│←少年は失望とともに目覚め 大人へと転落する→│
@グルテン・ルナール
関係ないですが、このタイトル、どっかで・・・・。 命の重さと生きる尊さ。 私の心の中には、これらの言葉が無くなっていた。 生命。 空気のようにふんわり軽く、私の生命は、いつも何処かへ飛んでいきそうに靡いて、風をおそれて。 私には、もう無いものだと感じ、毎日それが無いように、過ごしている。 とても、脆く、軽いもの。 生きる事。 わたしは生きてなんかいない、もう、心をなくして死んでしまっている。 人は、そんなに簡単に、そして心から、死ねるものなのだろうか。 某ドキュメンタリー番組で、母子センターがスクープされていた。 そこでは、患者も医者も看護婦も、そしてその家族までも、一生懸命に生き、日々向上し、苦しいときでも乗り越えようとする力がありました。 画面越しの世界だったけれども、私はその様を、ここに焼き付けられずには居られませんでした。 なにも願わず生きている、という自分の心は、本当は、幸せや充実に満ちているものだと知りました。 心臓を悪くして生れてくる赤ちゃん、何度も何度も流産を繰り返す病を持つ女性、 気管を切開し言葉を発することのできない子供、生れてから自分の家に一度も帰ったことの無い子供、 母親の胸に抱かれること無く死んでしまった幼い命、病院の中で短い人生を送った赤ちゃん、
毎日死ぬことばかりを考える私
明日死ぬかも解らない人間は、自殺なんか考えないだろう。
むしろ、考えられないだろう。
もっと、生きたい、って願うに違いない。
あたしは、恵まれている。
それだけは、明らかだ。
私の日常は、こんな人たちの一番の幸せに、充分、成り得る。
私の日常を、一つでも、たったひとつでも、わけてあげたい。
それを、本当に分けてあげたいんなら、医者にならなきゃ。
医者になって、そんな人たちを救ってあげたい。
そんな人たちを、私の日常にして、幸せにしてあげたい。 何浪しても、努力して、努力して、努力して、頑張れば、なれるかも知れない。 自分の愚かさに気附かされた。 私が、これからもっと、愚かになるか、元愚か者になるかは、どちらも自分次第。 やってみるか、やらないかも、自分次第。 死ぬのはいつでもできる。 少し、自分や人やを楽しませて、「ああ、いい人生だった。もう死のう。」と言ってみたくはないか。 命って何だかよく解らないけど、生きてみないか。 私がここにいたことを、証明してみないか。 今からならまだ、まだ間に合うはずだよ。 このまま死んだら、私が初めておぎゃあと泣いた日から今日までは、無駄のヒトコトに尽きるんじゃないか。 無駄とは勿体無い。折角成長するまで育てていただいた、父母や、出逢った人々も、私との関係は、全て無駄になります。 もう少しで、無駄じゃなくなるのに。 あとちょっとだけ、生きてみて。
この日記を書くのは仕事みたいになってきた。それはそれでよい(謎)§2002年03月25日(月)§ |