Seakの日記
日々感じたことを書き留めていこうと思っています。

2006年06月27日(火) 内定

就職が内定した。市の就職支援センターに紹介してもらった小さな企業だ。給料は露骨に安いが、IT企業のくせに残業が少なく、自宅から自転車で20分で行けるという近さが何よりも魅力的だった。また、小さな会社なのに下請けをあまりやっていないというのも気に入った。この業界に限らず、あらゆる業界において、しわ寄せというのは下請けに来るものだろう。もちろん、小さな会社で下請けもしていないということは、当然それだけ仕事の規模も小さくなる。しかし、大きな仕事をしたいなどという気持ちはまったくない。メガネの21ではないが、自分の雇用が確保されればそれで満足なのだ。仕事を通じて何かを成し遂げようとは思わない。仕事には責任が伴うのだから、「何かを成し遂げたい」などというわがままは他で言うべきだ。

前にも書いた気がするが、とにかく就職するときに重要なのは年齢だということが分かった。僕は1981年生まれの24歳だが、この年齢なら、退学していようが資格がなかろうが、その気になれば、いくらでも就職できる企業はあるらしい。ただ、希望者が殺到するようないい企業には断られてしまうだけだ。例えば、知り合いにつき合って富士写真フイルムの説明会に行ってみたことがあるが、見事に大卒は1982年生まれ以降と書かれていた。つまり、新卒であっても2回以上浪人や留年をしていたらダメだということだ。何とも手厳しい。もっとも、富士写真フイルムの場合は、要求される知識や技術が圧倒的に高いので、僕では話にもならないわけだが。微分方程式すら解けませんが、何か?

今はまだいい。しかし、これが28歳を過ぎると一気に大変なことになる。35歳ともなれば、もはや何か技術がない限り、再就職はおぼつかないということになりかねないのだ。人材の動きはどんどん流動的になっているのに、その受け皿はいまだに十分ではないのだ。雇用には、必要なときに必要な人材を確保するという企業側の視点も必要だと思うが、それ以上に、雇用を確保するという労働者側の視点が欠かせないだろう。もっとも、一度就職すればかなりクビになりにくい日本はかなりマシな部類で、外国となるともっとひどいようだが。

ところで、このままだと僕は、結婚できそうにない。なんせ、初任給からして安いので、ある程度給料が上がるとしても限界がある。低所得者の税金も上がっているし、残業で稼ぐということも、残業そのものが少ない会社では難しい。まあ、お金の問題以前に、そもそも相手がいないという絶大な問題があるわけだが…。

ともかく、あとは7月までに健康診断を受け、成績証明書と卒業証明書とまとめて出せば完了だ。大学側は気を使って、大学院の在籍証明も出してくれた。しかし、ちゃんと卒業していなければ、企業にとって大学院などどうでもいいようだ。そんなんでも就職できてしまうのだから、やっぱり事情というのは企業によって異なるものだ。それにしても、落ち着いていていい雰囲気なのに、希望者が少ないのはなぜなのだろうと感じてしまう。中小零細というイメージもあるとは思うが、それを言えばベンチャー企業だって似たようなものだ。やはり、知られていないということが大きいのではないかと思う。実際、大学に所属していたときと今とで、僕の企業に対する嗜好は基本的に変わっていない。しかしながら受けている企業は全然違うわけで、そういう意味では、僕の情報収集が不足していたという問題はありそうだ。行政の側も、もっと積極的に、新卒の学生に対して地元に就職するよう、働きかけてみるべきではないだろうか。「わざわざ大学を出た学生が、地元の小さな会社に就職したがるはずはない」と思われそうだが、それは一概に言えない。もちろん、そういう学生も多いだろうが、それがすべてではない。何でもかんでも競争し、毎日遅くまで残業する生活なんてうんざりだと考えている学生も少なくないのだ。それでやる気がないかと言えば、そんなことはない。確かに、誰にもできないことを成し遂げるだけの圧倒的なバイタリティはないかもしれないが、決められたことをきちんとこなすことにかけては、おそらく昔の人より今の学生は優れているだろう。学校の中の微妙な人間関係を維持することを強いられてきた今の学生は、そういう調整の能力は優れているのだ。

とにかく現在の就職活動はウェブに偏っているため、地元に目が向きにくい。しかし、地元には新しい家を確保する必要がなく、通勤時間が短いという大きなメリットがある。もちろん、親が家に置いてくれるということが前提にはなるが、置いてもらえれば、非常によい環境で社会人として働くことができる。もちろん、社会人になることをきっかけに環境の変化を求める人には向かないだろうが、あらゆる人が社会人になるときに一人暮らしをしたいと願っているわけではないだろう。

ちなみに、当たり前ではあるが、自宅通勤には金銭面でも大きなメリットがある。社会人として家に残る場合、詳しいことは知らないが、家に入れるお金の相場としては、まあ、50000円と言ったところが妥当ではないだろうか。30000円から50000円と聞いたことがある。一方、都心で一人暮らしとなると、家賃だけで80000円は見たい。もちろん、貧弱な住居環境でもいいのならもっと安く済むのだが、せっかくだから鉄筋コンクリートのマンションくらいは選びたいところではないだろうか。もちろんそれだけではなく、光熱費や食費、その他諸々の費用もかかる。比べるまでもなく、圧倒的な差が付くのだ。僕にはソニーの内定を取った知り合いがいるが、たぶん2年目くらいまでは、ソニーのその知り合いより、僕の方が金銭的な余裕があることだろう。ソニーは福利厚生が比較的貧弱で、2時間以内の通勤範囲では、独身寮に入れないためだ。その結果、自分でマンションを探すことになり、生活費がかさんでしまうのだ。なお、ソニーの残業はかなり多いようで、月60時間くらいになることもあるらしい。したがって、1日2時間の通勤は非現実的だ。

さて、今後、この選択を後悔することになるのか、あるいは満足するのか、それは神のみぞ知ると言ったところだろうか。入社前には当然いいことしか言わないわけで、実際はどんなものなのか、分かったものではない。とりあえず目下最大の不安は、研修体制がないことだろうか。OJTの体制もないようだ。自分で勉強していくしかないわけだ。そういう意味では、大学院と同じ問題を抱えていることになる。ただまあ、大学院と違って先輩がいるわけで、ある程度は何とかなるだろう。その先輩たちとの人間関係は問題になるが、人間関係なんて、どこへ行ってもつきまとう問題だし、競争にうんざりして地元でのんびりやっている人たちだから、きっと気が合うだろう。ここで悲観的になってもたぶん打てる手はないし、楽観的になっておくことにしよう。

書きたかったことがいろいろあったはずなのだが、全然思い出せない。やはり、相変わらず朝方は頭がうまく働かない。これから社会人になるのだから、いい加減、深夜が一番目が冴えるという体質からはおさらばしたいところなのだが。そう言えば、最近は物忘れがより一層深刻になっている。頭を使わない生活から来る一時的なものであればいいのだが、もう3年にもなるし、正直言って、一時的なものとは思いにくい。何とかなるといいのだが…。昼間と深夜とでは、目をつぶったときの反応が決定的に異なる。昼間は目をつぶると眠くなってくるが、夜に目をつぶると、いろいろなことが頭に浮かんできて考え事が加速する。ぜひ、逆になってもらいたいところだ。



2006年06月15日(木) 消極性

最近、消極的と言われることが多い。マイナス思考とも言われる。自分ではむしろ、過剰なほどプラス思考だと思っているにもかかわらずだ。

その原因は、どうやら自己評価が低いことにあるらしい。しかし、根拠もなく自分を高く評価するのはただの馬鹿だ。やったこともないくせに「自分はやればできる」と思うのは、単なる思い込みであって、それ以外の何物でもない。実際にやってみなければ、できるかどうかなど分かるはずもない。もちろん、これまでの経験ときわめて類似していて、やってみなくてもある程度予想が付く場合もあるが、世の中にそんなことはそれほど多くはない。

僕は、ある程度プログラムの知識があるものの、他にこれと言った特技もなければ、人間的に優れている部分もない。こういう言い方をすると、「なぜそういう言い方しかできないんだ」と言われるが、自分なりに考えた結果、そうとしか考えられないのだ。それなのに、なぜそこを否定されるのかが理解できない。

こうなった大きな原因は、これまでの人生における努力不足だ。これまでに努力をしてきたかどうかということは、自分が一番よく知っている。はっきり言って、僕は人ほど努力を重ねてはいない。なぜなら、人生に目的意識がなく、努力をする必然性をまったく理解していないからだ。それは今でも変わっていない。努力をしてきていない、今後もするつもりはない以上、自分を高く評価することなど不可能だ。これを可能とするのは、「努力がなくても報われる。今の世の中は努力が報われない」と主張するのに等しい。今の世の中には確かにそういう部分はあるが、少なくとも合理的な考え方ではない。

それでなぜプラス思考だというかと言えば、それでも何とかなると思っているからだ。世の中には、自分で自分を高める努力をしている人が大勢いるが、そうでない人もまた、大勢いる。そして、不十分とは言え、僕にはプログラムの知識がある。だから、実際の実力によって評価されることは不可能だが、口先でごまかすことは十分に可能だと考えている。もちろん、根拠などはないから、そんなのはただの思い込みだと言われれば否定できない。しかし、ある程度の自信がなければ、できることもできなくなってしまうだろう。

ある程度の客観性を持った自己評価は必要だ。主観に基づいた自己評価など、他人の評価を受ける立場になれば何の役にも立たない。世の中全体から見た場合、あるいは同年代の他の人から見た場合と言った、ある程度相対的な評価を行う必要がある。もちろん、同年代の人間などそれほど多く知っているわけではないから、推測がかなり多く含まれることは否定できない。それでも、これまでの人生で見てきた他の人を見れば、自分がどういう位置付けになるかはある程度推測できる。

例えば、大学院を中退している以上、大企業に就職できる見込みはほとんどない。中退という学歴は、スーツの着こなし、第一印象、細かい話し方などと言った就活テクニックと同様、採用において決定的な要因とはなりえない。多少不利な経歴があったとしても、実力さえあれば現場では役に立つ。そんなことは、僕自身よりも採用担当者の方が、よっぽどよく理解している。ここで問題になるのは、その肝心な実力がないことだ。実力がないから、細かい経歴や立ち回りが問題となるのだ。なぜなら、実力がなくても採用しようと思った場合、将来の可能性やコミュニケーション能力などを見ることになるからだ。能力があるなら、こんな些細な問題を気にする必要はない。実際、一般に言われている就活対策などほとんど何もせずに、ソニーの二次募集だけに応募して、一発で内定を獲得した知人がいる。新しいスーツすら購入せず、履歴書も書かず、証明写真は面接の当日に自動写真で撮影し、行きの電車の中ではさみで切り抜いて提出したそうだ。言うまでもないが、就活ではスーツを用意するのは当たり前と言われている。それも、一次面接と二次面接ではネクタイなどを替える方が好ましいとか、細かい注意点もいろいろある。また、新卒の採用においては4点セットが常識となっている。成績証明書、健康診断書、卒業見込証明書、履歴書と言った書類だ。履歴書を出さずに内定が出るなど、普通はあり得ないとされている。また、証明写真を撮る前には十分に体調を整え、髪型を整え、服装を整え、証明写真を撮る技量の高い専門の写真屋に行くことが常識とされている。しかし、そんなことは一切考えていなくても、ソニーの内定が取れるのだ。それがなぜかと言えば、それはその知人に実力があったからだ。実力さえあれば、こんな細かいテクニックなどまったく必要ない。人間性に関しては、普通の受け答えをしていれば、プロの面接官には十分伝わるだろう。

その知人は「そんなことをしても5が10にはならない」と言っていた。ここに根本的な勘違いがある。こんなことは、自信と実力があるからこそ言えるに過ぎない。なぜなら、世の中の大半の人は、5どころか、たったの1すら持ち得てはいないからだ。社会で戦う技術など、何一つ持っていない場合が多いのだ。少なくとも、僕はそうだ。つまり、5を10にするのではなく、0を1にすることが必要なのだ。何もないところをいかにごまかして「こいつには何かあるかもしれない」と思わせるかが勝負なのだ。すでに多くを持っていることが自明である人間とは根本的に違うのだ。5を持っている人間は、多くの場合、学生であってもそれなりの実績がある場合が多い。改めて強く主張しなくても、見る人が見ればその実力は自明なのだ。それに対して、僕のように何もない人間には、当然のことながら実績など存在し得ない。少なくとも、やろうという態度くらいは示さなければ、実績など伴うはずがないからだ。

その場合、面接官の観点も異なってくる。使えるか使えないかなんてのは素人でも分かることだ。僕が面接を受ければ、よほど頭の悪い面接官に当たらない限り、「こいつは使えないな」と判断されるだろう。実際、何の経験もないのにいきなり仕事ができる人間などそういるものではない。この判断は当然だ。そこで、「しかし、仕込みようによっては使えるかもしれない」といかに思わせるかが問題なのだ。また、そのとき、「実は何かを持っているかもしれない」と思わせることも重要だ。実際は何も持っていないのだから、この駆け引きは綱渡りをするような慎重さが求められる。具体的な追求、例えば圧迫面接をされたらアウトだ。Javaが扱えます、などと言ったところで、入門書レベルを超えた知識など何一つないのだから、深く追求されたら答えられない。その点、圧迫面接は学生への人権侵害だ、などとする昨今の風潮は大変にありがたい。何事も深く追求しなければ分からないものだ。いかにごまかすか、ないものをあるように見せるか、この部分に正否のすべてがかかっていると言っても過言ではないだろう。

余談だが、人間性などが見られるのも、こういう可能性を評価するためではないかと思う。もちろん、あまりに人として歪んでいる人間は欲しくないだろうが、実力さえあれば、人間性などさほど重要ではないはずだ。人間性やコミュニケーション能力などを見るのは、他に見るべき点がないからだ。つまり、世の中全体がそれほど低レベルなのだ。ここにつけ込む余地がある。僕には特に見るべき点などないが、コミュニケーション能力や人間性なら、いくらでもごまかしが利く。僕は元来それほど明るい性格ではないが、割と柔軟性は高い…と言うより日和見主義なので、その場に応じて適当に態度を変えるのは得意だ。だから、明るい性格が好まれるのなら、いくらでも明るく演じて見せられる。もっとも、ちっとも緊張していない面接で、「そんなに緊張しないで」と言われたときは、さすがにやりすぎたと思ったが。

本来なら、社会に出るための武器を何一つ有していないのなら、そこであきらめるべきだ。そんな人間が社会に出ても、役になど立てない。何よりもやる気がないのだから、そんなことは考えるまでもないことだ。僕自身、いかに勤務時間を短くするか、通勤時間を短くするかということくらいにしか興味はない。そのあたりを追求すれば当然賃金は安くなるので、結婚することもおそらく不可能だろう。勤務時間が短いということは、仕事に対する熱気もそれほど高くない職場だろうから、高い技術を身につけるということはおそらくできない。どんな環境であれ、本人の努力次第では身につくこともあるだろうが、もしそんなことで身につくのであれば、今まで恵まれた環境にいた僕は、とっくに武器となりうる技術を身につけているはずだ。しかし、基本情報技術者の資格くらいじゃ、とても武器とは言えない。しかし、この程度でもどうにか認めてもらおうと考えている。はっきり言って無謀だが、これはプラス思考と言えるのではないだろうか。

もっとも、こんなことを言っていられるのは、僕がまだ若いからだ。僕は1981年生まれの24歳なのだが、就職において、年齢というのは決定的な要素となる。驚くべきことに、若さは実力以上に高く評価されるのだ。もちろん、大卒未満の年齢となるとまた別だが、大卒の22歳以降なら、若ければ若いほど、ただそれだけで高く評価される。就職支援センターというところに世話になったのだが、そこの人によると、「24歳なら、ただそれだけで他に何もなくても職はある」という話だった。これが26歳を過ぎると苦しくなり、28歳になると絶望的になるらしい。歳を取っても人間は何も変わらないのに、何とも不思議な話だ。逆に言えば、自分が採用をするなら、年齢の高い人から優先的に狙っていけば簡単に採用できる可能性がありそうだ。たぶんそういう仕事をすることはないだろうが、心の片隅には置いておきたいところだ。

ところで余談になるが、プログラミングというのは高度な専門技術と言われることが多いが、それは事実と異なる。プロとしてやっていくには確かに高度な専門技術と言われるレベルのプログラミング能力が必要になるが、僕くらいのプログラミングの知識なら、特に問題なく身につく。なぜなら、多くの自然科学とは異なり、プログラミング言語はあくまで人間が作ったものだからだ。多少複雑に見えても所詮は人間の作ったものであり、自然現象の複雑さには到底及ばない。何が起きてもだいたい想像が付くし、その奥深さなど、自然現象とは比べものにならないほど陳腐なものだ。ちなみに僕は、電車の中でJavaの入門書を読み、3時間で基本的な文法を理解した。クラスの継承やオーバーライド、コンストラクタなどのある程度専門的な知識を含めても10時間はかからなかっただろう。もちろん、使いこなせるわけではないので厳密な意味で理解したとは言えないが、少なくとも文法的な意味合いは分かったつもりだ。仮に僕が常人を超越するような天才的な頭脳を備えていたとしても、この3倍もかければ大抵の人は理解できるだろう。つまり、9時間で基本的な部分が理解でき、30時間もあれば入門書の全容が把握できるわけだ。専門技術と呼ぶには驚くほど簡単ではないだろうか。つまり、こんなことは武器にはならないのだ。

ついでに言えば、それなのになぜプログラミングが難しいかと言えば、それは現実を描こうとするからだ。現実を理解し、現実をプログラムに落とすのが難しいのだ。あるいは、それを正確に落とせたかどうか確認するのが難しいのだ。書くだけなら、それほど問題にはならないし、実際になってはいない。


 < 過去  目次  未来 >


Seak [MAIL]

My追加