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Mi Pensamiento Diario

単数複数

昨日は暑くって1日中半袖で過ごせたし、家の暖房も消したのに、今日は夕方から少し少し寒くなったの。今さっき車を置きに外へ出たんだけど、風が冷たかったんだ。随分涼しくなったなぁって思ったら、今はすでに氷点下。−1℃だって。相変わらず寒暖差の激しいところだなぁって思っちゃった。昨日、授業が始まる前に先生が、もう1度雪が降ったら春になるんだろうねぇ…なんていってたけど、本当にまた雪が降りそうな感じ。今日、授業が終わってからいつもように愉快な仲間の家に寄ってきたんだけど、やっぱり4月末か5月の頭にもう1度雪が降るんじゃないかっていってたの。毎年降ってる訳じゃないんだけど、ここに長く住んでる人にとっては、本当の春は最後のドカ雪が降ったあとに来るって思ってるみたい。だから昨日のような暑い日は、別に春の訪れをほのめかしたのではなく、ただ単に間違って暑い日になっちゃったって感じみたい。それを思うと、ここ北の国にはまだ春が来ないのかなぁって思っちゃう。

今日は水曜日なので英作文のレッスンがあったんだけど、そこでなんとムースは日本語を英語の先生に教えてたの。ってちょっとだけなんだけど。前から作文を書いていると同じような個所で間違えるの。それは冠詞の有無と単数複数の違い。とりわけこの2つの部分を間違えるんだけど、実はこの2つ、ちょっとした関連があることに気がついたの。もちろんそれには、日本語がからんでいるんだけど。日本語には冠詞っていうものがないから、日本人にとって冠詞はとてもやっかいな存在だよね。いつ冠詞をつけていいんだかよくわからない。もし対象のものが1つの物を指しているんだったらatheがつくけど、それが複数のものだと冠詞がないかtheがつく。ってこれだけいうとさも簡単に聞こえるかもしれないけど、ここからが最近気がついたこと。よくよく考えてみれば、冠詞がつくつかないって考える前に、単数だったら何かにつけてaなり、theなりがつくけど、それが複数だとついたりつかなかったりする。でも日本語ってとても曖昧な表現が多いし、単数複数の概念ってあまりないよね。例えば、「貴乃はそっとエゾカンゾウの花に手をふれた」(三浦綾子著、「天北原野」下巻より)って文章があったとすると、たぶん1輪のエゾカンゾウの花に手を触れたって思うけど、実際にはよくわからない。「手をふれた」のも、たぶん右手か左手が花にふれたんだと思うけど、もしかしたら両手かもしれない。たくさんの花に…とか、両手で…って書かなければ、文脈から判断して、きっと1輪だとか、きっと片手だって思うけど、確固たるものは何もないのが日本語だよね。それに引き換え、ヨーロッパの言語は単数複数の概念があるから単語を見ただけですぐに1つか複数かわかるよね。もしher handsなら両手だなぁって思うし、her handならどっちかの手だなぁって思うし。

それと英語でThey were bearsとはいうけど、They were a bearとはならないよね。だってtheyって複数のときに使うし、もし単数ならIt was a bearってなると思うから。日本語では、それは熊だったっていっても、それらは熊だったっていっても熊って単語自体は特に変化してないよね。この場合だと主語から判断して、単数複数を見分けてるだけで、名詞自体は変化なし。日本語がこういう言語だから、ヨーロッパ言語ではごく当たり前に存在する単数複数の概念を取り入れることがムースにとってはちょっと難しくて。その上、数えられる名詞と数えられない名詞が存在するから、余計にこの単数複数の問題を複雑にしてるんだよねぇ。 で、ムースが思ったのは、この単数複数の概念がしっかりと身につけば、意外に冠詞は簡単なんじゃないかって。さっきも書いたけど単数だったらaなりtheなりがいつもつくんだから。つくつかないって考えちゃうのは大抵複数のときか数えられない名詞のときでしょ。でもこれがちゃんとわかれば、簡単になるんじゃないかなぁっていつも思うんだ。いつも冠詞の有無にばかりこだわっていたけど、実はその奥に単数複数の概念が絡んでいたってことに気がついたんだ。もちろんムースが思うだけであって、英語の先生は何ていうかわからないし、英語の先生や言語学者のような人からしたら、ムースの思ったことは間違ってるっていうかもしれないし。これはムースがスペイン語や英語を習った中で思ったことだから。ってスペイン語の冠詞の方が英語の冠詞よりも悩まなかったような気がするなぁ。気のせいかな?

英語を習っていく中で、いつも思っていたのは日本語の文法だったけど、日本語を知れば知るほど、どうして英語がわからないか、英語の何がわからないかが見えてきたような気がするんだ。それは発音も文法も含めて。だから今は、わからないところを重点的にわかるようにしていけばいいだけなんだって思えるの。生まれたときから2つや3つの言語を使ってきた人でない限りは母国語がある程度確立されてから次の言語を覚えると思うんだけど、ヨーロッパ言語のように似たような言語ばかりを習う訳じゃない日本人にとっては一体何が日本語と違うのかってことがわかってから勉強してもいいんじゃないのかなって思うの。コンピュータの言語のように1つどれかの言語をマスターしてしまえば、あとはどんな言語も使いこなすのが簡単っていうことが自然言語には当てはまらないからね。でも共通するのは1つの言語をしっかりとしたものにしてから次の言語を覚えた方が楽だろうってこと。ただ闇雲に勉強するよりか、何が違うってことをわかって、その概念を徹底的に叩き込めば、あとが楽になるんじゃないかなぁって思う。それに1つヨーロッパ言語を覚えてしまえば、次のヨーロッパ言語はかなり楽だからね。そうそう、ヨーロッパ言語といっても西ヨーロッパ言語で、スラブ系言語じゃないです。

英語ネタ、っていうか言語ネタを書くなんて久しぶりかも。いつも酔ってばかりで何も考えていないようなムースだけど、たまにはものを考えちゃったりもするの。でもそれも今日だけだったりして。


2003年04月02日(水)




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