ため息ばかりが出そうな今日。生活のリズム自体は悪くないんだけどなぁ。今朝だって目覚し時計なしで6時半起床。それから2度寝もせずに起きてたんだから、生活は乱れてないんじゃないかな?部屋が暑くて何も出来ないだって思って、今日は冷房をガンガン使ったし。でも集中することは出来なかった。本当に落ち着かないんだよね。隣りの部屋の騒音のせいにしたいくらいだけど、どんなにうるさくても寝ちゃうってことは、隣りの部屋のせいには出来なそう。ただ、今日昼寝をしてたときに隣りの部屋から聞こえる低音がガンガン響いてきて、その音で目を覚ましちゃったけど。毎日うるさいなぁと思いながらも、もう半年我慢しちゃってるし。以前は反対隣の部屋の人が何度か注意しに行ったんだけど、その日だけ静かになって次の日からは元通りだから、音量を下げる気はないんだろうなぁって思って諦めちゃった。毎日イライラするより、いかに気にしないようにするかの方が賢明なような気がして。 それにしてもどうしてこんなに落ち着かないんだろう。落ち着かないから何に対しても集中しないと思うんだけど。カルシウムが足りないのかな?考えてみれば5月まではカルシウムを毎日飲んでたんだなぁ。だから今頃になってカルシウム不足になってきたのかな?それとも乱れた食生活のつけが今になって出てきたとか。いずれにしても、今までの不摂生をしてた悪影響が今頃になって出て来たのかもしれない。落ち着きがないのはこの日記を見ててもよくわかるもん。 今日の午前中チラチラっと過去の日記を見たんだけど、最近はこの日記の文章量が減ったと思う。っていうか確実に減ってるの。今までのように書くだけの集中力がないのが1つの理由。書いてる途中で他のことに気がいっちゃって、書こうと思ったことを最後まで書ききれないんだよね。今までもまとまりがない文章だったけど、今の文章は前以上にひどいと思う。もちろん自分ではわかっているから、書いたものを読めば考えが手にとるようにわかるけど、読んでる人ははたしてわかるのだろうかという疑問が浮かぶの。手紙でもメールでもそうだけど、書き手は常にどんなことがどういう意図で書いてあるかわかってるんだよね。でも読み手は当然のことながらそんなことは知らない。書き手がわかっているつもりで書いても、読み手には全く伝わってないことがしばしば。例えばメールの場合だけど、ムースの書くメールは比較的長いと思う。っていってもこれはネット以外での友達宛のメールのことなんだけど。ムースが関係ないことをダラダラと書くから、友達は蛇足部分からもムースが何を書きたいか想像してるみたい。もちろん、ムースの性格や過去の出来事、言動等すべて混ぜ合わせてこんなことがいいたいんだろうって思ってくれてるんだろうなぁって感じる。でも、こうやってネットに日記を書いて、自分はこんなことがいいたいんだってことを伝えるとき、筋道を立てて、順を追って書いていかないと何にも伝わらないような気がする。っていうか何にも伝わってないんだろうね。 今日は何が書いてあるんだろうって思わせることができたらいいと思うけど、そうすると日記といいながらも日記じゃなくなっちゃうような気がするし。そういえば最近は全然集中してないなって思ったら、その日にそのことを書けばそれは立派な日記になると思うし、書くことが何にもないような日だったら、前に思ったことを書いてもいいと思う。でも毎日読者を引きつけるためにネタ集めをしていたらそれは日記じゃないもんね。また矛盾したことを書いてるかな?今日はこんなことを思ったんだってことを誰かに伝えたいからWEB上に日記をいう形でいろんなことを書いて公開してるんだけど、それには読者のことも考えなきゃいけないって思うし。もし伝える気がなければわざわざWEB上に公開することないんだし。昔のようにノートにその日の出来事を書いていればいいんだから。それに誰だってつまらないものより面白いものを読みたいもんね。 いつも思うことだけど、人にものを伝えるってことは難しいね。誤解を生じさせるのは簡単なのに。人にとっていいことはどれも難しくって、あまりいいことでないものは簡単だよね。他の人と仲良くするのは難しいけど、喧嘩をするのは簡単。勉強や仕事に集中するは難しいけど、遊びやお酒に集中することは簡単。お金を貯めるのは難しいけど、使うのは簡単。これが逆になればいいのに。
どこかのHPに集中力を高めるには写経がいいって書いてあったの。般若心経の写経。実はムースも1度だけ般若心経を写経したことがあるんだ。このこと以前に書いたことがある気がする。何年前だったか忘れちゃったんだけど、桜の花が散り始めた頃、1人でふらっと京都へ行ったことがあるの。1人の気ままな旅だから時間にとらわれることなく、行きたいところへ行けるでしょ。そのときに大覚寺ってお寺へ行ったの。京都へ行ったのは3度目くらいだったんだけど、大覚寺へ行ったのはそのときが初めてだったんだ。大覚寺がどういうところだったか覚えてないんだけど、なぜか写経をしてみようって気になったの。写経なんてしたことなくってそれが生まれて初めての体験だったんだ。まぁ、貸し出し用の筆なんで書き心地はよくなかったんだけど、書いてるときは何気に集中してたみたい。だって時間の経つのを忘れてたもん。お習字をやってるとたまにそういう時があるんだよね。書道って書いてるときにグッと集中できる瞬間があるの。それは書いてる自分が1番よくわかる。こういうことがしばしばあると、何をやっても集中できるんじゃないかって思えるんだ。だから習字をやってると精神的にいいんだよね。写経をすることが集中力を高めるのにいいかどうかはわからないけど、習字をやってると気が落ち着いてくることはあると思う。っていっても、その前にそんなことやりたくないって思ったら、落ち着くも何もないけど。それにダメだって思うときは字がのた打ち回っちゃって、イライラするばかりだけどね。そう思うと、ここ1年何も書いてないのもよくないのかな?落ち着ける時間がないもんね。でも、習字をやりたくなったから道具を送ってなんていったら、ムースの行ってた書道塾から半紙が1000枚単位で送れられきそうだなぁ。ムースは書道塾に通った年数だけは長いけど、普段から練習しなかったから誰よりも下手だし、人になんて教えること出来ませんから。それでも先生からムースの住む田舎街に書道を広めてきてっていわれそう。やっぱり何か書きたいだなんていっちゃいけない。集中する方法は写経以外で考えないと。
やっぱりこれくらいしか書けなかったのね。写経のことでもうちょっと書けるかと思ったけど。まぁ、何も書けないといいながらここまで書いた自分を褒めようっと。自分の思いを少しでも文字にしておかないと。言葉を話さない分、文字を書き連ねないとまたまた心の中でモヤモヤしたものが残っていっちゃうから。 |