日々逍遙―この1冊、この1本、この1枚―
1冊の本、絵本、1本の映画、舞台、(ワインやお酒)、1枚の絵、CD。
散歩の途中に出会ったあれこれを…。

2002年04月17日(水) ビューティフル・マインド(伏見 スカラ座)

精神を病んだ天才数学者の不遇の歳月を、冷戦時の米ソ諜報合戦をからめ、夫婦愛の味付けをして、感動のノーベル賞授賞式へと導くその手慣れた手法にまんまとのせられる。
冷静になってふりかえると、実在の数学者もやはり暗号解読の使命を帯びたという妄想にさいなまれていたのだろうか、ここの部分はフィクショナルにデフォルメされているのだろうな、とか、家庭内で、学内で、の数々のトラブルをかかえた歳月にまつわる葛藤を妻や家族はどう受け止めてきたのだろうか、とか多々気になるところがでてきた。
書評など見ると原作では、若き日の天才ぶり、人とうまく交われない元来の性格、
家族の苦悩、今同じ病に苦悩している息子のことなど詳細に描かれているようだ。
何度か手をだしかけて、未だ読めずにいる。



2002年04月10日(水) ロード・オブ・ザ・リング(ピカデリー1にて)

公開からどれくらいたったのでしょう。
遅ればせに観てきました。

ひこ田中さんがHP、http://www.hico.jp/ の「ごたく日誌」(4月10日)で「既視感を覚えた」と書かれていました。既視感はもともと指輪物語の影響をうけてつくられたRPGが映画「ロード・オブ・ザ・リング」に影響を及ぼしているであろうことからくるものだということです。
実は私も、178分中盤あたりから、既視感を覚えはじめました。
私の場合、最近、たて続けに読んできた、物語のなりたちもメンバーも違う長編ファンタジーのそこここの場面と久々の大画面で展開される戦い、信頼と裏切り、死別、友情を描くシーンとが、しきりにオーバーラップしてきたのです。
これも元をただせば指輪物語の影響を抜きにしては語れないその後の作品群というふうにくくってしまえば、指輪物語に影響された物語に影響されて映画「ロード・
オブ・ザ・リング」を観ていた私がいるというだけのことなのでしょう。



2002年04月03日(水) シッピング・ニュース(グランド4にて)

ラッセ・ハルストレム監督の作品はこれまで「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」「やかまし村の子どもたち」「やかまし村の春夏秋冬」「ギルバート・グレイプ」「サイダー・ハウス・ルール」「ショコラ」と観てきてどの作品にも愛着があります。
鈴木宏枝さんのサイトでHiroさんとラッセ・ハルストレム大好き、と話がはずんで
「ラッセ・ハルストレム普及委員会」を設立。以来下働きを務めています。

それで最新作「シッピング・ニュース」です。
相当期待してでかけました。「失意の男が北国で人の暖かさにふれ自分自身をとりもどしていく」という紹介にも期待はふくらみました。
ところがケヴィン・スペーシー演じる無気力で何をやっても長続きしない駄目男クオイルが酒場で知り合った女との間に子を設けるあたりからかなり性急な展開となり、女が男に溺れ、娘を売り飛ばした上、男と海に転落。追い打ちをかけるような父親の死、いわくありげなおばの出現、おばに導かれてのニューファンドランド島への移住へと話はすすんでいきます。
厳格な父親に見放された心の傷。でも無気力に暮らす日々に内省する様子もないクオイルが単に運命に翻弄されているようにしか見えないこの導入部分の性急さから
移住先のニューファンドランド島で記者としてそれなりのアプローチと気骨を見せる中盤へとつないでいくのにはかなり無理があるように思えたのです。
クオイル一族のかつておかした罪、おばがクオイルの父である兄との間に持つ秘密、やがてクオイルと結ばれることになるであろうウェイヴィ・プラウズ(ジュリアン・ムーア)の負う暗い影。酷寒のニューファンドランド島の荒涼とした自然にそぐわしい重いエピソードが後半たたみかけるように語られます。
ジュディ・リンチ(「恋におちたシェイクスピア」のエリザベス女王も、「ショコラ」のアルマンドもよかった!そしてこの作品でも彼女の演技は卓越していた。)演じるおばのミステリアスな行動の謎がここで一気に解けます。
ただ一族の血、犯した罪等々がこの登場人物たちをそれをものりこえての救済へ導くためのエピソードとして”用意”されているように感じはじめてしまった私の感じようは浅薄なのでしょうか。
おばはともかくクオイルが前半に語られた半生の中で、自分のルーツを気にしたり、父親の過剰な厳格さのよりどころを推し量ろうとした気配はまったくないので
その後、自らの血にうなされる場面にリアリティが感じられなかったのです。



2002年04月01日(月) コンサートで

コンサートや自主制作映画の上映会などで、興ざめなのが主催者による挨拶。多くは実行委員会や主催団体の活動の経緯となぜその演奏者や歌手を呼んだのか、その映画を上映することになったのか、彼(あるいは彼女)の招聘したアーティストの作品に寄せる思いの深さを語ります。
でも、ちょっと待って。
そこに集まっているどのひとりも、大枚はたいてそこに座っている、ということはそれぞれが相応に出演者や作品に寄せる思いがあって、その思いは個別もの。集った人々はこれから始まるステージや映画に何らかの理由でひきつけられて同じ場所にいる、という1点でのみ共通するものがあるにすぎないはず。
とすれば、コンサートや上映会当日にいたるまで主催者側に、いかなる辛酸や歓喜、会の歴史や世の中に向けての働きかけがあろうとも、それを披瀝される側にとってはその日味わいたかった楽しみとは別のものをしょっぱないきなり食べさせられることになります。これは興ざめ。
どうしても知らせたかったら、印刷物を作って配ればいいでしょ。
そしてもうひとつ。
これは、出演者への冒涜だとも思います。
一昨日でかけたライブ・ステージでは、明らかに主催者側の申し入れで途中質問コーナーなど設け、この内実は主催者の個人的思い入れでのリクエストを聞くため。
こういうものが真ん中にはさまると、どうしたって散漫になるし、主催者の「こうしたい」に出演者を無理矢理ひきよせる行為って何なの?
こういう形で主催者の欲求を満足させる為だったら、あらかじめ内輪の集まりとして設定してよ。ま、この会、おそらく半数以上が内輪の人間だったとおもうけれど。内輪の納得、自己満足のために他人を巻き添えにするな、って。

数年前Gの自主上映会の時、会場に入って受付(終了時間を尋ねても答えられない)、会場整理(スタッフトレーナーかなんか着て舞い上がっているばかりで仕事をしてないし、不案内、不親切)にいい加減イライラしたあげく、主催者の思い入れを縷々語る挨拶のひとりよがりにうんざりして肝心の映画が台無し。
という経験を思い出してしまったコンサートでした。


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みねこ

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