留学後記



引越し

2004年06月30日(水)

朝から昼にかけて雨がドシャ降り。
カミナリまで鳴ってた。

引越しは夕方からの予定だったから、
引越し屋さんが来たころには晴れ間あったりして、
暑くもなく、雨に濡れることもなく、
まずまずの引越しができました。

でも、家具が間に合わなくて、
しばらくは、床に座って食事だよxxx

23年以上住んでる家を離れる心境は、
特に今は何も感じないけど、
ここから保育園に通い、
小学校、中学校、高校、大学もここから通い、
初海外でアメリカにホームステイに行ったときも、
ロシアに行くときも、
いつもこの家から出発したんだな、
と思うと、「うちに帰る」っていう「うち」を
失うような気もします。
ホント、いい社宅でしたよ。お世話になりました〜。


オット再々来日

2004年06月25日(金)

オットが帰ってきましたよぉ。
再x4来日くらいになるのかな。

大学を無事に卒業できました(唯一、卒業証書をまだ受け取っておらず、
ママが受け取ってくれることになっている)。

やっと、今度こそず〜っと一緒にいられる。

当面の目標はオットの就職。
頑張るぞー!


浴衣の着付け

2004年06月24日(木)

着付け教室で、今日は浴衣を着た。

今年はオットと浴衣着て、花火大会にでも行けるといいな(へへへ・・・)。

で、浴衣を着て、早々と切り上げて、
先生も一緒にみんなでお食事をしに行った。

これが結構目立って恥ずかしかったぁ。
なにせ、15名ほどの着物・浴衣の団体ですから。

和食もおいしく、楽しかった。
いやぁ、女の人だけの飲み会ってすごかった!
年齢を聞きあったり、彼氏、家族の話etc.
ターゲットになったら、こりゃたまらん!って感じです。

でもまぁ、二次会まで行ってしまって、
みんな次の日も仕事だっていうのに、
11時近くまでおしゃべりしてたよ。

一人、女の子が職場の人たちとばったり会ってしまって、
恥ずかしそうにしていた。(私は会わなくてよかったよ。)

帰りは私はもちろん着替えて帰った。
浴衣のまま帰る人もいたけど。

最近、「負け犬」についてのTV番組で言ってたのを思い出した。
「負け犬」は「和」にはまる!ってこと。
この着物教室にいる女性の9人のうち未婚者は7人
(うち一人は来月結婚するけど)。20代は一人だけだから、
かなりヤバいような・・・。
う〜ん、恋愛の話になると、どうもついていけなかった。


す、すごい・・・

2004年06月20日(日)

英語に関しては、私はオットの足元にも及ばないことがよく分かりました。

5月23日にオットが受験したTOEICの結果が届いた。
結果が出る前から、まぁ、700点がいいとこじゃない、
なんて本人も言ってたんだけど、
な、なんと910点(97.8%)でした。

英語圏に行った事もないロシア人のオットがここまで英語ができるとは。
知らなかった・・・。
これからはオットに足を向けて寝られないね。

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・

それにしても、今日は二人して二日酔い。
私も、近年まれにみるひどい二日酔いで、今でも気分が悪い。

昨日は叔父が久しぶりに遊びに来て、しこたま飲んだ。
しばらく、ビールも焼酎もウィスキーも見たくない。

片やオットは、まだロシアにいるんだけど、卒業パーティで
朝6時くらいまで同級生と飲み明かしていたみたい。

年を感じるよ(まだ早いか)。


全部終わったね〜

2004年06月18日(金)

やれやれ、やっと全部終わったようで。
オットは、最後の最後まで自分の大学に腹を立てていた。

何が終わったかって、オットの大学生活ですよ。
今日、卒論面接があって、無事合格。
あとは卒業証書をもらうのみとなりました。

前日、つまり17日は、私の母の元上司夫妻がペテルブルグを訪れており、
オット(つまり現地のロシア人)とお話したいということで、
オットはアストリア・ホテルへ出かけ、
よくおしゃべりしながら夕食を共にして、お小遣いまでもらった。

そこまではよかったんだけど、うちに帰る前か、帰った後か、
卒論の指導教官から電話が!
なんでも、18日の卒論面接に行けなくなったから、
「評価」書(※)を取りに来て欲しいとのこと。
時すでに23時半。タクシーで往復したそうで・・・。

(※)ロシアの卒論では、まず指導教官から「評価」書をもらい、
また別の先生に「批評」書をもらい、それらを自分の卒論に添付することになっている。

この時期、日本語のできる先生たちは、日本人旅行客のためにガイド業にせいを出している。まぁ、夏は稼ぎどきだし、大学の給料だけじゃ食っていけないのはわかってるけど、こっちは安くはない授業料払って大学通ってるんだよ、って感じ。こういう、大学の集大成ともなる卒論面接にも出られない先生は罷免してくれ、って直訴したいくらいだけど。

何を隠そう、今回指導教官に当たった先生は、オットが5月末にロシアに戻ってから分かった人。それまでは、ずっと大学1年からお世話になっていた大学の講師の先生が担当だった。大学側は、講師の先生に余分な給与は払いたくないのか、急きょ交代させた。

こういう経緯があるから、なんともいえないし、私が知りえている以上に大学の中は、ガイドの仕事の縄張りやなんだでドロドロしてるから、オットは下手に出なくてよかったのも確か。

夜も23時半にオットを呼び出したこの先生にも腹は立ったけど、このK先生、実は私とオットと私を引き合わせてくれたと言ってもいいような人なので、今回の件は、水に流しましょう。

思えば1999年11月13日(土)、このK先生にお願いして、ペテルブルグに留学1年目だった私や他の日本人留学生たちは、ロシア人の学生の授業を見学させてもらった。もちろん、K先生の授業。

当時の4年生と1年生の授業を見学させてもらったんだけど、そのときオットはこの1年生のクラスにいた。それが出会いだったのよね〜。

かくいう今年の11月13日は同じ土曜日であり、大安の日。できるかどうかはまだフィフティー・フィフティーだけど、私たちの結婚式を計画中。

オットへ
卒業おめでとう!再来日を待ってるよ〜!お土産もよろしくね。帰ってきたら、引越しあるから手伝ってね。


同じ誕生日

2004年06月17日(木)

今日はいつものように、毎週木曜日恒例の着付け教室。

帰りに、同い年くらいの同じ教室の子に呼び止められて、
3人で食事して帰った。

3人のうち1人は私と同い年であることが判明!
しかも、私の誕生日と1日違いで1月9日生まれだって!
1月9日生まれの友達、これで4人目だよ。
スゲ〜!
私は1月9日生まれの人と縁があるようです。

あ、オットは2月4日生まれですけどね。


ね・ん・き・ん問題

2004年06月14日(月)

今日も友達とメールで話したよ。

私たちの世代ってさ、
第二次ベビーブームで大学受験も大変だったし、
就職も超氷河期だったし、
バブル時代も経験できなかったし、
年金ももらえるかわからないし、
すごくついてない世代だよねって。

かくいう私の年金問題。
ロシア留学中、つまり海外在住の間は、
年金を納めるかどうかは任意になる。
というわけで、収入のない留学生の身分、
もちろん年金は支払ってませんでした。

ところがさ、去年、日本に帰ってきて、
転入届を区役所に出した。
それから10日も経たないうちに、
社会保険事務所から、年金の納付書がごっそり送られてきた。

私は、6月29日着で帰国したから、
6月分から国民年金の支払い義務があるというわけ。
(これも、なんだかね、留学終えて帰ってきて、
無職の私から年金を取ろうってんだ。)

で、さらに2年間さかのぼって「未納」ってされてて、
ロシア留学中は任意だと思っていたのに(これは最終的には正しかった)。

つまり、H14年2月くらいから(この辺の日にちの設定がかなりあいまいで、よくわからないのだが)の納付書がどっさり送られてきた。

で、最初の納付書(11か月分)の支払期限がこの5月31日だったから、
およそ15万円を払い込んだのさ。

そしたら、突然『還付通知書』が送られてきて、
今回払い込んだ14年4月〜15年2月分までは、
海外居住でお支払いになれませんから、
16年6月分〜16年10月分に充当し、
残りの6か月分は還付します、なんて手紙が来た!

翌日はもちろん、怒りの電話を朝一で社会保険事務所に入れました。
「じゃ、納付書送りつけてくるなーーー!!」って。
で、最終的には、区役所の国民年金かに電話を入れてくれってことになり、
そしたらまた訳の分からんことを1週間後までやつらは
ごちゃごちゃやってたけど、払い込んだとおり、
14年4月〜15年2月分までに充当されました。

まったく、もらえるかどうかも分からないのに、
払ってるんだぞ、こっちは!

話はそれるけど、もし年金もらえなかったら、
これは過去の「豊田商事」事件(※)と
やってること同じってことだよね。
(※)「金の延べ棒をお買い上げになりました」っていう証書だけ渡して、
実は金の延べ棒なんてなく、買ったつもりの客はいっぱいくわされた、
という事件。被害者はかなりいる。かくいううちのおじいちゃんもその一人。

だって、「年金手帳」なんていうもっともらしいもの発行しておいて、
実際、給付される年金がなかったら!
そんなこと考えると納めてるのがホントばかばかしくなるね。

今回納めた国民年金も、今納めてる厚生年金も、
来年の確定申告で、しっかり社会保険控除として使わせてもらいますよ。
残りの15年3月以降の年金の支払期限は来年なので、
来年払って、再来年の確定申告の控除として使わせてもらいます。
これくらいしないと、損だしね!

ああ、長々書いてすっきりした!


おめでとう〜♪

2004年06月11日(金)

オットの卒業試験が今日で無事修了(←一応、ロシア語では「国家試験」ということになっている)。

よかったねぇ、おめでとう!
残すは卒論。まぁ、書き終えてるから、口頭試問だけだね。

片や私は、アフターファイブに友達とお食事。
アジアンキッチンに行って、食べる、食べる。
1.サーモンとチーズの生春巻き
2.ビビンバサラダ
3.ポテト
4.麻婆豆腐のパスタ
5.カレー
6.チキン(シャシリクみたいだった)
※名称が若干違うと思うので、ごめんなさい。
さらに紹興酒まで飲んでしまったよ。

宴を共にしたのは、2年前に知り合った年上のお姉さま。
ロシアつながり。
彼女は、今月末からロシアの彼氏に会いにロシアへ発つ。
幸福をお祈りしております〜♪


オットもびっくり、ここまできたか

2004年06月09日(水)

大学を卒業するためにロシアに戻っているオット。

その卒業のためにはいくつかのハードルがある。
1.卒業試験。これにはいくつかの科目がある。英語、日本語(筆記と口頭がある)、日本史
2.卒業試験を全てパスした上で、卒業論文の口頭試問がある。

日本語の試験は5月29日と6月3日にあって、無事にパスしたオット。
残るは英語が6月10日、日本史が11日と連続している。

ちなみに、私が卒業した同じ大学の社会学部修士課程では、
卒業試験は専門の社会学のみで、オマケ程度にロシア語の試験があった(外国人留学生だからね)。そして卒論、といった具合。

でも、でも、でも〜!
ここに来て、オットもびっくり!
まぁ、英語と日本語の卒業試験は普通にやるみたいだけど、
日本史に関して、先生に問題を聞きに行ったところ(注)・・・

先生:好きな問題2つくらい考えて。
オット:いやぁ、好きな問題って言っても・・・。

(注)通常は、問題が50問以上あって、試験当日にくじ引き方式でその中の2問を引かされ、試験官2人くらいの前で回答することになる。

う〜ん、オットが所属している学部では、「日本語専攻」と「日本史専攻」が毎年交互に募集がある。で、オットは去年1年間留学していたもんだから、自分の専攻は日本史でも、この1年一緒に勉強してきた学生は、みんな日本語専攻。そんなのもあってか、日本史の試験は、他のベトナム史とか、別のアジアの歴史を勉強してきている学生たちと一緒に試験を受けることになるらしい。それにしても、先生、「自分で問題考えていいよ」だなんてさ、これはあくまでも卒業試験ですよ。やばくないですかぁ!?

そしてさらに、卒論!
卒論の口頭試問にたどり着くまでに、これまた順序がある。
1.卒論の指導教官に見せて、卒論の評価を書いてもらう。
2.もう一人、第三者の先生に見せて、批評を書いてもらう。

で、何が問題かっていうと・・・
オットが4月に一度来日したときまで、ずっと(大学1年のときから毎年の学年論文のときもお世話になり)自分の指導教官だと思っていた人が、なんと5月に卒論だけは別の人がやることになった。Oh My God!

なんか、これは大学の内部事情が関係あるようで・・・。オットの面倒を見てくれてた先生は、外部の先生で、外部の人に指導を頼むと、どうやら給与をその分出さなくてはいけないようで(当たり前だけどね)、そんなわけで、内部の先生が(まぁ、もらっている給与の範囲内でできるということで)指導教官に急きょなったという。

そして、さらにオットの卒論の批評を書いてもらう「第三者の先生」!
オットはこの先生に火曜日に卒論を渡しに行った。
すると・・・

第三者の先生:論文はもらっておくけど、私も忙しいから、自分で自分の卒論の批評を書いていいよ。
オット:・・・・・・・・・。(返す言葉なし。)

卒論の口頭試問は、この批評にもとづいて、自分が研究してきたことに対するテーゼや理論を述べることになるのに。

いやはや、もうメチャクチャですな。
さらに、現在、指導教官は海外出張中らしい。
こうなったら、指導教官役、批評を書く先生役、自分の3役を演じるしかないですね。
ホント、こんなんで卒業できるなら、笑えるぅ。

 < 過去  INDEX  未来 >


ニガウリ