昨日の晩のこと。ムースがバスルームに入ったとたん、パッと電気が消えたの。いよいよブレーカーが落ちるようなことになったのかなって思ったんだ。だってムースの住んでるアパートって、だだっ広いけど古いアパートだからいつブレーカーが落ちてもおかしくないんだもん。そう思って、ふと窓の方へ目をやると外からは街の明かりが見えるではないか。実は街中が停電になったのかなっていう気持ちもあったけど、やっぱり家だけ停電だって再確認しちゃった。でもね、ブライドの隙間から目の前の通りを見ると信号が消えてたの。あれーって思ったと同時に街のこっち側は停電なんだって。家だけ停電じゃなくってよかったって思っちゃった。冷蔵庫のものがちょっと気になったけど、あとはこれといって困ることもなかったんだ。部屋は真っ暗だし、やることもないからって思って昨日は早々と床についちゃった。12時半くらいだったかな。こんなに早くベッドに入ったのって久しぶりかも。そのせいで今朝はちょー早起き。7時には目が覚めてたの。でも、ボーっとしながらメールの返事を書いたりして、一段落したらそのまま寝ちゃった。で、次に起きた時はもう午後1時。今日は学校へ行って学費を納めてこなきゃ行けなかったから、まだ寝ている体に鞭を打ってどうにか学校へ行ったよ。 一昨日は涼しかったけど、昨日からまた暑くなり始めたの。そして今日はなんと32℃まで気温が上がっちゃった。もう地獄。暑さには滅法弱いムースなので、32℃いう気温はムースにとっては生き地獄も一緒なの。でも夏になるともっと気温が上がるから困っちゃうよね。去年ここに引っ越してきた時は毎日38℃まで気温が上がってたの。ってことはあと6℃は上がるってことでしょ。耐えられそうにありません。ただ32℃まで上がったっていっても空気が乾燥してるから冷房要らずなの。汗をかくこともないし。もちろん冷房の効いてるところへ行くととっても気持ちがいいけど、なくても暑いなぁーっていってる程度で済んじゃうんだ。それに今日の夕方は窓を開けておいたんだけど、涼しい風が吹くだけで結構気持ちいいし。うたた寝してる時なんて、涼しくて鳥肌が立っちゃった。でも25℃もあったんだよ。東京だと32℃まで気温が上がったら汗ダラダラだもんね。ここはそうじゃないからちょっとだけ楽かな。元々ムースって冷房が苦手だったから冷房なしの生活もいいかもって思っちゃう。いつの頃からだろう…。あるときから冷房の中にいても平気になったの。それに家に冷房を入れたのって6年前から。それまではムースって冷房なしの生活を送ってたんだ。だから今冷房がなくてもどこか平気な自分がいるの。といいつつも北へ行きたい。北の涼しいところへ行きたい。じゃなかったから高度の高いところ。高度の高いところだったら、お酒にもすぐ酔うし経済的でいいかな。日焼けはたくさんしそうだけど、この間友達が日焼け止めを置いていってくれたし、ムースも日焼け止めを持ってるからこの夏くらいはどうにかなりそうだし。 つい3週間くらい前までは夜になると0℃まで落ちていた気温も、今では夜でも25℃。ここ2週間で急に暑くなったけど、これからもっと暑くなると思うとうんざりしちゃう。でも10月に入れば雪が降るようなところだから短い夏を楽しまなきゃいけないのかな。 学校から戻って来てから吉元由美の「さよならは恋の終わりではなく」を読んだの。集中してなかったから読むのにちょっと時間がかかっちゃった。休みながらさっきまで読んでたの。ムースは初めて吉元由美の作品を読んだんだ。杏里の歌を書いた人らしい文章だったな。気持ちはよく伝わってくるの。でも1つ引っかかったことがあったんだ。だから余分なことを考えすぎて集中できなくなっちゃったのかな。それはね、「愛されたい」ってことが多いかなって。もしかしたら文中にはそんなに出てなかったかもしれないけど、ムースの頭の中には「愛されたい」って言葉が残ってるの。何でだろう。きっとムースの好きな作家の中に三浦綾子って人がいるから引っかかるのかも。だって三浦綾子はキリスト教の考えを元に書くから「愛されたい」ってことより「愛する」ってことを強調するの。それがどうも正反対のことのように思えて…。「愛する」ってことは能動的に感じれるんだけど「愛される」ってことは受動的のような、そんな感じがしちゃって。それに「愛されてる」ってことを感じられないと不安になるっていうことを多く感じたの。その気持ちは痛いほどよくわかるんだけど、どうもそこに心の隙間を感じてしまったり。何か変なことばっかり感じちゃった。まるで恋のデリバティブ。ハイリスク、ハイリターン。損失を少なくするために、ちゃんとヘッジするためのものがあったりして。恋のヘッジファンドなのかな。こんなことを考えちゃったから、もう集中できなかった。 でもどうして「愛されたい」って言葉がムースに残ったんだろう。きっとたくさんそんなことを書いてたと思う。随所に「愛されたい」ってことが書いてあったと思う。そこできっと思ったんだと思う。「愛されたい」から「愛する」の?って。「愛されてる」って確信がなくなっちゃったから「愛する」のをやめちゃうの?って。愛のギブ・アンド・テイクって感じを受けちゃった。私がギブしたんだからあなたも私にギブしてって感じで。でもそれってどこか違うような気がする。もちろんギブとテイクのバランスをうまく取れるのが1番いいけど、そんなにうまくはいかないよね。だから恋には悩みや不安がついてくると思うんだけど…。うまく表現できないんだけど、ちょっと依存してるのかなって。前に依存するってことと頼るってことはムースの中では違うって書いたけど、これは依存って感じを受けちゃった。だって自分の足で立ち続けることができない人に思えたんだもん。でも、文中に恋の渦の中に巻き込まれていくって感じのことがあったから、それに足をとられちゃったのかなとも思うけど。 細かいことはともかくとして、「愛されたい」っていう気持ちが前に出すぎちゃうのはちょっと…って思っちゃった。ムースだって「愛されたい」って思う気持ちは強いし、時に前に出すぎちゃうけど、その気持ちが出すぎちゃうとあまりいいことないもんね。そういう時はきっと自分自身に余裕がなくなってるのかな。だって自分の心に余裕があると人に優しく接することも出来るし、「愛されたい」っていうより「愛したい」って気持ちが強くなるもん。この間までは誰かに「愛されたい」って思ってたし、恋したいって思ってたけど、今のムースは恋よりも国立公園。そんな感じ。やっとムースの心にもゆとりが出来て来たのかな。もしかしたら友達との旅行がムースを本来の姿に戻してくれたかもしれないなぁ。 こんなこと書いたらその友達に怒られちゃうかもしれないけど、でも面白いから書いちゃうね。そのお友達ってムースと一緒に働いてた人なの。お仕事してる時とか、東京で会ってる時はセカセカしてる時もあったし、イライラしてる時もあったの。でもみんなで旅行してストレスから解放された生活を送ったら、あっという間に落ち着いちゃったんだ。落ち着いたというより、ちょっとトロくなったのかな。でもね、ムースは思うの。そんな生活をもうちょっと続けていけば、今までゆとりのなかった心に余裕が出来ていくんじゃないかなって。彼女は自分のやることがあるから、きっと輝いていくと思うの。自分の足でしっかりと立つことが出来るし。こういう人が誰かを好きになったとき、その恋は実るんじゃないかなって思うんだ。っていっても、もう東京に帰っちゃったから、また都会の波に飲み込まれてしまって、ムースと一緒にいた日々を忘れてしまうかもしれないけど…。 何だかとりとめのない文章になっちゃった。本当に文章を書くのが下手で困っちゃう。好きこそものの上手なれってことになってくれればいいけど…。 |