夢見る汗牛充棟
DiaryINDEX|past|will
錯綜
そのひとは誰ですか 砕けた鏡が雨になって降りました すべてのかけらに姿が映ります すべてのかけらが光をはじきます 丈夫な傘をさがしてゆきましょう 私は血をとても恐れる あおさえ染める彩りを
それらは知らない遠いひと 薄暗い淡い影が去来する途で 合わせ鏡が知らない誰かを 封じてしまいました 井戸は鎮まりつるべは落ちない 跪くお人形が紅色の涙を こぼしていました
昔捨てたはずのお人形は ずっと懐のなかにありました あの着物は母が作りました 針と糸はうるさい口を縫う為に 針山に千本さしてあったし 針山につめたものは黒髪でした
おおきな熊の耳はもげました 愛するゆえに 幼い子供が引き摺り歩いた 板の上には黄色いものが てんてんこぼれておりました それは魂でも花びらでもない 汚れた重い海綿でした
たくさん姿が落ちて行きました 鳥肌たつ音でふるのは そこに穴を開けるため あの子の居場所は知りません
耳を塞ぎながら受け取ったのは 湿した白い脱脂綿で 待ち受ける唇に触れる手は 隠しようもなく 震えていました
うたもどき
硝子の向こうの空を誉めるように 言葉の数珠がうつろにふれ 意味を指折り数えながらふるえ その知らぬ音がさびしいとなった 生まれてきたのにさびしいと
わたしが削りとっているのは 血肉ではなくて薄い木くず 儚くて軽くて脆いもの 一夜明ければほどけてしまう 糸で連ねた音のかりそめ それらはいつも息するたびごと そわそわとわたしを遠ざかる
硝子の向うの空を誉めるように 冷たい壁に手をあてればこの日 とうとう空に触れたのだといった かたく平らな手ざわりはそらのあお
その知らぬ音がかなしいとなった 生まれてきたのにかなしいと
知らない
どうしようもなく 詞も言葉もがらんどうで 器の中身は空っぽで 風すら吹いていない そんな日もあるんだけど
知っていることといえば私は 苔や草ではないし 海や山ではないし 星や花ではないし 天や地ではないし 猫や羊ではなくて そんなことがちょっと残念に 思っている
知りたいことといえば このおんなはひとなのかしら このひとはおんななのかしら ひとの中にはなにが満ちている ひとひとに光を見つけるたびに 私の中身はなんなのか知りたくなる
もしも宇宙なら 空っぽのようで みっしりつまっている 密かな大切なもの
もしも翼なら どんなに小さくても 羽ばたいて 生むことができる風
もしもなんてない 答えを掴むには短すぎる腕 空しさは何処からきて 喜びは何処へかえるのか 知りたいことといえばまとわりつく 些細な問いは小骨や棘とどう違うのか
けれど私は嘘だから ちいさな痛みを枕にして 今日は眠ってしまうんだ
空と風の夢を見るばかり
かき初め
ここはあらたな空の下
あおはやわらかなあおいろで たくさんの誰かに影をつくるよ
なにが違っているんだろう 繰り返し筆を足す この仕事 果てないうたの渦でもがくんだ すっかり溺れてしまうまで まだ両腕には力があるからね
雲が流れていく遥か下を ながれるきれいなものたちを
ここにあるしあわせを ここにあったさいわいを
うつりぎなしあわせを とおくにあるさいわいを
汚れにまみれたしあわせを くろくあかるいさいわいを
ちっぽけな言葉で綴るんだし にんげんの言葉で綴るんだし
こんなうたは 空にはとうていわかるまいもの
けれど
ここは新たな空の下だ 太陽がのぼってうれしいね 立っていられてよかったねと
いまは思ってみようかな 明日はわからないんだけど
さあ ぼちぼちいきますか
風とわたし
ちいさくない手と
不器用な指をして
おおきな足と
せっかちなつま先
身体はがらんどうで
すうといきを吸えば
胸がふくらむような
一日をくらし
いとなみのひとつ
心臓と血液
願わくば
風をすみずみまで
ゆきわたらせ
無数の透明な泡を
思い浮かべ
これら わたしの内なる
とびきりうつくしいものは
風でできていて
風に還ってゆく
ぼんやりした頭は
虚ろにばかり拡散する
ねばつく濃度から逃れて
わたしはひたすら
薄くなりたい
風のようになれたらいい
それは
祈りによく似ている
風に流れる雲のように
わたしはひたすら
薄くなりたい
粒子でできた身体の
あらゆる隙を通り抜け
わたしは希薄になってゆく
ゆるやかな天蓋
足のうらに星
頭のうえに星
あいだをすりぬけてゆく
きょうも風を見送り
風が
髪を揺らして
往き過ぎるときは
夢からさめたように
いつもかなしい
夜と家
たとえば このひとはここに住みながら 扉には鍵をかけている 窓のほんの隙間から飛び込む蝿と 日がな一日呼び鈴の ふるを待ちわびながら けれど静寂に安堵しながら
たとえば 壁のうち暗がり怖ろしくて ここに潜む鬼をはらうため 過剰な灯りをともしながら 放射する光に眩みながら ひとは両目を覆い横たわる 疲れているが 深く眠りたいのだが闇は いやとすすり泣きながら
たとえば 暗がりの中では 闇の粒が影絵を描きながら 澱み 流れ 溜まりながら うねるそれは見開いた目の内側で 咆哮する異形のものにかわりながら ひとを喰らおうとしている 影法師がほうほと笛を吹きながら ほとほと扉を叩く憂鬱な音
眼差し
遠い山からの眼差し いまは
冠のような白雪にまぎれ
わたしたちをみている
頂にすむふたつの目
頂にすむいろいろのかみ
狭い海をなぞる道をすすむ
剥き出しの背骨を打つのは
それらの荒ぶる息吹
おまえはなお歩けるかと
問うている
まろびまろびしながら
足元で黙する下草から
頭上で時折呻く樹木から
常にけたたましい人間まで
別け隔てなく
あすこにすむであろう
やさしい仄あかりを信じ
にじり寄るように
いっぽまたいっぽ
伸びてゆくその連なりが
続く日々なのかなと
問うてみたい
雑多ないろにまぎれ
かみたちをみている
ふたつの目 ここからの眼差し
救難
しろいひとが倒れていた
ぎくしゃくしてくたり
何故こんなにしろいのか
しろいひとの傍らに立ち
男が誘導灯をかざし
一対のように腕を振り回していた
半島の根元は帰宅時で車は
重なってとろとろと進んでいる
バスも乗用車も軽トラックも
スクーターももどかしそうに
しろいひとを通り過ぎてゆく
白と黒に塗り分けたゲーム盤の上の細い道を
私は自転車をこぐ
知らないふりで去ろう
ブレーキをかけて減速したがる
この左手は嫌な奴だな
無意識にそばだてて
サイレンを聞き取ろうとする
両耳もどうにも悪趣味だ
なんの意味があるのか
いま生の幸運を思うほど
とってつけたものはない
毎日に感謝などしているものか
腹に溜まった息を吐く
籤に当たる確率と良く似た双子
これは摂理というのだろうか
あのひとは生きているろうか
ぐるぐるぐると渦をまきうねる
数秒前は晩酌のことを
考えていたかもしれないが
家族のことかもしれないが
いまは苦痛なのか安らかなのか
誰にも理解できないところ
開けられない箱の中や
いたるところで
横たわる身体をしらなさそうだ
私は家に帰ろうとする
裏返しのサンダルの片方や
舗道に置かれた花束が
ここに人がいたんだ忘れるなと
叫ぶ声を聞かない
ひとのおぼろな影などみない
毎日あくせく わけもなく
帰ろうとするのと同じにして
ただ今だって自転車をこぐが
しろいひとは静かで停止して
切り離されてもののようにみえた
しろが焼きついて まぶたに
ちらちら 見え隠れする
いわれないと感じる非難とも
振り切ろうとしても私を手招く
酒とも思える匂いがする
家路につく人は
不平をもらす喜びゆえにか
綱にしがみついているようなものか
ほかにもあると叫ぶものもあれば
そんなものさと嘲るものもある
あと何日と数えるのが怖いあまり
しろいひとに羨望を感じるのも本当だ
安息ならばいいじゃんとは
呆れ果てたお笑いぐさだ 私は
「死の悲しみは生者の中にだけある」
など受け売りを呟いたりして
薄ら寒い私の口元をはく笑みを
見る覚悟もない
尻を浮かせて 全速力で
家に逃げ帰る途中
夕刻の混みあった道を懸命にひた走る
けたたましい音の救急車とすれ違い
お前の行く先を知っているぞ と思った
五月のあなた
不可視の彼方あちこちに
虚空の貴女を探す試み
五月の薄雲塞ぐ空のあちら
けぶった山の頼りなさに
浜昼顔の花陰や もののかたわら
花水木や落葉の下に
ほの暗がり ほの明かり
ほの白く瞑目した貴女の顔
艶やかないし たつけぶり
いきを留めふと見返る時は
貴女を探す試みをする
胸にたゆたう影のほか
雨の狭間にあらわれた
したたる雫の光のうちや
鋭くさけぶ鳥の声音
名も知らぬ下草や
緑いや増す紫陽花の上に
湿った土に刻まれた
しびとの蒼さをふりはらい
瞼の下に貼りついた
紅さした唇の明るさ
虚ろで朧なその影と
忘却よりもむこうの国
虚空のあなたを探す試み
散歩
夜の商店街の片隅を通り
くらい駅の階段をさがり
雑踏のひといきれを思いながら
いき交いの減った寂しい道を歩く
何処へ何処へゆこうか
わからなくなるさみだれ
やまない雨だれが
整うようにしみいる
やわらかさにうなだれ
人が暗がりから油のように浮き
水路をぷかぷか漂い
行きずりの 誰と交差し
軌道を描く線は交錯し
黒点が遠くへ消えてゆく
彼の帰る場所を思い うなだれ
黒い道に捨てられた空の箱
途切れなく舗装を穿っている
濡れて陰鬱な調子
くらい夜にひとりで立ち
肩に背負った金と
腹いっぱいの鉄錆がもたれて重い
よれ萎れた姿に苦くわらい
路上に毒と汚物を散らす
歳をへたいきもの
風がふき ざわりといい
眼を向ければ
街路に立ち並ぶ柳の
あらたな枝が闇の中でうなだれ
それは清々しくうなだれ
水底
おれが猫になるから
撫でてくれないか
ひもじく啼くから
餌をやってくれ
不平をいうから
ちやほやしてほしいのだ
おれは本当は
お前のようになりたかったが
月曜のごみの日に袋詰めで
捨てられてしまいそうだ
おれがごみになるから
片付けてくれないか
悪臭を放つだろうが
埋めれば肥やしになるだろう
嫌な顔をしないで
拾い集めてほしいのだ
おれは本当は
お前のようになりたかったが
池に沈んだ石ころのように
ひねもす苔と傷を舐めあう
うちあければ本当のところ
おれは石ころになりたかった
年月をへて滑らかになり
疵ごと埋もれていられるような
ひもじくて啼くおれと
悪臭を放つおれ
おれは本当は
お前のようになりたかったが
ずぶずぶと潜水中の半漁人で
時折陸に這上がっては戸を叩く
置去り
そらみて
つちをふみ
いしいたみ
いき止まり
靴紐むすぶ朝
くもに置き去られ
風のなかではうんと
さびしくなり
よごれたよそおいし
騙りたがりるくちが
花はかなしとうたう
ほととなせつなさ
身のあおさをしらぬまま
枯るるものの ゆくかたを
しらず 花に置き去られ
風のなかではうんと
かなしくなり
やがては 花を置き去る
いき止まり
かなし いとし
五月の休日
たたん ととん た た
たん たたん と とと
太鼓のうちがわ
ぴしゃん しゃん ぴん ぴ
寝そべる身体の 上と外は
ぴちん ぴちゅん ぽ ぽ ぽ
いい調子の タンタンタタタ一拍休 タ
くあーふ ねこの息 こそばいヒゲ
床の寝心地 つ て とと ん
仮定画法
昔昔 あるところで
仮に神が人を創ったとして
人は寂しい寂しいと云い
人を加工してこれを作った
そして人は男になったけれど
男は完全な身体を損なうほど
善きものを得たのかと繰返し問うている
愚痴に溺れ寂しく食卓に突っ伏した
その背中 お気の毒な結果
永遠の楽園をうしない
男はそれを責めただろうが
あばら骨なのだから
思考の機能は付されていない
あばら骨をふくれた白いむなぢにかえたのは
顔を埋めてべそべそ泣くためだったのか
それは蛇を責めただろうが
あばら骨に抗議されても
蛇として何ら痛痒を感じぬそうだ
神は人を責めただろうが
製造物責任は自らに
問いただして欲しいんで
つまり誰が悪いんでしょうと繰言になる
天転点 、有史以来
地には災いが満ち満ち
神は安易な約束をして
さぞや苛苛しているだろう
砂に沈んだ箱舟を呪いながら
後悔にくれているとしたら
ざまあみろと呟いていい
人は好き勝手な祈りを吐き散らした
まったきものが在るならあたしは
黙って男の頭を撫で撫でしながら
雨の降り続く夜と朝を幾度通っても
虹なぞ金輪際みたくもない
消えてしまえばいいと祈る
人でなしの骨
まが言で
女
食卓
”ようは世の中は
喰うか喰われるかです
気をつけましょう”
そう言ったのは誰でしたか
石の碑を建て子供を集め
教え続けるでしょう
”ここに刻まれた名を
銘記しなさい”
彼は自らを焼いて
食卓の皿に載せました
”愛とこれを名付けます”
けれど本当は
例外なく全員がそれとなく
箸やフォークや小皿を手に
彼が予熱したオーブンの
扉を開き自ら入って行くのを
待っていたようでした
けれど目盛りをいじり
スィッチを入れはしません
沈黙の中で後姿を見守っていたのです
群れのほとんど大多数の眼差しと力
全員が申し訳のように
彼の美しく得がたい精神を讃えて
涙しましたが
結局のところ
こんがり焼きあがった彼は
菟肉の芳香をはなち
食前の祈りの後
銀のナイフで切り分けられ
香ばしい肉汁を滴らせる
食い物になって
涎をしたたらせ待ち受ける
人と人と人を
満足させたのでした
群青
ごらん
ここに咲く青い群生は
すでに温もりをうしない
凍えた血のような花たちだ
もの思わぬように揺れながら
悲しみと痛みが匂い
不吉で忌まわしく
かけがえなくうつくしい
空にかざせば空にまぎれ
海に浮かべれば水にとけ
そのくせ常におれを飾りながら
甘い声をして
ねえ 空と海へゆこう
とねだるのだ
苦痛も 快楽も
呪いも 祈りも
根源も 終末も
すべてひとしく混沌となり
選びとれはしないスープに
沐浴する具が人間ならば
おれは何に救いを請おうか
最初の空気とともに
はじめの種は吸い込んだ
一粒のあおが年月を重ねて
発芽し小さな花を咲かせた
摘んでも摘んでも
絶えず咲き続け蔓延し
歓びの溶液の中に
さらなる種を落とすだろう
耳を塞ぎ何に救いを請おうか
おれには養分が残っている
生きるように生きるうち
群青がいずれ境界を侵す日に
囁きに掻き回されて空の
両眼を閉じればいいが
その時耳の穴から
零れる種にお前は
決して触れては
いけない
嘘
願うこと
世界を見つめた瞬間に
瞼から剥れ落ちていいから
儚く流失するものでいいから
白くふわふわした羽虫のように
危うく壊れやすくていいから
色とりどりの
淡くて甘い甘い
砂糖菓子のような
うたをください
それが無理ならば
目覚めの時も
頭を痺れさせ
虚構の甘さで神経を侵し
いくら喰っても枯れることない
黄金色の川にとろり流れる
甘美で歓喜に満ちた蜜
神々のにおいのしみた
常習性のある
うたをください
歩く
風の中を歩く
耳に怒鳴る轟きが
脳を喰うので
他の何も考えられない
風の中を歩く
背中をどやす指先が
転ばせようと狙うので
身体には無数の穴があく
歩くために歩く
荒くれな風が透明な牙で
褪めた血液を吸い上げた
今日はのどかで
穏やかな春だ
穴だらけの私を
置き去りに
花びらだけが
いってしまった
(2003.04.12)
体裁
はじめて
この穴に入った誰かは
人だったときに首をくくった
次に入った誰かは
人だったときに首をくくった
おいおいおいおい
つややかな石を拭いて
のぼっていく煙を眺めながら
手を合わせる時かならず
三度目に入る誰かを考える
三度目の正直にならないと
これは呪いの墓になっちまう
とかとかとかをさ
馬鹿らしいことだが
責任重大じゃないかい?
負
あなたは
わたくしは
どこに立っているのだろう
どこへ歩いているのだろう
あなたは
わたくしは
日が沈む方向へ向かい
日が昇る方向から出てくる
昼になればしょせん眼にうつらぬ
星を探して幾足の靴を履き潰すのか
見失うたびに星図を購うのか
あなたは
わたくしは
そして一巡りごとに萎れて
くたびれていくようだ
垢じみた襟元を緩めていきをし
使い古しの鞄は日に日に重くなる
あなたは
わたくしは
目に付いたものを片端から
貪欲に収集し興味を喪い
息絶え絶えに歩く
苦痛と喜びに泣き笑いしている
どこかで野垂れてしまうまで
地面に深い筋をつくって進む
あなたは
わたくしは
常に青山の上に立つとうそぶきながら
滑稽なほどずるずると
引きずってゆく
あなたは
わたくしは
いつか人であることをやめる日まで
滑稽なほどずるずると
引きずられてゆく
あなたは
わたくしは
一体
呼子
彼は何処に行こうとしているのか
荷物をまとめる俯き加減の横顔が
硝子ごしに窺えた
裸電球の下には ほんの小さな鞄があった
彼は短い旋律を口ずさみながら
橙に照らされた部屋を片付けている
僕は思い願う
硝子を叩いてもいいだろうか
彼の鞄に僕らをも仕舞ってくれるように
合図していいだろうか
僕は思い確信する
彼は必ずたくさんの僕たちを
手に取り 懐かしげな眼差しで
透明な笑みで僕らが過ぎた時だと教え
優しく残酷な手ぶりで置き去るだろう
彼は幸いの中へ
ほとんど手ぶらで往こうとしている
彼が僅かに身に帯びたものたちが
喜びのため息を漏らす
僕がほとんど憎しみながら
彼の背中を呼ぶ声が滑り落ちる
飯田さん
とある
小学校の裏手で
小さな文房具屋を
営んでいる飯田さんは
ひょろりと背が高くて
髪が真っ白な爺さんだ
月末になると車に乗って
やってきて領収書片手に
「こんにちわ」と椅子に腰掛ける
飯田さんは特に急ぐ事もないので
美味そうに煙草を一服ふかす
目の前の緑茶をゆっくりすする
立派になった息子のことや
可愛い孫達のことを嬉しそうに
ぽつぽつ語っていく 飯田さんは
かつて一度だけうんと昔の話をした
シベリアは辛かったねぇ
飯田さんはあやふやな眼つきで
吐き出す煙を追っていた
おそらく長い時間を労苦に
打ち据えられたのであろう
飯田さんはひょろりと痩躯で
こなれた革のようにしなやかで
凪いだ海みたいな表情をする
背後に転がっている自分史は
石ころのように目立たないが
時は飯田さんに敬意を表すごとく
やわらかく過ぎてゆくようだ
一杯の茶を飲み干して
領収証を書き終えて
飯田さんはえっちら
帰ってゆく
無罪
ねじくれた現在に腰掛け
居心地が悪いと思っている
これは好ましくない
これは好ましくない
不満を抱えながら長いこと座り続け
終には
私が支持したそいつが
見知らぬ彼を殺したという
糾弾され 混乱したまま
ああ何てこと、と私は嘆き
この人は何も知らなかった、と
弁護人はいう
結局 同類の陪審員は泣き崩れる
私に全員一致で無罪をくれてやる
「彼が命を失ったことを思うと
胸が詰まる想いです」
殺された彼の家族が指を突きつけ
お前は敵だ 憎むべき敵、と
鋭い眼差しでいうときも
禊は済んだのに何故憎まれるのか
理不尽に感じながら
私は傷ついた振りをする
愛する土
ちいさな生は
足元の土を選べないので
ここに種をまいたと思う
頑丈な暴風壁を築けないので
風が吹き荒れるなか
ふたつの腕で土を庇っている
それは愚かしいことなのか
ちいさな生は
たまさか立った土を愛すると思う
苦しんで土を耕し
まいた種がひ弱な芽を出すを見る
その喜びは誰のものだ
ちいさな私がここに立つ
私があちこちに立っている
ちいさな生は
足元の些細なものを愛しむと思う
根を絡ませ合う隣人ごと
些細なものを踏みにじられ
覚える怒りは不当なものなのか
ちいさな生が愛する土の上を
巨人が歩いて行く
足裏の破壊を感じることがない
巨人が整った構図を求めふと
美しくないと思う山の形を削り取る
削り取られた土に生はなかったのか
暮らしのなかで
愛してやまない
おおきいものや
ちいさいものを
理不尽に蹂躙される
守りたい土の上に傍若無人に
醜い跡が彫られるのを
微笑んで見守ることが誰にできるのか
「心象風景」
岩石の森に邪な塊が棲む
塊の口は禍の礫を吐き飛ばし
悪意ある眼差しは朱に光る
身体の内よりどろりと滴る
毒は溢れ 川のように流れ
かつては樹のある森だったが
水と緑は呪いに枯れ
毒を含んだ砂塵の中に今や
そびえたつのは忌々しい
岩石ばかりだ
何故 塊はおもてとおのれを
同じく強く激しく投げやりに
憎悪し呪詛の調べを放つのか
世界が汚らわしく厭わしいのは
喰い喰い 臭気を吐き出す
塊が汚したせいだ 自らが
汚らわしく 厭わしいのだ
見れば遠く 彼のひとの森は
今なお 青々とうつくしい
ここは
寒く荒れた岩石と吹き荒ぶ風
棘だらけの地に 転び転び
削がれゆく塊は 思考を手放し
いたづらに 憎しみを重ねる
このような世界に誰が置いたのだ!
あらゆる根源の微粒子が
大気に散漫に漂うならば 塊は
愛の賛歌を紡ぐことができた
喜びのためにうたうことができた
友愛のために織ることができた
だが おれは迷わず 呪詛を吐いた
紙とペン
鏡台の前に腰を下ろし
真正なひとがたを創ろうと
真白い紙を眼前に据えるが
おんなは一文字も著さない
真新しい銀色のペンを
人差し指で弄ぶばかりだ
よく見れば
おんなが書こうとするたび
銀色のペンはおんなを打った
打たれるとおんなは涙を零し
剥げかけたマニュキアを見つめていた
真白い紙が
装いの言葉は要らないと言った
だから 鏡の己を凝視しながら
おんなは途方に暮れていた
ペンと紙が見張っていた
永い時間が経ち
おんなは俯いて首を振ると
マニュキアの小瓶を手に取った
ペンは二度とおんなを打たず
紙も何も言いはしなかった
景品のこころ
遊戯場の景品みたいに
わしらは透明な厚い壁のなかで
ひしめきあう
いつか空から降ってくる
無骨なアームがわしらの
何れかを抓むのを見るために
一本のアームを操作する
ひとつの腕と幸運な頭を
讃えよう ハレルヤ
そしてわしらは景品の品々
アームをぼんやり眺めながら
わしらは祈る
他所へ行ってくれ!!
もちろん爆弾も。
すべてのボタンを押す指よ
わしらに 愛をたれ給え
わしらは
ただの景品で 死しては統計の数値に
すぎないが
その景品は
幸運な指と頭の知らぬ所で
慎ましやかに
わらい 泣き うたい 怒り
愛したりしている
大切な暮しを
指と頭は知っちゃいない
(2003.2.5)戦争は嫌。空爆は嫌。藪息子も嫌
マーブルチョコ
憂鬱な夜に
ぼんやり流れる
目をやれば飾り棚には
お土産にもらった
マーブルチョコの大瓶
そうそう
そのうち食べようと
思っていたら
くれたあなたが
遠くへいって
しまったから
たぶんきっと
食べることのない
マーブルチョコになった
色とりどりの
ひび割れた
マーブルチョコと
過ぎ去った時間
色あせてゆく
コーティングと
穏やかになる
記憶
(2003.02.05)
我
これは海豚を穿つ銛だ
これは泥土に沈む水銀だ
祝い言葉を述べるために毒を吐き
空腹を抱えどこまでも歩き往くのだ
愛しながら壊しつくし
破片に恭しく接吻している
これは双面の有機体だ
想像の海
海の言葉をうたう人は
水でかたちづくられているのか
透明なすべてのあおみどり
色づく優しさ激しさ
内外に溢れる線でない いのち
背骨を銀色の魚が昇ってゆく
大気を抱く水滴は
淡く眼を潤し肌に沁みる安らぎだろう
踊る塩の微粒子が胸をひりつかせる
知らない音律のうつくしい言葉に
涙するわたしの内側にも
かならず塩は融けているのに
とても遠くて届かない海に
わたしは融け合わないので
海をうたう人をいいなと思う
青のただなかに腰掛け
海豚と遊ぶように白い泡と戯れ
塩のように言葉を解かす
青い眼差しは遥か遠くを見るけれど
彼のすべては足元にあり
命はつま先と繋がっている
(2003.01.25)
立つ
土の上に立っている
屈んで一握りの土をとる
土の匂いを嗅ぐ
長い時間を変わらぬもの
いのちとたましいの混沌
安らかな匂いに酔いしれる
天の下で仰ぎ見る
夜に立てば暗黒のもとの卑小
刃の風に身を縮め
長い時間を変わらぬもの
存在と祈りの混沌
果てなき空虚に怯えている
|