「何があったかは今は詳しく話せないんだけれど、 すごくイヤなことがあったの。 で、それは相手に非があるんだけどね…」 と言われて
「そうかぁ。何があったのかはわからないけれど、大変だったね。 でも、私はいつでも あなたの味方だからね!」
って返すのは友達かなぁ?
私は、いつも
「ふーん、大変だったね。でも内容を聞いてないから (どっちが悪いとも)なんとも言えないや」
と答えて、それで話が終わってしまったりするんだけど。
私の友達もそういう答えを返してくれる人が多くて、 私もそれが正しい返答だと思うから。 そういう友達に囲まれていることに安心したりするんですけどね。 あぁ、私の友達ってマトモだなぁ…って。
だって、それって“冷たい”とかじゃないですよね? よく知らないことなのに「うんうん、あんたは間違えてないよ」 って簡単に言うのは、別に思いやりでもなんでもないですよね。 その一瞬は少し救われた気持ちになるのも事実だけれど。
なんかよくわかんない美しい友情に包まれて、 傷の舐め合いはしたくないです。
2000年08月28日(月) |
ひまわりにあるまじき |
今日、全員でうなだれているヒマワリを見てしまった。 10本ぐらいかな?ヒマワリの花壇があったんだけど、みんなうつむき加減なのよ。 そりゃ、そうだよね。ヒマワリだからって、いつもいつも太陽に向かって 元気に咲いてられないわな(笑)。まぁ、そんな日もあるでしょう。 でもなにか、すごくいけないものを見てしまったような気がしたのは何故?
「おかえり」って言ってくれる人がいるのは、いいことだ。 昔、仕事時間の関係で私より先に彼氏が家に帰っている時期があって、 私が仕事から帰ってくると彼氏が「おかえりー」と言ってくれていたのですが あの時期は毎日楽しくて、朝、仕事に出かける時から「早く帰りたい」と思っていた。 今は私の方が帰るのが早いから、真っ暗な部屋に入らなければならない。 本当につまらない。「おかえり」を言うのは、あまり好きじゃないかも。 あぁ、早く家でご飯作って待っててくれる嫁さんが欲しい(笑)。
このまえの日記、“愛のないSEXに意味はありますか?”ってやつ。 あれ、訂正(笑)。 いやぁ、なんかね、あれ見て「いぇーい!」って浮気しまくるヤツとか出てきたら それはそれで何か違うような気がしてムカつくから。 「だって自由なんだろ?ヘイ・ヘーイ♪」って言われても困るし。
例えが悪かったですね。なんだろ。言いたいことは変わらないんですよ。 それに関わっている人がその行為に何を求めているかということが大事で、 誰が正しいとかっていう問題じゃないってことで。
ああ、でも絶対的な基準もある程度必要な気はしますしねぇ… “殺人=悪い”みたいな。どうなんだろ。むずかしいですね。
婚姻届を提出して“夫婦”という形を決めてしまうより、 ただの恋人同士のほうが相手の存在に感謝しやすいような気がする。 家事の役割分担を決めてしまうより、各々が自主的にやることで 賄っていくほうが相手のしてくれたことに対して感謝しやすいような気がする。
決めないということは常に危うくて不便なことだけど、 結構いいことかもしれない。
でも決めてなんかいなくても、ある状態が長期間続くと つい、それが当たり前になったりルールになったりしてしまうのが問題だ。
これ書いてるの、朝の5時なんですけど。 なんか こう…神妙な気分になって眠れなくなっちゃって。
“メメントモリ”って、なんでしたっけ? “死を想え”ですよね。 どういう意味なんでしょう?誰が言った言葉なのかも、ぜんぜん知らない。
“生きているということは当たり前のことではなく、可能性の高い偶然だ” というようなことを、さくらももこさんがエッセイで書かれてました。
もし愛する人とケンカしたまま、 それぞれ仕事に行ったりして別行動をとっていて。 その分かれている間にどちらかが死んでしまったりしたら、 残された方はものすごく後悔する。
「あぁ、ちゃんと仲直りして、曇りなく愛し合っている状態で 別れることができれば良かったのに…」
と、思うだろう。
だから私にとってのメメントモリというのは
“常に死というものを意識して、愛する人達や事に対して 後悔のないように瞬間を生きていけ”
ということだと、勝手に解釈しています。
で、そんなことを考えていたら眠れなくなってしまった誕生日の朝。
これで正しいのだろうか。
どんな状態でも、愛するものをなくしたら後悔すると思うし。 あらゆるものに死を意識して生きていくなんて、すごく疲れる。 毎日がヘトヘトになる。
2000年08月16日(水) |
−世渡り語講座・第一回目にして最終回− |
「それが大人というものだよ」 なんて素敵な 魔法の言葉 何を言ってもOKさ 魔法の呪文を唱えれば 酸いも甘いも噛み分けた 大人の意見に早変わり
「それが世の中というものだよ」 泣く子も黙る 無敵の言葉 見下すような目を向けて 聞こえよがしにため息つけば ききわけのないお子様を 諭す大人に早変わり
覚えておくと 便利だよ さあ、リピート アフター ミー! 「それが大人というものだよ」 「それが世の中というものだよ」
なんていうかね…それも一理あるんだけど。 もっと、こう…自分の意見をもうちょっとマシな、 きちんとした理由で説明できるようにしていたいのね。 もうちょっとマシな理由に基づいた行動をとっていきたいしね。 確かに便利なんだけど。
2000年08月15日(火) |
愛のないSEXに意味はありますか? |
愛のない人同士でも、テクニックさえあれば気持ちいい。 事実は、これ以上のことでも以下でもありません。
…さて、意味はありますか?
「そんなSEXに意味はない」 という人がいるでしょう。それも正解だと思います。
「気持ちいいのだから、それだけでも意味がある」 という人もいるでしょう。それはそれでアリでしょう。
問題はそれに関わっている人がその行為に何を求めているかということです。
もう愛がないことに気付いているのに、離婚しないことには意味があるか。 好きな人と暮らす生活を求めているのならそれは意味がないし、 社会的な体裁や地位を求めているのならそれは意味があるでしょう。
どちらが間違えているとかワガママだとかではなく、 ただ、そこに何を求めるかが違うというだけのことだと思う。
食べ物を一口大に取り分け、箸に乗せ、口元まで持っていって 食べる寸前に箸から落ちていくと、ものすごく悲しくなる私は変ですか? 箸の持ち方が悪いからそんなことになるのか、そうか…。 あの妙な絶望感は言葉には表せないわ。
昨日、UFOキャッチャーで顕微鏡をGET!!200円なり。 100倍・300倍・600倍ズーム。 この休みは夏休みの自由研究ができる。 今日はコレを使ってひとしきり遊ぼうと思う。幸せ。 昔、顕微鏡って欲しがったりしませんでした? 箱の説明書を見るとね、あのよくテストに出てきた顕微鏡のイラストと 使い方の注意が書いてあって、懐かしいのー! “リボルバーはだんだん上げていって調整すること”とか。
今日は朝からコンビニに行って、甘いお菓子と辛いお菓子とお弁当とラーメンと 雑誌をしこたま買いこんでくるのだ。そうそう忘れてならないのはジュース。 好きな時間に寝て起きて好きなものを食べてゴロゴロしながら雑誌を読む。幸せ。 そしてジュース。ジュースを買うと贅沢をした気分になれるように、 普段はお茶のみで過ごすようにしているのだ。特別な日のための、ジュース。 そして今日は顕微鏡もあるし。は〜、幸せ。
銀色夏生さんの『空の遠くに』を読んでいると、次のように書いてあった。
“経験者は、その経験をたてに、 未経験者をいたずらにおびやかすべきではない。 年長者は、でもいい。年長者は、その経験をたてに、 年少者をいたずらにおびやかすべからず。”
…本当にそう思う。今は。 アドバイスなんていうものは、その年少者と全く同じ感情を持っており、 更に、全く同じ人生を送ってきた者がする以外には、なんの意味も無い。 そして、そんな人は存在し得ない。
その年少者がこれから直面しようとしている場面に自分も以前直面した ような気がしても、それに関わる人物が違うのだから、ずいぶんと違う 結果にたどり着くかもしれない。 例えその年長者の経験と同じ結果にたどり着いたとしても、その結果を 年少者が同じように受けとめるかどうかはわからない。
「そういうふうにすると、こんなふうになって、こんなイヤな思いを するからやめておきなさい」という忠告をしても、 今回も“こんなふうに”なるかどうかは分からないし、 “こんなふう”になったとしても、それを“イヤ”だと受けとめるか どうかは分からない。ほとんどのアドバイスには意味が無い。 いや、アドバイスという名の命令には意味が無い。
「私のときは、こうだったよ」「こんなふうに感じる人が多いよ」 という情報には意味があると思う。 そういう情報は一つでも多いほうがいい。参考にはできるから。
経験者・年長者は多くの場合、それを情報程度に与えず、 命令として与えるから意味が無いのだろう。
人が常識だと思っていることには、 その人を取り囲む小さな社会の中の常識に過ぎないことが多い。
私は派遣社員としていろんな会社を転々としているけれど、 「世の中そういうものだよ」「どこに行っても同じだよ」 というおじさんの多いこと! そして そんなおじさんに限って、親の金で出た大学を卒業して、 その会社に入って、そのまま何十年という経歴を持つ。
そういう人をばかにはしない。 一つのことを何十年も続けることはすごいことだと思う。
ただ、「どこに行っても同じだよ」はいただけない。 だって、そうでない社会もあることを私は見てきているから。
自分が知らない世間を、その年齢だけで知った気になって話すのは良くない。 まぁ。どこに行っても同じだと思わなきゃやってられないことも あるんだろうから、それはそっとしておいてやろう(笑)。
経験の多さは年齢では計れない。 単純に数でいけば、歳を重ねたぶん経験の数も増える可能性が高い。 ただ、それに真正面からぶつかったか、他人の力で乗り越えたか、 どっぷりと浸かったか、心に深く刻み込んだか… いろいろな要素が絡んできて、はじめて経験の多さは決まると思う。 その人の人生の上をそんな出来事が通り過ぎただけ、ということも多々ある。
私は年上でも年下でも、自分の人生に降りかかった出来事に 真剣に対応してきた人を尊敬する。ただ、それだけのことです。 経験が実になっている人は、好きです。 無駄に歳くってきた人は、どうでもいいです。
そう思います。今は。 これと同じことを、世間から年長者と呼ばれる歳になって もう一度書くことができたら、それは本物でしょう。 今は「若僧が生意気なことを言っているだけだ」といわれてもしかたがない。 自分が人に威張れる理由を年齢にしか見出せない大人にそう言われるのはしかたがない。 私がいい歳になったときに、もう一度同じことを書けるように生きていきたいと思う。
2000年08月11日(金) |
自分の規準で他人を見ない |
善悪の規準は人によって驚くほど違う…ということを最近書いたような 気がしますが、また改めて書きます。私自身のために。
物事や言葉にはなんでも二面性(あるいは三面、四面)があるということを できるだけ意識していくようにしているつもりですが、本当にそうだなぁと 思いなおすことが多々あります。
“執着心がある”と“諦めが悪い” “熱心”と“しつこい” “協調性がある”と“自己が無い” “冷静”と“冷めてる” “明るい”と“うるさい” “物静か”と“暗い” “よく気がつく”と“おせっかい” “にぎやか”と“うっとうしい” “スキンシップ”と“セクハラ” “まじめ”と“かたい”
それは、もう、ありとあらゆるものに二面性があります。 どうすればいいんでしょう?
なんでも度を過ぎるといけないということかも知れませんが、 その“度”の規準でさえ、人によってまちまちなのです。
そんななかで、どうやって人間関係を築けばいいんですか? 大きく分けると、“その場その場で権力者やうるさい人にあわせていく”か “多数決”か“自分の規準を貫き通す”かでしょう。 そんな中でも、譲れるところは譲る。これは基本かも知れません。
そしてマナー違反なのは、 自分の規準に照らし合わせて他人の性格を批判することだと思います。 「あなたは堅過ぎる」とか「あの人は諦めが悪い」などです。 “私より〜〜”というだけのことですから。
“人と人とが上手くいかないことの原因の多くは、 無意識のうちに相手にも自分と同じ規準で動くことを求めているからだ” というようなことを読んだ覚えがあります。 (確か、最近話題になってる『話を聞かない男、地図が読めない女』 という本に関する記述だったと思いますが、これは男女間に限った ことではないでしょう)。
しかし、これはかなりの頻度でやってしまう過ちです。気をつけたいです。 …と同時に、これを気にしはじめたら人間は何も語れなくなってしまう ような気もするのですが、どうなんでしょう。 まず、批評家・コメンテーターは失業ですね。 やっぱりわかりません。どうしたらいいんでしょう。難しいですね。
去年の誕生日は、朝から歯磨き粉と洗顔フォームを間違えて エライ目にあったので、今年は気をつけなきゃ。
2000年08月06日(日) |
最近読んで良かった本 |
「プチ哲学」佐藤雅彦 「青空について」原田宗典 「ゆめうつつ草紙」原田宗典
う〜ん…CDや化粧品には出せないお金が、 どうして本にならポンと出してしまんだろう。
おなかがすいているのに気分悪くて、あまり食べられない。 こ、これは もしや夏バテってやつですか!? 自炊を始めてコンビニ弁当をやめ、ビタミン剤を服用するようになった この夏に限って、夏バテですか? あぁ今まで通りロクでも無い生活を続けていれば良かった(笑)。
夏バテなんて高3の夏以来ね。 あの夏休み40日間は水分のみで生きていた。 いや、あれは夏バテなんかじゃない。やせたくて何にも食べなかったんだ。 万一体調くずしても、学校に行かなくていいから夏休みに絶食したんだ。
なーんてね。 あれはダイエットと称して、自分の体の限界に挑戦していただけでした。 自分の体をどこまで痛めつけられるか試していた。 精神的にも体力的にも自分を追いつめることが好きで、あの頃は確かに病んでいた。 自殺願望を抱える自分に酔っている大作家先生と同じレベルだったのかも知れない。
死にたいと思ったとしたら、今のほうが深刻なんだろうな。 もうあの頃の自己陶酔じゃないから。 なにか、もっと具体的な理由があるのだろうから。
話は戻って。 いまでも、かなり自分のことは追いつめるほうですね。人のことも追いつめますが。 何か悪い結果が出たときに、相手のせいにするか自分のせいにするかで言えば ハッキリ言って、自分のせいにするほうが楽なんですよ。変な話だけど。
「私が悪いの」と言って加害者を演じているほうが 周囲は被害者扱いしてくれるものですが、そんな意図ではありません。 でも、それが見えているのは仕方ない。
また、引き摺りますねー。 高校の時の彼氏に夢の中で謝ってたりしますね(笑)。 わかりやすく言えば、 自分が浮気した場合は「浮気なんかした私が悪いんだ」と思い、 相手が浮気した場合は「ずっと惹き付けておけなかった私が悪いんだ」 と思うような、イヤな思考回路ですね。 相手が悪い!って思うこともありますけど、もちろん。 実際はほとんどの問題が両方に非があるんでしょうけどね。 “喧嘩両成敗”って言葉も、あなどれません。
余談ですが、作家って不健康で変わった人が多いけど 不健康な変人になったからといって、作家になれるわけではない(笑)。 あたりまえだ。
だけど最近は、思考回路がやたらと深いところへ行ってしまったり あらぬ方向へ飛んでしまったりする自分を(表面上だけでも) 正常なところへ戻すには、文章で吐き出す(掃き出す?)ことが必要な 気もしています。 椎名林檎は作詞を排泄と同じと表現していましたが、近いですね。 自己表現とか、自分が存在した証とか、そんなキレイなもんじゃない。
そんな感じですから今は自分の為に文章を書いている状態ですが、今日、 ふと立ち寄った本屋さんで、ふと手に取った本の、ふと開いたページの、 ふと目を落とした一行に心を大きく動かされたりして…。
自分の言葉が流通してしまうことの恐さを確かに感じました。
そうやって偶然見てしまった一言が、 良くも悪くも人の心に影響を与えるのですよね。 私の言葉で気が沈んでしまった人や、 悲しくなった人がいても私には責任がとれない。 謝ることもできなけりゃ、 このHPみたいに簡単に削除することすらできない。
…いいのか? そんな職業を目指していいのか?
「わーい!私の文章が活字になって、本屋さんに並ぶんだー!」 という素直な喜びは確かに大きいけれど。
一方で、“人を救うために文章を書く”なんて言うのも かなりおこがましいような気もします。
テレビではよく見るけれど、 問題発言なんて本当は撤回できるものじゃないですよね。
なーんてことを考える私のもとに、一通の通知が来ました。 3冊目の詩集参加へのお誘いでした。つつしんで参加させていただきます。
私の学校は国語の専門学科だったのですが、 おそろしく日本語を駆使するツワモノがそろっていました。悪い方向で。 “何をどんな言葉で言えば、相手の心が、より傷付くか” を知っている人ばかりでした。 わかりやすい低レベルなイジメはなかったけれど、つらかったですね。疲れた。
…すいません。まとまらなくなってきました。 夏バテの話が、なんでこんなところまで来ちゃったんだろう。
肩こりと吐き気と頭痛と鼻血が、いっしょに来たわ。 明日、仕事休みでよかった。
2000年08月01日(火) |
わかりにくい思いやり |
困っている人に優しい言葉をかけたり、 弱い立場の人に手をさしのべたりすることも 確かに大切な思いやりだけれど。
周りの人に心配や迷惑をかけないように 自分自身のことを精一杯がんばることだって、 周りの人に対する立派な思いやりだと思う。
どうも見ている限りでは、 アピール性の低いやり方でイイコトをしてる人は いつも損をしているようだけど。
|