうな夢や目標を示せていないことが多い。

そして、そういう人たちは、夢のない世の中であることや、次世代に希望を託せない原因は 「 社会のせい 」、「 国のせい 」 だと信じて疑わない。

実際は、若者が夢や希望を持てなくなったのは、国から何か言われたせいではなく、そんな 「 やる気のない大人 」 の惨めな姿を見せられたせいだ。

他人のアラ探しばかりに熱中し、たまに自分に都合の悪いことが起きると、「 鬱だから休みます 」 てな大人をみて、子供がマトモに育つわけがない。


いつからか世の中は、ダメな大人をダメと呼ばなくなり、それも個性だねとか、それも生き方だねみたいな、ユルくてヌルい風土を醸し出してきた。

病気を責めるつもりはないが、病気になって良いことなど何もないし、そのために自己管理をすること、発病したらすぐ治すことは自己責任である。

経験上、自分も知っているが、いくら仕事ができたとしても、心身の健康が悪い状態、特に 「 やる気のない状態 」 は、周囲にまで害悪を及ぼす。

時事・社会問題を考えるとき、個々の事件よりも、そういった事件を一過性のものとして処理できず、連鎖させてしまう最近の風潮に危険を感じる。

そう、個々の事件は目新しいものでもないが、執拗に繰り返し連鎖したり、社会が消化できないところに、大きな問題と時代の歪みがある。


いじめられた子供たちの自殺が連続したことで、マスコミの報道姿勢に問題があると指摘する人も多いが、そんな責任追及よりも重大なことがある。

それは、言うまでもなく 「 死ぬな 」 と子供たちにメッセージを送ることであるが、最近の大人たちは、自分が少し嫌な目に遭っただけで死んでしまう。

自分が子供の頃、学校をサボりたかったり、嫌なことから逃避したかったとき、周りの大人は皆、高度成長期のモーレツ時代を遮二無二生きていた。

誰も、「 鬱だから休みます 」 とか、「 負け組だし、死にます 」 なんてことを、少なくとも 「 子供に漏らす大人 」 などいなかったはずである。

大人が夢を描き、前を向いて、力強く生きることが、この社会をより良くする唯一の方法であり、皆、そう努力すべきで、できない人は黙るべきである。






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2006年12月26日(火) 嫌いだがアッパレだった共産党



「 真実とは、あなたを好まない人物から得られる情報のこと 」

                                      作者不詳

The truth is the information you get from a person who doesn't like you.

                                    Anonymous



逆説的に、「 嫌いな人物から、真実を学ぶ 」 ことも アリ である。

賛同者ばかりに囲まれ、浮かれているようでは、真実は手に入らない。


別に熱烈な支持者ではないが、悲しいかな現在の日本国には 「 自民党 」 以外にマトモな政党が存在しないので、一応、支持している。

もちろん、内閣や政治家に不満もあるが、それは 「 自民党さんに、しっかりやってほしい 」 ということであり、他のスチャラカ政党は問題外である。

ちょっと古い話になるけれど、「 新党さきがけ 」 の発足時には期待したが、結局、なし崩し的に彼らも方向を見失ったようだ。

もっとも要らないのは 「 民主党 」 であって、彼らに政権を渡したところで、何も変わらないと思っている人が大部分なのではないだろうか。

いわば 「 自民党の二軍 」 みたいな存在で、自民党の反乱分子が主導しているだけに、哲学もポリシーも同じで、単に政権を執りたいだけの集団だ。


それに比べると 「 共産党 」 などは、とてもじゃないが政権を渡したいとは思えないけれど、自民党とは対極の位置に立つので存在価値はある。

しかも、民主党と違って 「 政権を執ろうなどという野心 」 がないし、大企業から嫌われ、それに対し開き直っているから、遠慮なく意見が言える。

11月の財務金融委員会では、「 銀行は公的資金で破綻を免れ、未曾有の利益を挙げて税金は納めず、国民にも還元しない 」 事実を堂々と訴えた。

教育現場で起こっている 「 いじめ問題 」 を、卑怯な振る舞いと糾弾する人も多いが、平気な顔をして、卑怯で汚い手本を示しているのが銀行である。

皆、そんなことは百も承知なのだが、結びつきの強い自民党や、間違って政権を執った場合に嫌われたくない民主党は、そこを強く衝かない。


まず、過去において金融庁は、預金者保護の観点から、破綻した金融機関の受け皿金融機関に対して、18兆6千億の 「 金銭贈与 」 をしている。

次に、破綻金融機関などから、9兆7千億の 「 不良債権の買取 」 をした。

その後、金融機能の安定や、早期健全化を支援するという建前から、存続している金融機関に対し、12兆4千億の 「 資本注入 」 を実行。

その他、特別公的管理銀行に特有な処理などを中心として、6兆円規模の 「 資金援助 」 が行われたことを、共産党議員は委員会で追及した。

この 「 金銭贈与 」、「 不良債権の買取 」、「 資本注入 」、「 資金援助 」 を足すと、なんと 「 46兆7千億 」 という公金が、銀行に注がれたのである。


それに対し、大手銀行6グループの今年3月期決算は、3兆1千億強という莫大な利益を計上しており、しかも、それに伴う法人税は 「 0 」 である。

なぜ、法人税が 「 0 」 かというと、過去7年間の損失累計が大きいため、全部消化するまでは、税金を払わなくてよいというルールがあるのだ。

そのため、いくら銀行が莫大な利益を挙げようとも、これから3〜4年間は、銀行が法人税を支払うことはないという予測がされている。

しかも、銀行が返したという借金は 「 46兆7千億 」 のごく一部分であって、事実、「 10兆4千億は国民負担 」 ということが既に決まっている。

銀行は過去の損失を国に庇ってもらい、大儲けしても税金を納めずに済むが、国民は彼らの損失を、10兆円規模で返済し続けていくことになるのだ。


ちなみに、銀行が莫大な利益を挙げた要因は、景気回復に伴って、不良債権処理に備えた貸し倒れ引当金が不要となり、戻し益が生じたためだ。

金利収入など本業での儲けは、前年同期に比べても大きく減少しているし、けして彼らの努力によるものではなく、従業員に還元するのはおかしい。

そのうえ、彼らは利益を政治献金に費やそうとし、預金者への還元、負担を強いられた国民への返納など、一切、眼中にないというのだから驚く。

高金利が続いていれば預金者が得られたはずの利益は、危機的状況まで陥った銀行を救済するゼロ金利政策で、雀の涙以下に化してしまった。

税金も払わず、国民にも還元しないが、自民党にだけ還元しようとする銀行の卑しさを、共産党が鋭く言及したのは、なかなかアッパレである。






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2006年12月25日(月) 年末の気分



「 用心深い恋人なんて、ほんとは恋人なんかではない 」

A lover without indiscretion is no lover at all.

                  トーマス・ハーディ ( イギリスの作家、詩人 )

                                 Thomas Hardy



恋愛は強い人間的衝動であり、理性や社会通念や利害で抑えられない。

自制心や用心深さに押さえ込まれるようなら、その時点で恋愛ではない。


とは言うものの、何度も 「 痛い目 」 に遭っている人や、「 古傷 」 の癒えていない立場からすると、新しい出会いを臆病に感じて不思議ではない。

熟年カップルが始める 「 老いらくの恋 」 は、若さに任せた無鉄砲さとか、不謹慎なところのない慎重さが美徳とされる風潮も強い。

しかし、むこうみずで用心深くない恋が、必ず悲劇になるともかぎらない。

むしろ、そんな恋愛のほうが、お互いの強い本能や情愛から出るものだから、後悔より喜びが、不満より満足が生まれることは多いだろう。

たとえ 「 傷跡が一つ増える 」 結果になろうとも、今年のクリスマスイブは、そんな想いを捧げる相手が見つかって、良かったと思っている。


クリスマスに前後して、毎年 「 忘年会 」 に誘われたり、誘ったりする機会も多いが、私はこの 「 忘年会 」 というタイトルが、あまり好きではない。

一年の嫌なこと、辛かったことにスポットを当てて、それを忘れることで労うというネガティブで自虐的な姿勢は、はたしていかがなものだろうか。

声にしたときの読み方は同じだけれど、毎年、自分が主催するものだけは 「 望年会 」 という当て字を使い、来年をより良い年にと願う会にしている。

たったこれだけのことで、その場の空気や、それぞれのスピーチにも違いが出て、反省よりも対策が、後悔よりも希望が、参加者を明るくさせる。

恋も仕事も、忘れ去ることで傷跡が 「 チャラ 」 になるわけでもなくて、新しく始めたり、拡大することでのみ、視界が開けるものではないだろうか。


世間の話題に目を移すと、最近、芸能関係の訃報が多いようだ。

青島幸男さん、岸田今日子さんら大物と同様の扱いで、お笑い漫才コンビ 「 カンニング 」 中島忠幸さんが、若くして急逝されたことも報道された。

相方の竹山隆範さんについては、正直、その芸風や個性などに対して良い印象を持っていなかったのだが、一連の報道によってイメージが変わった。

彼は、中島さんが療養中の約二年間に亘り、単独活動をしながらも芸名を 「 カンニング 竹山 」 と名乗り続け、報酬の半額を相方の治療費に充てた。

小学校時代からの友人ということだが、なにかと利己的な風潮の強い最近の世の中で、友情や、感謝の気持ちを尊ぶ美談として、印象に残った。


それに比べ、六カ国協議における北朝鮮の横暴ぶり、仲介役を名乗り出た中国政府の無責任ぶりは、予想したこととはいえ、なんとも腹立たしい。

また、未曾有の好決算を理由に、生意気にも政治献金を再開すると発表した大手銀行には、憤りを通り越して呆れるばかりである。

彼らは、公的資金 ( すなわち国民の負担 ) を甘受して苦境を脱しながら、儲けを預金者らに還元することもなく、公然と政治献金に投じるという。

さすがに安倍総理も、国民感情を鑑み 「 拒否 」 の姿勢を示したが、およそ銀行関係者というのは、救いようの無い非常識な連中の集まりらしい。

こういう連中は、もう少し 「 恋人への用心深さ 」 を示すべきで、己の利益や思惑によって周りがみえないようでは、顰蹙を買うのも当然の話である。






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2006年12月18日(月) 教育基本法改正に反対する意図がわからない



「 先生 : 無知と無関心の違いは?

  生徒 : 知らないし、興味もありません 」

                                   英語のジョーク

Teacher : What's the difference between ignorance and indifference?
Student : I don't know and I don't care.

                                   English joke



生徒と先生の台詞を入れ替えても、さほど違和感はない。

無知と、無関心こそが、戦後自由教育の 「 悪しき集大成 」 である。


先週、教育基本法が59年ぶりに改正されたが、「 愛国心 」 の表現などを巡って野党は反対姿勢をみせ、最後は強行採決のような形となった。

街頭では、日教組の先生方が拡声器を手に反対を叫ぶ姿も目にしたけれど、いま、なぜ、改正の必要が生じてきたのか、その説明はない。

教育現場に国家が干渉するなと言うけれど、現場に任せ続けてきた結果として 「 尋常ではない状態 」 に陥ったからこそ、この問題が浮上している。

いじめ問題、履修不足、学力低下、その他諸々の放置すべきでない深刻な実状を抱え、もはや現場任せでは、どうにもならない非常事態である。

ここに至っても 「 改正の必要なし 」 と唱える人たちにとって、日本の将来をどのような方向へ導いていきたいのか、まるで理解に苦しむばかりだ。


日本国憲法も同じだが、いまから約60年前に制定された法案の大半は、「 第二次世界大戦の終結 」 という事象による影響を大きく受けている。

それ以前の全体主義、国家主義から脱皮して、個人の自由や尊厳といった部分を重視するあまり、愛国心など 「 公共の精神 」 が疎かになっている。

つまり、単純に愛国心だけの問題ではなく、物事の仕組みや価値観の尺度に対する観点が、「 個人 」 なのか 「 公共 」 なのかという違いが大きい。

どちらが善で、どちらが悪ということでもないが、あまりに個人を重視しすぎると、全体の質的低下や、公共の利益を犠牲にせざるを得ない。

わかりやすく言うと、ごく一部の脱落者や、ルールに従わない者を庇いすぎると、全体の質が伸びないし、秩序が保てなくなってしまうのである。


過去の全体主義、愛国主義に比べて、国民一人一人の個性や自由を尊重する社会は、多様な潜在能力を開花させ、個人の可能性を拡大した。

しかし、その一方で、己の利益や我侭のためには、公共の利益を侵したり、秩序の低下を招くことさえ怖れない風潮を生み出してしまった。

ここで、「 教育現場を変えない 」 ということは、前者の利点を維持するためには、後者の問題点を放置するという論理と同じである。

いじめによって小学生が毎日、首を吊っても、教職員が不祥事を重ねても、それでいいじゃないかというのなら、何の改正も必要ない。

いや、それは具合が悪いだろうと思う人間が多かったから、今回の改正に至ったわけで、これからも状況によっては変え続けていく必要がある。


ちなみに、2005年度にうつ病などの精神疾患で休職をした公立小中高の教職員の数は、前年度比619人増え、過去最高の4178人に上っている。

調査結果によると、病気全体による休職者の数は7017人なので、全体の約6割は精神疾患ということになるが、他の職種に比べて割合が高い。

懲戒処分 ( 体罰、わいせつ行為、交通事故などによる )を受けた教職員は1255人、その他、訓告、諭旨免職を含めた処分者総数は4086人だ。

また、指導力不足と判断された11人のうち4人が、教職員として相応しくないとされた25人のうち17人が、分限免職として処分されている。

これが日本の教職員の実態であり、知識面、実務能力面、精神修養面など適性を総合的に判断して、「 無条件に信頼できるスタッフ 」 とは言い難い。


この実態を知らずして、「 国家が教育現場に干渉する 」 ことの是非は語れないのだが、かといって、この実態を広く知らしめるのもどうかと思う。

大事な子供を預ける父兄にとって、これほど多くの精神疾患者や、犯罪者、犯罪予備軍が教育現場に居ることは、受け容れたくない事実である。

それよりも、ある程度、決められた枠組みの中で、個々の裁量が問われないような指導要綱や、管理システムを構築するほうが現実的、効果的だ。

行き過ぎた個人思想は、個人主義を逸脱して利己主義を煽り立てた結果につながり、その反省を、今後に活かすのが今回の 「 改正 」 である。

個性も大事だが、いま一度 「 公共の精神を重視する観点 」 を、生徒に説く前に、教職員に浸透させることから始めることが、なにより望ましいようだ。






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2006年12月12日(火) 卑怯者>卑怯者 の話



「 悪魔は自分の目的のためには、聖書をも引用する 」

                                  英語のことわざ

The devil can quote scripture for his own ends.

                                English proverb



日本の、「 盗人猛々しい ( ぬすっとたけだけしい ) 」 とは微妙に違う。

偽善者は、己の悪行を正当化するため、どんな手段も試みるという意味。


いじめ問題に関するマスコミの報道や、ブログの書き込みが過熱する中、私もそうだが、中年以上の男性に多く共通する 「 キーワード 」 がある。

それは、「 なぜ、いじめが良くないか 」 という理由について尋ねられた時、自分より弱い者をいじめるのは 「 卑怯だから 」 という見解である。

武士道に通じる 「 卑怯は許さず 」 という精神が、いまだに多くの日本人の心に生き続けていることは、まことに素晴らしいと思う。

しかしながら、他人の卑怯は責め、自分の卑怯な行為は正当化するというのでは、あまりに恥知らずだし、それこそ卑怯であり、偽善である。

そういう方は、ご自身の姿勢を改めてから、ご発言いただきたいものだ。


最近、いじめ問題のアンケート調査が活発で、「 いじめる側 」 が悪いと思うか、「 いじめられる側 」 が悪いと思うか、などといった設問をみかける。

これに対し、様々な意見を述べる人がいるけれど、個人的な意見としては、「 いじめる側が悪いに決まっている 」 と思うので、どう考えても愚問である。

ただし、「 いじめる側 」 と 「 いじめを苦にして自殺した側 」 という比較論になると、一気に逆転し 「 自殺する側が悪い 」 と言わざるをえない。

ハッキリ言って、圧倒的大多数の人間は、いじめられたぐらいで死ぬことはないから、自殺に至るいじめなど、実際には存在しないのである。

もしも、生死を脅かすような暴行や、脅迫を受けていたとするなら、それは、傷害、暴行、恐喝などの 「 犯罪 」 であり、「 いじめ 」 と呼ぶべきでない。


それでは、なぜ自殺する人間は悪いのかというと、その答は単純明快で、前述のいじめっ子と同じく、自殺が 「 卑怯なこと 」 だからである。

自分を産み育ててくれた親の苦労、一人前に教育してくれた恩師や上司、思い出を共有する友人を置き去りに、自分ひとりが楽になる道を選ぶ。

挫折や失敗に耐え、勇気をもって人生に立ち向かう圧倒的多数を占める 「 自殺しない人間 」 に比べ、自殺を図る人間は明らかに卑怯である。

その他、しょっちゅう 「 死にたい 」 と漏らす人間や、何か気に入らないことがあると 「 死のうかな 」 と呟く人間なども、恥知らずな卑怯者といえる。

人生経験の乏しい子供ならともかく、与党が選挙に勝っては 「 死にたい 」、通勤で疲れては 「 死にたい 」、と漏らす人間こそ、最低の卑怯者である。


この年末の忙しい時期に、「 死にたい 」 という電話をかけてくる馬鹿者がいて、まったくもって迷惑千万な話だ。

他人を殺すと脅せば 「 脅迫罪 」 になるが、今後、法律を改正して、自殺をほのめかした人間も 「 脅迫罪 」 にするべきだと思う。

他人であろうが、自分であろうが、軽はずみに 「 生命を絶つ 」 なんて口にする人間は、人名の尊さを鑑みると、重罪に処すのが妥当だろう。

言い放つことでストレス解消したり、他人の気をひいたり、甘えたりしているのだろうが、聞かされる立場の辛さを、少しは考えたことがあるのか。

そんな輩が、いじめ問題や、政府の諸問題などについて、「 卑怯 」 などという言葉を口にするたび、憤りを通り越して、呆れ果てるのである。






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2006年12月11日(月) 六カ国協議の再開



「 大国はいつもギャングのようにふるまい、小国は売春婦のように

  ふるまってきた 」

              スタンリー・キューブリック ( アメリカの映画監督 )

The greatest nations have always acted like gangsters and
the small nations like prostitutes.

                                Stanley Kubrick



それでいいとは言わないが、「 ギャングのような小国 」 はもっと厄介だ。

世界中が誠実に紳士協定を結ぶことは、もはや夢物語のように思える。


北朝鮮が六カ国協議に復帰する背景には、日米をはじめとした経済制裁による打撃の大きさがあり、それが一応の成果を挙げた証明に等しい。

問題は、相手の譲歩に対してどのような対応で報いるかという点なのだが、その判断を誤ると、振り出しに戻るか、最悪はそれ以上の後退に繋がる。

ここは強気に、さらなる譲歩を求めるべきで、元の話し合いに応じたからといって、すぐに経済制裁を解除したり、支援に転じるのは得策でない。

アメリカの姿勢をみても、イラクと違って北朝鮮には 「 正面攻撃 」 の対象とするより、金体制が 「 自滅 」 することに期待しているようだ。

当然、まだまだ決着には時間が掛かりそうだし、焦らず、根気良く相手側の自滅による崩壊を待つしか、道はなさそうである。


彼らがミサイル発射や核実験を行い、多少の脅威を示す効果はあったかもしれないが、手の内をさらした ( 軍事力の底が割れた ) のも事実だ。

交渉の結果が、彼らにとって不本意なものとなっても、ただちにそれ以上の脅威をもたらす武力行為に発展する可能性は、極めて少ないだろう。

この時期、少し不安に思うのは、「 日本政府の焦り 」 である。

郵政造反組の復党問題やらがあって、安倍内閣の支持率が低下している現在、人気回復に気がいって、日和見的な結論を出すと失敗しやすい。

世論や野党、マスコミがどのように評価しようとも、鉄の意志をもって毅然とした対応を貫かないと、また解決が遠のく危険もある。


与党の支持が高いと、一党支配だとか、独裁だとか、浄化作用が失われるといった批判も強くなるが、かたや、信念を貫きやすいという利点もある。

小泉内閣の場合、高い支持率を背景に首相が信念を貫き、その一貫性を認めた国民が、また支持に回るという良いパターンが出来ていた。

安倍内閣になってから、次の選挙戦を視野に入れると不安なので造反組を取り込もうとし、それが逆に支持率の低下を招き、立場を危うくしている。

政治でもビジネスでも、周囲の信頼や支持が低い場合は、どうしても周囲のご機嫌を伺いながら進める必要が生じ、一貫性をもって統率し難くなる。

いまさら言っても始まらないが、特に、重大な外交分野での決断を迫られる直前に造反組を復党させたのは、現政権のミスだったように思う。






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2006年12月10日(日) しがない二人



「 さよならを言うのは、わずかのあいだ死ぬことだ 」

                 レイモンド・チャンドラー ( アメリカの小説家 )

To say goodbye is to die a little.

                              Raymond Chandler



引用は、ハードボイルドの傑作 『 長いお別れ ( Long goodbye ) 』 の一節。

しがない私立探偵の フィリップ・マーロー が、女性に呟く台詞である。


この “ しがない ” という日本語は、「 つまらない 」 とか 「 とるにたりない 」 とか、あるいは 「 貧しい 」 という意味だと、辞書には記されている。

しかしながら、ハードボイルド小説の主人公が 「 しがない私立探偵 」 などといった場合には、どこか ストイック で、クール な人物像が思い浮かぶ。

時代劇で、剣の達人が 「 しがない浪人 」 などと名乗るのも同じで、単なる貧乏人ではなくて、ルールに縛られない自由人的な印象がそこにはある。

これが、「 しがない アパート 」 だとか、「 しがない 予備校生 」 などといった言葉に続く場合は、貧弱な感じにしか聞こえないところが面白い。

このように、後に続く言葉で ニュアンス の変わる日本語は、欧米人に伝えるのが難しく、「 義理人情 」 などと同じく、訳し難い言葉の一つだ。


以前、東京の彼女と交際していたときに、「 会えるのは嬉しいけど、すぐにまた離れなければならないのが悲しい 」 などと、よく言われたものである。

当時、遠距離恋愛だからと思っていたが、距離の問題でもなさそうだ。

愛情の強さに関係なく、離れていても想い続けられることもあれば、片時も離れずにいないと不安になる間柄もある。

電話を切った後で、すぐにまた声が聴きたくなったり、会いたくなってしまうのは、けして距離の問題ではないようだ。

そういうカップルにとって 「 さよならを言うのは、わずかのあいだ死ぬこと 」 なのであり、美味い物でも食べるか、強い酒を飲むか、寝るしか術がない。






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2006年12月09日(土) 自分だけが健康でいる悲しみ



「 恋人たちは一般に、懸命になって自分たちを不安にしようとする 」

                  ミゲル・デ・セルバンテス ( スペインの作家 )

Lovers are commonly industrious to make themselves uneasy.

                     Miguel de Cervantes Saavedra



小学生の頃、日曜日の夕暮れ時になると寂寥感をおぼえた。

楽しい時間が終わってしまうのは、なんとも物悲しい感覚である。


1973年、小松左京の小説 『 日本沈没 』 が発表された直後、小松氏側の了解を得た筒井康隆の短編小説 『 日本以外全部沈没 』 が発表された。

日本が沈没するとしたら、日本人は生き延びるために全員が難民となり、世界各地に受け入れ先を求めなければならない。

それに比べると、日本だけが存続し、他国が沈没するという物語は、一見、日本人だけが得をしているような錯覚を起こしやすい。

しかし、もしそれが現実に起きたなら、世界中から難民が押し寄せた挙句、暴力的な軍事攻勢によって、この小さな島国は修羅場と化すだろう。

それよりは、行く先々で肩身の狭い思いをするかもしれないが、散り散りに難民となって他国の厄介になるほうが、よっぽど マシ というものだ。


私は昔から体が丈夫なので、病気らしい病気を患ったこともないし、誰かにいじめられたこともなければ、何かに気を病んで死にたくなったこともない。

体が弱い人や、精神を病んでいる人たちからみれば、私は 「 楽観的 」 であり、それは 「 苦労を知らないせいだ 」 と思われていることが多い。

たしかに、心身が健康でない人のような苦労は知らないし、自分が生き長らえてきたことに、特別の努力が必要だったとは思っていない。

しかしそれは、あくまでも心身が健康でない人の視点であり、自分自身や、同じ様に健康な人の視点でみれば、さほど恵まれているわけでもない。

ある人の日記で、石原都知事を指して 「 苦労知らず 」 と批難する記述を見たが、巷の視点は、日記を書く勤め人より、都知事の苦労の方が多い。


それに、自分は健康でも、自分の周囲が揃って健康というわけではなくて、事実、私の母は30代の若さで亡くなったし、父も既に故人である。

恋をして、結婚を誓った女性は大病を患い去って行ったし、事故や、病気によって友人や、仕事仲間、親戚など、多くの知人との別れも経験した。

自分が健康だからといって、即ち幸福とか、苦労を知らないという単純な話ではなく、そう推測する人はその点でも 「 精神を病んでいる 」 のである。

前述の 『 日本沈没 』 に対する 『 日本以外全部沈没 』 と同じ比較論で、「 自分が不健康 」 と 「 自分以外皆不健康 」 も、苦労度が計り難い。

自分が不幸な目に遭うのも、他人の不幸を目の当たりにするのも、別れを見送るのも、見送られるのも、それは人生の試練なのである。


ある女性に恋心を抱いていて、彼女も自分に好意を示してくれている。

正直な話をすると、もし今度、恋をするなら 「 健康な女性がいい 」 と思っていたのだけれど、また、健康面で不安の多い人を選んでしまった。

恋は理屈じゃないから、好きになってしまったものは仕方がないし、それに彼女は、健康な自分の 「 見送る辛さ 」 をよく理解してくれている。

とはいえ、彼女のほうは不安に思うことが多く、恋に対して少し臆病になっているようで、今後もスローペースな交際が続きそうだ。

焦っているわけではないが、過去を振り返らず、失敗を恐れないで前に進もうとする自分は、少なからず彼女にプレッシャーを与えているかもしれない。


自分は、周囲が病気になったり、死んでしまったり、恋人と別れたりすることが多かったので、無意識のうちに 「 耐える術 」 が身についたのだろう。

それは具体的に言うと、大好きな人が病気になっても、死んでも、生き別れになっても、その悲しみに潰されないですむ 「 鈍感さ 」 のことである。

ときにそれは、病気に苦しんでたり、死を前にしたり、恋が終わることへの怖れを抱く人に対して、ショックを与え、傷つけるものかもしれない。

落ち込んでいる相手を平静に受け止め、クールに対応するのは、相手への配慮や愛情の問題ではなく、たぶん 「 自分が潰れないため 」 なのだろう。

そんな自分を不幸だとは思わないが、少し 「 悲しい奴だ 」 と認識しつつ、性懲りもなく彼女に惹かれてゆく今日この頃である。






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2006年12月08日(金) ビリー・ジョエル大阪公演に行ってきました



「 私は音楽それ自体が癒しだと思う。

  音楽は人間性の爆発的な表現だ。

  どんな文化の人でも、誰でも音楽は大好きだ 」

           ビリー・ジョエル ( アメリカの歌手、ピアニスト、作曲家 )

I think music in itself is healing.
It's an explosive expression of humanity.
No matter what culture we're from, everyone loves music.

                                     Billy Joel



11年ぶりに生の 『 ピアノマン 』 を聴き、昨夜は彼の音楽に浸った。

それは、ドームを埋め尽くした3万の観衆が、一つになる瞬間だった。


昔のことなので詳しくは思い出せないが、たしか11年前も、ラストの曲は、やはり 『 ピアノマン 』 だったような気がする。

途中、ギターに持ち替えたりしたけど、やっぱり彼はピアノが似合うし、歌もさることながら、あの旋律には心に響くものがある。

一度、ポピュラー音楽からの引退を宣言し、クラシックの仕事もしたけれど、彼のピアノは、彼の音楽に乗せてこそ、感動的な音色となるようだ。

クラシックにハマった頃 ( 2000年〜2004年 ) が彼にとっては最悪の時期で、アルコール依存症、鬱で入院したり、二度の交通事故にも遭っている。

辛気臭い古典は他人に任しておいて、現代的、都会的なリズムとメロディーを奏でてもらうほうが、観客も沸くし、彼自身の精神衛生上も良さそうだ。


マジソン・スクエア・ガーデンを12夜連続でソールドアウトにする記録を打ち立てた彼の公演は、世界中どこの都市でも大盛況である。

当然、チケットは入手困難なはずだが、なぜだか運の良いことに、以前は舞台から3列目、今回もアリーナの10列目あたりで鑑賞することができた。

しかも、二回とも自分でチケットを買ったわけではなく、前回は大学時代の友人、今回は、以前にアメリカで一緒に仕事をした女友達から譲り受けた。

ちなみに、前回はチケットを譲ってもらっただけで、ゆっくり一人で鑑賞できたのだが、今回は購入者である女性とペアで同伴することになった。

実は先月も、クラプトン を観ないかと誘われていたのだが、出張で日本を離れる可能性もあったので、それを断り、今回の公演をご一緒したのだ。


歌良し、ピアノ良しで、ビリー御大には何の不満もなかったが、この女性がちょっと 「 困った人 」 で、やたら鑑賞の妨げになったので難儀した。

まず、合流して会場に入り、座席に腰を下ろした途端に 「 寒い〜 」 と言い出し、よく見ると、毛皮のコートを脱ぐとノースリーブのミニドレスである。

大物の外タレ公演には 「 イブニングドレス 」 が定番だけれど、それは会場がホテルやホールなど、暖かい屋内の話だ。

屋内ではあるけれど、空調が行き渡らない12月のドームで 「 寒い〜 」 と文句を言われても、露出的なファッションを選んだ本人の問題である。

自分も、寒い時期に重装備ジャケット ( 激寒地仕様 ) の下に半袖Tシャツ一枚とか、そういう着こなしをするので、まぁ文句は言えないが。


毛皮を着ると暑いし、脱ぐと寒いので、結局は、膝から下に巻いて下半身を暖めつつ、こちらの腕に掴りながら、上半身はグイグイと身を寄せてくる。

チケットの恩は忘れていないが、「 邪魔なんですけど 」 と言わざるをえない状況で、開演後も、ずっと押し合い状態である。

私が風邪をひいてなければ、上着を貸してあげてもよいのだが、ズルズルと鼻水を垂らしながらの鑑賞では、ビリー御大に申し訳ない。

もちろん、相手が愛しい彼女なら、抱き寄せて一緒に過ごすことに問題などないが、この女性は特に 「 変な誤解をされたくないタイプ 」 なのである。

後ろの席から 「 変なカップル 」 と思われつつ、「 もっと寄ってヨ 」、「 コラッ、乳が当たっとるがな! 」 と小声でモメる様子が、終演近くまで続いた。


ラスト、『 ピアノマン 』 の前奏が流れると、観客は総立ちで、ようやく 「 敵 」 もコートを羽織ってくれたので、助かった。( ビリー御大ありがとう♪ )

ふと横顔を見ると、うっすらと瞳を潤ませ、小さな声で合唱に加わっている。

途端に目が合い、微笑みを返されるが、ここで軽率に応じたりなんかすると、ややこしい話になりかねないので、サッと舞台に目を移す。

会場を出ると、「 お腹空いた 」 と煩いので、深夜までやってるイタリアンのお店に行き、チケット ( 結局、二人分払ったが ) のお礼にご馳走した。

慌しく携帯をいじったり、明日の仕事が早いという話を切り出して、さっさと帰ろうとするのだが、なんだかんだと話し掛けられ、二時間近く過ごした。


最後には、「 いま解散しました 」 という別の女性への送信メールを見せて、お引取り願うことに成功したが、寂しそうな顔をして引き留めようとする。

華原朋美さん似の可愛い女性なのだが、実は、「 仲間内で有名な 」 悪女として知られており、実際、被害者の切実な訴えも耳に入っている。

それに私のほうは、過去に交際した多くの女性から 「 誰にでも優しい 」 という苦情とお叱りを何度もいただいているので、余計に注意が必要だ。

ここは心を鬼にし、タクシーに詰め込んで帰らせたが、出発前に窓を全開にして 「 べぇ〜 」 と舌を出した挙句、中指を突き立てられてしまった。

帰り道は、寒風に凍えながら 「 Sing us a song you're the piano man ( 歌ってよ ピアノ・マン) 」 と口ずさみつつ、苦笑いで揚々と我が家を目指した。






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2006年12月06日(水) 罪の軽重より、社会復帰させる価値を問うべき



「 将来について考えなければ、将来はない 」

           ジョン・ゴールズワージー ( イギリスの小説家、劇作家 )

If you do not think about the future, you cannot have one.

                                John Galsworthy



将来を前向きに考えようとしない者に、将来らしい将来は訪れない。

将来を大切に過ごそうとしない者も、また同様である。


たとえ辛いことがあっても、自分の思い通りにならなくても、未来への希望を捨てずに生き続けることが、おそらく人間の使命であろう。

何があっても我慢して耐え続けていたら、必ず良い事があるのかといえば、そんな保証はどこにもないけど、それ以外に未来を繋ぐ方法などない。

この日記は、過去に、16歳の高校生からメールをもらったのが最年少で、おそらく、それより若い人に読んでもらっている可能性は低いと思う。

しかし、万が一、将来のある若者で、悩んだり、くじけたり、自ら死を選ぼうとしている人の目に触れているなら、「 とにかく死ぬな 」 と言いたい。

偽善や、利己的な不平不満の羅列ではなく、本気で住みよい社会を実現しようとしている人間もいるし、我慢してれば、少しは面白いことも起きる。


犯罪者の刑罰についても、犯した罪の軽重だけではなく、その犯罪者を 「 社会復帰させる価値 」 について、更に加味した裁定を下すべきだろう。

前回の日記で紹介した小学校教諭なども、現行の法規によると軽い刑罰で済まされるだろうし、何らかの形で、教育現場への復帰も考えられる。

少年法の庇護の下、凶悪犯罪に手を染めた者も同様に、自身の凶悪性、社会への不適応性を無視し、前例の踏襲で軽微な罰に処すのは疑問だ。

彼らの人格を尊重しないわけではないが、明らかに本人自身が将来を捨てているのに、周囲が執拗に社会復帰をさせようとするケースが多すぎる。

性犯罪者などについては、ようやく再犯率の高さに業を煮やした司法側が改革を検討し始めたが、それ以外の犯罪者への対処は遅れている。


また、自殺を企図した前科のある者は、しばらくは病院に収容してしまうか、自分自身に対する 「 殺人未遂 」 として、矯正施設に入れるべきである。

多くの人が迷惑していると思うが、こういう輩が 「 死にたい 」 などと言っては仕事の邪魔をし、世の中に負のオーラを放っているのだ。

しかも、自殺が 「 未遂 」 で終わっている連中というのは、生に未練があり、本当は周囲の気をひきたいだけで、概ね、潔く死ぬことなど到底できない。

こんな連中は 「 本当に、死ぬほど辛い目 」 に遭わせて、生への渇望や、将来への希望を気づかせてやったほうが、彼らのためでもある。

こんな 「 社会復帰には問題のある人間 」 を テキトー に処理していることが、社会の癌になっていて、将来ある若者にも悪影響を及ぼしている。






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2006年12月05日(火) 日教組の凋落



「 悪魔はあらゆる人を誘惑するが、閑人は悪魔だけを誘惑する 」

                                   英語のことわざ

The devil temps all, but the idle man temps the devil.

                                 English proverb



およそ、悪い奴、けしからん奴、頭のおかしい奴は、暇人である。

忙しく真面目に働く人間は、普通、悪事に費やす時間を持て余していない。


教職員の不祥事は、いまや 「 珍しくもない 」 実状だが、東京都あきる野市の小学校教諭 (33) は、他の追随を許さぬ鬼畜行為に及んでいたらしい。

事故や虐待、災害などで死亡した子供の裸を含む遺体写真を大量収集し、自分のHPに掲載したうえ、遺族の感情を逆撫でするコメントを寄せていた。

しかも、警察が任意で事情聴取をしているにも関わらず、学校側は処分もせず、この男を引き続き教壇に立たせていたという事実が明らかになった。

異常性欲の中でも、ネクロフィリア ( necrophilia = 死体愛好 ) は最も常人に理解し難いもので、いわゆる 「 極め付きの変態 」 ともいえる。

そんな人間を、司法の処分が決定していないからといって、野放しに放置し続けた教育現場もまた、極めて異常な集団といえるだろう。


日教組の堕落と腐敗ぶりは、「 国旗掲揚を拒否する自由 」 といった狂気を口にした時点でも明白だが、個々の狂人に対する庇護にも現れている。

相次ぐ 「 いじめ問題 」 なども、このような連中に解決を望んで、然るべき成果が期待できるはずもない。

そもそも組合とは、資本家に対抗する労働者の権利を守るためにある制度で、国民の従僕たる公務員に適用することなど矛盾している。

結果、制度を悪用し、やるべきこともやらずに、利己的な権利と自由だけを追求し、出来の悪い身内を庇い、害悪ばかりを撒き散らしているのである。

安倍新内閣の掲げる 「 教育基本法の改正 」 よりも、日教組の解散こそが日本の教育界にとっての命題であり、それなくして何の改善も望めない。


聖職者の集団であるならば、己の権利や自由を唱える以前に、子供たちにとって不利益な事象や、有害な事象を排除することに努めるべきだろう。

教育基本法では、現行法10条の 「 国家による教育内容への介入を抑制する 」 ところが問題になっているが、これでは介入したくなって当然である。

自らの権益にだけ敏感で、子供たちのことには無関心な日教組に、不可侵な現行の制度など、ぶち壊したほうがよいのに決まっている。

おそらく、個々の教師の中には、優秀な人材や、志の高い人物も多いとは思うが、日教組という集団に吸収されることで、善の面が埋没されている。

今回のように、悪質な犯罪者を黙認した場合、上長の管理責任を追求し、刑事罰を適用するぐらいしないと、ますます組織悪が弊害を及ぼすだろう。






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2006年12月04日(月) ヤマアラシ・ジレンマと心のメンテナンス



「 優れた人が優れているのは、失敗を通して

  叡智にたどり着いたからである 」

                   ウイリアム・サローヤン ( アメリカの作家 )

Good people are good because they've come to wisdom through failure.

                                William Saroyan



毎年のように風邪はひくけれど、熱が出て寝込むことは滅多にない。

仮に寝込んでも、土日に悪化させて、月曜に回復する習慣ができている。


そんなわけで、この土日曜は、鼻水ズーズー、咳コンコンと、完璧に風邪の症状を示しながら、ほとんどの時間を布団の中で過ごした。

風邪をひいてしまう原因は、まず、仕事で人ごみに行った際に、既に風邪をひいている人から 「 感染する 」 ことが考えられる。

次には、このところ寒い日が続いたのに、暖房器具を一切使わず、冷えてきたら日本酒の熱燗で誤魔化していたのが、体に悪かったかもしれない。

セコイ話のようだが、エアコンで暖をとると電気代が高いし、石油ヒーターを引っ張り出してくるのは、それはそれで面倒臭い。

結局、風邪がひどくなってから、よっこらせと石油ヒーターを出すことになり、こんなことなら元気なうちにやっとけばよかったと、反省しきりである。


クローゼットの奥にしまいこんだ石油ヒーターを出すとき、ふと、頭の隅に 「 最後に使ったのは、いつだっけ? 」 という疑問がよぎった。

コンセントを挿し、スイッチを入れるが、まったく暖かくならない。

昨シーズン、収納する直前に灯油を使い果たし、すっかりと 「 ガス欠 」 になっているのを忘れていたので、仕方なく、車で灯油を買いに走る。

古い灯油が残っていると、不完全燃焼を起こしやすいので、毎年、最後は使い果たすようにしていたのだが、それをコロッと忘れていた。

便利な道具でも、燃料を入れ忘れていたり、機械の整備が悪くて動かないようでは、いざ、肝心なときに役に立たないのである。


最近、親が子供を虐待したり、実の子が親を殺したり、好きで恋愛結婚したはずなのに、妻が夫からひどい暴力を受けるなどの事件が多い。

こういった親しい関係、特に恋愛中の男女の関係において、お互いが相手を傷つけ合う心理状態の一つに、「 ヤマアラシ・ジレンマ 」 がある。

ヤマアラシ・ジレンマとはショーペンハウアーの寓話で、ある寒い冬の朝に、二匹のヤマアラシが、お互いを暖めようとして身を寄せ合う話だ。

ところが、ご存知のようにヤマアラシという動物は、それぞれが体表に鋭いトゲを持っているため、近づきすぎるとお互いを傷つけ合ってしまう。

やがて二匹は、ある程度お互いを傷つけ、ある程度お互いを暖め合う適当な距離を発見したというのが、この話の結末である。


ヤマアラシ・ジレンマのように、ある程度の傷つき、怒り、憎しみが、たえず交錯するのが、人と人の関わり、つまり人間関係の基本だ。

お互いが身を寄せ合っていれば当然、傷つけ合うこともあるけれど、でも、それを許し合うことで、人間は愛を覚えていくのである。

ところが最近の日本人はもう、傷つけ合うことが嫌いになり、価値観が違う相手とは、語り合う必要も、共に暮らす必要もないと考えはじめた。

また、資源のない国だから、古いヒーターでも大事に、大事に、メンテナンスして使う習慣が過去は主流だったが、使い捨ての時代になってきた。

傷つけ合うことを避けるようになった結果、許し合う機会までも失い、メンテナンスを欠いた日本人の暮らしがいま、寒々とした事件を生んでいる。


工場で働くベテランの作業員さんは、「 機械の声 」 を聴くという。

機械は調子が悪くなると、必ず 「 異音 」 を出すもので、その “ 声 ” を聞き逃さずに対処すると、大事には至らないそうである。

社会問題になっている 「 いじめ 」 を原因とした子供たちの自殺も、周囲がもっと日頃から気を配り、適切に対応すれば大半は防げただろう。

ぶつかり合って傷つけ合い、失敗を繰り返して許し合うこと、そんな修復とかメンテナンスの繰り返しがなくなったことで、様々な問題が起きている。

いじめ対策の 「 厳罰化 」 に異論を唱える人も出始めたが、私も同じ意見で、傷つけ合うことを避けるばかりでは、事態の解決など望めないだろう。






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