六本木ミニだより
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昨日は、途中まで書いたところで、電車が最終になってしまいまして……。 最近、私もカレも忙しく、週末、ちゃんと時間がとれないもんで、夜はなるべく向こうに泊まりに行くようにしているのです。ちょうど、自宅に出勤している感じ。
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あらためて、works更新しました。前回より、ちょっとだけハデなマフラー。
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一昨日の日記を読んで、「私までつらいです」という趣旨のメールが数通来た。(もちろんメールくれないでこゆ気持ちになっている人も含めて) ごめんごめん。もう、こんなに怒ったりしないから。っていうか、怒りは明日に持ち越さないために怒るので、怨みをため込むために怒るもんじゃないから。 あなたが傷つかないで。You're OK. You're OK.
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綿の布の地直しを、ここ数日で、5枚分ぐらいやりました。「縫いたい!」と思ったとき、地直しされてないと、意欲が消えてまたやりたくなくなることって、ありません? これらは昨年の春に日暮里で買った布たちなのですが、これ、どれもすごく気に入っていているんですね。で、そういう布って、自分のにしようか、パートナーのにしようか、とても迷うんですよ。その結果、手がつかない、ってことになってました。 先週の日曜日、布を全部出してきて、検討会議をやりました。「これは私用」「これはあなた用」てな感じで。おかげで気持ちはすっきりしましたが、さて、どこまで縫えるでしょう。
works更新。残りは明日。
今年の1月25日、某匿名掲示板(危険度=中)に、ISLのbbsに訪問者が書き込んだ内容が転記されるという事件がありました。 ただ、その10分後にはISLをフォローする書き込みがあったこと、また転記された内容は非常に内省的なもので、あざけるのが目的とすれば筋違いであることなどから、その時点で閉鎖はしませんでした。 ただ、トップページに、「ISLはリンク・フリーであるが、それは、リンクを貼る人にも決定権と責任を委ねることなのだ」という旨の一文を付け足し、注意を促していました。 しかし、先週の2月20日、またもやBBSに書き込んでいる特定の個人を揶揄する目的で、今度は、危険度=大の匿名掲示板に、ISLがリンクを貼られてしまいました。
この時点で、これ以上、「安全を保ちながら自由な発言のできる掲示板」の運営を続けていくのは無理と判断し、掲示板の一時閉鎖に踏み切りました。 また、今年の始めあたりから、上記のようなISLのBBSならではの役割は、すでに果たされたような気がしていたので、今後再開はしないことに決めました。
同時に、いくつかのコンテンツも、削除することにしました。「着物これくしょん」と、「メインラボ」、それに「道具の工夫」です。 上記のコンテンツには、今後、「目盛りの引いてある裁断台の作り方」「人が来たときぱっと片づけられる道具箱」「ダーツのないシャツを、肩幅も袖幅も変えずにバストだけ補正する方法」などを更新する予定だったのですが、これらのアップも中止しました。
これらの情報は、すべてシロウトである私が考案したものであり、有益かどうかは意見が分かれるところだと思います。 しかし、テロル(=恐怖)が支配するところの本当の怖さは、安全を壊されることによって、こうした、無害な情報までもが地下に潜ってしまうことなのだ、いうことを多くの人に知ってほしいので、このように決断した次第です。 私のサイトは「洋裁サイト」ではありませんので、技術や情報の提供より、安全保障とは何か、今回の出来事を教材に、体で感じてもらう機会を提供したいのです。 ソマリアやボスニアやアフガニスタンでは、技術や道具や情報だけがあっても、決して洋裁はできません。 この喪失感を体で感じることができたら、あなたは、上のような国の人とも、心から共感できる部分が一つ増えるでしょう。 親愛なる訪問者諸姉よ、どうぞ私と一緒にガマンしてください。
トラウマを抱えた人は、たしかに嫌われます。 それは、重いトラウマを抱えた人というのは、今でも心から血を流しっぱなしになっていて、どこに行っても、そこらじゅうを心の血でベタベタ汚すからです。 その血を流させたのは、加害者であって、今目の前にいる被害者ではない。でも、かといって、無関係の第三者が、その人が流した血をいつも黙って掃除してあげなきゃいけないという義務というのもないんですね。 かくして、血を流しっぱなしの人というのは、一刻も早く血を止めないと、関係ない第三者に、次の被害を与えてしまう結果になってしまうのです。
ISLの掲示板が多くの人をひきつけてきたのは、「本物の血がある」という理由だったと思います。 血というのは、「血も涙もある」とか「血が通った」とか、我々が人間である証を見ることができるということなんですね。「そういう雰囲気で、なおかつ洋裁についても話せる」という掲示板を見つけることができなかったので、私は自分で作りました。 しかし、その一方で、防腐剤を使っていない血というのは、すぐに腐ります。その腐臭が人を引きつけたのだとすれば、もっとマメに、その血を洗い流す必要があったのかもしれません。 でも、でもですよ。だからって、1000ある過去ログの発言を750もめくって、あんな臭い血、舐めに行くなよ〜。お腹壊すよ。
さて、私のサイトがリンクを貼られたのは、匿名掲示板ですので、誰がやったのか追跡のしようも、ましてや抗議などできるはずもがありません。 しかし、私としては、「おまえなんか、赤ちゃんをつくるときに使う器官が赤く腫れて、おしっこしようがエッチしようが、ヒイヒイいって転げ回りやがれ!」ぐらいのことは祈らせてもらってもいいんじゃないかと思っています。あ、私の呪いは結構効くので、「一週間ぐらいで治りますように」とも祈り足しておきます。
ちなみに、トップページのイラストの元ネタは、パブロ・ピカソの『泣く女』です。 私は泣いているのだ。で、泣いて、初めてのイラストレーターで絵を描いちゃったのだ。(下手でゴメン)
2002年02月25日(月) |
『コラテラル・ダメージ』〜無言でもモノは語れる〜 |
『アディクションと家族と映画』のサイトを、近いうちに閉鎖しようと思っています。 理由はですねえ、この「エンピツ」のあまりの使い良さに、あちらの更新が面倒くさくなってしまったのですよ。エンピツだと、テキストに打ち込むだけで、勝手に索引を作ってくれるんですもの。向こうの面倒くささは、感想を書くことより、索引を作ることなんです。で、こちらの日記の中に移行させてしまうことにしました。 そういうわけで、以下は『コラテラル・ダメージ』の映画評ね。
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9.11のテロ事件直後の公開が決まっていたおかげで、公開延期になってしまったこの映画。私は、公開延期になったのは、この映画が、「アメリカ側の正義」を一方的に描いた映画だからだと思っていた。この映画はシュワちゃん主演でもあるし(偏見?)、そういう一方的な正義をバラまくのが、この時期、やばいと判断されたのだろうと思っていた。 しかし、私は甘かった。
この映画は、アメリカ側、テロリスト側(コロンビア・ゲリラだ)、双方の「事情」を、平等に密に描きこんだ映画だったのである。 この映画は、かなり、「弱者」の視点に立ってつくられている。まず、国の利益のために自分の家族が犠牲になったことを無視されてしまった(こういうのを「コラテラル・ダメージ」というのだそうだ)ある消防士を、国に対する弱者、という視点で描いている。でも、シュワちゃん演ずるところの消防士は、もちろんそれであきらめたりなんかしない。復讐を誓うべく、単身、コロンビアに乗り込んでしまうのだ。
ところが、潜入したコロンビアで、彼は、テロリスト側の「事情」を見ることになる。彼らにも家族があり、彼らもアメリカからの攻撃で傷ついており、彼らも幸せになる権利を行使したいと思っていることを、次々まのあたりにしていくのだ。最後にはもちろん、主人公は、テロリストと対決するのだけれど、この映画のオチでは、シュワちゃん演じる消防士は、なにも「アメリカの英雄」になりたかったわけではないのだ、ということがよくわかる。 そういう映画が、テロの影響で公開延期になってしまったのだ。
ということはですよ。この映画が公開延期してしまったのは、テロ当時「イマジン」が放送自粛してしまったのと同じ理由ではなかったのだろうか? それは、誰に配慮したものだったのだろう?
この映画の宣伝はそろそろ日本でも始まっているようだが、上記のような話って、まったく聞こえてこないでしょう。シュワちゃん本人でさえ、テロの際の救助活動に携わった消防士や警察官を称える発言しかしない……そうか、そうだったのか。うんうん。
アメリカで現在公開されている本作は、すでに一位の座を獲得している。アメリカ人だって、「自由と正義」という理念の前に、コチコチに固まった人ではないんじゃないか、と、私は思う。彼らにも感情があるし、彼らにも「事情」を理解する頭はある。ただ、そのことを誰も語りはしない。安全ではないからだ。でも、この映画が、批判されずにヒットを続けるなら、私はこの映画を支持した人たちのことを、とても好きになれそうだ。
なーんだ、アメリカ人だって、日本人といっしょじゃん。日本でも、「忠臣蔵」や「曾根崎心中」などは、登場人物の名前を変えて、「フィクション」として、日本人の間に語り継がれてきた。この映画だって、「テロリスト側にも事情がある」なんて、一言もいっていない。でも、どう見ても、そういうふうに見えるようにできている。そして、そういう宣伝を誰もしない。
世の中には、沈黙に沈黙を重ねたままで、それでも語れるモノがある。 そういう沈黙のなかで、つなぎあえる手がある。 ちょっとそのことを感じた映画でした。
共感度=★★★★☆ 問題作度=★★★★☆ オススメ度=★★★★☆
今日は、祖母の病院に行きました。 といっても、病院に行ったのは私ひとり。祖母が昨年ガンの手術をした都内の病院に、今年になってからの祖母の経緯と今後の対応の打合のために行って来たのです。 今後は祖母の家の近くの病院に通うようにしたいので(都内はもう遠くてムリ)その旨を伝え、必要に応じては情報を提供して欲しい、ということを伝えたのですが、血液内科のドクター、消化器外科のドクターとも、「いつでも連絡してください」といってもらえて、私も祖母も周囲の者も一安心です。
それにしても、大学病院というのは、あいかわらずすごい人。人。人。世界中の人がどっかしら悪いんじゃないかと思うほど。 予約時間があったにもかかわらず、午前中の血液内科のために2時間、昼休みを挟んで消化器外科に1時間、さらに薬の待ち時間が1時間。都合、朝の9時から午後3時までの計6時間。 おかげで、マフラーがほぼ編み上がってしまいました。
午後、試写に行くつもりが日程を間違えていたことに気づき、時間があいてしまいました。で、急遽、大学時代の友だちが入院している都内の別の病院に、お見舞いに行くことに決めました。 病気なのは、彼女本人ではなくて、生まれて半年の、彼女の赤ちゃんなのです。先天性の心臓疾患、でも、今手術すれば完治するとのことで、6ヶ月の赤ちゃんが大手術を受けた由。 で、そんなに小さな子どもの入院というのは、親も一緒に入院しなきゃいけないんですね。「病気そのものは乗り越えたけど、どこにも行けないから飽きてくる。話し相手になりに来て」と連絡もらっていたのです。 いやーしゃべったしゃべった。4時から7時まで4時間。何度か電話連絡や手紙の交換はしていたけれど、オフで会ったのは何と5年ぶりだったので、お互い積もる話が山とあった。 私と彼女は、同じ私鉄沿線で、3つしか駅の離れていない場所に住んでいるのです。でも、お互い日常の雑事に追われていると、なかなか時間をとって会いに行こうというところまで至らなかったのですね。 でも、たしかに入院は大変だけど、都内の病院にいてくれると、かえって、今回のように、開いた時間を見つけてちょこっと寄りやすいのです。お互い、「洗濯物とりこまなきゃ」とか、心配しなくていいしね。
今度は、夕ご飯時に、デパ地下でお弁当でも買って、ふたりで食べようと思っています。 私は、ひとりでいるのは嫌いじゃない方ですけど、気が付けば、昼食も夕食も、ひとりで食べるのが当たり前の生活になっていました。 どうやら、気づかぬうちに「寂しいな」という気持ちがたまっていたようです。自分の求めているものが、相手のウォンツにも一致するということは、有り難いことだな、と、しみじみ思いました。
ところで、急に病院に行くことにしたので、お見舞いの品を買う店が近くにありませんでした。そこで、駅前のスターバックスに寄って、コーヒーとクッキー、それに、子ども用に、指人形つきのキャンディーを買って行きました。棒つきキャンディーの頭に、ブタさんと、ウシさんのお人形がおまけについているやつです。かわいいの。 病院のように、いるとくさってくる所にいるときは「しゃば」の香りがするものがいいかなと思って。それに、ふだんスタバに入り浸っている私と違って、子育て中の彼女はスタバ体験が生まれて2回目だったそうで、とても喜んでもらえました。 私としても、「子どものためにスタバで買い物」なんて、普段、なかなかできない、ちょっとこじゃれた体験で、いい気分でした。
2002年02月21日(木) |
『ビューティフル・マインド』〜痛がる人々〜 |
午後からUIPにて『ビューティフル・マインド』の試写に行ったのだが、いやもうすごい混雑だった。20分前に行ったのに補助席(=パイプ椅子)の分までいっぱい。正規の座席が50しかないのに、両脇の通路のパイプ椅子が、50ぐらいあって、通路の方が人口密度が高い。おまけに、今日、暑かったしね。
私は実は、今日、何の予備知識もなしに行ってしまったのだけれど、精神分裂病を抱えながら後にノーベル賞を受賞した、実在の数学者を描いたこの映画、前半、かなり痛いのだ。後半、本人が病気であることを自覚してからはかなりよくなるのだけれど、前半がとにかく痛い。数学者が暗号解析のために国の未来を背負うとされいた冷戦時代、主人公は、国のために少しでも役立ちたいと思い、国防総省の求めに応じて、雑誌からの暗号解読に情熱を傾ける。しかし、尽くしても尽くしても、それは幻覚の中の出来事なのだ。
この時点で、私は周囲の鑑賞者の人々に、かなり不信感を感じていた。この、明らかに通常の状態を超えた人々は、いったい何を求めて、この映画を見に来たのだろうか? 「痛さ」を求めて来たのだろうか?(そのわりに、隣の人なんか寝ている) それは、日常の暮らしの中で、我々が「痛さ」を感じる機会が減っているからなのだろうか。でも、「痛さ」を感じられないと、人は「生きている」という感覚も得ることができない。だから、人は痛さを求めるのだろうか。 精神障害の人に?
後半になって、この映画は突然面白くなってくる。それは、主人公ジョン・ナッシュが、「精神障害だから」ではなく、「人間だから」苦しむのだ、ということがわかってくるからだ。主人公が、「興味の対象」ではなく、「共感の対象」に変わるのである。 ノーベル賞受賞式での彼のスピーチは、心を打つものである。
私は、数に論理を求めてきました。 論理とは何か? 私はそれを求めて、物理的(=フィジック)な世界と 哲学的(=メタ・フィジック)な世界を 旅し、 幻覚の中に迷い、 そして戻ってきました。 そして、最終的に、愛の中に理があるとわかりました。
私は、この言葉に、どうして打たれたのだろう? 自分が精神障害をもっているから? それとも、私が人間だから? 私も、世界のどこかにこの世界の仕組みを完璧に説明する理論があると信じているし、それを求めて旅をしている。もしかして、幻覚の中に迷い込んでいることもあるかもしれない。でも、戻ってきている(と思う)。 もし、この共感が私が精神障害をもっているからだとすれば、精神障害もなかなかいいものであるように思う。でも、おそらく、そうではないだろう。なぜなら、精神的に健康である人も、この言葉に共感する人はきっといるだろうと思うからだ。
実際、この世において、何かを「成す」ことができるかどうかは、精神障害があろうとなかろうと確率的にはあまり変わりがないんじゃないかという気がする。やる人はやるし、やらない人はやらない。やろうとしてもできない人もいるし、やることに興味のない人もいる。
でも、私は、それを「成そう」という旅に出ていることに結構満足しているし、楽しいことだと思っている。そして、試写を見に来た人のなかにも、たくさん、そういう人がいただろうと感じている。そうじゃないと、ちょっとあの混雑ぶりは考えられない。 ほんとに暑くて、のぼせそうでしたね。みなさん、お疲れさまでした。
2002年02月20日(水) |
一番大きな買い物……ノートPC(しかもwin) |
(昨日からの続き) 以前から、外出したときにちょこっと思いついたことをテキストに打ち込みたいと思っていて、ノートPCが欲しいと思っていました。しかしそれって、贅沢ではないか?という思いがずっとあり、なかなか手が出せずにいました。だって、家にせっかく仕事机とPCがあるのに、そこに座っていられなくて外で書こうとするのって、「逃げ」じゃないですか。昔の人はペンと紙があればどこでだって書けたのにさ。銃数万円だして、コスト回収できるほどたいした仕事もしていないし、できる自信もないし。そんなためらいからなかなか決断ができませんでした。 しかし、「病院や祖母の家に通ったりすることを考えると、これから外出が増える」というのが、決断するきっかけになりました。 最初は小さくなったi-bookを買おうと思っていたのですが、i-bookは2.2キロで結構重い。それに、出版業界も完全にウィンドウズが勝ち組になった今(私が会社員だった頃は、全員キャノン販売に行ってmacの講習を受けたのです)、macからwinに乗り換えるのは、いつ決断するかだけが問題、という感じでした。 そう、ここで私は、ついにwinとmacの二刀使いへの道を踏み出したのです。買ったのはシャープのメビウス。B5版で、重さは1.5キロ。値段はビックPカンの正月タイムサービスで、10万円ジャストでした。値段的にもスペック的にも、かなりいい買い物でした。持ち運ぶと、だんだん重くなってくるのはちょっと計算違いでしたけど。
で、macとwin……というと、「データ共有」が最大の問題になるわけですが、今は便利なソフトがあるのです。 mac側に「DAVE」というソフトを入れると、TCP/IPを使って、ファイルを共有できるのです。LANケーブルで2台のパソコンをつないで、家庭内LANを組みました。 メビウス側はネットをつなげる環境がないのですが、macのネットからエディタソフトをインストールすれば、それをメビウス側に移すこともできます。ライターの命、「縦書きで入力できる原稿用紙エディタ」もダウンロードしてメビウスに入れました。これで、原稿を書ける準備も万全です。 この稿は、祖母の家で、メビウスを使って書いています。なんかエキサイトしていて、長いですね。でも、導入してみて、この買い物が「いかに自分にとって必要なものだったか」よくわかりました。都内での待ち時間のすきまにちょっとメモを打ったり、次の企画のプランを打ったり、大活躍です。 (この項終わり)
2002年02月19日(火) |
デロンギのヒーター、いいのよ(一昨日の続き) |
「買い物の言い訳」というものには、二つのパターンがあります。 一つは……「自分にはもったいなくて買えないが、祖母が使うなら買ってみよう(あわよくば、使い心地を試そう)」というもの。 もう一つは……「仕事とサポートを両立させるために、便利なツールを買おう」というものです。
で、最初の方で買った買い物の代表は、「デロンギのヒーター」でしょう。 祖母は心臓が悪いので、部屋と廊下の温度差があるのが前から気になっていました。そこで、寝室とトイレに続く廊下のために買ってみたら、これがいいのですわ。「通販生活」って、あまりにも絶賛文句が並べられているのでかえって疑ってしまうこともあるんですが、これにかぎっては、本当でしたね。「春の夜のようにポカポカ」というのは。 それと、万が一、祖母が触ってしまっても、ヤケドにならないのがいいです。 で、わたくし、これで調子にのりまして、祖母が父の家に泊まるときのために、もう一台買ったんです。そしたら父が 「こっちも暖房直したからいらない」といってきたので、思い切って、買い取っちゃいました。 寝るとき、すごいラクです。ベッドで編み物とかできるし。 ただし、相変わらず小心者の私は、ランニングコストのことを考えるとめまいがしてくるので、タイマーで、寝入るときと朝方だけつけるようにしています。 (この項さらに続く)
2002年02月18日(月) |
『モンスターズ・インク』 |
昨日の続きは、明日以降書きます(計画性なし)
実は、今日、残念なことがあったのです。 次回「週刊金曜日」の映画評に『モンスターズ・インク』を書きたいということで、以前から希望を出してあったのですが、他の方との調整がどうしてもつかないということで(この映画欄は複数の執筆者が持ち回りで担当する)、今回は私の方が譲ることになりました。監督記者会見にも行って質問できたし、かなりいい原稿がもう頭の中にできていたのですが、編集さんの声に折れて、譲ることにしました。
この編集の方(書いちゃってゴメンナサイ)、私が 「え〜、残念です、つらいです……」 というと、 「いやー、ボクもつらいです……」 って真顔でおっしゃるんですね。なんか、そういわれると笑ってしまう。 ライター仕事を再開してからの担当編集の方たちは、本当に人当たりのいい方が多く、私としては、 「あー、自分が攻撃的な人間でなくなると、回りの人というのは、これだけ変わるんだなあ」 と、自分が血まみれで痛々しい人間だった過去を思いだして、今さらながらに身につまされます。
ともあれ、『モンスターズ・インク』、いいぞ。素朴で、基本的で、でも、人が憧れる永遠のファンタジー。絵もすばらしくきれい。 この原稿は、自分の作品に加えておきたいので、ちゃんと書いて後ほど映画のサイトのアップするつもりです。ぜひご一読を。
訪問者の皆様は、「買い物」をするのは上手でしょうか。「必要」と思ったときに、すっぱりと決断できますか? 私は、自分を、なんて買い物下手なんだろう、と思っています。というのも、「ここぞ」というときに決断するのが苦手なのです。お店で見て、「これいいな」と思うことは思える。でも、そのとき、必ず、「第2の自己」みたいのが自分をジャマするのですよ。「前のがまだ使えるなあ」とか、「こんなの買ってもすぐ使わなくなるかもしれないなあ」とか、色々な声が聞こえてきます。そして結局タイミングを逃してしまうのです。 そのくせ、「何かを買いたい欲求」というのは心のどこかにふつふつと蓄積される。そして、どうでもいいときに、どばーっと出てくるのです。かくして、余計なモノを買ってしまうわけです。 祖母の家に行ってみて、この傾向は、環境遺伝のたまものだということが、よくわかります。彼女はふだん、「私、ポンポン買い物するのは好きじゃないの」なーんていっています。でも、タンスの中を見ると、周囲の人があきれるほど、ゴッソリと下着があります。どうも、「下着なら、いつか使うからムダにならない」と思うと、買ってしまうらしいのです。 こう書くといかにも年寄りっぽい倹約術に聞こえますが、ぎょっとしたことに、私の買い物の傾向も、この祖母とまったく同じ傾向なのです。いらいらして買い物したいとき、私は無印良品で下着を買っちゃいます。「下着だったら、流行と関係ないし、下着はしゃっきりしていた方がいいし」などと思いながら。で、古い下着は捨てないんですね(笑)。タンスに下着がたまりまくりです。 買い物がヘタな人間は、「買い物する自分」を許せないのだと思います。心のどこかで、買い物する自分を罰し続けている。だから、私利私欲のままに買うことができないのです。 そして、こういう傾向を持つ人間は、買い物をするときに、「言い訳」がつくと、自分が買い物するのを許すのが楽になります。「流行と関係ないから、ずっといつまでも使えそうだ」とか、「家族の者も一緒に使うから」とか、「仕事にプラスになりそうだ」とか。
さて、今回、私に起こった「祖母の介護をサポートする」という出来事。この出来事は、表面的に見ればまるで「他人のために尽くす」ような美談に聞こえるかもしれません。しかし、実は、私の心の奥底に幽閉された私利私欲を満たすために、絶好の言い訳を与えてくれることになりました。 「いい機会だから、買っちゃおうか」。キーワードは、これです。 (この項続く)
2002年02月14日(木) |
テスト&オリンピック |
++Gingham Star++のweeさんにさっそく刺激されまして、私も「エンピツ」を借りてしまいました。 日記の更新、確かに面倒くさいのです。「あーこのネタ、書きたいな」と思ってもファイル名を変更したりFTPで送ったりする手間の煩雑さを考えて、ズルズルと時間が過ぎる→そのうちネタがどんどん旬でなくなる、ということが、最近はよくありました。
実は、今日もこれから祖母の家に行ったりするため3日間家にいられないのですが、忙しいときほど何か起こる&訪問者の方ともちょっとお話ししたい→書きたいこともたまるのですね。ですので、とにかくこの作業だけはやっちゃおうと思って、今、登録に踏み切りました。サイトデザインとか過去の日記の登録とかは帰ってからやる予定です。 ちなみに、この日記はテストも兼ねているため、2月14日の日付で書いています。
それにしても、オリンピック、ジャンプラージヒル個人が終了した後になってから、「あー私はこんなに船木が好きだったんだあ!!!!」ってことに気づいて、ちょっと愕然としています。 今日のフィギュアの男子シングルなんか見ていても思ったのですが、外国人選手には「完璧!」っていう言葉を使っても、日本人選手には「これぐらいできればまあいいか」って気になること、あるじゃないですか。 でも、長野での船木選手は「完璧」だった。原田もいいけど、原田みたいにハラハラさせない、勝って当たり前、みたいなクールさがあった。強さと距離を競う競技なのに、「ビューティフル」と称えられた。本当に美しかった。4年前の朝日新聞にブチ抜きで掲載された飛形姿勢の写真は、今でもクッキリ覚えています。 ラージヒル個人の1本目を飛び終えて、大きく指を突き上げたとき、突然「ドキュン」とやられてしまいまして。 どんなスポーツでも、どんな選手でも、失敗したり、苦しんだりしていることと無縁ではないのに、(フィギュアのプルシェンコさえ、ショートプログラムの4回転ジャンプを失敗したのには驚いた)この人だけはやっぱり大丈夫なんじゃないか、と、思わせてくれたのに。でも、最終的にはダメだった。なんか、もう、つらかった。端麗に咲いたバラの花が崩れていくのを見るようなつらさがあったな。
私、ウィンタースポーツ、見るの好きなのです。夏の五輪は興味あるスポーツが限られているのですが、冬季五輪は大好きで、相当オタクになってます。 でも、それって、始まってからいっても、あまり説得力なくないです? オリンピックって、直前まで興味なかった人でも、始まればそれなりに見たりするじゃないですか。 オリンピックが始まる前から、この日記を使って「冬季五輪、冬季五輪」と騒げば説得力あったのになあ。
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