ああ 果てしない夢を追い続け ああ いつの日か大空かけめぐる チャンランランランランランランラン チャンランランランランランランラン・・・ 裏切りの言葉に 故郷を離れ わずかな望みを 求め さすらう俺なのさ
てな具合で、東京まで芝居を観に行ってきた。 新国立劇場小劇場で行われた、太田省吾・作・演出「ヤジルシ〜誘われて」(主演は、大杉漣・金久美子)の公演を観たわけだが、ひとことで言えば「期待はずれ」だった。面白い部分がなかったわけではない。沈黙の中で役者がゆっくりと動くシーンなどはイマジネーションを掻きたたせるものがあった。だが、ひとたび役者がセリフを発すると、こちらの気持ちは醒めてしまう。言葉が私の胸に届いてこないのだ。一度気持ちが醒めてしまうと、再び芝居に引き込まれるということはほとんどない。この芝居のためにはるばるやってきたというのに、何だか損した気分だった。 その公演の後、当初は予定になかった「小島章司フラメンコ公演」(新国立劇場中劇場)を観た。これが実によかった。生のフラメンコ・ギターに歌、そして踊りが一体となって繰り広げられる世界に、思わずため息がもれた(感動を覚えていたのだ)。踊りはどことなく暗黒舞踏を思わせる動きなどもありながら、とてもエモーショナルなものであった。集団での踊りも、ソロも、気迫を感じさせるものがあり、非常にかっこよくもあった。カーテンコールがやや間延びしていたのが「玉に瑕」だったが、それでも感動のうちに劇場を出ることができた。 帰りに新宿の雑踏のなかを少し歩いた。この猥雑な街が私は好きだった。18才で上京した頃は、右も左もわからず、人の多さにただ圧倒されるばかりだったが、そのうちに私は新宿の街に親しみを覚えるようになった。 思えば、大学の4年間は東京(中央線沿線の、杉並区阿佐谷)に住んでいたというのに、芝居をほとんど観ていない。当時は、野田・鴻上の黄金期だったが、彼らの芝居は好きじゃなかったし、芝居全般としても年に1,2回観るくらいだった (吉田日出子・加藤健一・主演の「星の王子さま」が今でも印象に残っている)。でも大学の4年間がなければ、今の私はなかったであろうし、芝居をやっていなかったかもしれない。高校演劇以来30才を過ぎるまで、舞台に立つ機会はなかったし、そんな日が来るとも思っていなかった。高校時代の友人もきっと、今私が芝居をやってるなんて思ってもみないだろう。 そんなふうに考えると、今私が芝居に取り組んでいることが不思議にも思えてくる。と同時に、こんなふうに芝居ができることを幸せに思う。次に舞台に立てるのがいつになるのかはわからない。でも、早く舞台に立ちたいと思う。 つい1週間前まで舞台に立っていた私が、今は観る側にまわっている。このこともまた何とも奇妙な気がしてくる。 大都会の雑踏のなかで、私はそんなとりとめのない思いにとらわれていた。
2002年11月28日(木) |
二枚目役者の日常生活 |
11月公演「幻想ヒポカンパス〜太陽と王権〜」が終了して4日が過ぎた。でも、まだ1週間も経っていないってのが嘘のように思えてくる。すっかり日常に戻ってしまい、実は公演など最初からなかったのではないかという錯覚にもとらわれる。「幻想ヒポカンパス」は、私の頭の中だけに存在する幻想だった。なんて、そんなことないよな。 今でも不意に口をついて出るセリフの数々、擦り傷や打撲の痕、全身を覆う痛みと疲れ・・・、そんなところに公演の痕跡を認めたりする。
おとといだったか、「中国式温熱マッサージ」なるものを初めて受けてきた。通りがかりに発見したそのお店、一見しただけでは「純然たるマッサージ」なのか「エッチなサービス付き」なのか判然としない。でも、よく見ると「女性も安心して受けられる」との一文があり、風俗店でないことが判明。雑居ビルの暗い階段を3階まで上がり、温熱&オイル・マッサージを受けた。その時は気持ちよかったけど、翌朝起きた時はまたちょっと辛かった。で、今日は家の近くの整体に行って来た。本当は仕事が休めるといいのだが、今週は休みが取れない。でも、あと1日行けば休みだ。そう思うとかなりうれしい。
とか言いながら、土曜日は東京に遊びに行く。新国立劇場小劇場での公演を観に行くのさ。太田省吾の作・演出による「ヤジルシ」。出演は、大杉漣、金久美子といった顔触れだ。ちょっと楽しみだけど、楽しみはそれだけで終わらせない。12月は遊びまくるぜ。 でも、しばらく舞台から遠のくっていうのも、一方でもの凄く淋しい。一日も早く舞台に戻れますように、と心の片隅で祈り続けている。
人生とは 大団円のあるドラマである
11月公演が終了した。稽古では苦しいことも多かったが、本番の舞台は楽しくてしょうがなかった。とりわけ千秋楽は出せるものをすべて出し切ったという感じだ。厳しいご意見は甘んじて受けよう。でも、今公演に関して悔いることは何もない。
明けて今日25日、月曜日の朝、果てしない日常の始まりだ。夏休みを終えたばかりの学生の気分にどことなく似ている。同僚から「曽根さん、ちょっと酒臭いですよ」と言われながらも、日常の業務を続けていく。そうこうして一日過ごしてみると、いつの間にか日常に馴らされている。昨日までのことがまるで嘘のようにも思えてくる。
今日は早めに仕事を切り上げ、まっすぐ家に帰って休んだ。夕方に家にいること自体信じられない。体は楽だが、ちょっとさみしいかな? いや、さみしいというよりは、ただ呆然と立ちつくしている感じだ。最愛の人を突然亡くして信じられないでいる状態に似ているかもしれない。
次はいつ舞台に立てるかな? やはり本番の舞台に立つことによって役者としての力が引き出されていくことは非常に多いと思う。だから、舞台には立ちたい。だが、一方では仕事との兼ね合いでそれが難しいこともある。pH-7の次回公演にはまず出られないであろうし、その次だってどうなるのかはわからない。だからといって役者をやめる気など毛頭ない(もちろん出るとなったらトコトンやるぜ)。 一方で、これまで延び延びになってきた作家デビューのチャンスが到来したというふうにも考えられる。その他にも、いろいろな表現形態に挑戦してみたい。アウトドアもちょっとやってみたい。映画を見に行ったり、ライブにも行きたい。そうそう、観劇もいいよな(ロック歌舞伎、観に行くぜ)。 それにしてもしばらく弾いていなかったせいか、ギターの腕は落ちたみたいだ。
あっ、申し遅れましたが、今回の公演を観に来てくださった皆様には、心より感謝申し上げます。
明日は公演最終日。 何もない状態から遂にここまでやってきた。
人類学者ロバート・マーフィー氏は、人生の中途で障害を負って生きることを余儀なくされた。自らの障害とそれをめぐる人々との関係について書かれた著作『ボディ・サイレント』と私は出会い、マーフィー氏のポジティブな生きざまに大いなる感動を与えられた。それを演劇化したいと願い、ここまできたわけだが、最初の頃の稽古ではうまくいかないことばかりだった。それでもしだいに形が出来上がっていくうちに、私はすばらしい舞台になることが予感できた。 もちろん役者として力量不足な面はあろう。けれども、私は今回の作品について自信をもって演じている。 あと1日、最後までやるべきことをやるだけだ。深い感動のうちにラストを迎えられるように。
長かった一日の仕事が終わり(強引に終えて)、そのまますぐに「地下劇場」へと向かった。「地下劇場」までの道のりで「職場モード」から「役者モード」へと切り替えていく。いよいよ後半戦の始まりだ。 今日は大入り満員。俄然力が入った。本番中はあちこちに体をぶつけ、小さなたんこぶもこしらえた。打ち身、擦り傷は日常茶飯。とはいえ、大怪我だけは何としても回避せねばならぬ。 エンディングでブレーカーがとんでしまうハプニングもあったが、とにかく後半戦が幕を開けた。あと4ステージ、自分の限界を一歩でも踏み出てやろうという気概をもって臨んでいきたい。
公演後半に向けての稽古が今日もあった。 観客の目から見て芝居全体がどう映っているのかという点とともに、私の演技は、あるいは、私が用意した台本の部分はどう見られているのか、ということも気にはかかるところだ。 だからと言って自分のなかに迷いがあるわけではない。完全燃焼するしかないと思っている。本番はここまでとにかく楽しくやってきた。 自分が主役だと思い込んで、一瞬一瞬輝いていたい。自らの存在感で観客を圧倒したい。今から、後半戦が楽しみである。
今公演の前半が終了し、昨夜はゆっくりと稽古のない夜を過ごした。 今日、公演後半に向けた稽古が再開された。後半は、前半戦のさらに上を行く舞台をつくっていきたい。きっといい舞台になると思う。今から3日後の本番がとても待ち遠しい。
どうか本番で自分の100%の力が発揮されますように。そんな祈りにも似た思いをもって、本番初日を迎えた。 今日は通常通り仕事があったが、やはり公演のことが気になってしょうがなかった。5時15分の終業時間に合わせて支度をし、またバスの時間に合わせて職場を後にした。
初日の演技がどうであったか(第三者から観て)は気になるところではあるのだが、自分としてはある程度気合いも入ったし、そんなに悪くはないはずという思いはある。とにかく初日が終わってホッとしてもいる。 明日以降も、悔いを残さぬよう全力を尽くしていこう。これからもっといい舞台ができるはずだ。自らを信じて、どこまでも進んでいくつもりだ。
友よ 夜明け前の闇のなかで 友よ 闘いの炎を燃やせ (岡林信康・作詞曲「友よ」より)
いよいよ明日、公演初日を迎える。 最早思い残すことはない。 ただただベストを尽くすのみだ。
暗く険しい道のりだったが、それも終わりに近づいた。 夜明けはそこまでやってきているのだ。 やがて、朝のまぶしい光が降りそそぎ、 これまでとは違った風景が私の目に映ることだろう。
人生とは・・・。 その答えは、芝居のなかで明らかになることだろう。 どなた様もお見逃しなきように。
では、劇場でお目にかかりましょう。
公演初日まで1週間と迫った。今回の公演に向けての稽古では苦しいことも多かったが、一方ですごく楽しいとも感じていた。あらかじめ用意された台本に沿って演ずるのとは違い、自分の世界を芝居の中で表現できることに喜びを感じていた。もうここまできたら、思い切ってやるしかない。 実は、来週始め(11日・12日)神戸に出張だ。「施設利用者」に同行しての「小グループ旅行」である。個人旅行と違い、気を遣うことの多い旅行ではある。まあ、仕事だからやむをえない。でも、仕事の中にも楽しみを見つけたいと思っている。実際に楽しいことも多い。今回の旅のハイライトは、「ミュージック・グルメ船 コンチェルト」での「ディナー・クルーズ」だ。ジャズの生演奏を聴きながら、周富徳プロデュースによる中華料理バイキングが楽しめる。明石海峡大橋と神戸の夜景を眺めることもできる。エキゾチックな港町・神戸、恋人と過ごす夜には最高のロケーションだ。しかし、今回は男6人、色気などないのだ。それでも、きっと楽しいと思う。 私がそんな旅を続けている最中も、稽古はある。旅から戻れば、公演はもう目の前だ。一回一回の稽古に集中していこうと思う。
つい先日上高地に行ったという友人から、「紅葉狩りのつもりが雪景色を見ることになってしまった」というメールをもらった。ここ10日くらいの間にすっかり寒くなっちまった。 急激な寒さのためであろうか、職場の人々の間に風邪が蔓延している。私は現在のところ大丈夫だが、本番が終わるまでは何としても体調を万全にしておかなくてはならない。 肝心の芝居の方だが、本番はきっと面白くなると思う。稽古に関しても、今回はきつい部分もあったが、「pH-7」入団後に私が経験した3つの公演のなかで最も楽しいとも感じられた。 本番まであと8日間、そのうちの2日間私は出張のため稽古に出られない。その意味でも稽古ができるのもあとわずか。とにかく全力を尽くすのみだ。 チケットをまだ購入されていない方、観ないと損しますよ。今からでも予約しましょ(その際には「曽根さんからチケットを買いた〜い」旨、しっかりと伝えましょうね、マジで)。 とにかく、本番当日、劇場でお会いしましょう。
何が真実であるか見極めるのは難しいことだ、という話題からスタートしよう。 チェチェンの武装集団によるモスクワの劇場占拠事件は、人質100名以上が死亡するという最悪の事態をもって終結した。マスコミ報道では、立て籠もったチェチェン人の側を「テロリスト」と断じ、また「アルカイダ」(イスラム武装勢力)との関係を匂わせることにより、一方的に悪者扱いする論調が目立っていたような気がする。しかし、そもそもあのような事件が起こる背景には何があるのか、想像力を働かせてみる必要がある。 自らの死をも恐れず人質をとって立て籠もる、あのような行動は相当に追い詰められた人間にしかできないことではなかろうか。その背景には、ロシアによるチェチェン人への度重なる民族弾圧の歴史がある。住民の大半がイスラム教徒であるこの地域は、19世紀後半に旧ロシア帝国により武力併合された。以後、断続的にチェチェン人の抵抗が続いている。1991年、チェチェンが独立を宣言してから、独立を潰すためロシア軍はチェチェンに度々侵攻。住民もゲリラも区別ない攻撃を繰り返し、2000年2月に首都クロズヌイを制圧した。チェチェン人は占領下での不自由な生活を余儀なくされている。 先日の劇場占拠事件にあっては、チェチェンの武装集団を殲滅するばかりか、100人を超えるロシア人人質の犠牲を生む結果となった。特殊部隊突入の際に国際条約で禁止されている毒物が使用された疑惑が持たれているが、いずれにせよ、ロシアの現体制がいかに人命を軽視しているかを窺い知ることができた。 ニューヨークでの同時多発テロ以降、「反体制勢力」への報復にあたって一般市民(無辜なる人々)に多少の犠牲が出るのはやむを得ないとする空気が感じられるようになってきている。プーチン(ロシア連邦大統領)にせよ、ブッシュ(アメリカ合衆国大統領)にせよ、人間の尊厳をも顧みることのないデリカシーに欠けた人物であるが、一方に彼らを支持する無自覚な民衆の存在があることも確かだ。 大体、北朝鮮の核開発問題にしたところで、そのことを最大の核保有国たるアメリカが批判することなど、厚顔無恥も甚だしい。そしてまた、そんなアメリカに追随する日本政府の主体性のなさはあらためて言うまでもない。
連日、北朝鮮による日本人拉致問題がニュースで流されている。拉致被害者や家族の側に立てば、確かに許し難い事態ではある。だが、そのことを踏まえた上で、かつて旧大日本帝国が朝鮮半島の人々に行ってきたこと(強制連行・強制労働・従軍慰安婦問題等)にまで想像力を働かせてみる必要があろう。今日の日本は、旧大日本帝国と非連続に存在するわけではない。拉致問題に対して謝罪や補償を求めるのはいいとして、その前に私たち日本人はかつての戦争犯罪に関して果たして真剣に向き合ってきたのか、あらためて考えてみるべきではなかろうか。他者に対して毅然とした態度をとるためには、何よりもまず自らに対して厳しくあらねばならぬであろう。
さてさて、私共の芝居に関してであるが、舞台のセットなどはだいぶ整い、あとは役者に負うところが多くなった。個人的には、ある程度自信をもって演じている部分と、迷っている部分とが二分されている。最終的には開き直ってやるしかないと思うし、これまではそれで何とかなってきた。稽古ではあれこれと考えすぎて深みにはまってしまう私だが、これまで本番では不思議と落ち着いて完全燃焼してきた。今回もきっと大丈夫と信じて進んでいくしかない。ついに本番2週間前までやってきた。
|