先日の日記で、息子の書写のことを書いた。 先週末に、療育に行った際に、書写のことを話し合った。 学校の支援級の先生と、療育の先生との間で、連絡ファイルなる ものを交換することになり、早速の学校側からの相談事も書写の ことだったからだ。
様々と訊ねてみる。 書写をやる場面ってどういう場面か、どういう条件の下でか。 そのなかで、どうして今は出来なくなっているのかを考える。 息子にしてみれば、自分のことを考えるのもハードルは高い。 それは、そのときの嫌な気持ちとか、不安になった気持ちとかを 追体験することだからだ。 辛くなったら、自分が一番楽しいと思っていることを考えるんだ よと声をかけながら、先生は進めていく。
1学期に出来ていたことが出来なくなったのは、やっぱり失敗を したときの自分の気持ちについて認識してしまったからであるら しい。 そのときの気持ちにはなりたくなくて、失敗したらどうしようと いう不安が増しているのだ。
例えば、3枚書いて一番いいのを提出するようにと言われたが、 3枚とも失敗してしまったらどうしようと思うのだそうだ。 先生が追加でもう1枚書いてもいいと言ったらどうかと訊ねると、 それも失敗したらどうしようと思うと答える。 じゃあ、3枚追加していいよと言ったらと訊ねると、その3枚も 失敗したらどうしようと思うのだそうだ。 そこに、うまく書けるかもしれないという発想は全くないように 見えた。 じゃあ、書いてみてうまく行かなかったら提出しなくていいと言 われたらどうかと訊ねると、提出してもしなくても言いなら授業 はやらなくてもいいんじゃないのかと反論された。 交流級の授業というものは、そういう融通が利かないものだとい う認識があるようだ。
ということで、その先への考え方のことはおいおいとやっていく ことにした。 そうでないと、本人が無理をして答えを出してしまい、その答え の通りにしなければならないからと、よけいに自分の苦しみを増 すことになるからだ。 今のところは、自己認識が進んだことで、不安感が増していると いう状態なので、支援級で水書きでの練習にしておいてください と連絡ファイルに書いてくれた。
自己理解と工夫が社会にでる上で必要なことだから、子供のうち から自分と向き合うことをしているわけだが、それはそれなりに 辛いことであり、大人へのステップを上がるのは辛いこともある のだよと言い聞かせられている息子である。
失敗に立ち向かう、というよりも、失敗しても得るものはあると いうことは、大人になってもなかなか悟れないものだ。
先日、「秋バテ」という言葉を聞いた。 「夏バテ」とは違って、気温の変化につて行けないことが疲労感 を増す結果になるということらしい。
透析なんかしていると、疲れるんでしょうと言われることも多い が、実際には4時間ずっと横になっているので、筋肉疲労とかは ほとんどない。 しかし、血液を強制的に循環させているので、心臓の負担が大き く、心臓だけが疲れているという妙な疲労感がある。 透析後は、背中が凝るし、それは心臓の裏側なのである。
先週、心臓の超音波検査を行った。 半年に一度と設定されている。 その結果を医師から聞かされ、心臓は丈夫なんだねと言われた。 そういえば、骨密度検査の後も、骨は丈夫なんだねと言われた。 (そうそう、悪いのは腎臓だけなんです。)と、心の声。 嚢胞さえ無ければ、かなり元気な54歳だと思うのだが。
腎臓病の人がよくなる、腎性貧血というやつでもあるので、貧血 はなかなか改善しない。かなりゆっくりとした改善である。 したがって、貧血による影響はかなり厳しいものがある。 まず、走れないし、階段を上ると息切れする。 エスカレータのある場所はとても大事だ。 自転車があるおかげで、買い物がたくさんあっても大丈夫。
息子と療育に出かけるときは、息子には母のペースにあわせて歩 いてもらう。 階段は使わない。 電車はなるべく空いている方を、例えば快速と各駅ならば各駅を、 その駅の始発電車があればそれに乗る。 見た目が元気そうなので、席を譲ってもらったりすることは全く ない。 優先席には、そこしか空いていないときにしか座らない。 座るときは、ちゃんと携帯電話は電源オフにして、いちゃもんを つけられたときのために障害者手帳を出すつもりで座る。 内部障害者は、初期の妊婦さんと同じで、見た目で判断されない ので、座りたいときはそれなりの工夫が必要だ。
同じことは、障害者用の駐車場でも言えるだろう。 障害者のマークは車椅子マークなので、内部障害者も同じように 車椅子マークを使っているのがほとんどだろう。 よく耳にするのが、車椅子でもないのにマークをつけて障害者用 の駐車スペースに止めている人がいるのはいかがなものかという 批判だ。 しかし、直接その人に聞いたのではない限り、そのドライバーの 事情はわからないでしょうということだ。
見た目で判断できないことはたくさんある。 自閉症スペクトラムもしかり。 ぱっと見は普通の子と変わらないが、どこかでちょっと困ってい る場合があるかもしれない。
そういった場面や人に、気がつく人と気がつかない人の違いは、 ひとえにその知識があるかどうかにかかっているのだ。 視覚障害者への嫌がらせのニュースで、初めて知った事もある。 盲導犬に声をかけてはいけないとか、触ってはいけないというこ とは知っていたのだが、目を合わせてもいけないということは初 めて知ったのだ。
何においても、知ることは大事なことだ。
2学期に入って、息子に変化。 大好きだったはずの「書写」(習字)の授業で、出席はしている が、道具も出さないままに過ごすようになったらしい。 支援級の担任も気にしてくれて、本番での失敗を恐れているのな らと、支援級の個別授業のときに練習をさせてくれたりしている。 しかし、練習は水で何度もかける練習用の道具を使っているが、 授業では墨汁を出して書くわけで、どうやら墨汁を出してという ところに引っかかりが出てきてしまっているということらしい。
墨汁の匂いが気になりだしたのか、とも思ったが、周りのみんな の墨汁の匂いもするなかで授業に出席できているのだから、そう ではないのかもしれない。
土曜日にグループ療育にでかけたが、保護者同士の話のなかで、 他の子も「書写」がだめというケースがあったようだ。 グループの日は夫が付いていく日なので夫からの話なのだが、や はり水で書く練習は大丈夫なのに、墨汁で書くのがだめだという ことだった。 失敗する事のダメージは周りが思っているより大きいのだろうか。 1学期はわりと平気だったのになあと思う。
夏休みの個別療育の中で、失敗に対しての捉え方がわれわれとは 違う事を改めて知った。 改めてというのは、失敗が大きなダメージだという事は想像して いたが、それが自己に対するほぼ全否定に近いほどだということ を知らされた感じだ。 失敗といっても、大きなイベントなのでの大失敗と、日常生活の 中での小さな失敗と、その程度は様々なのだが、息子にとっては、 日常生活の小さな失敗であっても、それが自分はだめな奴だとい うことになってしまうらしかった。 「まっ、いいかっ。」というように、さらっと流す事の出来ない 日々は結構辛いものだろうと推測する。 臨床心理士の先生と、失敗にもいろいろあって、たいていの事は 「まっ、いいかっ。」といってやり過ごしながら、気をつけてい けばいいんだよということを、時間をかけて考えられるようにし ていこうと相談したばかりだった。
失敗について、自己認識してしまったから、よけいに失敗が怖く なってしまったのだろうか。 だとしたら、そこからの回復と訓練しかないのか。
まあ、書写については、水で練習させてもらいながら、お正月の 書き初めができればいいかなと、それくらいの向き合い方でいく しかないかなと思っている。 とにかく、心の持ちようは、すぐに変えられるものではないので、 時間をかけていくしかない。
母の場合は、もう54年も生きているとたいてい失敗は、「まあ いいかあ。」、と言ってやり過ごす事が出来るようになってきて いるので、10歳の自分を思い出すんだぞ、という覚悟で。
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