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Mi Pensamiento Diario

北の廃線

昭和58年10月23日、北海道である1つの鉄道路線が19年の生涯を閉じた。白糠(しらぬか)線。白糠から北進(ほくしん)までの33.1kmを結んでいたローカル鉄道。この白糠線の廃線が引き金となって全国の赤字ローカル線と呼ばれる路線が次々と姿を消していった。そして昭和62年3月31日。日本国有鉄道が最後の日を迎えた時には、北海道から多くの赤字ローカル線がその姿を消していた。白糠線こそ全国ニュースで取り上げられたものの、その他の赤字ローカル線は声もなく、誰にも気づかれぬまま、その役目を終えていた。そして今、本線と呼ばれる主要路線が大部分を占め、支線と呼ばれる枝状に伸びる鉄道はもうほとんど見ることができない。

昭和58年というと、ムースがバックパックを背負って日本全国津々浦々を渡り歩く前のお話。っていっても、昭和58年の夏には青春18切符を使って、東京から上州・信州を抜け、北陸は親不知の断崖絶壁を横に見ながら富山へ行き、そこから飛騨路を一気に駆け抜け、岐阜を経て尾張の国、名古屋へ。その後京都へ行き、街を散策。夜行列車が発車するまでの時間、街の様子を伺いにと大阪まで足を伸ばした後、京都に戻り、夜行列車で山陰路を一気にひた走り、山陰米子から中国山地を抜け岡山へ。そこからは四国高松を目指して宇高連絡船に乗って高松へ。高松で旅の終わりを告げ、東京へ舞い戻る、そんな旅を友達としたんだ。ムースが初めて北海道を1人で周ったのは、昭和59年の春のことだから。今では聞かなくなっちゃったけど、あの頃バックパックを背負って北海道を旅する人は「かに族」って呼ばれてたんだ。あの頃でも死語になってたかな?かに族っていうのはキスリングっていう黄土色って感じの横に長い布製のリュックサックを背負って、満員電車の中をかにのように横歩きしながら旅してたところからそう呼ばれるようになったんだって。ムースが北海道へ行った時はバックパックを背負って旅行してる人なんてそんなにたくさんいなかったし、バックパックを背負っているから大体「どこの山へ行かれるんですか?」って聞かれたけど。ムースが初めて1人で旅するとき、父にキスリングを貸してやるっていわれたけど、あんな時代錯誤なバックパックなんて恥ずかしくてイヤだよね。今のバックパックのように上に長い訳じゃないから、本当に邪魔だし、人の迷惑だし。そんなかに族って言葉があったように、多くの人が北海道を鉄道で旅してたんだ。今はもうそんな人なんていないだろうって思ったけど、今でもたくさんいるみたい。たくさんのHPで旅行記が紹介されてたから。
ムースが初めて1人旅した昭和59年の春は、白糠線こそはなくなってしまっていたけど、他の路線はまだまだ健在。北海道を汽車で旅するには多少の不便さはあったものの、でもそれを苦にしないくらいの楽しみもあったと思う。たくさんの夜行列車があったから貧乏旅行をしてるムースにはもってこいだったかな?だって宿泊費を浮かすことが出来るからね。ユースホステルってところがあるけど、何となくそういうところには泊まる気になれなくって、駅のそばにあるビジネスホテルに泊まってたかな?たま〜に温泉旅館に泊まっていたけど。ユースホステルに泊まるのはヨーロッパへ行ったときくらい。だから夜行列車を使うこともしばしばあったんだ。寝ている間に移動できるっていうのは結構いいからね。札幌から函館や釧路、網走、稚内へいく夜行列車があったんだ。釧路、網走、稚内へ行ってたのは正確には夜行急行なんだけど。時間調整のために大きな駅では20分くらい止まってたりもしたかな。だからその間にジュースを買いにいったりしてね。春先の北海道は雪も降るし、まだまだ寒いから、列車の中は暖房がガンガンかかっているの。だからとっても喉が渇くんだ。そんなことだから長い停車時間っていうのはよかったなぁ。
このときは根室へもいったけど、ムースの記憶にあるのは道北方面をフラフラとしたことかな?あの時に行ったきりになっちゃってるけど、増毛(ましけ)ってところへもいったんだ。増毛っていわれてすぐにあそこかぁーってわかる人はかなりの高倉健ファンの人だと思う。映画の「駅・−ステーション−」で舞台になったところ。「ここ」をクリックしてもらえればそのことに書いてあるページに飛べます。この増毛ってところから雄冬(おふゆ)ってところへ行く船が出ているんだけれども、風が強いところだからよく欠航になっちゃうんだ。確か映画の中でもそんなことをいうシーンってなかったっけ?ムースの勘違いかな?雄冬については「ここ」をクリックしてください。話を戻して、この増毛ってところから留萌(るもい)を経由して稚内へ向かったの。春先とはいえ、雪も降るし、何てったって風の強いところだか汽車が止まることもしばしば。今はなくなってしまったんだけど、羽幌(はぼろ)線っていう路線があってそれに乗って行ったんだ。ムースが行った日も途中の羽幌って駅でしばらく止まっちゃった。どんなところか想像つかないよね。でもね、日テレで日曜日の朝やってる雷波少年を見てる人ならわかってもらえると思う。前に番組の中で、鮒子っていう人が自転車に乗って日本縦断をしたのね。その時鮒子って人が猛吹雪の中、死んじゃいそうになりながら稚内を目指したんだけど、彼女が通った日本海側のルートこそ羽幌線が走ってたところなの。ムースの場合は運良く何十分か停車した後、運転が再開されたからよかったんだけどね。そしてその終点は「高レベル放射性廃棄物施設」の建設問題で有名になった幌延。今は「深地層研究所」っていう施設の建設に変わっちゃったのね。全然知らなかったけど。その幌延で汽車を乗り換えて、最果ての地、稚内へ。途中、抜海(ばっかい)という駅があるんだ。このときはムースにとってはただの駅だったの。でも、この後にやったTBSのドラマ「少女に何が起こったか」の中でキョンキョンが東京に向けて旅立つ時、1人ポツンと駅のホームに立ってるシーンがあるの。それが稚内の2つ手前の駅、抜海。何でか知らないけど、ムース、このことをよく覚えてるんだよね。1度も再放送を見たことがないからもしかしたら勘違いしてるかもしれないけど。「少女に何が起こったか」っていうドラマはキョンキョンが紙の鍵盤でショパンの革命を一生懸命練習するそんなドラマです。
稚内からは夜行急行、利尻に乗って戻ったんだと思うなぁ。この辺の記憶がちょっとあやふやなんだけど、この後、旭川で夜行急行を利尻から大雪に乗り換えて網走へ向かったような気がする。そして網走から勇網(ゆうもう)線というオホーツク海、っていうか能取(のとろ)湖やサロマ湖に沿って進む路線に乗ったんだと思う。季節的にムースが行った時は流氷が見れるときだったんだけど、ムースは見なかったかな。流氷を見たって記憶がないから。でも絶対にどこかで見てるんだろうなぁ。この勇網線、終点は中湧別(なかゆうべつ)ってところで当時はここで汽車を乗り換えて、遠軽(えんがる)や名寄(なよろ)へ向うことになるの。遠軽っていうのは内陸で、そこからどんどん中に入っていくと大雪山国立公園の中へ入っていくんだ。北海道へ行ったことある人だったらわかるのかな?途中に層雲峡っていう温泉地があるんだ。銀河・流星の滝っていう滝も有名かな。ムースが初めて読んだ三浦綾子の小説、「塩狩峠」は遠軽から旭川へ向かった時、旭川の手前のところにある峠が舞台になったんだ。ムースはこのときは名寄へ行ったと思う。名寄本線って呼ばれる路線があったんだけど、興部(おこっぺ)ってところまではオホーツク海沿いをずーっと北上するんだ。途中に紋別っていう街があるんだけど、紋別だったら結構大きな漁港だから街の名前を聞いたことある人もいるんじゃないかな?今はロシア人がたくさん来ていろいろと問題が起こってるみたいだけど…。
ムースは名寄までいってから祖母の家へいったのかな?それから東京へ戻ったような気がする。このときの記録ってみんな実家だからちょっとあやふやなんだけど。でも、今は無き路線に乗って旅したのは覚えてる。それもきれいな景色の見える路線に乗って。
このときではないんだけど、それから1年半後の昭和60年の夏。520人の命を奪った日航機事故の3日後の8月15日。ムースは突然思い立ったかのように北海道へ行ったの。この日朝起きてから、当時ムースのお気に入りだった背負子のようなフレームのついたザックに荷物を詰め始めて、お昼に羽田へ向かって行ったんだ。使った航空会社は日本航空。しかもあの事故を起こした飛行機と同型のボーイング747に乗って。ちょっと恐かったけど、続けて落ちることはないだろって思ったんだ。このときは襟裳岬にいったの。夏の襟裳は人も多く、ミツバチ族も多かったな。ミツバチ族っていうのはオートバイで北海道を周ってる人たち。ムースも元ツアラー(ツーリングをする人)だったのでミツバチ族の仲間入りをしたかったんだけど、その夢が叶う前にオートバイを降りちゃったから。自転車族っていうのもいるんだけど、これにもなってみたかったかも?輪行(りんこう)っていって自転車をバラバラにして袋にいれて持ち運ぶのね。そうしてみんな自転車ツーリングの出発地点となるところへ自転車を運ぶんだけど、ムースの自転車も輪行できるようになってたから。でも、自転車族よりはミツバチ族になりたかったかな?
襟裳岬で多くのミツバチ族を見てから、ムースは帯広を目指したの。今は無き広尾線っていうのに乗って。この広尾線、名前は知らなくてもこの沿線の駅の名前なら聞いたことあるっていう人がいるんじゃないかな。昔から有名なのは愛国と幸福。愛国から幸福っていう切符を持ってる人もいるんじゃないかな?「ここ」をクリックしたらそのことに触れているので読んでみてください。あと新生から大樹っていうのもあとから出てきたりしてね。こんなに浪漫のある駅名が多かったんだ。ムースが乗った汽車が愛国や幸福に差しかかったとき、地元の高校生がムースに向かって「ここ写真に撮らなくっていい?」なんていってた。
北海道を旅行してるといろんな人に声を掛けられるの。どっから来たの?とか、旅行?とか。車掌さんもムースのところに来てよく話しこんでたなぁ。駅が近くなると仕事をしに戻っちゃうけど、駅と駅の間では、ムースのところでよく話してた。どこを周ってきたの?とか、これからどこへ行くの?とか。そんな人とのふれあいがローカル線の中ではよくあったんだ。でも、それも今は昔。そんなほのぼのとしたローカル線も今はみんな無くなっちゃった。ちょっと寂しいけど、時代の流れには逆らえないもんね。どこへ行ってもそうだけど、田舎は車が主体だから。ムースの住んでるこの街も、1人1台車を持ってるしね。それが田舎では普通なのかも。北海道でも鉄道を必要としているのは札幌近郊の人たちで、それ以外の人は車があったら用が足りちゃうもんね。ミツバチ族や自転車族は残っても、かに族と呼ばれた鉄道で北海道を周ってた人はどんどん姿を消していっちゃうのかな?
本当はもっと、もっとたくさん書くことがあるんだけど、収拾がつかなくなってきたから今日はここでやめます。最初の書き出しは恰好よく書けたんだけど…。SLの話も書きたかったし、北の国からの撮影を見たときもあったし、青函連絡船の思いでも書きたかった。今日は書けなかったけどそのうちに書きます。
ところで何で今日はこんなことを書いたかというと、ある日記書きさん、というかコラムを書いている人の日記に「オホーツク海」と題された日記があって、それを読んだら何だか昔北海道を旅してた頃のことが懐かしくなっちゃって。だからこんなこと書いちゃった。題名をクリックでしていただければ、その日記が読めます。

最後になっちゃったけど、昨日がっかりしてますって書いたからか、初めて空メールってものをもらっちゃった。どうもありがとうございます。昨日は朝一番でどよぉ〜んとしたけど、今日はとってもいい気分でした。でも、ラジオで1日中やってるスターウォーズの宣伝はいただけませんでした。みなさんのところでは7月13日から公開かな?ムースの所は田舎町なのに何故か今晩公開します。夜中の12時1分から上映するそうです。その宣伝がうるさくって…。こんなことをいってるムースですが多分見に行くと思います。ムースもスターウォーズは好きなので…。


2002年05月15日(水)




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