Leonna's Anahori Journal
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午後。昨日借りてきたビデオのうち『ファイトクラブ』を観る。
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前半、男どもが殴り合いをしに集まり始めるあたりまでは「んまあ、なんてロマンチックな映画!」などと思いつつ、けっこうノリノリで観ていたのだったが。ブラピが男どもを組織して軍隊みたいなのを作り始めたあたりから付いていけなくなってしまった。いやさ、あまりにも馬鹿馬鹿しくて。
まったく、ちょっとばっかし力をつけ始めるとどうしてすぐに世界にちょっかい出したがるんだろうね、男ってのは。どうして静かに孤立して、個人的楽しみのためだけに生きられないのだろうか…。
観終わったときの感想は「とにかく、へ〜んな映画!」、それから「エドワード・ノートンご苦労さん」というものだった。
そして当然の事ながらこの映画のブラッド・ピット、大してして良くなかったような気がする。やはりブラッド・ピットは「ハレ」より「ケ」のよく似合う男なのだ。もしくは影ひなたのコントラストのはっきりした役。
『ファイトクラブ』後半のブラピには陰影というものがまるでなくなってしまった。もちろんこれは彼個人の責任ではないけれども。残念!
書店、パソコンショップ等に用事あり、T田沼へ出かける。
T田沼周辺はいつもと変わらぬ休日の人出。その変わらぬ町の様子が、何となく悲しく、腹立たしい。いっそのこと駅前の商業地区一帯が一夜にしてどこかへ消えてしまった、なんて事になればいまの私の精神状態とうまく釣り合いがとれるのだろうけれど、そんなことがおこるはずもない。「景色が目にしみるぜ」てな気分で鼻をすすり上げながら涙をこらえて歩く。はたから見たら、ただのヘンなオバサン。
ところが。そのあと、チョットお腹が空いたね、ということになり蕎麦屋へ入って玉子丼を食べた。そして勘定をすませておもてへを出てみると…なんと、あのカナシミの感情が半減しているではないか。 すると、なにか。あの心を浸食してくるような悲しみの半分は、単なる空腹感だったということになるのか…。また別の意味で暗くなる。
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食べる、といえば。生前、母に何度も聞こうと思いながら、とうとう聞けずじまいになってしまったことがある。
一昨年の暮れ、このHP上で『二十世紀最後の晩餐』というアンケート企画を実施した。そのとき、父と妹には「今年の大晦日、何でも願いが叶うとしたら、どこで誰と何を食べたいですか?」と質問してその答えをアップしたが、その同じ質問を母にはしなかったのだ。
当時母は入退院を繰り返す状態ではあったけれど、細かいことはともかく、「もし何でも食べられるとしたら何が食べたい?」もしくは「お母さん一番好きな食べ物は何?」という質問くらいには答えられる体調だったと思う。その後も、企画云々は抜きでいつか聞いてみたいと思いながら忙しさに紛れ、そうこうしているうちに母は、とてもこのような質問に答えられるような状態ではなくなってしまった。
病気を理由に、私たち姉妹が子供の頃から、半ば“おみそ”のように扱われることの多かった母。行楽には父が娘二人をつれて出かけ、母は留守番というのがわが家の常だった。本人は平気な顔をしていたけれど、我慢することばかりでどんなに寂しかっただろう。そう、やっと気が付き始めたのはここ数年のことだ。せめてこれからはお母さんを中心に。絶対仲間はずれにはしない、ときめたはずだったのに。ついに母には「何が一番好き?」と訊けないままになってしまった。
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とはいうものの、べつに、深く懺悔してうなだれているという訳でもない。そんな大げさな事でもないのだ。アタシ、またやっちゃったワ!ママ、ごめんなさいという感じ。それから、もし訊いてたらお母さん何て答えたかなあ、などと時々ぼんやり考えては楽しんでいる。そりゃチョットは悲しくなることもあるけれど、「鱒のすしかな、鰤のカマかもしれないなぁ」なんて考えるのは、ほんのりと楽しい。
そういえば、これも終わってしまった企画だけれど『デジカメ練習帳』。あのページにアップした写真の多くが母を病院へ訪ねる行き帰りに撮ったものだった。花曇りの日、満開の桜の下で遊ぶこどもたち。住宅街で出逢った、前あしの不自由な猫。税理士事務所のドアのおかしな掛札。日が沈むまえの最後の光芒の中で静まり返る公園、等々… 写真に撮らなかったものも含めて、母がこの二年ほどの間に私に観させてくれた風景が、あとからあとから脳裏に浮かび上がってくる。きれいだった。楽しかった。アリガトウ、お母さん。
やっぱり今日は、景色が目に沁みるわ。
あああ、さすがに疲れた。
この疲れ、精神的な疲れなのか、それとも肉体的な疲れなのかが判然としない。いままで経験したことのないタイプの疲労。夜、頭痛がひどくて一度布団に入ったが眠れず、起き出して薬を飲んだ。
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思うに、娘にとって母親の臨終の顔を見るというのは、自分の死に顔をみることと同義なのではないだろうか。なにしろ、私が永眠した母の顔を見て思ったのは、「あー、これが私のX年後の姿か」ということだった。
「だからね、つまらないことに関わり合うのはやめて、自分と自分の本当に大切なひとのために時間をつかいなさい。」…母の顔はそう言っているように見えた。これが、母が私に遺してくれた、最後にして最大のメッセージ。
きのう、通夜。 昨夜は私とキンちゃん、妹夫婦と娘の梨紗の五人で泊まり込み、夜通し線香を絶やさぬよう交替で母についていた。
棺の顔のところの窓からのぞくと、母は相変わらず眠っているように見える。窓には透明なプラスチックのようなものがはまっていて、顔を近づけたひとの影(輪郭や髪)がかすかに映る。私が顔を近づけるたびに母の瞼のうえで私の髪の影がうごくので、そのたびに母が目を覚ましたのかと思いドキリとした。
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きょう。昼から、告別式。お坊さんの読経の最中、一回だけ「がぁぁぁぁーーーつ!」と、もの凄く大きな声をだされた箇所があった。列席した誰もが一瞬ビクッとするような大きな声。私は「ああ、この声で起きてこないようでは、お母さん、本当に旅立ったのだな」と妙な納得の仕方をした。あとから、あの声は、引導を渡すときのものだと教えられた。
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火葬が済んで骨をひろうとき、妹が「陽子お義母さんのときと全然違う」と言って泣き出した。長く患い、ほとんど寝たきりで大量の薬を摂取し続けた母のお骨は、数年前に亡くなった義母のお弔いのときを思い出すと、泣きたくなるくらい脆く、はかなげに見えたのだろう。
私には“普通のお骨”がどんなものかがわからない。ただ、目の前のお骨が“母”だとはとても思えなかった。母はお骨になったのではなくて、起きあがって、どこかへ歩き去ってしまったのではないか?。何も残さずに黙っていなくなるわけにもいかないから、「じゃ、私、行きますから」という代わりに、こんなものを置いて行ったのだ。…そんなふうに考えると、すんなり納得することができた。
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唐突に、尾辻克彦(赤瀬川原平)の芥川賞受賞作、『父が消えた』のタイトルが思い浮かぶ。読んだことはないけれど、その小説はもしかしたら父親を亡くした経験を書いたものではないのか…
いずれにしても、私と妹の母は消えてしまった。もう、二度と会えない。
朝六時過ぎに洋光台の父のところを出て帰宅した。 混みあう電車の窓の向こうに、まっ赤な朝焼けがきれいだった。
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着替えて眠るつもりが、国会中継をみてしまう。田中真紀子、鈴木宗男の参考人招致、あまりにも面白い。温室のように温かい部屋で、ゴロゴロしながらテレビをみていると、昨日のことがまるで嘘のように感じられる。そうやってぼんやりとテレビ画面を眺めていると、ときおり部屋の後ろの方をスイ、と横切るものがあって、それは、白い船のかたちになった母なのだった。薄暗い台所へ走っていくと、発作のように嗚咽がこみあげてきてなかなか止まらなかった。
午後。仕事のめどをつけて、オットが会社から帰ってくる。 横浜で葬儀の段取りをしてくれている妹夫婦や親戚から、ひっきりなしに電話がかかってきた。
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夜。ストッキング、ハンカチなどを買いに出たついでにファミリーレストランで食事。オットはものも言わずにガツガツ食べる私をみて、ギョッとしたという。どうしたというのか、普通のファミレスの食事が、異様に美味しく感じられる。
忘れられないのはデザートだ。たかだか400円ほどのファミレスのデザートが、味蕾のひとつひとつに沁み入るように美味しい。そうして、そのアイスクリームの入ったお菓子の冷たさは、そのまま母の寝かされている場所の冷たさに直結しているのだった。
人間は悲しいと味覚が敏感になるのだろうか? いずれにしても、今日、私はひとつの決心をした。それはもう二度と人間にはうまれてこないぞ、ということだ。人間は素晴らしいかもしれないけれど、悲しいから。人間だけではなく、犬にも猫にもボウフラにもならない。私が生き物として生きるのは、これが最終回だ。
母が永眠した。
-- このところ母の具合があまり良くなく、いつもは毎週木曜日に会いに行くところ二日早めて様子を見に行き、午後四時まで母の病室にいた。点滴を打ちながら荒い息をしている母を、それでも危篤と思わなかったのは、この三年間で「もう駄目かもしれない」と言われながら回復したことが何度もあったからだろう。
おとといから何も食べずに点滴だけだった母は看護婦さんから「今晩からお粥食べてみましょうね」と声をかけられると、身を起こさんばかりにして「ハイ」と返事をした。生きたくて生きたくて必死だったのだと思う。
けれど母の唇は乾いてくっついたままになっていたし、閉じた目の周りにも乾いた目やにがついていた。とても食事のできる状態には見えない。ガーゼを濡らしてきて目の周りと唇を拭く。それから吸い飲みにぬるま湯をいっぱいに入れて口元へ持っていくと、母はほんの少しずつそれを飲んだ。
吸飲みからうまく吸うことが出来ないので、いっぱいまでお湯を入れて傾ける。傾けて口に入る分だけ飲ませて、またお湯を入れに行く。三、四回それを繰り返したあとで母は、目を開けて私の顔をじっと見た。苦しいのか眉間にかすかに皺が寄っている。そうやって二度ばかり私の顔を見つめてから、目を閉じた。疲れたのだろう、と私は思った。
いつもは「また来週来るね」と声をかけるところ、母には何も言わず、父に「あさってまた来る」と言って病室をあとにしたのが夕方の四時だった。
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夜八時過ぎ、父からの電話。母危篤の知らせだった。父もいま病院から連絡を受けたところで、これから家を出るのだという。逗子の妹からも電話があって、すぐ出かけると言う。妹のところから母のいる病院までは四、五十分。私の家からは二時間はかかる。
支度をして、電車を乗り継いで、大船駅に着いたときには11時を回っていた。のぼり京浜東北線を待つホームで義弟(妹の夫)と姪をみつける。この時間に彼らが病院に向かっているということは…。私は義弟に声をかけ「妹から何か連絡がありましたか」と訊くと、答えは「聞いてませんか?」というものだった。私が絶句していると義弟は「八時少し過ぎだったそうです」と教えてくれた。
義弟はすぐに携帯電話で病院に連絡をとってくれた。母はもう病室を出されて葬儀社の人が搬送に来ているのだという。義弟は「お姉さん、いまここにいる。あと二十分待つように言って。すぐに行くから、それくらい待つように言ってよ」と強い口調で頼んでくれた。私たちは大急ぎだった。泣くのもあとまわしにして、タクシーに飛び乗った。
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母は白布にくるまれ、ストレッチャーに載せられて病院一階の廊下にいた。ベッド数20ほどの、霊安室もない小さな病院ではどこもこんなふうなのだろうか。数時間前まで病室で息をしていた母親は白布にきっちりと包まれて、車輪のついた台に載せられたその姿は、まるで小さな白い船のようだった。
父が私を手招きして、葬儀社のひとが白布を解くと現れた母の顔はまるで眠っているようだ。こわごわ額に触れると、冷たいけれども、氷のように冷たいというわけでもない。これってもう、本当に、どうにもならないことなのだろうか。数時間前に病室を出るとき、眠っていた母の呼吸音やからだのぬくもりが生々しくよみがえってくる。
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父の住んでいる集合住宅では病院(家の外)で亡くなったひとを家へ搬入することは規則で禁止されているのだそうだ。それで、母は葬儀社の方へ安置されることになった。亡くなった母を家へ連れて帰ってあげられないことがたまらなく辛い。 「お母さん、また目を覚ますかもしれない。だからひとりで寒いところへやるのはかわいそうだ」、そう思うけれど、口に出しては言えない。搬送する間、黙って母の白布にしがみついていた。 深夜二時頃、妹たちは父の家からタクシーで家へ帰って行った。私は始発で帰ることにして、居間のコタツで仮眠した。
ゴミ箱とカレンダーを買いに出たついでに、白いデミタスも買ってしまった。
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以前から、白い厚手のデミタスが欲しいと思っていたのだ。デロンギなどのエスプレッソメーカーと一緒にディスプレイしてある、ロゴの入ったノベルティデミタスみたいなやつ。 薄くて軽くてきれいに彩色した、高価なデミタスではなくて、石のような重量感があって、ゴロンと手に収まるのがほしかった。
そうしたら、今日、西武百貨店のクッチーナフェリーチェという台所用品のお店で「これだ!」というのを発見。小さくて、厚くて重い。しかもカップが下へ向かって少ーしすぼまっているデザインが可愛らしい。一客800円と安かったので二客買ってみた。
この頃はエスプレッソブームのようで、食器や台所用品を扱う店へ行くと必ずエスプレッソマシーンを売っている。以前うちでもデロンギ社のレギュラーとエスプレッソ、両方入れられるマシンを買おうかと思ったのだが、あまりに高価なので断念したことがある。きょうクッチーナフェリーチェで見たらデロンギのエスプレッソ専用マシンが、一万円値下げして(価格改定だそうだ)二万円くらいで売られていた。 さらに、そのあと無印良品の売場を通りかかると、ここでもエスプレッソマシンを発見して、びっくり。白い、無印エスプレッソマシンは一万円ほどで手にはいるのだった。
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この頃は、視神経に障るということもあって以前ほどコーヒーをのまなくなった。もっぱら、紅茶。だからエスプレッソマシーンは、お台所が広くなるまで、もうしばらく我慢してもかまわない。でも、デミタスはコレクションしてもいいなーと思い始めている。 もちろん私が集めるのだから、安くて厚くて重たい、庶民派デミタスということになるけれど。
カップの径は65ミリ、高さ60ミリ。受け皿の径は120ミリ、です。
2002年02月16日(土) |
やっぱり捨てられない |
昨晩。夕飯のあと、パソコンデスクを新しい部屋へ移す。自分の部屋のためとなると、信じられないくらいよく働くな、私は。
今日はそのパソコンデスクをペンキ塗り。木製のトップと黒いスチールで出来ているデスクのスチール部分をアイボリーに塗り替えた。朝、ホームセンターでペンキを買ってきて、結局夜まで、パソコンデスクにかかりきり。こんな面倒くさい仕事、他人のためだったら絶対に出来ない。
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室内大改造を始めて押入れや天袋にしまい込まれた不用品を整理していると、どうしてこんなところにこんなものが?というようなものが次から次へと出てくる。
以前部屋に飾っていたアンティーク調の小さなコーヒーミルが出てきたので、処分しようと思って一応引出し(挽いた粉をためる部分)を開けたら、ぎっしりと貝殻が詰まっていた。こんなところに貝殻をしまう自分にもあきれるが、出てきた貝殻を見ているうち「これはランカウイ島のビーチで拾ったやつ」とか「これはホテルのルームメイクの人が毎日枕元に置いてくれたやつ」などという記憶が次々とよみがえってくる。それで、ミルはともかく、出てきた貝殻が捨てられなくなってしまう。
天袋の隅から出てきた菓子箱には変色した手紙の束が入っていた。そして、その束の下からは、破りとられた文芸誌の一部が出てきた。新潮に掲載された村上春樹「納屋を焼く」と村上春樹訳、T・カポーティ「無頭の鷹」だった。 「納屋を焼く」の初出だから、破り取られてから十五年以上はたっているだろう。これらもまた激しく変色している。 そういえば当時の村上春樹が新作を発表するのは「新潮」か「群像」誌上だった。「羊をめぐる冒険」を一挙掲載(!)した群像はさすがにものすごい厚さだったっけ…などと思いながら、これら変色した紙片を大切にしまい直している。
またマルチェロ・マストロヤンニの死亡記事の切り抜きなどというのも出てきて、これは1996年12月20日付の新聞。死因はすい臓がんで享年72歳。パリの自宅で最期を看取ったのはカトリーヌ・ドヌーヴとキアラ・マストロヤンニ(ドヌーブとの間にもうけた娘)だったとある。当時まだ存命だった淀川長治さんの談話には「イタリアの宝が亡くなったような気がする」と。掲載されている写真はヴィスコンティ監督「異邦人」でアンナ・カリーナと一緒に砂浜に腹ばいになっているもの。…捨てられないよね、やっぱりこれも。
これで家の中が片付くわけない!と思いながら、ううう、やっぱり捨てられない。
晩年の出演作では「黒い瞳」「みんな元気」が好き。泣きました。名作でした。
横浜へ母の見舞いに行く。 母は顔がむくんで、喉がゼーゼーしていた。呼吸をするたびに音がするなどというのは初めてのことだ。少し、心配。
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往きの京浜東北線で、向かい側の席にホームレス風のおじさんが座った。年末来、たてつづけに読んだチチさんの本の影響でつい観察してしまう。
おじさんはふっくらとした体型(特におなか)に濃紺のフリースを着て、三つくらいペーパーバッグを持っていた。そうしてその袋の中のひとつは、北海道土産の定番『白い恋人』のバッグだった。おなじみの雪景色のついたその紙袋はかなりくたびれていて、あーコレ、このつぎ雨が降ったら絶対破れるねという風情。
ところが前方のおじさんをチラチラと見るともなしに見ているうちに、いい年をした女があまりジロジロ他人様を観察するのもいかがなものかという気になってきた。しかしまた一方、こういうことは中途半端にしてもしかたがないのでもう少ししっかり観察した方が良いのではないか?という気も起きてくる。ここに葛藤が生じる。
見たいような、見たくないような…。ココロの戦いは石川町から山手の駅につくまで続いた。すっかり息苦しくなった私は、電車が山手駅に着くと同時に席を立って別の車輌に移った。こうしておじさんから解放された私は、新しく確保した席に腰をおろすと深々と安堵の息をついたのである。アー、くたびれちゃった!
ららぽーとでインテリア用品をお買い物。
時計/コルクボード/薔薇のクッション
それから、チョコレートとカードも。明日はヴァレンタインデイなので。 そういえば去年の今日も、ららぽーとへチョコレート買いに行ったっけなあ。 で、そのことを長々とジャーナルに書いたのだった。あっという間の一年。 そして今年もまたヴァレンタイン前日になってチョコを買いに走っている私(笑)
久々にお買い物をして、ちょっぴりストレス解消した。メデタシ、メデタシ。
段ボールから本を出して埃を払い、本棚に並べる作業。 長いこと“休養”していた反動か、朝から猛然と働く。そしたらば。
最初のうちは楽しかったけれど、午後になったら疲れてきて… そうして、あっと言う間に夕方になってしまった。フウ〜 居間兼食堂はまだ荷物でいっぱいなので、夕飯は、本を並べ終わった“チマリスの城”へ運んで食べた。 まるで知らない家へ来て食事しているみたいで面白かった。
なかなか居心地の良い部屋が出来上がりつつあるのだけれど、この部屋には時計がない。 これが何かにつけて不便。
…というわけで明日はららぽーとへ時計を買いに行くことにする。
大々的に家の中の模様替え。 いままで“二畳城”として半分だけ使っていた玄関脇の洋間を一部屋全部頂戴して『チマリスの城』に大改造。 大きな洋服ダンスを運び出したり、食堂の壁面に据えてあった本棚を移動させたり、けっこう大変。
ついでに押入の奥や天袋にしまい込んだままになっていた粗大ゴミを引きずり出したりしているうちに、とうとう夜中になってしまった。 それで、現在家の中は“今日引っ越してきました”みたいな有様になっている。 これでやっと半分くらいが終了。
ここ一週間程ナニモシナイ日々だったが、今日一日で三、四日分は働いたのではないだろうか? なかなか刺激的な一日であった。
明日は朝から本棚に本を並べる予定。
2002年02月10日(日) |
今日から「エンピツ」 |
「エンピツ」の日記帳を使ってみることにしました。 うまく書けるかな?
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夕方から、ブックオフと生協へ出かける。 ブックオフではCDを売ったお金が4390円になった! サービスポイントで文庫本を二冊調達。
・風の男 白洲次郎/青柳恵介 ・内面のノンフィクション/山田詠美対談集 …の、二冊。
キンちゃんは下取り金額にたいそう驚いて 「えーと、この700円というのはどのCDですか? あとこの500円ていうのはどれですか?」 などと熱心に質問していた(笑)。
それからすかいらーくで食事をして、生協で歯磨き粉と蛍光灯を買って帰った。 蛍光灯は、初めて電球色というオレンジ色の光のを買ってみた。 この電球色、帰ってつけてみたら、まんま裸電球の色なのだった。 部屋の中じゅう、ほんのりとオレンジ色だ。 一瞬唖然とした後で、目をしばしばさせながら笑い転げてしまった。 慣れるのにしばらくかかるかもしれない。
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