Leonna's Anahori Journal
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きのう。 朝、めずらしく未明に行われたミラノダービーの録画をチェックしてから学校へ行く。 ジョゼ・モウリーニョがどんなに優れた通訳、じゃなかった、監督かしらないが、このダービーにそう簡単に勝てると思われたら困るんだな、などと思いつつ。この頃じゃミランの試合一応録画だけはする、という冷めた状態が続いているのに、新参者+ダービーとなると途端に肩をいからせるという、どうにかならないかこの性格。
ところがですね、勝ったですよ。ミラン。 アレッ?! ダービーに、勝っちゃった!!(アレッ?!て…) ブラジリアンコネクション、ロナウジーニョのヘッド一閃でありました。 うはははははは、ポルトガルからきた通訳にミラノ式の洗礼をほどこしてやったぜぃ。 やたらいい気分! -- 本日。 三ヶ月間通った学校の修了式でありました。 選考だけは通って入学したものの、気分的には底値の鬱々状態。そこへ夏の暑さが追い打ちをかけるという、個人的にはかなり厳しい三ヶ月間でした。 朝、どうしても起き上がれずに欠席の連絡だけして夜まで何も食べずに寝ていたり、学校でも一言も発せずにじーっと座ってるだけなんてこともあった。あまりにも体調が悪いので今月初めには市の健康診断を受診。「もう手遅れかも」と覚悟を決めていたのに、結果は、コレステロール値がちょこっと高かっただけだった。あら。(ま、安心しましたけれども…)
終盤になってクラスの人たちと一緒にランチ行くようになったり、やっと楽しくなってきたところで迎えた修了式。こんなことだったら、もっとみんなと色んな話すればよかったなあ。 特に同年代で、来し方や行く末、身体の不調や将来に対する不安を聞いて励ましてくださった何人かの人たち。本当に感謝しています。ありがとう。 式の後、クラスの数名と最後のランチ。存分に食べ、かつ語らいました。 さて。明日からは授業がないので、すべての時間を就職活動につかえます。めげずにがんばるぞー
購入した美恵子本に目を通しているうち、驚愕の事実に遭遇した。 「小説論 読まれなくなった小説のために」の一番最後に「小説とフットボールの過激な関係」というインタビューが載っていて、どうやら金井美恵子はマンチェスターユナイテッドファンであるらしく、「ルーニーのコンディション、心配していただけに、ほんとうによかった」とかなんとか書いてある。…なんだよ、なんなんだよ、おれに黙ってまた何はじめてくれちゃったんだよ、えっ、ミエコ!! インタビュアーは田口賢司。で、このひと何してる人だかすぐにはわからなかった。編集者かなとも思ったのだけど、しかしそれにしては「来週のチェルシー戦、マンチェスターに行ってきます」なんて、素敵に身軽な感じの発言が。で、調べてみたらスカパーのクリエイティブプロデューサーにして小説家、なのだそうです。あらまー。私、E.N.G(English News Gathering)いつも観てます、お世話になってます。 しかしこのくらい洞察深くて口の達者なひとたちが好き勝手にサッカー語ると面白いですよ。 クリスティアノ・ロナウドのことを「ポルトガルの路上で日本人観光客のハンドバッグを引ったくって凄いスピードで走って逃げて行く少年みたいな顔」と言ってみたり、負けが込んできたときのチェルシーの選手の顔を、「暗い。解決しない事件を三つも四つも抱え込んだ刑事みたい」と言ってみたり。 で、その暗さというのが、モウリーニョ監督を反映しているんだって。「何か『父』がいるという感じですね。フットボール選手はやっぱり孤児じゃないと」by 美恵子。 とどめに「でも、モウリーニョはバルセロナへ行くたびに観客から『通訳』って馬鹿にされてる」by 賢司。(しかしこりゃ貴重な情報だよ、通訳つーのは!) 面白過ぎて食傷する、などと言いつつも、さっそくモウリーニョを「通訳」と呼ぶ事にした私であります。美恵子にしろ堀江敏幸にしろ、言葉でご飯食べてるひとたちってのは、スポーツの肉体性、特にサッカーの持つ単純さや選手の幼児性(筒抜けになる人間性)みたいなものに惹かれてしまうものなのかもしれません。
先週末amazonから届いた本。
「目白雑録(ひびのあれこれ)」 金井美恵子(朝日文庫) 「小説論〜読まれなくなった小説のために」 金井美恵子(朝日文庫) 「競争相手は馬鹿ばかりの世界へようこそ」 金井美恵子(講談社) 「むずかしい愛」 イタロ・カルヴィーノ(岩波文庫)
『競争相手は〜』はユーズド。美恵子本まとめ買いのそのこころは、毒舌に鼻まで浸ることで最近少々不足気味のアドレナリンを分泌してやろうという、そういう魂胆である。 そして、書店ではあまりお目にかかることのないこれら刺激的な本の表紙を眺めているうち、久々にブックオフへ行きたい気分になり、ファミレスのデザートを餌にげんこつ山にクルマを出してもらった。ブックオフでの購入本は以下の通り。
「人間とは何か」 マーク・トウェイン(岩波文庫) 「不思議な少年」 マーク・トウェイン(岩波文庫) 「嵐が丘」 エミリー・ブロンテ(新潮文庫) 「ロンドン旅の雑学ノート」 玉村豊男(新潮文庫) 「スペイン、とっておき!」 中丸明(文春文庫) 「しかたのない水」 井上荒野(新潮文庫) 「夢十夜 他二篇」 夏目漱石(岩波文庫) 「恋人たちの森」 森茉莉(新潮文庫) 「自伝の人間学」 保坂正康(新潮文庫) 「嵐が丘」「夢十夜」といった古典中の古典を、チマリスは読んでいない。「夢十夜」、最近作られたオムニバス映画(傑作!)は観てるんですけどね。それから、アーヴィング、辻邦生などの長編小説、その祖である19世紀本格小説の代表作「嵐が丘」をそろそろ読んでみようかな、と。 ところがこの「嵐が丘」、新潮文庫から新旧二つの訳で出ており、ブックオフにはその両方があった。二冊の書き出し部分を読みくらべて、旧訳(田中西二郎訳)を選択。新訳は字も大きめで読みやすかったのだけれど、、、これはもう日本語に対する感覚の問題としか言いようがない。
森茉莉「恋人たちの森」は文庫化された昭和五十年に一度買っている。これには「恋人たちの森」のほかに「枯葉の寝床」「日曜日には僕は行かない」「ボッチチェリの扉」という初期森茉莉の傑作がきっちり収録されているのだが、これらの単行本も家の本棚にはすべて揃っているのである。 昭和三十年代に出版された森茉莉の単行本の元々の持ち主は、いまは大分に住んでいる父方の叔母なのだが、蔵書をうちで預かっているうちにいつしかその一部は私の本のようになってしまっていた。 そして、ずいぶんと昔のある日、文庫版「恋人たちの森」は「あの本(古い単行本)はあげるからその文庫本を譲ってもらえないかしら」という叔母のもとへ二つ返事とともにもらわれて行ったのだった。そのとき叔母は「今でもたまに頁をパラパラッとめくりたくなることがあるのよね。どうしても森茉莉じゃなきゃだめってときがあるじゃない?」というようなことを言っていたように思う。 ブックオフ店頭でとても状態の良い文庫本の、茉莉独特の漢字使いを出来る限りとどめおいて律儀にルビをふった頁を見たとき、これを買わずに帰るわけには行かないと思った。たしかに単行本は古びて、あまり頻繁に書棚から出し入れしたら壊れてしまうかもしれないけれど、それは言い訳で、要はただ買って帰りたかったのだと思う。 森茉莉が死んでもう二十年以上になるけれど、この人もまた私の中ではちっとも死んでやしないのだと思った。
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