「隙 間」

2012年05月13日(日) light my candle

その前々日が徹夜でした。

徹夜マージャンあがりに思わず叫んだ、
朝だ!
徹夜だ!
から、色川武大さんのもうひとつの筆名である「阿佐田哲也」が生まれました。

嫌だ。
徹夜は。

から、わたしは「矢田哲也」という筆名にしようかと思います。



徹夜で仕事して、朝五時過ぎの山手線に、一時間だけ仮眠するために乗って。

山手線は一周がちょうど一時間です。

寝過ごして終点のとんでもないところに運ばれることもありません。

そして会社に戻って、また終電まで仕事でした。

帰ってきて弁当を食べたとこまでは記憶がありました。

それ以降の記憶がありません。

目が覚めたときは、ベッドの上にただ寝転がってました。

テレビも電灯もつきっぱなしです。

当然、目覚ましのセットもされてませんでした。
携帯電話のアラーム(バイブレーション)は毎日繰り返す設定にしてありますが、携帯電話は床の上に置きっぱなしでした。

耳のすぐ横に置いて寝なければ、音はもとより、アラームの振動でもわたしはほぼ起きません。

鬼のような着信履歴の相手である御山さんに、勇気を振り絞って、電話をかけました。

「っっっとに、すみません。今すぐ、支度してゆきます!」

心配してるメールをくれたのは、チロルでした。
そのメールを送ってみるように言ったのは、下松さんでした。

「ほら、体調不良って、精神的にきちゃって会社に来られなくなっちゃったりしたのかと思って」

周りにいるのは皆、優しい方々です。

一方の、前まで一緒に仕事をしていた黒木メイサ(仮名)さんは、

「きっと寝過ごしちゃっただけですよ。きっと、だいじょうぶじゃないですか」

ようく、わかってくれてます。



徹夜で仕事、だけは、これまで避けてきました。

ナルコのわたしがいったいどうなるのか、予想が出来ないことになるのが予想できていたからです。

許されるかぎりですが、モテるだけのモディヲとリタりんのカップルを同伴です。

アフターになったら、もう、途切れそうな意識を如何に保つか、という戦いです。

勝ち目などありません。
はなから勝てるものではないのです。
負けても大丈夫なところにたどり着くまでは負けないように。
そのための持久戦です。

部屋まで無事たどり着き、弁当を食べたところまでは、記憶にありました。

しかし。

弁当ガラを片付けた覚えはありません。

ベッドに上がり込んだ記憶も、ありません。

だから、誰よりも必要な強力目覚ましのセットをした記憶もありません。

弁当ガラは片付けてました。

じゃあ、なぜ。

あと一歩。

目覚ましのセットまでできなかったのか。

悔やまれます。

いえ。

悔しいというよりも、むしろ清々しい喪失感です。

「やっちまったなー! はっはっはぁー……」

はぁぁ。

二度目でした。
大事なタイミングのときに。

同じ仕事を同じ時間で一緒にしていた上司の御山さんは、それでもちゃんと時間通りに出社し、続きをしていました。

たまたま、だからこそ、それは大事な日であったり、許されない日であったりすることが多いわけです。

今回は上司である御山さんが一緒の仕事だったので、大穴をあけずにすみました。

メイサさんと虎子さんに、

「早く、朝起こしてくれるひと見つけなきゃ」
「あ、でも、そういう代行サービスあるやんか」
「でもそれって、電話のモーニングコールだけじゃないですか?」
「そらそやなぁ。朝、ガチャって入って来られたら、不気味やん」

はっはっはっ。
うふふふ。

他人の失敗談を、こちらがその甲斐があったと満足できるような蜜の味として、ちゃんと味わってくれる方々です。

とはいえ。
派遣や外注さんの彼女らは別として、御山さんや社員の同僚たちにとっては、単なる笑い話ではおさまりません。

想定内の事故とはいえ、これがまた続けば致命的です。



2012年05月11日(金) 目覚めたら

目覚めたら、ま昼の十二時だった。



……。



鬼のような着信履歴。



着信メール





「体調不良ですか?」

「だいじょうぶですか!?」

「倒れられたのか、事故に遇われたのか、心配です」



……。



愛されてる。



わけじゃないっ!!



ああっ、女神さまっ。

五時間前に、時間を戻してくださいっ……。



2012年05月09日(水) カエるモノ

長崎には名物の料理が多数ある。
そのなかで「トルコライス」というものがある。
カツとピラフとナポリタンが盛り合わせになった垂涎もののメニューである。

諸説あるが、その発祥の店として有名な「ビストロボルドー」に、わたしは向かっていた。

竜馬像からほぼまっすぐに、急傾斜の山並みにある墓地の真ん中を直滑降で下りてきたわたしは、開店時刻の二十分前に店の前に着いていたのである。

看板の前を知らぬふりして通り過ぎ、しかし目ざとく入口の様子を横目でうかがう。
店は階段を上がった二階にあり、階段の上がり口に主なメニューや店の案内などが張り付けられていた。

通り過ぎてから五分ほどたち、引き返してふたたび店の前を通過してみようとしたのである。

どうやら店の女性が、階段の前を掃き掃除していたのである。

これはもう、開店は間近である。

そして着いた商店街のアーケードで開店時刻まで店を物色して過ごす。
他の「トルコライス」を供する店を、である。

発祥の店、だとかにこだわると、現在旨い店や自分の好みに合った店を見過ごしてしまう。

しかし、やはり「発祥の店」の看板に叶う店は他に見当たらなかったのである。
「ビストロボルドー」は「発祥の店」だけに限らない。おそらくもっともオーソドックスな味である、ともいわれていたのである。

こってりコテコテが好物のわたしだが、やれドミグラスだのチーズだのトマトだのの他店の誘惑に打ち勝ったのである。

開店と同時は、よろしくない。

そこで十分ほど過ぎたほどよい時間に店に入ったのである。
なぜよろしくないかというと、開店したてはすべてがあたたまっていないことがあるからである。

あたたまっていないもので調理すれば、それは馴染んでいないものになってしまうのである。

揚げ油、鍋、フライパン、ソース、そして何より調理する本人。

先ほどは並んでいた姿がなかったのに、広くはない店内はすでに半分が埋まっていた。

テーブルが四つ、カウンターが五、六席。
ひとり客のわたしは当然、カウンターである。

そのカウンターがまた、目の前でマスター、というよりおやっさんの方がしっくりくる、がテキパキと調理するのを味わえるのである。

注文は「トルコライス」に決まっている。

しかし、焦ってはいけない。

年季を感じさせるメニューを、さもありなんとめくりながら、他のテーブルの上をうかがう。

皆、やはりトルコライスである。

おかみさんが、わたしに注文をたずねる。

では、
「トルコライス」を。

「はいよ」と、復唱したおかみさんの声におやっさんが応える。

あのひとときは、不思議な空間であった。

へりを少し折り曲げたフライパンを、小気味良いリズムを全身で刻んでいる。

ジャッ、ジャッ、ジャッ、ジャッ。
カンッ。
ジャッ、ジャッ、ジャッ、ジャッ。
カンッ。

気付くと見ているわたしの体も、それに合わせて揺れていた。

すぐに席は埋まってゆき、階段にたって待っている方もいた。

味はたしかにオーソドックスでシンプルなもので、とりわけ凝った調理方法や調味料を使っているわけではない。

家庭でもおそらく、同じようなものができるだろう。
しかし、材料や味だけでは、この幸せは味わえなかっただろう。

ジャッ、カンッ、のんびり味わってしまった。

これから福岡に飛んで、車を返し、さらにあの店にゆかなければならないのである。

王貞治(現福岡ソフトバンクホークス会長)が入院中、病室を脱け出してまでして食べにいった店。

わたしが初日、行列に拒否反応を示して断念した店である。

博多どんたくに沸き立つ街に、わたしも鼓動が小躍りしているようであった。

地下鉄で移動中の踊り子の少年少女ら一団に押し込められ、思わずへの字に辟易してしまった。

「らるきい」

もうチャンスはない、という決心で開店前十分に列の後ろについたのである。
タイミングがよかったのか、一回転目で着席できること確実な順番だったのである。

「ぺぺたま」

それがお目当ての料理である。

ペペロンチーノをトロリたまごのソースでからめたパスタなのである。

カルボナーラでは、ない。
たまごかけペペロンチーノ、である。

大盛りを頼めばよかった。

胃の中のおかず、後悔を知らず。

トルコライスはとうに消化済みで、まだまだ余裕があったのである。

なあん、ツヤばつけよってからあ。
いやらしかあ。

カッコをつけたわけではない。
夜の帰りのバスの前に、晩飯を食っておきたかったのもある。

博多駅ビルで、馬刺が待っている。

時刻はもうすぐ夕方。
大濠公園駅から地下鉄で戻るか、バスで戻るかで、迷ったのである。

地元の方なら迷わず地下鉄を選んだであろう。

わたしが生来持ち合わしている「間の悪さ」が、ここでまた、最後の締めくくりにやってきて、存分に発揮してくれたのである。

すぐにやってきた目の前のバスに乗り、それは博多(天神)行きで、間違いではなかったはずであった。

行きに地下鉄で十分とかからなかったはずが、三十分以上かかってしまったのである。

それがどうした、と思うだろう。

車中ずっと、手持ちの水をチョビチョビ飲んで、すっかり水っ腹になってしまったのである。

チャパチャパ。

「ご飯がはいらなくなるから、ジュースはもうやめなさい」

子どもに母親が注意する、まさにそれである。

目当ての店に、それでも向かう。
新しい博多駅ビルの上階に、熊本でも有名な店が出店しているのである。

しかし、甘かった。

駅ビル内だから、とたかをくくっていたら、なかなかどうして敷居が高いよそおいである。

まばたきを三回する間、わたしは熟考した。

そしてそのまま、屋上階の展望デッキへと上がることにしたのである。

福岡の夜景が、360度見渡せる。
恋人、家族を連れてなかなか楽しんでいるようである。

わたしは夜景を見ながら、晩飯の算段をし直す。

馬刺が懐石の扱いしかないのは、誤算だった。
昼間なら定食のような扱いで手頃なのがあったらしい。

胃袋はまだチャパチャパ。
しかも時間が、限られている。

今夜、東京行きのバスに乗らなければならない。
往路の経験から、車中で食べるのは難しい。

さてまたラーメンにするか。
それはイヤだ。

ひょーいとひょひょいと。
ひょひょいと九州。
ひょーいと福岡明太子。
佐賀県ステーキ、宮崎ステーキ、長崎ステーキ、鹿児島トンテキ。
大分、とり天。
熊本……馬刺!

食べてばっかじゃん。
うへへへへ。

いけない。五色のジェットに連れてかれるところだった。

そうだ。
「とり天」を食べていない。
貼り紙の文字に吸い寄せられ、店に入る。

ああ。
「冷や汁」もあった。

しかし店に入る時点で、すっかりわたしは「とり天」な気分であった。

ああ、満足。
お腹いっぱい、胸いっぱい。

振り返ればあっけないが盛り沢山の九州縦断。

「どこかいく度に、何かしら残念なネタを作ってくるね」

予定通りに万事うまく回るつもりで、しかしなかなかそうはいかない。

であるから、ときには「残念」に聞こえることにも出くわす。

しかし、だからこそまた行こうという気になるのである。

有象無象が詰まったカバンをがらがらと転がして、東京へと帰る。

とはいえ、帰るのはバスで、である。

歩いて帰るのは、残念を通り越して素敵過ぎる。



さあ、長々と二ヶ月も前の話にお付き合いいただいたことに、感謝とねぎらいを送らさせていただきたい。

次は、夏。

もう目の前である。



2012年05月08日(火) サキにツキしもの

五七三という生年月日が同じの小中学校の頃の同級生がいるのである。

血液型も同じで、しかし、たしかではないがあちらはマイナスだった気がする。
少々睡眠に難があるのもまた同じで、あちらは不眠でわたしは過眠と、同じであるようで真逆だったりする。

当時、特に仲がよかったわけではなく大して話をしたりもしなかったので、他にもどんなものがあるかわからないが、いつか比べあってみたいものである。

さてそんなさして深くもない間柄だが、五七三のブログはたまに拝見していたのである。

すると、なんと彼女の母方の田舎が九州で、そこに行ってきたらしい。

わたしの母も、福岡出身である。

しかし、それはまたおいといて、長崎の坂本竜馬ゆかりの地を回ってきた、というのである。

わたしは、たしかかと聞かれればむにゃむにゃとなってしまうが、かつて友とオランダ坂ユースホステルの屋根の上で、精霊流しの爆竹の爆音と、星空と百万ドルの夜景に、いつか長崎の坂本竜馬像を見に行こう、となったのである。

屋根の上というのは、ホストの方や他のゲストの方々と一緒である。
であるから、やんちゃな行為で屋根に上がったのではないのであしからず。

当時、バイクで回っているという方が、長崎の坂本竜馬像のことを話してくれたのである。
ふたりで高知の竜馬像に行ってきてすっかり満足だった直後に聞かされたことだったので、思わず、むむむ、と腕組みしてしまったのである。

当時はちょうど、新宿で新都庁が建設工事真っ最中であった。

その頃の思いが、ふつふつと沸き上がってきたのである。

それほど昔にわたしは思っていたのである。
それを先んじられたような気がして、なかなか悔しい。

ようし。
坂本竜馬像にゆくぞ。

思いを新に、朝一番に長崎へ乗り込んだのである。

まずは眼鏡橋。

まだ朝早かったのか、バックパッカー風の観光客の姿がちらほら見えるだけである。

これは絶好の機会である。

眼鏡橋の石積のどこかにハート形をした石があり、それを見つけられたら幸運らしい。

桜のエヴァ娘がもちろん、しっかり紹介していたのである。
しかし、具体的な場所までは、さすがにわからないようにきちんとしていたので、自分で探さなければならない。

大勢ひとがいれば、その場所は自ずと知ることができただろう。
わたしが辺りを見回すと、ひと組の恋人たちと、女性同士がひと組。

ここに男ひとりは、注目を浴びてしまう。

「ねえ、石ってこっちじゃなぁい?」
「ほんとぉ?」

彼女らがやいのやいのと石を発掘するのを、三歩ばかり後ろについて回る。

決して、不審な輩のそれではない。

たまたま行く先が同じで、同じ道を歩いているのと同じである。

「あったあった!」
(パシャッ)
「きやっきゃっ」

わたしを気にも留めず、彼女らはわたしを避けて去っていった。

「よけて」である。

決して、

「さけて」ではないことを加えておこう。
そして、さも「初めて見た物珍しい形の石を、意味や所以も知らずに撮っている」風をよそおい、急ぎ写真に納めたのである。

その足で、次は亀山社中跡、そして竜馬像に向かう。

竜馬像は丘の上にある公園の一画にある。

途中、赤ん坊ならすっぽり入ってしまいそうなくらいでかい、竜馬のブーツの形をした像に立ち寄る。

実際に履いてみるように足を入れることができる。しかも靴を履いたままで、である。
それだけでかいのである。

わたしも履いてみた。

なかなかシュールな有り様である。

片方のブーツを、両足で履いてみた。

わたしの靴は、外形だが踵から爪先まで、二十七、八センチくらいはある。

お、お、お。

なんとか入り口を越えたところで、すっぽりと入った。

お、お、お。

やがて視界が斜めに傾いてきた。

両足はすっぽりと固定されたままである。

おっ、はっ、よっ、と。

朝の挨拶ではない。
わたわたと両手を開いて、はっしと着地する。

背後に人の気配がして振り向くと、幼い少年がうつむきがちにこちらを見ていたのである。

パタパタパタと背を向けて駆け出す。
そしてパパママの手を両手で引っ張りながら再び現れた。

「景色がいいじゃない」
「本当だ」

少年の手がほどけたパパママは額に手をかざして海を眺める。

ブーツからとうに脱出済みのわたしは、シャクシャクと会釈ですれ違い出ていったのである。

小走りで亀山社中跡に逃げ込み、ほとぼりさましに、念願の竜馬像へ。

これはどこへいってもそうなのだが、「だからなに?」といったものである。

竜馬が西郷どんならここは上野公園である。

しかし。

わたしには不思議な達成感がある。
ほぼ二十年越しの何かが、わたしの延髄をぬらりと撫でる。

竜馬の尻を記念にパシャリと撮り、丘をおりはじめる。
丘ではない、ここは山である。
この辺りの方々が自転車にあまり乗らないという話は聞いていたが、あまり、では絶対にすまないはずである。

斜面にこしらえられた墓地を抜ける道だが、これはどうみても墓参のためだけの道である。

花を換えたり草むしりしている婆様の姿がたまに見えるくらいである。
まだ朝の時間帯である。
この坂を、段々を、下りきれば、朝飯である。

段を落ちてゆく足も勢いをましてゆく。

店はもう、決めてある。
開店時刻にはまだ余裕があるが、食欲にそれがなさそうである。

足が止まらない。
とっとっとっ、と急な段々を落ちてゆくようである。

開店時刻前に店の前に並んで待つなど、とんでもない。

学生時代のパチンコ屋以来になってしまう。

けっして並んで待ったりなどしないぞ、と固く固く誓いながら、それでもまだ早すぎる到着に向かって、わたしの足は止まらなかったのである。



2012年05月07日(月) 長い崎に向かうモノ

九州は佐賀県の高速道路・金立サービスエリア。

熊本から長崎へ向かう途中、車中泊する場所に決めたサービスエリアである。

「シシリアンライス」と「焼きたてメロンパン」で腹がくちくなり、用を足してからさあ眠ろうかとした矢先であった。

「あのう、すみません」

男が、声をかけてきたのである。

「長崎方面で、乗せていってくれる方を探しているのですが」

ヒッチハイクである。

ここは高速道路の下り線で、終点は長崎である。

「途中までで構いませんから」

途中には、パーキングエリアがふたつあるだけである。
あとはそのまま長崎にゆくのがごく自然である。

ヒョコリと、彼の背後から顔を出した女性がいた。
背が小さく、わたしよりも小さいのだから、中学生になったばかりかと思うような、かわいらしい女子、である。

どうやらふたりで、ここまでヒッチハイクしてやってきたらしい。

なんとも珍しい。

ふたりはまるで、駆け落ちの最中、のような感じにも見える。

わたしは今から眠って朝になってから出発するのでお応えすることはできない、とお断りした。

「そうですか。すみませんでした」

ぺこりと頭を下げ、違うひとのところに、またお願いの声をかけてゆく。

ときにはふたり一緒に、また別々に、乗せていってくれるひとを探し続けている。

わたしはカップ式の珈琲の自販機で珈琲を買って、ひんやりと涼しい風が吹くなかでほっとひと息つくことにしたのであった。

自販機の珈琲が、三百円弱也。

なぬ。高過ぎではないか。

ここは水すら貴重な山中か、はたまた銀座のど真ん中の最上階か。

どうやら豆を挽くところから始まり、じっくりドリップしてくれる仕組みになっているのである。

「出来上がりまで約二分間、お待ちください」

液晶画面に断られ、はい待ちます、とわたしは鷹揚にうなずく。

「ワン、ツー、スリー、フォー!」

チャラッチャッチャ、チャラッチャッチャ。

「アイウォンチュ〜♪」

大島優子のかけ声と共に、音楽が流れ始めたのである。

深夜十一時の自販機から流れるAKB48。

寝ぼけまなこでゴシゴシしていた女の子が、パパの抱っこの中から目をしばたかせる。

いや、まあ、なるほど。
こんなサービスで時間を紛らわしてくれようとは、驚きである。

ヘビィ〜イ〜、ロ〜ォ〜テ〜ェ〜。

「ピ、ピーッ、ピーッ、ピーッ」

「出来上がりました」の文字が、取り出し口に点滅している。

なんと素敵なタイミングだろう。

「ショ〜ン」と口ずさむつもりの口から、「ショ〜きたか」と苦笑いながら出来立てらしき珈琲を取り出す。

うむ、まあ、自販機の珈琲ではない、珈琲である。

両手で包むように持ち、フーフーしながら、ズズズと吸う。

向こうではさっきの男女が、まだまだ声をかけ続けている。

まさに「非日常」である。

旅なのだからそれは当たり前である。
しかし、ひとりだとそれはただ「移動」してるにすぎず、電車に乗って品川にゆき、また上野に帰ってくるのが、場所が変わっているだけのような錯覚に陥るのである。

ぶるる、と首を振る。

九州新幹線で弁当ふたつを平らげたのも。
霧島で霧と雨に包まれ、火山で大回りさせられたのも。
真夜中の通潤橋でひとり豪雨に打たれ、早朝の橋の真ん中で万歳をしたのも。
高千穂峡で地球の神秘と神々の物語を目の当たりにしのも。
熊本城で「ようく帰ってきんさった!」と武将に出迎えられたのも。

間違いなく、わたしの日常の一部として、昨日までにあったばかりの現実の出来事である。

翌朝、売店すらまだ開店していない時間に、サービスエリアを出る。
昨夜のヒッチハイクをしていた男女の姿はあたりに見当たらなかった。
乗っけてくれる方が見つかったのか、はたまたヒッチハイクのふたりはハナから存在などしていなかったのか。

反芻しているうちに、長崎市内に着いた。

おっと、ここからは急いで坂本さあの足跡を辿らんといかんき。

今日は、長崎から福岡に戻り、帰りの夜行バスに乗らなければならないのである。

待っちょれ。
いや逃げはせんが。

友とかつてきたときにはゆかんかった坂本さあの像に、二十年ちかくの歳月を超えて。



2012年05月06日(日) 夜に呼び止めるモノ

熊本から長崎へ向かう高速道路の最後になるサービスエリア。

パーキングエリアならばあともうふたつほどあったのだが、パーキングエリアだと自販機がメインになってしまう。

フードコートやレストランでこそ、ご当地グルメを食したいものである。

しかし、いけない。

やはり「お八つ」としての「熊本ラーメン」では、小腹がしくしくと飢えを訴えはじめたのである。

渋滞の気配もニュースも、ない。
ならば途中のサービスエリアにちょくちょく寄っても問題はない。

そういえば、ソフトクリームを食べ損ねていたのである。

熊本城で天守閣をふたつ堪能し、しばし涼と休憩を取ろうとしたのである。
なかなかの好天で、まさに、ソフトクリーム日和だったのである。

しかし、ジェラートやカップアイスは見かけども、ソフトクリームが見当たらない。

城外も回りたく、昼食のことも考えなければならない。

土産物屋から出てくるひとらが手にしてるのは、皆、ジェラートばかりだったのである。

武士は食わねど高楊枝。

わたしが食いたいのは「ソフトクリーム」だったのである。

わたしの胃袋も、咽喉も、舌も、そろってすっかり「ソフトクリーム」になっていたのである。

そこに、ジェラートやらカップアイスやらが入り込むつもりも、油断も隙もないのである。

そうしてすっかりソフトクリーム腹になりきっていたまま、ついにそれを満たす機会なくラーメンをすすり、熊本を後にしてきていたのである。

高速道路のサービスエリアとくれば、ソフトクリームに困ることはない。

おお。
塩バニラソフトクリーム。

隣に名産である何樫という果物を使ったソフトクリームがあったのだが、もはやわたしの眼には入らない。

ソフトクリームといえば「バニラ」である。

そして「塩」こそが「本来の甘味」を際立たせるのである。

であるから、我が家では、

スイカに塩。
目玉焼きにも塩。

なのである。
これだけは、譲れない。

ちょくちょくサービスエリアに寄りながら、日も暮れてちょうどよい時刻に、車中泊予定の金立に着いた。

レストランが閉店してしまう前に食事を済ませなければならない。

鹿児島の霧島で黒豚を、宮崎の高千穂ではチキン南蛮を、熊本では熊本ラーメンを食した。

熊本の馬刺は、実は帰りの福岡でリベンジできるかもしれない。熊本の有名店が店を福岡に出しているのである。

宮崎のチキン南蛮は、「ムネ肉派」と「モモ肉派」があるらしいが、高千穂の店は「ムネ肉派」の甘酢ソースという馴染みのあるチキン南蛮であった。

「モモ肉」のチキン南蛮は、どうやら宮崎県の南部に多いらしい。

しかし、今、目の前のメニュー写真に写っているチキン南蛮がある。

タルタルソースが乗っている。

その隣には、長崎名物「トルコライス」が並んでいたのである。
「トルコライス」は、明日長崎に着いてからのお楽しみにしていたのだが、目の前にしてみると、なかなかの誘惑である。

視線をぐいとそらし、誘惑と戦ってみる。
その視線の先に、「シシリアンライス」なるものが飛び込んできたのである。

「トルコ」に「シシリアン」である。

「シシリアン」が、黒スーツでマシンガンを片手に葉巻をくゆらせて、わたしをサングラス越しに見ている。

わたしの胃袋はすでに蜂の巣にされていた。

簡単に説明すると、熱々のライスの上に冷や々々のシーザーサラダのようなものがどどんと乗せられていて、わしゃ々々々とかき混ぜてから食べるのである。

これは、美味である。

スプーンが止まらない。

止まらない勢いに、わたしはサジを投げることにした。

本来ならば、ようく咀嚼し、味わい、「くうぅ」だのと吠えて堪能するところなのだが、スプーンを運ぶ手が止まらないのである。

もはやひと噛みふた噛みの後ごっくん、そしてすでにもう次が口中に運び込まれている次第である。
ちょっとした交通渋滞である。

ややもすれば飲み込むのすら待たずに押し入ろうとする。

ようやくひと心地ついてきて、じんわり味わおうと思った頃には時すでに遅し。

盛られていたはずの皿が、ピカピカと白く明るく光っていたのである。

カイ、カン。

許されるならば、おかわりをしたい。

いやしかし、それはダンディズムにそぐわない。

ごちそうになったな。

紙ナプキンで乱暴に口の周りをぬぐい、それをこれまた雑にクシュクシュと丸めて皿の上に転がす。
するとシニカルな微笑みをたたえ、わたしは席を立つことに成功したのである。

しかし、次の追っ手が、間髪を入れずにわたしの目の前に現れたのである。

閉店間際のベーカリーコーナーで、メロンパン二個セットの安売りが始まっていたのである。

薄みどりに果汁を彷彿とさせる衣が、艶かしく、甘美なまでにたわわになっている。

レディが微笑んでいるのを袖にするのは、男の風上にも置けない。

さかえのレナさんほどではないが、メロンパンはわたしの好物でもある。

わたしは比較的スマートにそのメロンパンたちを腕に抱き締め、キャッシュを払ったのであった。

これは夜食、もしくは明日のおめざであると言い聞かせたのもつかの間、車に戻った瞬間、ガサガサと袋から取り出し、パクりと。

うまぁい。

サービスエリアの駐車場で、施設側の窓ガラスは既に目隠し済みである。

存分に、むさぼる。

吸いとられた唾液をうめるように途中水を飲みながら、あっという間である。

思っていたよりも涼しく、ぶるっと用をもよおしてきたので車をおりる。
お土産とスナックコーナーはまだ開いているので、ひともまだまだ多い。

用を足して出てきたときだった。

油断していた。

やおら、わたしは声をかけられたのである。

「あのう、すみません」

コールマンのウエストバッグのベルトを、よいしょと両手でずりあげて絞め直そうとしていたところだったのである。



2012年05月05日(土) 城に奪われしモノ、還らぬモノ

「よく帰ってきんさった!」

何樫門とかいう最初の入口をくぐった先で、いきなりの大声で迎えられたのである。

「ありがとさんじゃ!」

ハチマキに甲冑、手には槍を掲げ、よっく焼けて真っ黒な肌に白い歯がニカッと。

要所要所の広場で、彼らはわたしを出迎えてくれたのである。

うむ、帰ってきたぜよ。
おまんらこそ、よう出迎えてくれたがあ、わしはまっこと嬉しいぜよ。

熱く強く激しく肩を抱き合い、がっはっはっ、と彼らと出会う度、わたしは応える。

本当に抱き合って笑い合ってみてもよかったのだが、きゃっきゃと彼らにまとわりつこうとする小僧たちに、それは申し訳ない。

しかし、彼らを見かける度、

ここは東京ドームかラクーアか?

という親しみ深さが湧いてくるのである。

「こっちにも一枚!」
「応っ!」

カシャリ。

なかなか頼もしい武士(もののふ)らである。

武士らに片っぱしにカメラに向かって見栄を切ってもらってるどころではない。

天守閣がわたしを待っているのである。
急ぐ足に、熊本城を設計した加藤清正の防衛の知恵ももろともしない。

城は、素晴らしい。

ひとりでずんずんと、天守閣にたどり着くのが、早い。

隣の小天守閣にも上って、ぐるぐる巡って、眺めて、覗いて、またぞろ武士らがいる城前広場に出てきたときは、ほくほく顔である。

次は案内図にある散策ルートをぐるりと回りはじめる。

石垣だ櫓だ城門だとルートを巡っているうちに、はたと気がついたのである。

昼の二時を回ろうとしているではないか。

ランチは?
馬刺定食は?
溶岩焼御膳は?

慌て焦るわたしに、清正の手が伸び絡みつく。

市街への城門はどちらだ。
くそう、なぜ迂回している。
近道はないのか!
近習のものよ、出合え出合えい!
早くわたしをあないせい!

もちろん自力で、熊本市役所のあたりにようようたどり着くのに、三十分かかってしまったのである。

軒並みランチタイムを終え、準備中の札が掲げられている。
夕方には熊本市街を出て、長崎に向かう予定である。

熊本名物を食わねば気が済まない。

背に腹はかえられない。
苦渋の選択である。

ラーメン屋に、ゆけ。

これはわたしのつまらない拘りである。

ラーメンは、「食事の一食」として、食わない。

ラーメン一杯に千円も出してたまるか。

ラーメンとは、ワンコイン程度で旨くあるべきもの。

時代遅れ、的外れなのは重々承知である。
しかし、敬愛する内田百ケン先生の拘りがごとく、どうしても譲れない。

「これは、お八つである」
「餃子を付けて、これでラーメンは主役ではなくなった」

などと言い訳をつける。

くぐった暖簾には「こむらさき」と書いてあった。
後で知ったが、どうやら「熊本ラーメン」の老舗で、くせのない王道ラーメンの店だったらしい。

そんなこととは露知らず、ふらりと入ったつもりの店である。

そこで目を奪われたのは、品書きの「王様ラーメン」である。

なんとも妖しい名前である。

王様とやらにまともなのがあった試しがない。
王様でまともなのは、デカ盛りを表すときぐらいである。

しかし、わたしはついさっきまで「熊本城」の城主の気分を味わってきたばかりである。

「なんと、しっくりくる名前だろう」と、迷うことなく「王様ラーメン」を注文したのであった。

一口サイズの餃子がまずは平らげられ、ぞぞぞ、とラーメンをすすり上げる。

久しぶりのラーメンである。

四九三のライブの帰りに、衝動的にセンター街の天下一品で「こってり」を食って以来である。

「思わずだらしなくなる」ほどの旨さではなかったが、なるほど、王道のラーメンである。

味噌ラーメンの次に、豚骨ラーメンは好きである。

そうして、やはり有名店だったからか、次々と後のお客が「王様ラーメン」を注文していたのである。

やがて店内がせせこましくなりつつあったので、わたしも勘定を済ませて出ることにしたのである。

腹八分といったところだろうか。

わたしにすれば、珍しいことである。
しかし、後でちょいちょいつまめるぐらいの腹具合が、ちょうどよい。

今夜は、長崎に向かう途中のサービスエリアで一泊する予定である。

車中泊の二泊目である。

車中泊の情報に、「出来るなら連泊はやめましょう」とあったのである。

「車中で連泊して、運転や旅の疲れを解消しきれずに引きずってしまうのはよくありません。
安全と快適な旅のために、あくまでも宿に泊まることをメインとして、車中泊は適度にしましょう」

ごもっともである。
ましてや、わたしはまだまだシロウトである。

嵐の通潤橋での一泊は、そんなわたしに対する、まさに洗礼だったのかもしれない。
しかしそれでも、ぐっすり眠れたのである。

今夜は高速道路のサービスエリアである。

二十四時間、店も人も車も出入りしているので、なんの不安要素もないはずである。

しかもちゃんと、連泊もしてない。

どんなつまみ食いができるか、ただただ楽しみでいっぱいである。

握るハンドルも、浮かれて落ち着かないくらいであった。



2012年05月04日(金) 朝をテラスもの

高千穂峡から熊本市街へ今夜の早いうちに移動し、宿に入らなければならない。

車案内によるとおよそ三時間かかるらしい。

夜八時頃には着けるだろうと見当をつけ、高速道路のサービス・パーキングエリアに寄り道しながら、のどかにハンドルを握る。

天気はもう、すっかり上り坂のようである。

窓に飛び散る雨垂れもない。

これがもう二日ばかし早ければ、と残念に思う。
雨が降っていなくても、霧島の火山活動は変わらず活発であっただろう。
雨で増水してなければ、真名井の滝で船を借りるか散々悩み、迷走暴走していたかもしれない。

それを考えれば、過ぎたるは及ばざるが如し、である。

さて本来なら、熊本となれば阿蘇山の「草千里ヶ浜」を明るいうちに眺めにゆこうと思っていたのである。

できたら道の駅・阿蘇に車中泊して朝の清々しい空気と景色でも堪能しようではないかと。

またカドリー・ドミニオンでヘリを借りて、カルデラを見下ろしてみるのも一興かと。

もちろんそれは、桜のエヴァ娘がそうしたように、である。

しかし、男は「城」である。

ふと思い立ってしまったのである。
どうやらわたしは、神社から仏閣へと興味をうつさず、そちらに枝葉を広げようとしているようである。

宿をとるとき、

「熊本城が目の前」

という言葉に、衝動を乗っ取られてしまった。

なにせ熊本城は、夜間は照明に照らし出されている。

ああ、なんと雄々しき姿だろう。
明日は午前たっぷりと時間をかけてまわってやる。

宿は本当に、熊本城の真横だったのである。

独り占めの満足感が、なぜだか胸に穴が開いたような、ピュウピュウという風音を強く反響させる。

これは気管支炎かぜんそくか。

吐く息が白っぽくけぶってないから、きっと大丈夫だろう。

寝て起きて朝になったら、きっとなんでもないに決まっている。
熊本の夜に浮かび上がる熊本城を、ぐるっと外周をまわってみる。
宿のボウイに、周辺の店案内図をあるだけ全部渡され、ポケットにねじ込んで出てきたままであった。

熊本といえば、馬刺である。
馬刺といえば、酒である。
酒といえば、下戸である。

時間は既に十時を回っている。
そんな時間なので、開いてる店は下戸のわたしにとってなかなか敷居が高いのである。

よし。
明日のランチタイムに狙おう。

そう決めたのである。

そして、翌日の朝食は宿の食堂であった。
それがまた、遮るものなく、熊本城が目の前に見えてしまうのであった。

隣テーブルの女子が、きゃあきゃあ感激の声をあげて、うんうんと男子も激しくうなずいていたのである。

わたしは、ひとりである。

しかも、ビュッフェ形式の罠にはまり、なんとも珍妙な取り合わせで山盛りになった皿を前に向き合っていたところであった。

見事な和洋折衷。

後でまた取りに行けばよいだろうにとわかっていても、つい食材たちの色目に負け、ごちゃごちゃになってしまうのである。

これは、見た目がなかなか恥ずかしい有り様である。

もしも、隣テーブルの恋人たちが

「写真撮ってもらってもいいですか?」

と頼んできたら問題である。

急いでスクランブルエッグとベーコンとウインナーを口に詰め込む。
早く皿の上を芋の煮物と揚げだし豆腐とひじきだけにしなければならない。

なぜなら、主食に納豆ご飯をしっかりよそっていたからである。
すっかり和食の様相へと変えてしまう。

しかし飲み物は珈琲である。
それはよしとしよう。

そうして準備万端のわたしであったが、彼らはそんなひとりのあやしいテーブルに座るわたしに気を使ったようで、写真の催促をしたいようでしかし我慢してくれたようであった。

食堂からテラスに出られるので、食後にわたしはさっさと出てみたのである。

おお。
素晴らしい。

何が素晴らしいのかまではわからないが、とにかく素晴らしい眺めであった。
しっかり堪能してテラスから室内に戻ろうとすると、隣テーブルだった恋人たちとバッチリ間が合ってしまった。

明らかに急ぐ様子もなく中に戻ろうとするわたしと、自分たち撮りをひと通り済ませたらしい彼らと、他には誰もテラスにはいなくなっていたのである。

ああ、城をバックに仲睦まじく寄り添うふたりをファインダーにおさめるわたし。

という具体的な想像までして覚悟を決めたのである。

彼と、パタリと目が合った。

ペコッと軽く会釈をすると、彼も同じようにペコッと軽く会釈を返してきた。

わたしは「さあ、来るならこい。きっちり納めてやるぞ」というつもりだったのである。
しかし彼はどうやら、
「また一緒になっちゃいましたね」
「いえいえどういたしまして」
「人前でベタベタして不快な思いをさせたりしませんから安心してください」
「食事中のおふたりの会話も、なかなか節度と礼節を守ったものてのご様子」
「いえいえ、どうしてどうして」
「では、わたしはお先に。おふたりはどうかごゆっくり。ごきげんよう」
「ごきげんよう」

と交わしたつもりか、つい、と城に目を移したのである。

熊本城の朝は、なかなか清々しい気持ちを味わわせてくれた。

これから荷物をまとめて部屋を引き払わねばならないという慌ただしさではあるのだが、清涼な風がそんな有象無象を吹き払ってくれた。

ようし、時は来た。
いざ、本丸へ。



2012年05月03日(木) 神々ノ群ガリシ場所。積ンダ石

わたしは存分に、高千穂峡を歩き回る。

そうしてまた、どうやら調子に乗りすぎたのである。

高千穂神社までを遊歩道をたどってしまったのである。
それがまた、予想外の険しさである。

たしかに距離は長くはない。
が、険しいのである。

熊野古道の最大の難所「大雲取越」並みなのである。

覚悟しての険しさならなんてことはない。

「遊歩道かよ。どうする? やめようぜ」
「行ってみようよ。大自然で癒しになるって、きっと」

入口で恋人たちが肘をつつき合っていたのを横目に、ズンズンわたしは歩んできたのである。

その恋人たちは、どうやら彼女の意思を尊重し、わたしの少しあとに付いてきていたようであった。

しかし、ズンズン歩いてきたわたしとはかなり距離があいたのであろう。

声も姿も気配も見当たらない。

ふっふっふっ。
苦しめ。
悔やめ。
甘く生易しいものではないのだ。
自然というものは!

神々の住まう高千穂で、八つ当たりとはいえ、わたしはなんと醜悪なことを思ってしまったのだろうか。

もはやあまりのはずかしさに、世間から姿を隠してしまいたいくらいである。

そうだ。
ここには「天岩戸」がある。

アマテラスがスサノオに恐怖し逃げ込み、引きこもった穴である。

しまった。
またなんとバチあたりな物言いだろう。

言い直そう。

アマテラスがスサノオの乱暴にお心を悩ませ、お隠れになった場所である。

そして、隠れてしまったアマテラスをどうやって引っ張りだそうか、と神々が角突き合わせてああでもないこうでもない、とたむろした「天安河原(アマノヤスガワラ)」という河原が、ある。

天岩戸は、天岩戸神社にあり、岩戸は聖域として、宮司も含め、何人たりとも立ち入りを禁ず、とされているのである。

岩戸は神社で申込み、軽くお清めのお祓いをしてもらわなければ見学ができない。

まあ、申込みさえすれば二十分くらいの無料ガイドと同じようなもので見学することができるのである。

そのガイドの中で、立ち入り禁止のお話を伺えるのである。

「立ち入り禁止だから、風化や崩落するがままにされています」

とのことであった。

ポッカリと開いた、岩戸が塞いでいただろう穴は、覆い被さる木々の葉の向こうにしっかりと見えた。

塞いでいた岩戸は、こじ開けたタヂカラオによって遠くに投げ捨てられ、信濃の神社にあるらしい。

もとい、アマテラスを引っ張りだす方法を、ああでもないこうでもないと神々がより集まって頭を悩ませていたという「天安河原」は、天岩戸の対岸の少し上流にいったところにある。

大きくくぼんだ崖の下に小さな社があり、その周囲の川原は、辺り一面に大小様々に積まれた石がまさに敷き詰められているのである。

どうやら、なんの脈絡があるのかわからないが、願い事を込めて石を積むとよいらしい。

しかし、辺りの石は軒並み全て既に使い尽くされ、手頃な石など見当たらない。

人様が積んだ石から拝借するしかない。

まさにそういう状況だったのである。

しかしわたしは、そうしなかった。

当たり前である。

ひとり川原にしゃがみこみ、明らかに積み石ではない石ころをひとつずつ、探してまわる。

河原とはいえ、広くはない。
広くはない川原は、社を参拝するための細い通路以外は石積でまともに歩くこともできない。

その通路は、参拝客たちで大行列である。

そこまでして石を積もうとは、大体の者は思わずに参拝がすめばすなわちすぐに退散してゆく。

そんななか、わたしは奇異に見られようがかまわずと、淡々と石を探し、選び、三つほど集めたのである。

たった三つ、具合がよさそうなのだけでも、十分くらいはかかったのである。

その間ずっと、衆目にその背をさらしていたのである。

清々しささえ感じながら、これでようやくわたしは高千穂峡を後にすることができる、と車に乗り込み、今夜の宿がある熊本を目指したのである。



2012年05月02日(水) 雨ニ阻マレシモノ

「通潤橋」に着いたのは、夜九時を過ぎた頃であった。
店舗施設は閉店時刻をとうに過ぎており、従って当然のごとく辺りは真っ暗である。

激しい雨、雨、雨。

駐車場にはミニバン、ワゴンの数台が既に泊中のようで、辺りはただ雨が車を叩く音しかしない。
動くものといえば、わたしの車だけである。

激しく叩く雨音の静寂を破らぬように、そろそろと車を停車する。

「通潤橋」の道の駅は、事前に車中泊にお勧めの道の駅ということで調べてあったひとつだったのである。

しかし様子がおかしい。
こんなにうすら不気味なはずがない。

そうか、それもこれもこの激しい雨のせいである。

不気味さを払拭しようと、それでも灯りが外へだだ漏れしないようにLEDランプを慎重に点けると、ぼうっと白っぽい球が車内に現れた。

さあ、楽しい工作の時間だ。

手早く片付けなければならない。
早速、わたしはアルミシートを出し、窓の幅にナイフで切り分けるけ、それを両側の窓に張り付ける。

寝床は後ろの席である。
フロント用のサンシェードを後ろのガラスに張り付けると、これで三方の目隠しが完成である。

なぜ車内の三方だけなのか。

アルミシートなどで四方を完全に目隠ししてしまうと、不審車と思われて警らのお巡りさんに注意されてしまう恐れがあるからである。

次に前席のシートを立てて揃え、ワイヤー付きのクリップを渡してバスタオルを暖簾代わりにぶら下げれば完成である。

ふわっはっはぁっ。

すぐさま横になり、天井を見上げながら腕組み高笑う。

最後の「ぁっ」の余韻が虚空に吸い込まれてゆく。
たちどころに、地上のあらゆるものを叩きつける雨音の濁流にわたしはひとり飲み込まれた。

パソコンを点けると、やはりぼうっと白っぽく照らし出される。

気を紛らせるつもりで明日の予定を確かめようとしたのだが、どうしても、むずむずと肝が落ち着かないのである。

「ブル、ブルン」

突如キャンピングカーの一団が、エンジンを始動させたのである。

「プ、プッ」

ご丁寧に、控え目ながらもクラクション一笛、夜闇を走り去っていったのである。

残されたのは、わたしの他に一台のワゴンのみ。

動悸が激しくなってゆく。

なぜ、敢えての警笛。

まさか、この豪雨で川が増水し、注意報でも出たのか。

いや待て。通潤橋は街のすぐそばにある。
近隣の住民が、もっと騒がしくなるはずだ。

あちらのワゴンは、そういえば中にひとがいただろうか。
無人ではなかったか。

建物の中にいる住民と、なにもない駐車場の車の中のわたしを一緒にしてはならないのではなかろうか。

雨が吹き込んだのか、じっとりとうなじが濡れてしまったようである。

違った。

汗だった。

こんなときにわたしが選ぶのは、

「えい、寝てしまえ」

である。
寝て、起きたら結果がわかる。

「下手な考え、休むに似たり」

である。

そして、雨で視界などなきに等しい外部のことをことさらに考えるのはやめるべきである。

わからないものは、決してわからないのである。

そうしてわたしは、暗闇に目を閉じる。

雨は降り続く。
そして、朝は来る。



さあ。
通潤橋の朝である。

雨はすっかりやんでいる。

道の駅に朝がきた。
わたしにも朝がきた。

明るくなってはじめてわかったが、わたしがいた駐車場にはもう一台キャンピングカーが泊まっていたのである。

どうやらわたしが寝たあとに、やってきたらしい。

朝六時過ぎ。
わたしの目覚ましが、平日に鳴りはじめる時間である。
しかし道の駅の開店時間はまだまだ先である。

そしてもうひとつの駐車場には、なんと三四台ほどの車中泊がいたのである。

バーナーで湯を沸かし、優雅に朝の珈琲をたしなんでいる者もいる。

目の前には「通潤橋」。

教科書にも載っていたあの「通潤橋」である。

朝早い時間なので、観光客の姿もない。
しかし見学は自由らしい。

ずかずかとわたしは橋の下に近付く。

石の建築は、美しい。

そしてどうやら橋の上に上がれる小路を見つけ、これはゆかずにおられるものかと上がってみたのである。

「橋の上は舗装工事をしておりません。すべったりつまずいたりしないよう、十分、ご注意ください」

なんとワイルドな。

踵のある靴を履いた女性は、どうか上らぬよう促したい。

手摺もなにもない。
ふざけあいでもしたら。

「わっ!」
「うわっ……」
「ふふふ、おどろいた?」
(わぁぁぁ……)

即落下である。

どうか、甘い恋人たちもその戯れは差し控えてもらいたい。

しかしわたしは、早朝、ひとり橋の真ん中に立ったのである。

誰も、注意を払っていない。
両手を広げ、天を仰ぐ。

ふうぅ……。

独り占めである。

なかなか、美しい。
気分がよい。
昨夜の心配は、小心者がなす杞憂であった。

雨はもう通り過ぎた。

いざ、高千穂峡へ。

高千穂峡は高千穂峰のついでに行くかやめとくかくらいで、本来の目的地としては重要視してなかったのである。

立ち寄れたら、くらいのつもりだったのだが肝心の高千穂峰が叶えられなかったので、「峰」が駄目なら「峡」に行こう、と安直な選択肢を選んだのである。

ついでに、国見ヶ丘も行ってみたい。

雲海の絶景が有名なところである。

知識を知らぬと誤解されぬよう付け加えておこう。

雲海の絶景とは、前日の気温差等の絶妙な環境条件が揃ってはじめて、盆地に雲がたまって雲海となるのである。

だいたいが秋に、それらの条件がたまたま重なることがあるくらいで、初夏のこの時期に見られるはずがないのである。

ましてや前日は朝方までの大雨である。

見られるわけがない。

であるから、万が一もない可能性のために夜中のうちに高千穂は国見ヶ丘までたどり着き、明け方をそこで迎えてみようとは思わなかったのである。

まずは高千穂峡の道の駅へ行き、ガイドマップをわけてもらう。

国見ヶ丘、高千穂峡、高千穂神社をぐるっとまわっても、夕方前に熊本市街へ向けて十分に出発できそうである。

国見ヶ丘は、なかなかの景色であった。

それ以上に、茶屋のおかみさんが、とてもよいひとであった。
お茶を出してもらい、しばらく高千穂の「夜神楽」や、もちろん雲海のことも、すっかり話し込ませていただいた。

今度是非、夜神楽を観に来てみてくださいな。

なるほど、今度は高千穂峡と夜神楽をセットで観にくるとしよう。

さて高千穂峡だが、ここは地質的にも非常に面白い。
断層が水平と垂直に重なっているのがよく見えるのである。

それだけではない。

自然の力だけによって削り出された神秘的かつ美しい峡谷が、圧倒的なまでに堪能できるのである。

峡谷の先に「真名井の滝」というひとすじの滝があり、船を借りてその下までゆけるのである。

せっかく高千穂峡までゆくのだから、ようしわたしも船を借りてみようか。
同乗者はなし。
ひとりで、漕いで、えっちらおっちらと。

想像だに恐ろしい光景である。
入水自殺でもするつもりか。

しかし。

煩悶しつつ、現地に着いてみると、

「大雨で増水しているため、船は受付を中止しております」

との案内が出ていたのである。

やはり、わたしは何かを持っているようである。

すべからくがなるべくしてなっているかのようである。

なるほど、岩の裂け目のようなところを奔流がゴウゴウと音を鳴らしている。
見つめていると、吸い込まれてしまいそうである。

ひとり船の地獄絵図を神々の計らいでまぬがれたわたしは、遊歩道で滝の先を目指し、着いた茶屋で焼き団子をいただく。

体力が回復したら、さあ、復路である。

ここもひとりでなくなったら、またそのときにおいでなさい。

まるでそう言われ続けているようである。

余計なお世話である。

ひとりだからこそ、勢い気儘にこうしてやってこれたのである。
でなければ、こんな神社ばかりを回って歩く旅など、誰が付き合おうというのか。

さあ、引き返して高千穂神社である。

わたしは、気儘に、ズンズン歩き出す。



2012年05月01日(火) 霧ノ中で猛ル大地と山ニ阻マレシモノ

鹿児島の霧島温泉は、坂本龍馬が妻のお龍さんと新婚旅行で訪れた場所である。

そして同じく新婚旅行で訪れた高千穂峰には天逆鉾(アメノサカホコ)がある。

大国主命(オオクニヌシノミコト)から邇邇芸命(ニニギノミコト)に譲り渡されて国家平定に役立てられ、平定後、ふたたび国家が乱れて矛が振るわれぬようにとの願いを込められ、突き立てられた、との伝説がある。

それを、

なんとも面白い形をしゆうがじゃ。
ちっくと、抜いてみるがぁ。
ほれ、お龍、ぼさっとしとらんと、手伝うぜよ。

と、引っこ抜いてしまったのである。

ありゃ、これはマズイぜよ。
誰かに叱られる前に元に戻さんといかんがぁ。

慌てて元に戻したらしい、との話は有名である。

国家平定の象徴である矛を、坂本龍馬がふたたび突き立て直したということが、明治維新の立役者である坂本龍馬の逸話としてこれ以上ふさわしい話はない、と語られることとなったのである。

高知の坂本龍馬記念館に、姉宛の手紙に絵付きでこの様子を書いたものが展示されている。
それを見て、これは是非とも行ってみたいと思っていたのである。

そこでわたしの九州縦断はこの高千穂峰を第一に、エヴァ娘の旅とは逆の鹿児島から北上する順路を選んだのである。

宿を出発し、車に乗り込む。
車案内を、慣れない手つきで設定してゆく。

霧島神宮から高千穂河原へ。

高千穂河原から、高千穂峰に向かうのである。

その前に、今夜必要な機材を、買い揃えに行かなければならない。

高千穂峰の後は、高千穂峡に向かう予定なのである。
高千穂峡は、宮崎県の北部である。

鹿児島と宮崎の県境から、一気に宮崎県を縦断しなければならない。

その途中、わたしは車中泊をすることに決めていたのである。

よい地理の街に宿が取れなかったのもあるが、初夏の大自然の夜に瞬く星々を見上げながら眠るのも一興、と思っていたのである。

車中泊用に改造した自家用車ではなく、ましてやキャンピングカーなどではない。

カローラ・レンタカー・セダンである。

車中泊なりのマナーと快適さを守るために、最低限必要なものがあるのである。

何より、就寝時の目隠し。

百円均一に乗り付け、フロント用のサンシェードと、サイド用にアルミシートを購入する。
アルミシートをサイドガラスに固定するための突っ張り棒と、うまく使えるかもしれないワイヤー付きのカーテンクリップがあったので、それも入れておく。

百円というのは、とりあえず、ということに関してとても加減がよい。

そうして準備万端、車案内に従って霧島神社へと向かったのである。

天気は、悪くなかった。

快晴ではないが、快晴だと逆に暑さと眩しさに参ってしまうので、なかなか素晴らしく相応しい晴れ具合だったのである。

しかとお参りし、くじをひくか御守りを買うか思案していると、「九面守」というものを見つけたのである。

なんと色違いの九つの天狗の面が根付けになっているのである。
全て揃えると大層縁起がよいらしい。

ひとつが六七百円程度なので、九つ一度に買うことだってできてしまう。

各色に意味があるらしい。

健康に開運、厄除け、心眼成就、縁結び。

縁結び。

縁結びは、阿吽の二対で一組となるらしい。

ここはいっそ、九つ全てを買ってしまおうか。

いや。

それはいやしい、あさましいというものだ。

しかし、また何度もこの霧島に来ることがあるだろうか。

「これ下さい」
「お納めいただきありがとうございます」

と、腕組み黙考にふけ、びくともしないわたしの横を入れ代わり立ち代わり何度もやり取りが交わされてゆく。

くわっ。

まなこを広げ、ついにわたしは腕を解いた。

「こちらの何樫は、斯々然々の妙でしょうか」
「その通りで御座います」
「では、それを」

余計な煩悩を払うのに、随分と時間がかかってしまった。

天狗も大笑いにちがいない。

霧島神宮は、元は高千穂峰の頂上にあり、噴火を避けながら現在の場所に移ってきた山岳信仰に端を発している。

であるから天狗なのである。

山頂の天乃逆鉾のは、天狗の面が背中合わせになった形をしているらしい。

是非ともこの目で確かめたい。

急いで霧島神宮を後にして、神宮があった高千穂河原へと向かう。高千穂河原に高千穂峰への登山口があるのである。

その前に昼飯の黒豚とんかつ定食をいただき、登山に必要な体力を回復させる。

陽が薄くなりはじめ、まさに山登りにはうってつけの具合である。

わたしはやはり何かを持っている。

そう確信に変わっていったのであった。

ああ。
ひととはかくも容易く、愚かにも分を忘れて図に乗る生き物なのだろうか。

図に乗り、のぼせ上がったわたしの頭を冷まさせるために、霧島の神々はわたしを車ごと、冷たい霧に包んでしまわれたのである。

高千穂河原に着いた頃には、辺り一面真っ白、である。
さらに、ポツポツと雨滴が頬を叩きはじめた。

この様子では、登るのは難しいかもしれない。

いやしかし、わたしは何かを持っているはずである。
きっとなにがしかの手違いで登れるかもしれない。

なんとも諦めのわるい男である。

ところが。

「火山活動が活発化しているため、当分の間、入山を禁止します」

立札が、わたしの行方を阻んだのである。

ビュウゥゥゥ〜。
ザサァ〜。

一陣の風に煽られ、雨滴が激しく顔面を叩きつける。

霧が、いや雲が、次から次へと山から降りてきて、わたしをすり抜けてゆく。
わたしはしばし、雲とひとつになっていた。

「新燃岳の火山活動が活発化しているため、入山を当分の間禁止します」

辺りは真っ白、まさに五里霧中の真っ只中、わたしは沈思黙考にふけた。

ここは坂本龍馬が妻のお龍さんと新婚旅行に訪れた地である。
比べてわたしは今、ひとりで山に入ろうとしている。

なるほど。

これはきっと、山の神々がわたしに、「ふたりになったときにお越しなさい。今はまだ早い」と申しているに違いない。

ポンと手を打ち、わたしは登山口に背を向けることにしたのである。

雨宿りを兼ねて、ビジターセンターを覗いてみると、高千穂峰の山頂にある「天乃逆鉾」の様子が実寸大で再現展示されていたのである。

実際の山頂は、石積の山の頂部に「天乃逆鉾」が突き立てられていて、石積の山の周囲には進入禁止の綱が張られている。

離れたところから仰ぎ見るしかないのである。

ところがここは、手を伸ばせば「矛」に届いてしまう。

「プラスチックで再現したもので壊れやすくなっています」

との注意書もしてあるので、乗っかったり触れたりしないようにしなければならない。

「珍妙なる顔の様子に笑ってしまう」と龍馬が手紙に書いてある通り、なんともいえない様子なのである。

天狗の面が背中合わせになった柄なので、鼻がニュニュッと突き出しているのである。

これは誰しもがそこに手をかけて引っこ抜きたくなる。

注意書を守り、触れて引っこ抜きたい衝動を押さえて、わたしはビジターセンターを後にしたのである。

あと五分あの場にいたら、胸の前に抱えていたかもしれない。

なにせ、わたし以外にも高千穂河原にきた観光客の方もそこそこいたのだが、霧と雨に挫かれてビジターセンターを訪れるまでもなく退散していた様子だったのである。

館内には、ほぼ、わたしひとり。

あぶなかった。

サアサアと降りしきる雨の中、わたしは車に乗り込み、ハンドルを握る。
山道を抜けてやがて宮崎県を縦断するのである。

悪天候の山道は対向車もほとんどない。
心細くなった頃、数台連なってすれ違う。

高千穂峡の道の駅で、今夜は車中泊する予定だったのである。

高千穂峰を登らなかったので予定が早まっていた。
このままだと、夕方に着いてしまうかもしれない。

その心配は、無用だったのである。

いや寧ろ。

小一時間も一本道のここを抜ければ高速道路の入口に繋がる。

安心しきっていたのである。

すると、一枚また一枚と、なにやら不穏な中身が書いてあるような立て札が、後ろへと流れてゆくのに気が付いた。

もう一度言おう。

高千穂河原からここまでずっと、一本道である。

わたしはついに、車を停めざるをえなくなったのである。

「道路封鎖中」

バリケードの脇にあった旅館の駐車場に乗り入れる。

エンジンを切り、深呼吸をする。
目の前の立ち込める霧を眺める。

わたしは意を決し、車を降りる。

「そうです。ずっと戻って、ぐるっと回らなくちゃいけないんです」

旅館の方に、申し訳なさそうに、そして気の毒そうに、現実を告げられたのである。

「ずっと」というのは、これまできた道をまるまる戻らなければならないのである。

「国道交差点までは通行可」と書いてあったのである。

その国道は、先に通じてないそうなのである。

つまりは、この旅館とその国道を通らねば街に出られない方のために必要なところまでで、道は封鎖されていたのである。

ザザア。

ワイパーが往復ビンタより激しく左右する。
それでも雨滴の滝は視界を遮る。

山道を延々戻り、温泉街でぐるっと迂回し、高速道路で熊本まで北上。

車中泊予定の高千穂の道の駅到着予定時間は、深夜11時になるだろうと車案内が告げていた。

高速道路のサービスエリアなどなら別だが、道の駅にその時間は、あまりよろしくない。

道の駅に車中泊する者らが、アウトドアブーム、キャンプブームなどで増加しているのである。

自販機とトイレと駐車場以外は、大概が夜7時から8時で施設は閉まってしまう。

「道の駅」は、あくまでも「休憩施設」なのである。

仮眠の延長で車中泊させてもらい、施設もそれを受け入れてくれているだけなのである。

そこに。

キャンプ場ではないのに、駐車場にテーブルを出し、コンロで夕食の仕度をしたりするマナー違反が目立つようになっているらしい。

なにせ、車中泊の大概が指すところは「キャンピングカー」などによるもの、というところなのである。

子ども連れの家族、或いは熟年のご夫婦などが、宿や時間に縛られることなくのんびり気儘に旅をしよう、といったところである。

しかし、マナーは、守るべきである。

アイドリング、店舗施設が閉店時間を過ぎた真っ暗な夜間に煌々と車内灯の明かりをだだ放ち続ける。

駄目である。

ましてやわたしは、「トヨタ・レンタカー・セダン・ノーマル」である。

睡眠中の車内の目隠しの仕掛けをこしらえなければならない。
これはマナーだけに限らず、防犯と断熱などの最低限の環境確保に必要なのである。

ベッドが付いてるキャンピングカーなどではないのである。

うむ。
あまりにも向こう見ずだったかもしれない。

時間的に高千穂の道の駅までゆくのは諦め、途中の「通潤橋」で泊まることにしたのである。

教科書にも載っていた「通潤橋」が目の前にある道の駅である。

途中の他の道の駅で、夜食用に地の物を使ったつまみと手作りの弁当などを購入する。

このときはまだ夕方。
山を下りてきたからか、雨も降っていない。

なんだ、雨はもう通り過ぎてくれたのか。

やはり高千穂峰での入山禁止や道路封鎖やとめどない雨は、天からのメッセージだったに違いない。

ひとりで来るんじゃない。
ふたりになってから来なさい。
坂本さんとこと同じように。

なんともにくい演出である。

ようし。
いつかまた来てやるきに。
待っちょれ。

水も食料もほくほくなわたしは、すっかり調子に乗っていたのである。


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